世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●安倍対米従属 占領国と変わらない不平等条約に嬉々として

2018å¹´07月30æ—¥ | æ—¥è¨˜
NHKスペシャル 大江戸 大江戸 知らないことばかり―水と商と大火の都 (NHKスペシャル大江戸)
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●安倍対米従属 占領国と変わらない不平等条約に嬉々として

以下、白井氏が発言しているように、南北会談、米朝会談の結果、米韓軍事演習が中止されたことに、日本政府が危機感を持ったかどうか、朝鮮戦争の終結に危機感を持ったか、その辺の事情はハッキリしないような気がする。さらにそのことで、日本の支配層が、日米の構造上の変化に危機感を持ったと云う話も、話半分に評価する。

つまり、現在の支配層が、“国のあり方”に自覚的に動いているようにようには思えないのだ。現在の安倍政権で考えても、戦後レジュームからの脱局と言いながら、安保法制に血道をあげ、米国追随を強化しているのだから、どこかちぐはぐだ。簡単に言うと、安倍政権の日常は、権力の維持が主たる目的の政権であって、とても、所謂「国体」と言った概念を意識して行動しているようには見えない。

その為かもしれないが、意識的に「日本会議」など右翼団体を表立てることで、国民に意図的に恐怖を植えつけている可能性もある。現実に、恐怖の主である、安倍官邸の外交を見る限り、親米、親イスラエルなわけで、大日本帝国に向かうイデオロギーな立ち位置にあるとは言い切れない。大日本帝国を夢見ているのであれば、反米の欠片くらいは見えそうだが、その形跡はない。

権力を握ることで、甘い汁の味を知った安倍政権には、大日本帝国に戻る気もないし、国体が云々も、実はどうでも良いことで、権力を握り続けることが政権の第一義になっている。ゆえに、安倍政権の方向性は、軍国的な割には、攻撃的ではなく、従属姿勢からの脱却行動は皆無だ。ただ、国内的な強権は握らせて欲しいが、対米従属はゆるぎないと云う、極めて自己矛盾した政策に終始している。

所謂、偽右翼思想に過ぎない疑惑がある。単に、国内における権力を我が物にしたいだけで、国際的にもファシズムを標榜する気はない。日本の政権が、ファシズム的行動を国際的にも行えば、対米従属とは矛盾が出るわけで、安倍政権の延命には寄与しない。ゆえに、そのような政治行動を本気で行うわけではなく、政権維持の固定層らに自己満足な形態を示しておきたい思惑のように思えてくる。丁度、ちぐはぐな勲章を胸につけて、靖国神社に詣でるネトウヨ集団と似ているのだろう。

簡単な言葉で表現すれば、“明治病”のようなもので、我が国の歴史を1500年と仮定しても、その1/10にも満たない明治を持って、日本文化と云うのは、あまりに滑稽ではないのか。この点だけでも、安倍政権の国家主義的な言動は、似非なわけである。仏教と日本文化の関係性を無視するなど、あきらかに歴史の改ざんだ。明治の人が、“明治は遠くなりにけり”と嘆いたのは、おそらく、作られた文化の目新しさに惑わされた結果であり、明治が江戸時代より良かった根拠には思えない。

欧米文化をまる丸“猿まね”した文化よりも、中国、朝鮮半島から渡来した文化を独自の工夫で、自分達の国に合うように、工夫し作り変えてきた文化の方が何倍もの価値があり、世界に誇るべきものであり、欧米文化を猿まねした文化が世界遺産に登録されるなど、あきらかに日本の恥である。明治以降の文化も、文化でないとは言い切れないが、日本独自の文化と云うのは、相当に無理がある。

ただ、現在の損得文化が、明治維新以降、急激に日本人の心を捉えてきたのは事実だろう。善悪文化が断絶的に途絶えたのも、この明治維新にあるのは事実なので、今の損得文化に慣れ親しんだ若い世代に、安倍政権の政策は判り安のかもしれない。この点に関して、自分の周りを見ても、損得文化が華やいでいるわけで、善悪文化を持ちだすと、どこか偏狭な人物に見られるほど、世論と云うか「空気」は変っている。


≪日本がいつまでたっても「アメリカの子分」をやめられない理由

この国を蝕み続ける病理とは

■再び注目する「国体」構造
 â€•â€•ã€Œå›½å†…で起きた米兵による犯罪を、日本の法律では裁けない」。 長らく問題視されながら改正されない日米地位協定を筆頭に、日本はなぜ不自然なまでの「対米従属」に甘んじ続けるのか。白井さんの著書である『国体論』は、この謎を「戦後の国体」という斬新なキーワードを用いて詳細に検証し、大きな議論を巻き起こしている一冊です。

世界的に見ても、「通商や防衛などの面で都合がいいからアメリカを親分にしておこう」と、対米従属の姿勢をとっている国は珍しくありません。 :しかし、そういう国々は自分たちがアメリカの従属下にある事実を直視し、少しでも対等にしようと懸命な交渉を重ねています。

ところが、日本の場合は「我々とアメリカは利害関係ではなく、真の友情で結ばれているのだ」と奇妙な理屈をたて、支配されていることを認めようとしない。「思いやり予算」や「トモダチ作戦」といった情緒的な言葉ばかりが多用されるのは、まさにその表れです。

――日本の政権や官僚機構がアメリカに依存しながら利用する状況は、戦前の天皇に対する権力者たちの態度と同じなのではないか。そう考えた白井さんが着目したキーワードが「国体」でした。

天皇を「主権者」と定め、国民はその天皇に身を委ねるという戦前の国家体制を指す「国体」は、日本を近代国家に変えていくための装置として強力に機能しました。天皇と臣民の関係を「家族」にたとえることで、権力による支配の事実を否認したのです。しかし、第二次世界大戦で日本が無残な敗北を喫したことで、国体という言葉もすっかり死語になったかのようにみなされてきました。

ところが、戦後にアメリカという新たな存在に身を委ねて急速な復興を遂げ、世界有数の経済大国となった日本のあり方は戦前と変わっていない。ピラミッドの頂点が「臣民を慈しむ天皇」から「日本を愛するアメリカ」になっただけで、国体の構造は形を変えて存在し続けているのではないかと思い至りました。

――日本の対米従属姿勢を考えるうえで欠かせない興味深い概念が、白井さんが前著で示した造語「永続敗戦」です。

第二次世界大戦で日本が大敗したことは、国民の誰もが知っています。ところが、ほとんどの日本人は、心のどこかで敗戦を認めていないのではないでしょうか。

たとえば、8月15日を「終戦の日」と呼ぶのがその典型です。「敗戦」ではなく「終戦」と言い換えて認めないことこそが、皮肉にも敗戦の結果としての対米従属関係から脱せられない「永続敗戦」の状況を作り出しているのです。

もうひとつ、「歪んだプライド」も日本が敗戦を直視できない原因のひとつでしょう。冷戦構造の中で「アメリカの一の子分」になったことで、「自分たちがアジアの中で唯一の先進国だ」という戦前からの優越意識を持ち越してしまった。

逆に言えば、他のアジアの国々を一段下に見てきた。「アメリカには従うけれど、中国に負けたことは認めない」。妙な自意識が生まれたのです。

こうして、だらしのない対米従属を続け、歪んだ自意識を抱えてきた日本は世界の国々からすれば、まぎれもない「アメリカの属国」と見られている。ここに、日本が経済力に見合った国際的な地位を得られない理由の一端があるのです。

 â– é™›ä¸‹ã€ŒãŠè¨€è‘‰ã€ã®çœŸæ„
――各国のメディアから「アメリカにへつらっている」と評される安倍政権の姿勢にも、苦言を呈されています。

今の日本は、ひたすらアメリカのご機嫌をとってすがり付く見苦しい状態に陥っています。

それがはっきり見えたのが、先日、トランプ大統領が「米韓合同軍事演習を停止する」と言いだしたときの小野寺五典防衛大臣の発言です。小野寺氏は「米韓合同演習は地域の平和と安定を確保していく上で重要な柱」と言い切りました。

朝鮮戦争が終わってしまえば在日米軍の駐留根拠の一つがなくなってしまう。これは同時に「アメリカの一の子分」という戦後日本のアイデンティティが崩れることも意味します。それだけは避けたいという日本政府の不安が露骨に表れたのがあの発言なのです。

――対米従属の現状を打開することは難しい。それでも、白井さんが本書の執筆を急ぐ理由となったのが、'16年8月8日に発表された天皇の異例のビデオメッセージ、いわゆる「お言葉」でした。

「お言葉」のなかで天皇は繰り返し、自身の「国民統合の象徴としての役割」を語りました。

国民の統合は、天皇自らが動き、祈ることよってもたらされる安寧と幸福を国民が集団的に感じることではじめて成り立つという考えです。即位以来、そのために絶えず動き続けた天皇は、ここにきて自身の体力の限界を認識し、天皇の位を去ることを決断しました。

逆に言えば、あの「お言葉」は、自分が退位した後の日本における「国民の統合」に対して、天皇が危機感を抱いていることの表れでした。私自身は、「アメリカを事実上の天皇と仰ぎ続けたままで国民の統合を保つことができるのか」という非常に烈しく、踏み込んだメッセージのように感じました。

失われた20年、あるいは30年と言われるように、日本が長い停滞から抜け出せないのは、「国体化」した対米従属の構造が社会を蝕んでいるからにほかなりません。この足踏み状態から抜け出すには、まず現実を直視することからはじめなくてはならないのです。(取材・文/伊藤和弘)

 â‰«ï¼ˆç¾ä»£ãƒ“ジネス:『週刊現代』2018å¹´8月4日号より)

「日米基軸」幻想 (詩想社新書)
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永続敗戦論 戦後日本の核心 (講談社+α文庫)
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国体論 菊と星条旗 (集英社新書)
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●日米安保、本質論なく進む国 虚しい防衛費増の議論

2018å¹´07月28æ—¥ | æ—¥è¨˜


●日米安保、本質論なく進む国 虚しい防衛費増の議論

国の安全保障と云うものは、防衛費に限らず、食糧安保、エネルギー安保、公共財安保等々、多岐にわたるものがある。本日は、GDPの1%が、日本の防衛費の枠組みだった時代が遠のき、2%時代に安倍政権の中で、進もうとしている。国会においても、選挙中にも、このような重大な議論が、国民の目や耳に触れることなく、国民的コンセンサスもないまま、なし崩しに行われる政治に民主主義は機能しない。

一般国民の、総体的感覚は、日本において、本格的戦争など起きる筈がないと云うのが、当たらずと雖も遠からずだ。「一帯一路」を標榜して経済大国を目指している中国・習近平体制が、日本という領土に侵攻すると云う事態は想定できない。北朝鮮が日本に侵攻するという事態も考えにくい。彼らが、日本に侵攻して、何を得ようとしているのか、合理的説明がつかない。韓国が侵攻する理由もない。ロシアが攻めてくる可能性はゼロではないが、現在のロシアに、それほどのエネルギーが残っているとは思えない。

防衛費の充実を云々する前に、食料やエネルギー安保の充実を考える方が、よほど建設的だ。遺伝子組み換え種苗、食品の解禁よりも、“地産地消”が可能な、小さなユニットの食糧需給を考えるべきだろう。日本の共同体を守っていこうと云うならば、その道しかない。中央政府のシステマチックな大がかりな市場原理主義で、日本を覆えば、多くの共同体が破壊され、国家的姥捨て山の惨状を見るだろう。

市場原理主義に身を委ねた、日本と云う国の食糧政策は、海外からの輸入で食料を調達しようという方向に、急激に舵を切っている。農家は、作物はつくるが、その作物に必要な種も化学肥料も、すべてが輸入品になる危機が迫っている。このような食糧政策は、平和が継続する前提で、外国に頼りきる安易な合理性に基づくものだが、食糧安保の基本は、自らの国で生産できる食物で、生き残ることであり、経済合理性が入り込む余地はないはずだ。

エネルギー安保にも、自主独立の精神はみられない。日本政府の、エネルギーの基軸は、石化燃料と原子力による発電だ。しかし、先進諸国では、原子力離れは顕著であり、原子力発電は、後進国のエネルギーという位置づけになっている。石化燃料も、輸入に頼っているわけだから、エネルギー安保とは逆向きの位置づけだ。このように考えれば、行き先は再生可能エネルギーであり、経済合理性よりも、安全保障上も、最終的経済合理性からも、進むべき道が間違っている。目先の利益に飛びつく政策は、ダボハゼそのものだ。

防衛と云う安全保障は、根本的に悩ましい。日米同盟で、同盟と云うよりは、属国扱いされているのは事実なのだから、自衛隊の防衛態勢も、米軍に組み込まれた、1部隊化しているのだろうから、独自の防衛態勢と言われても、米軍の補強の一部を担わされているだけ、と云う前提条件が変わらないので、本気で考える気にならない。米軍が、世界戦略の中で、日本の基地を考えているだけで、日本の防衛に気を配っている気配はみられない。

まぁ、米軍に基地を貸て、自衛隊が一部隊的な取り扱いを受けていることが、抑止力となる考えはあるだろうが、冒頭で述べたように、米国がいなければ、日本の安全保障に関するリスクの軽減を外交が担うと云う、合理的筋が通るが、米軍の下請けに自衛隊が組み込まれている限り、独自の防衛は考えにくい。イージスアショアにせよ戦闘機の購入にせよ、諸外国の300%、500%で購入される軍備装備品は、みかじめ料の一種だろうが、みかじめ料が敵を呼ぶこともあるわけだ。

無論、日本が日米安保体制からの脱却、乃至は弱体化を考えた日本の政治家がことごとく、短命な政治生命に陥ったことを考えれば、そのような決断を、日本自身が行うことは、不可能にさえ思えてくる。無論、日米同盟に対して、強力な世論が後押しした場合には、その方向転換も不可能ではないだろう。しかし、アメリカと戦争した歴史すら曖昧な世代交代は、アメリカイズム一色であり、日を追うごとに、世論が反米に動く気配はない。

無力感が漂うのは、安倍自民党政権が、一周遅れの市場原理主義に奔走するのを見るに等しいが、いずれは、一周遅れでも、市場原理主義、グローバリズム経済の終わりを知るだろう。そして、いつの日か、アメリカの力が、ユーラシア大陸の勢力に、相対的に敗れた時、米軍は、日本への魅力を失っていくに違いない。その日が、いつ来るのか判らない。おそらく、現在の、20代、30代なら、みることが出来るのかもしれない。つまり、5~60年後になるだろう。その意味では、朝日の社説は、正論だが、現時点では空理空論とあまり変わりがない。


≪防衛力整備 節目の年、徹底論議を
 通常国会が終わったが、大きな議論が残っている。日本の防衛力整備のあり方だ。  今年は節目の年である。
 政府はこの年末、向こう10年間の防衛力のあり方を示す防衛計画の大綱と、5年間で進める中期防衛力整備計画の改定を予定している。
 安全保障関連法の施行後、政府が防衛の全体像を組み立てる機会だ。米朝対話などで東アジアの安全保障環境が変化しつつあるなか、日本の平和と安全をどう守っていくのか、徹底的な議論が求められる。
 当面の焦点は、23年度の運用開始を目指す陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」だろう。
 政府は秋田、山口両県への配備を目指すが、地元は反発しており、地質調査などを行う業者の選定手続きが先送りされた。2基で計2千億円とされていた導入費が、5千億円超に跳ね上がるとの見方も出ている。費用対効果の面からも、導入の是非を再考すべきだ。
 最大の問題は、安倍政権が空母や長距離巡航ミサイルといった、専守防衛に反する兵器の導入を目指していることだ。
 離島防衛などを理由に挙げているが、自民党が求める敵基地攻撃能力につながる。本土から遠く離れた地域で軍事力を行使できる「戦力投射能力」の保有は、戦後日本の抑制的な防衛政策からの明らかな逸脱であり、看過できない。
 こうした転換は、防衛費を大幅に拡大させる。
 安倍政権になって防衛費は6年連続で増え続け、今年度予算は過去最大の5兆1911億円にのぼる。8月末に予定される来年度予算案の概算要求は一層膨らむ見通しだ。
 自民党が5月にまとめた提言でも、防衛費の拡大を抑えてきた対GDP(国内総生産)比1%の突破を求め、2%を目標とする北大西洋条約機構(NATO)の例を「参考」とした。10兆円規模に防衛費を倍増しようという考えである。
 財政の制約を無視し、軍拡が軍拡を招く負の影響への考慮もない。極めて無責任な姿勢と言わざるをえない。
 緊張緩和のための近隣外交に力を尽くす。国力の限界を踏まえ、幅広い国民の理解を得ながら、適切な防衛力の姿を描いていく。遠回りなようだが、それが現実的な道だろう。
 集団的自衛権の行使に道を開いた安倍政権が、防衛費の大幅拡大と専守防衛に反する兵器の導入で、平和国家のさらなる変質をはかることは許されない。
 ≫(朝日新聞:7月27日付社説)


●“こぶとりじいさん”さながらの安倍&石破の対決

2018å¹´07月27æ—¥ | æ—¥è¨˜


●“こぶとりじいさん”さながらの安倍&石破の対決

 æ—¥æœ¬æ˜”ばなしの“こぶとりじいさん”には幾つものバージョンがあるようだが、善良な爺さんと意地悪爺さんが出てくる点は同じようだ。無論、善良な爺さんがいい思いをして、意地悪爺さんが酷い目に遭うのだが、自民党総裁選の二人の対決は、そう云う結果にならないブラックな日本昔ばなしになりそうだ。日刊ゲンダイなどは、気を回し過ぎて、安倍4選も視野と不安げだ。

モンサント除草剤ランドアップ並みの強烈な毒で、安倍晋三の勢力は、自民党を根絶やしさせようとしているやに見える。岸田が消え、残るは石破のみの総裁候補。石破を、ボコボコにさえすれば、あとはお調子者の河野太郎。そして、口先三寸の小泉進次郎。それに続く政治家は皆無というお寒い状況だ。いわゆる敵なしと云うのが、安倍勢力の自民党勢力図の読みだろう。無論、まだ石破の善戦もあり得る状況だが、地方票の出方が読めない場合は、お調子者、偽ごまめの歯ぎしりを立候補させて、票の分断まで考えているらしい。

しかし、冷静に考えると、“安倍一強”はあらゆる面で盤石の強さかと思いきや、たかが自民党内の総裁選びで、ここまで小賢しい手段をとらないと当選できないのであれば、実は“安倍一強”ってのは幻想なのではないかと疑いたくなる。不思議な点は、ギリギリ当選した安倍が一強となり、石破が、一度は立候補を見合わせたくらいだから、安倍官邸の権力掌握が尋常ではなかったことを物語る。おそらく、安倍政権自体が、ギリギリ権力だと云う自覚が、現在に至るような異様な権力維持のツールを使い果たしていると云うことになる。

ゆえに、自民党総裁選が行われる寸前は、安倍官邸の機能不全があるわけで、ガラガラポンの無権力の空白が生まれる。この権力の空白空間を観察すれば、実は安倍晋三の権力は、彼が、官邸に籠る時点から生まれている権力であって、一政治家の実力ではないことが、明らかになる。逆に言えば、我々は、なにか幻想をみせられて、安倍晋三が絶対的権力者のように錯覚しているのかもしれない。仮に、今回の総裁選で敗れれば、山口出身の陣笠代議士に過ぎないと云う評価も可能だ。

正直、自民党の政治は、戦後の55年を、曲がりなりにも日本を先進国の仲間入りをさせるために尽力した政党であり、米国との距離感も、意図的に長尺に腐心していた。日米安保における集団的自衛権行使容認の有無が、その象徴でもあっただろう。しかし、安倍自民党政権が、集団的自衛権行使容認に舵を切った瞬間から、おそらく、自民党は今までの自民党ではなくなったと云うのが事実なのではないか。つまり、現在の自民党は、安倍野党であり、保守本流の自民党ではなくなったと見ることが出来る。

つまり、安倍自民党は、実は野党なのである。安倍ファシズム勢力に乗っ取られた政党であり、所謂、自民党ではないのだ。石破勢力以外は、その多くは引退し、自民党を実質去っているので、残っているのは、小選挙区制度で、党公認だけで当選してきた当選三回以下の議員の烏合集団で、安倍ファシズム党の党員なのである。こういう風に考えると、本来の自民党気質の議員らは、離党すべき絶対条件が揃いつつあると云う見方が可能だ。集団離党があっても不思議ではない条件が整った。

その時が問題だ。その集団離党が、単純な新党結成なのか、現野党も巻き込んだ政界再編なのかと云うことだ。出来る限り、後者の方がインパクトはある。安倍ファシズム党VS民主勢力(離党組・立憲民主・社民党・無所属)+選挙協力(共産党)という構図が考えられる。現在、水面下で、小沢一郎が国民民主の一部と立憲民主党、社民党の合流を画策している動きの先には、安倍ファシズム党からの離党組が視野に含まれているのかもしれない。そうなれば、我が国も、民主主義らしい視野のある政治が堅持できるのかもしれない。どうにかして、安倍ファシズム党を国民につまびらかにする政治行動が必須の時が来ている。


●“国のかたち”の議論も説明もなく、国が変わること

2018å¹´07月26æ—¥ | æ—¥è¨˜
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初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制 (歴史新書y)
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●“国のかたち”の議論も説明もなく、国が変わること

拙コラム7月21日付”対米従属・日本の将来 「移民国家」による再構築か?”で述べたように、安倍は移民推進論者になったようだ。この面だけをみると、日本会議などが考えている“国体”とは真逆の政策に舵を切ったように見える。しかし、以下の日経新聞が語るように、目先のアベノミクスによる成果を求めた結果の選択に過ぎない。つまり、「移民国家」にする気はないが、都合の良いかたちで、日本の経済成長に、外国人を利用できないかと云う直近主義の考えによるもののようだ。

しかし、一旦受け入れた外国人は、結果的に、日本社会に融けこむわけで、日本社会の構造上不可欠な存在になるのだから、外国人が日本人なる可能性は非常に高い。つまり、なし崩しに「移民国家」になることを意味する。このように国家の形態が変わるような政策を選択する場合、その為政者に、それなりの心構えが必要なわけで、その心構えが、直近のアベノミクスの成果を得るためと云うのでは、その後に起きる問題の先送りに過ぎないだろう。

果実だけを、自分のお手柄にするが、その後の副作用については、責任を持たないような政策は厳に慎んでほしいものである。筆者は、「移民国家」を否定する考えを主張しているわけではない。移民や難民を受け入れる場合、直近の利益や感情で問題を考えるのではなく、国民的なコンセンサスを得る議論が必要だと云うことを主張する。“神の国の選ばれた民”と主張する日本会議の人々の考えも聞いてみたいものだ。

彼らまでもが、一時の時間稼ぎ政策として、この安倍政権の外国人受け入れ政策を容認するようでは、偽右翼と罵倒するしかなくなる。“風が吹けば桶屋が儲かる”云々ではないが、自国の都合で外国人を受け入れる以上、その結果、貢献した外国人を自国民と受け入れるのは、或る意味で、国際的には当然の帰結なのだ。と云うことは、今回の安倍政権による、外国人受け入れの拡大は、国際的に見れば、日本が移民政策に舵を切ったと受けとめられるのは当然だ。

ただ、安倍政権においては、トランプ大統領の保護主義政策に、なんらの異議も唱えず、唯々諾々と従い、EU諸国とは自由貿易の維持で考えが一致したとか、言っているなど自己矛盾なデタラメだ。自由貿易と保護貿易の区別もついていないのかもしれない。イージスアショアの設置についても、秋田と山口県に配慮、総裁選までのモラトリアムとして、延期を決定した。その設置費用も、一基800億円から、気がつくと3000億円だとか、何も決まってないとか、もう出鱈目の限りだ。

その意図が、対北朝鮮防衛なのか、対中国防衛なのか、米国一辺倒国家体制堅持なのか、近接する韓国、北朝鮮、中国、台湾とどのようなつき合いをするのか、イランや中東とはどのようにつき合うのか、専守防衛は、対中国、対北朝鮮だけでいいのか、対米だって考えるべきとか云々。専守防衛と自衛隊の軍隊としても独立性はあるのか?そう云う問題が、安倍政権の中で議論されているフシもない。内々検討している官僚はいるだろうが、国民的コンセンサスがまったくない状況は不自然だ。

或いは、自衛隊員のなり手が不足しているようだ。専守防衛に徹すると言っても、そのためには軍事力は欠かせないわけで、ミサイル、空軍海軍だけで専守防衛は出来ない。陸軍、それを支える自衛隊員の不足は致命的だ。今の日本の政権の姿勢は、見てくれの軍国主義に過ぎず、強がってみせているが、戦争なんて起きないと云う前提で、小手先の戦争ごっこをしているようだ。少子高齢化時代における自衛隊員の確保は、たしかに容易ではない。

この不足の先には、経済的徴兵が視野にはいるし、単純徴兵もあり得るだろう。逆の方向性も選択は可能だ。東アジア外交に舵を切り、等距離外交とまではいかないまでも、衝突の起きない外交が可能かのうかどうかの議論も必要だ。無論、米国の干渉は起きるだろう。その都度、当該首相はスキャンダルによって退陣させられるかもしれないが、選択肢としては残る。いずれにせよ、“国のかたち”の議論が見えない政治は怖ろしい。国民のコンセンサスのない政治は、国を亡ぼす。

主導的政治家が、確信犯的に行う為政であれば、そこにはイデオローグな傾向が見えるが、安倍にはそれが見えない。見せかけの軍国少年を標榜しているが、夢遊病のように彷徨い、目先の利益に飛びつき、朝から晩まで嘘を吐き続け、私利私欲にも精を出し、美辞麗句を並べ立てて、マスメディアに報じさせ、政治的無関心層が多いことを利用して、“今だけ政治”を行うのだから、亡国の政治家だ。いずれにせよ、国のかたちが、なし崩しで壊れてゆくのは不愉快だ。


≪首相、外国人労働者受け入れへ政策総動員 入国管理局、「庁」に格上げへ
 安倍晋三首相は24日の関係閣僚会議の初会合で、外国人労働者の受け入れ拡大を指示した。秋の臨時国会に入国管理法改正案を提出し、年内に日本語教育や生活支援の総合対策をつくる。法務省入国管理局を外局となる庁へ格上げし、体制を整える。2019年4月の本格受け入れを目指し政策を総動員する。外国人労働者の受け入れ政策は大きな転換点を迎えた。
 「即戦力となる外国人材を幅広く受け入れていく仕組みを構築することが急務だ」。首相は24日の関係閣僚会議で強調した。「中小、小規模事業者をはじめとする現場で人手不足が深刻化している」と説明。「外国人を社会の一員として受け入れ、円滑に生活できる環境を整備することは重要な課題だ」と訴えた。
 外国人労働者の新たな就労資格については一定の技能や日本語能力を条件に最長5年、単純労働も認める。建設、農業、介護、造船、宿泊の5分野のほか、金属プレスや鋳造など一部の製造業や非製造業の外食産業も対象にする見込みだ。
 上川陽子法相は24日の記者会見で「入国管理庁のような外局を設けることも含め検討したい」と明言した。秋の臨時国会に関連法案を出し、来年の発足を描く。政府が年4000万人を目標としている外国人観光客にも備える。
 首相が保守層を中心に反発のあった外国人労働者の受け入れ拡大に踏み切るのは、アベノミクスの起爆剤としての効果を期待しているためだ。
 大規模な金融緩和や積極的な財政政策は企業活動を後押ししたが、高齢化が急速に進む地方の人手不足は広がるばかりだ。新たな労働力を呼び込まなければ、アベノミクスへの悪影響は避けられない。そんな危機感が外国人受け入れ拡大と結びついた。
 自民を支える業界団体は人手不足への不満が募り、その解消を陳情する。来年には統一地方選や参院選を控える。人手不足解消に手を打つのは、選挙対策の意味合いもある。
 「日本の現状や将来を見越すと高度な専門人材以外にも助けてもらわないとやっていけない段階にきている」。経済同友会の小林喜光代表幹事は24日の記者会見で、外国人の単純労働分野での就労を容認する考えを示した。
 課題は山積する。最長5年の技能実習を終えた人が新たな資格に切り替えた場合、通算で10年間、日本に滞在することになる。西山隆行成蹊大教授は「将来の帰化も想定し、外国人を年金など社会保障の枠組みに乗せる仕組みも必要だ。家族の帯同や住居の用意など長期滞在する外国人が安心して暮らせるようすべきだ」と指摘する。
 これまで外国人労働者受け入れ拡大へ政府内や国会で熟議があったとは言い難い。「短期的な人材不足は特定業種でなく様々な業種で起こり得る。安易に外国人に頼る形は避けるべきだ」。中島隆信慶大教授はなし崩し的な受け入れに警鐘を鳴らす。
 ≫(日経新聞)


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古事記及び日本書紀の研究 新書版
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古代史から読み解く「日本」のかたち (祥伝社新書)
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●石破が国民首相になれる日 麻生の脅しがきいた、岸田不出馬

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東京五輪後の日本経済: 元日銀審議委員だから言える
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テーマ別アンソロジーvol.40「地政学の復活と不満が規定する世界 ――米ロ対立、漂流するヨーロッパ、中東の混迷」
ウォルター・ラッセル・ミード,リチャード・ハース,マイケル・マザー,ジョン・ミアシャイマー,アレクサンドル・ルーキン,ヤシャ・モンク,ジョナサン・マスターズ,ミッチェル・A・オレンシュタイン,リチャード・カッツ
フォーリン・アフェアーズ・ジャパン

 

米中経済と世界変動 (シリーズ 現代経済の展望)
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●石破が国民首相になれる日 麻生の脅しがきいた、岸田不出馬

細田、麻生、二階3派で首相支持勢力は、党所属国会議員の半数を超えていた。しかし、この3派だけでは心許なかったのが安倍晋三だ。いまだ、党員の多くは、政策通で、誠実味みのある石破への期待は大きい。党員票では、安倍晋三は石破茂に大きく水を開けられているのが現状だ。

だからこそ、安倍組の“代貸し(若頭)”麻生太郎が「敗れたら(敗れた派閥は)冷や飯」との恫喝発言があったわけだが、岸田文雄は完全にこの脅しに屈したとう云うのが事実関係だ。まぁ、この岸田の判断で、岸田派がまる丸安倍晋三に投票するかどうか判らないが、安倍の優勢が僅かに増えたのは事実だろう。

この流れだと、党員投票で石破が勝利しても、国会議員票合計で、安倍が三選される可能性が高まったのは事実だ。しかし、更に3年後を見つめた場合、岸田の目(禅譲)は完全に消えるだろう。逆に、小泉進次郎が頭角を現すかもしれない。小泉の頭角は、石破にとって悩みの種だろうが、進次郎が総理の器でないことは、これからの3年でも、一層判るのとで、石破の敵には思えない。

小泉の子倅は、如何にもアンチ安倍な発言をしているように報じられるが、逆鱗に触れるような発言はしていないわけで、アンチはポーズに過ぎないのは明らかだ。若造の時代から、権力闘争ゲームを愉しむようでは、総理の器とは言えない。まぁ、到底、総理の器でない安倍晋三が、現に総裁なのだから、当てにはならない総裁論だが、進次郎は総裁の器ではない。

それはさておき、今回の総裁選で石破は敗れても、次期総裁選の有力候補にのし上がることが出来るだろう。一番の理由は、やはり、総裁選に名乗りを上げ続ける姿勢だ。小泉純一郎も、泡沫総裁選候補者として、何度も苦渋を舐めていたが、最後には総理に上り詰めたもだから。第二の理由は、これからの3年間は、安倍政治の膿が膿として現実味を増す時期で、今までのように、ご都合主義のつまみ食い数値公表で、世間を誤魔化すことが出来なくなる政治状況の変化が訪れるだろう。

その意味で、この秋の総裁選は、安倍晋三に勝たせた方が良いと考えることも出来る。これらから3年は、年金支給額の減額や保険料等の増額で手取りが少なくなった年金生活者の生活苦が表面化し、米中経済戦争の激化で、世界経済は必ず減速し、アメリカ中心の好況にも幕が引かれる。また、オリンピック景気も佳境を迎え、株価などは先行指標の影響を受け、下落に転じる可能性が強い。また、追い打ちをかけるわけではないが、日銀に異次元緩和の出口戦力が実行されるだろうから、アベノミクスの終焉は決定的になる。

このように考えれば、自分の糞は、自分で拭って貰わないと困るのだから、“やり逃げ”は迷惑だ。山口強姦魔ではないが、我が国の政治行政(民主主義)を強姦したような総理総裁に、“責任をとってもらう”のが筋である。おそらく、これからの3年は、“つけ回し”の最終返済期限のような期間になるだろうから、安倍晋三に尻拭いさせるのが“正義”だ。無論、安倍のことだから、言い逃れに終始して、何ら解決策も出せず、ボロボロになって退陣だろうが、石破や野党が、それを引き受ける必要はない。


 â‰ªã€Œæ•—れたら冷や飯」転落恐れたか 岸田氏、不出馬の背景
 岸田氏は23日に安倍晋三首相と会談し、自らは出馬を断念し、首相を支持する意向を伝えた。24日には、地元・広島の支援者らに電話で経緯を説明し、その後の記者会見で「災害対応をはじめ、切迫した様々な課題にどういった体制で臨むのが多くの国民にとって幸せなのか、安定した対応ができるのかが(判断には)重要だった」と述べた。
 岸田派は、若手を中心に岸田氏の立候補を求める主戦論とベテラン勢の慎重論に割れた。対応次第では派の結束が乱れかねず、岸田氏は17日に派閥から対応一任を取り付けた。ただ、首相が党内主流派を固め、石破茂元幹事長が地方行脚に力を入れるなか、勝機を見いだせずにいた。
 一任を取り付けた17日に岸田氏は名古屋市で講演し、その後地方議員らと懇談した。関係者によると、出席者の一人が「岸田先生が総理になってほしい」と水を向けると、「いやあ、総理になるのはなかなか難しいんですよ」と消極的な姿勢に終始したという。
 党内では「岸田氏の不出馬は既定路線」との受け止めが大勢だ。首相に近い議員は「人事での処遇を気にして、このタイミングが一番高く売れると判断したんだろう」と見る。岸田氏も派閥会合では「戦って負けたら派閥の仲間が冷や飯を食うことになる」と漏らしており、首相につくことが派にとって得策との判断に傾いたとみられる。
 これにより、党内7派閥のうち4派閥が首相を支持する見通しで、党国会議員数では全体の6割にあたる。首相の出身派閥である細田派幹部の下村博文・元文部科学相は記者団に「(岸田氏不出馬で)安倍総裁3選に向けて弾みがつくと期待したい」と述べた。(今野忍)

 çŸ³ç ´æ°ã€åœ°æ–¹ç¥¨ç²å¾—に自信
 総裁選をめぐる国会議員の動向が着々と決まるなか、安倍首相と石破茂元幹事長は、地方票に照準を合わせる。
 首相は24日午前、東京都内のホテルで都議らとの会合に出席したのを皮切りに、昼は首相公邸で熊本県議らとカレーを食べながら懇談。午後には、自民党本部で神奈川県議らとの写真撮影に応じた。総裁選対策の一環で、今後も同様の日程が予定されている。
 一方、石破氏は24日、群馬県下仁田町の山奥で、世界文化遺産の構成資産の一つである「荒船風穴」などを視察。現地で「地方票はしっかり取るから任せて」と声をかけられ、笑顔で頭を下げた。記者団には「明治日本というのは地方がつくっていった」と述べ、地方重視の姿勢を鮮明にした。
 首相に先駆けて地方行脚に出た石破氏は地方票獲得に自信を見せる。24日には岸田氏の不出馬表明を受け、記者団に「派閥の合従連衡で決まるんであれば総裁選の意義がない」と指摘。「広く党員のご支持を頂き、それぞれの地域の有権者に責任を持つ国会議員の支持を頂くということは変わらない」と述べた。(岩尾真宏)
 ≫(朝日新聞デジタル)


≪石破氏「誰が出るからやめたとか、誰が出ないからやるとか、そういうものではない」
岸田氏の総裁選不出馬受け
 24日夕方、岸田文雄政調会長が9月の自民党総裁選に不出馬の意向を表明したことについて、石破茂議員が会見を開いた。

 石破氏は岸田氏の判断について「総裁選に出るか出ないかは本当に私自身も経験があるけれど、何日も寝られない本当に苦しい決断。ですから批評するのは簡単だけど、ここに至った岸田さんの苦悩は察するにあまりあるというだけ」と話し、自身の出馬表明の時期については「岸田さんが出ないから自分は出ないとか、そういうことは考えない。誰が出るからやめたとか、誰が出ないからやるとか、そういうものではない。時期については有権者たる自民党員の皆様方が十分判断できる時間が必要だ」とした。

 また、宏池会会長である岸田氏が安倍総理の3選を支持したことについては「やってみなければわかりません。選挙って、なんでもそういうものでしてね。派閥が決めたから、自分はいろんな想いがあるけどそれに従うということか、ひとりの国会議員として、選挙区の有権者に対して責任をおっているわけで、自分の考えに従うというかはわからない」と述べ、「同じ時代を生きてきたし、当選回数も2回しか違わない、一緒の内閣でずいぶん仕事をした。岸田さんが出ないから話しをしてみたいではなく、同じ自民党の栄枯盛衰を見てきたという意味で言えば、そこはお話はしてみたい」と、岸田氏との会談にも意欲を見せた。

 さらに総裁選に望むことについては「6年ぶりの選挙なわけですから、世の中はずいぶん変わっている。党員がどう思うかがきちんと反映される、そういう総裁選挙であるべきだ。党運営のあり方、憲法であり、外交であり、安全保障であり、社会保障であり、財政政策であり、そこにおいて全く違いがないのであれば選挙になるはずがない。何が違うんだろう、そしてそれによって何がどう変わっていくんだろうということが有権者の方々にわかって、それをご自身で判断いただける期間が必要だ。今回の総裁選でいえば、投票権を持っている党員の方々が本当に政策を見極め、当運営に対するあり方を見極め、ご判断いただく、そのための情報提供の期間が確保されるべきだ」とした。
 ≫(AbemaTIMES)

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●安倍三選に暗雲 国会閉幕後、国民の鉄槌爆発か 

2018å¹´07月24æ—¥ | æ—¥è¨˜
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●安倍三選に暗雲 国会閉幕後、国民の鉄槌爆発か 

国会閉幕後の各社世論調査。国会を閉幕して、これで外遊を乱発して、外交の安倍で逃げ切ろうと云う魂胆のようだが、どうも、自民党総裁三選は、やはり容易な出来事ではないようだ。各社の世論調査にはバラつきはあるが、安倍晋三にとっては、三選に向けて、黒い雲が接近している感じを受ける。

マスメディア中心の報道を見ていた国民にとって、安倍内閣への報道は抑制的なもので、NHKなどによって忖度報道がなされてきたわけだが、国会が閉幕したことで、あらためて、安倍内閣が行った国会運営を総まとめとして、国民がゆっくり考える時間がうまれ、今国会で成立した法案などを吟味し、モリカケ問題はどうなったのか?安倍の経済政策は成果を上げているのか?国際環境に堪えうる外交をしているのか?防衛や防衛費は適切な予算内にあるのか?次期総裁は安倍で良いのか?そういうことを、国民が考える時間が生まれた兆しが見られる。

以下は、共同通信、日経新聞、報道ステーションの世論調査だ。各調査の間にバラつきはあるが、一定の方向は見えてくるだろう。来月の調査いかんでは、安倍三選確実と錯覚していた世論は、新たな動きを見せるだろうし、自民党議員内部にも衝撃が走るに違いない。


≪共同通信世論調査
 共同通信社が21、22両日に実施した全国電話世論調査によると、通常国会で20日に成立したカジノ解禁を含む統合型リゾート施設(IR)整備法に反対との回答は64.8%に上り、賛成27.6%を大きく上回った。
西日本豪雨への安倍内閣の対応を「評価しない」としたのは62.2%で「評価する」は27.5%。9月の自民党総裁選で誰が次の総裁にふさわしいかを問うと、安倍晋三首相27.3%、石破茂元幹事長26.7%で拮抗した。
 野田聖子総務相は6.8%、岸田文雄政調会長は4.0%。この中にはいないとの回答は27.1%に上った。  内閣支持率は43.4%。
 ≫(共同通信)


 â‰ªå†…閣支持率45%、7ポイント下落 本社世論調査

 

 日本経済新聞社とテレビ東京による20~22日の世論調査で、安倍内閣の支持率は45%となり、前回の6月下旬の52%から7ポイント下落した。不支持率は6月の42%から47%に上がった。不支持率が支持率を上回るのは2カ月ぶり。
 通常国会で成立した参院定数を6増やす改正公職選挙法やカジノを含む統合型リゾート(IR)実施法への反対論が多く、支持率下落に影響したとみられる。改正公選法については反対が56%で、賛成の28%を上回った。IR実施法は反対60%、賛成27%だった。
 西日本豪雨を巡る政府の対応に関しては「評価する」が39%で、「評価しない」の46%を下回った。首相と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長との首脳会談を「早く開くべきだ」は49%、「急ぐ必要はない」は43%だった。日本人拉致問題の解決を「期待できない」は71%で、「期待できる」の21%より多かった。
 政党支持率は自民党が38%で、前月の44%から6ポイント下落した。立憲民主党は12%と9%から3ポイント上がった。特定の支持政党を持たない無党派層は36%だった。
 調査は日経リサーチが20~22日に全国の18歳以上の男女に携帯電話も含めて乱数番号(RDD方式)による電話で実施。965件の回答を得た。回答率は47.5%。  
≫(日経新聞)


≪ 内閣支持率は下落 豪雨対応に厳しい評価
報道ステーションが21日と22日に行った世論調査で、安倍内閣の支持率は、先月より1.2ポイント下がって38.2%となった。支持しないと答えた人は、1.1ポイント増えて45.6%だった。西日本豪雨の対応をめぐり今月5日の夜、安倍総理ら自民党の国会議員が懇親会を行っていたことに批判が出ていた。安倍内閣の豪雨対応を「評価しない」と答えた人は53%で、「評価する」と答えた人は30%だった。

 â– å†…閣支持率
・支持する  38,2%(前回比―1.2)
・支持しない 45,6%(前回比+1,1)
・わからない、答えない 16.2%

■支持する理由
・安倍総理の人柄が信頼できるから 14.5%
・支持する政党の内閣だから    17.0%
・政策に期待が持てそうだから    9.4%
・大臣の顔ぶれが良いから      1.9%
・他の内閣より良さそうだから   51.3%
・その他              2.2%
・わからない、答えない       3.7%

■支持しない理由は何ですか(6つから1つを選んでください)
・安倍総理の人柄が信頼できないから 41.6%
・支持する政党の内閣でないから    6,7%
・政策に期待が持てないから     31.7%
・大臣の顔ぶれが良くないから     5.8%
・他の内閣の方が良さそうだから    4.7%
・その他 3.7%
・わからない、答えない 5.8%

■政党支持率(%)
・自民党   42.1(-5.6)
・立憲民主党 13.1(1.9)
・国民党    1.4(-0.1)
・公明党    4.3(1.3 
・共産党    3.7(0.7)
・日本維新の会 0.9(-0.2)
・自由党    0.3(0.1)
・希望の党   0.1(-0.1)
・社民党    0.7(-0.4)
・その他    1.1(0.4)
・支持なし、わからない、答えない 32.3(2.0)

 â– å…¬é¸æ³•æ”¹æ­£ã®è©•ä¾¡
参議院の選挙制度を見直す法律が成立しました。比例代表を4議席増やし、政党が特定の候補者を、優先的に当選させられる仕組みを入れたほか、埼玉県選挙区に2議席増やして一票の格差を減らしたものです。あなたは、この改正を、評価しますか、評価しませんか?
・評価する       19%
・評価しない      57%
・わからない、答えない 24%

■森友・加計問題の今後
あなたは、森友学園への国有地売却や加計学園の学部開設について、国会で引き続き調査する必要があると思いますか、思いませんか?
・思う   57%
・思わない 36%
・わからない、答えない 7%

■日朝首脳会談
あなたは、安倍総理が、北朝鮮のキムジョンウン委員長と首脳会談を行うことを、期待しますか、期待しませんか?
・期待する  64%
・期待しない 29%
・わからない、答えない 7%

*ハザードマップ、避難行動の項省略

■安倍内閣の豪雨対応
あなたは、今回の豪雨災害発生時の安倍内閣の対応について、評価しますか、評価しませんか?
・評価する  30%
・評価しない 53%
・わからない、答えない 17%

*五輪関係省略

■次期総裁選
自民党の総裁選挙が9月に予定されています。あなたは、次の自民党総裁は、誰がよいとお考えですか?次の7人から1人を選んで下さい。
・安倍晋三  22%
・石破 茂  23% 
・岸田文雄   4%
・小泉進次郎 28%
・河野太郎   2%
・野田聖子   4%
・その他議 員 0%
・わからない、答えない 17%
 ≫(テレビ朝日・報道ステーション)


毎日新聞のスクープだが、日銀が30兆円の計算ミスをすると云うことは、実際問題として考えにくい。“貯蓄から投資へ”と、我が国の家計動向をデカデカト報じたのが日本銀行なのだから、真逆だったわけで、ミスでは済まされない。ミスと云うより、おそらく意識的なつじつま合わせの改ざんの類だろう。丁度、働き方改革でも同じ流れで、嘘を平気で垂れ流していた。


≪ 家計保有額、30兆円以上も誤計上 日銀がミス
 â– ã€Œè²¯è“„から投資」実態は逆
 個人の代表的投資商品である「投資信託」の家計保有額が、日銀の統計作成時の誤りで30兆円以上も過大計上されていたことが判明した。近年順調に増加しているとされてきた投信保有額が、実際は減っていたことになり、「貯蓄から投資」が進んでいると信じてきた証券業界に衝撃が広がっている。
 過剰計上があったのは、金融機関や家計など各部門の資産や負債の推移などを示す「資金循環統計」。同統計では年1回調査方法を見直す改定を行っており、今年6月下旬発表分の改定値を算出する際に過剰計上が見つかった。2005年以降の数値をさかのぼって改定した結果、17年12月末の家計の投信保有額は、改定前の109兆1000億円から約33兆円少ない76兆4000億円まで激減。個人金融資産に占める投信の割合も、改定前は12年の3.8%から17年の5.8%まで上昇していたが、改定後は14年の4.6%をピークに低下し、17年は4.1%まで下落していたことが分かった。
 これほど大きな修正が生じたのは、日銀が、ゆうちょ銀行が保有する投信を個人が保有しているものと誤って計算していたことが原因だ。
 家計の保有額は、投信の総額から、金融機関など他部門の保有額を差し引くことで算出している。関係者によると、日銀が改定作業を行う際、ゆうちょ銀の保有分でこれまで「外国債券」としていた資産の一部が実は投信だったことが判明。改定後はその分だけ金融機関の投信保有額が膨らみ、逆に家計保有分は減額された。ゆうちょ銀が近年、比較的利回りのいい投信の保有額を急増させていたことも、「誤差」の巨大化につながったようだ。
 日銀調査統計局は「調査項目が多数あり、見直しが追いつかなかった」と釈明するが、証券業界は「30億円なら分かるが、個別指標で30兆円も変わる改定は聞いたことがない」(大手証券幹部)と怒り心頭だ。
 政府や証券業界は、現預金に偏る家計の資金が、経済成長に資する企業への投資資金として回るような政策を進めてきた。日銀の統計に基づく投信保有額の増加は政策効果の表れとみていただけに、金融庁幹部は「我々の認識以上に個人の投資への動きが進んでいないなら、改めてどうすべきか考えないといけない」と厳しい表情を見せた。【小原擁】
 â– å®¶è¨ˆã®é‡‘融資産
 個人や、法人形態を取らない自営業者(農林業従事者を含む)が保有する現預金、株式、投資信託などの金融商品の合計。日銀が四半期ごとに「資金循環統計」で公表しており、18年3月時点の総額は1829兆205億円。資産ごとの比率は、現預金が52%▽保険・年金準備金28%▽株式6%▽投資信託4%--など。現預金は近年52%前後にとどまっている。
 ≫(毎日新聞)

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●安倍だけが民主主義の破壊者ではない ガブリエル×國分対談

2018å¹´07月23æ—¥ | æ—¥è¨˜


●安倍だけが民主主義の破壊者ではない ガブリエル×國分対談

本日は対談のみを掲載する。(容量の都合上)


≪哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談(2)

 ãƒžãƒ«ã‚¯ã‚¹ãƒ»ã‚¬ãƒ–リエル×國分功一郎(対談)
 
國分功一郎氏:たくさんの方に来ていただいてうれしく思います。ガブリエルさんにもわざわざ日本に来ていただいた。とてもうれしく思っています。少しだけ全般的な話をしてから、応答に入っていきたいと思います。先ほどこの対談を前に、高久記者から「いま哲学はブームになっていると思いますか」という質問を受けました。確かにガブリエルさんの本がよく売れていて、僕の本もまあまあ売れているのですが(笑)、ちょっとそういうブームがあるのかもしれない。哲学の本が売れる。さらには新聞社主催のイベントでこうして哲学を研究している僕らが話をするとなると、たくさんのお客さんが来て下さる。
 ガブリエルさんは今日、民主主義の危機をテーマに話しましたが、なぜ哲学がブームなのか、仮にブームがあるとすると、やはり危機と対応しているからだと思います。はっきり言って人が幸せに暮らしているときは、哲学はいらないんです。古代ギリシャでもやはり危機が起きたときに哲学が起こりました。プラトンがいたアテナイは、腐りきったアテナイだった。ですからいま哲学が求められているのだとしたら、それはやはり何らかの危機があるのだろうと思います。そして、恐らく今日ここに来ている方は、政治に関しての危機に非常に自覚的な方が多いと思います。きょうは、ガブリエルさんはドイツのボン大学の先生なので、ドイツの話も少しうかがいながらそれについて考えていきましょう。というよりも日本と同じ敗戦国としてスタートしたドイツを日本はしばしば比較対象としてきました。その比較は今でも有効だと思います。日本とドイツはどこが似ていてどこが違うのか。ドイツでは民主主義がどう考えられているのか。そうした点についてもおうかがいしたいと思っています。
 ではガブリエルさんの講演に応答していきましょう。デモクラシーの本質(ネイチャー)と、デモクラシーがいまいったいどう実行されているかという話を皮切りに、古代ギリシャとフランス革命という例が出されました。強調されていたのはまず「価値」、僕らがどういう価値を民主主義的な価値と思っているのかということです。更に、それはどういう事実に基づいているのかというふうに話が展開され、そこからどういう権利が導き出されるのかというところまで話は及びました。つまり、バリュー(価値)、ファクト(事実)、ライト(権利)がいわば等号で結ばれるような形でガブリエルさんは語られた。哲学はしばしば「自然の発見」によって始まったと言われますが、哲学の役割の一つは、ファクトを発見していくことなのかもしれないと考えました。
 さて、ガブリエルさんが依拠された民主主義の価値の中心にあったのは、「平等」だと思います。平等という価値を一番大事なものとして民主主義をとらえているからこそ、古代ギリシャは奴隷がいたからダメだということになる。この平等を考える時、一つ厄介な問題があると思います。先ほどは経済的な平等の話が出ましたが、民主主義における平等という場合には、もう一つ大事な平等があると思います。それは「決定への平等な参加」、つまり「メンバーシップ」の問題です。
 言い換えれば、「僕は日本国民だから日本国の政治決定に、他の人と同じように平等に関われるはずだ」という権利の問題でもあります。しかし、いまグローバリゼーション下で問題になっているのは、いったいそのメンバーシップをどう確定できるのかということです。「日本国民に平等に決定権があるべきだ」という主張はとてもいい主張に聞こえる。でもそれは他方では、「外国人は入るべきではない」という主張にもなります。
 例えば昨年、フランス大統領選の際、マリーヌ・ルペン(フランスの極右政党の候補)が最後まで残って世界を大変驚かせました。彼女は「フランスのことはフランス人が決めよう」と言っていました。よく事情を知らないでルペンの話を聞いているとけっこういい話に聞こえてしまう。僕はどういう人か知っているから「何を言っているんだ」となるけれど、実のところ、上ずみだけ聞いているととてもいいことを言っているように聞こえるのです。決定権における平等の問題が排除と結びつく場合があるという問題がここにはあります。
 僕らは国民国家をもはやこのまま維持できないということは分かっている。でも他方で、誰にでも決定権を与えてよいという考え方にみんなが賛成するかというと、ちょっと疑わしい。ではどうやって政治的決定権を考えるか、平等なメンバーシップの問題をどうガブリエルさんは考えているのでしょうか。

 ã€Œä¾¡å€¤ã¨çŸ¥ã€ã€Œãƒ¡ãƒ³ãƒãƒ¼ã‚·ãƒƒãƒ—」について  

ガブリエル氏:二つのパートに分けて、國分さんのコメントに答えます。まずは、「価値と知」という問題。もう一つは「メンバーシップ」の問題になります。一つ目に関していえば、哲学だけがそうした「知」を明らかにする役割を担っているわけではなく、科学全体、社会学とか政治学とか、物理学とか数学とか、こうしたさまざまな学問がすべていっしょになって「知」を生み出しているわけです。(民主主義のための)「知」は、個々の学問分野がばらばらに生み出すことはできません。物理なら物理、政治なら政治、哲学なら哲学、科学はさまざまな法則を発見し、知を生み出しますが、そうしたものが集まることによって我々が必要とする知を獲得することが出来るのであって、こうした共同的な営みを実現していく必要があります。ただ、こうした共同的な営みはいまのところは起きていません。起きるべきだと私は言っています。それによって哲学は民主主義の実現に貢献することができるでしょう。
 國分さんは、非常に重要な問題、メンバーシップの問題を提起してくれましたね。この点について完全に同意します。つまり、民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれないということです。国民国家を超えて民主主義が拡張されなくてはならないという発想は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性という原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づかない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になってしまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。
 もし国民国家をひたすら維持しようとするならば、多くの国に独裁的なものがうまれるでしょう。他にいくつかの小さな「希望の島」とでも言えるようなものはできるかもしれませんが。なぜかというと私たちが直面している問題を解決することが国民国家ではできないからです。私たちが直面している気候変動であったり、経済的な格差といったりした問題はグローバルな性格を持つものであって、そうしたものに対して、国境を線引きして、ここからこちらは関係ないと線を引いてしまうことはできません。
 難民や移民は、民主主義という名の下で自分たちの人権を求める権利を持っているわけです。しかし、そうした問題に対して、現在は彼らの人権を否定してしまうような状態になっています。この問題は非常にグローバルな現象ですが、彼らが求めているのはまさに人権を自分たちのものにするということです。彼らはまさに民主主義者と言えるでしょう。
 ただ現在は移民、難民の問題は、ポピュリストたちに利用されていて、ナショナリストのプロパガンダのために利用されてしまっています。私たちがこの状況において選べる道は二つあります。一つは、こうした状況を鑑みて、国民国家を超えた「グローバルなシチズンシップ」を与える民主主義の形式に転換していくこと。二つ目の選択は、まさに人類を破壊してしまうことです。私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう。

 å›½æ°‘国家と民主主義  

國分氏:いまガブリエルさんは非常に強い主張をされたと思います。「国民国家は民主主義と相いれない」というものです。非常に強い主張で、これを僕はどういう風に扱ったらいいかなと聞きながら考えていました。一方でもちろん賛成です。カントの「永遠平和のために」という本がすごいのは、何か世界的なルールを作りましょうと言っているわけじゃないところです。カントは、「ホスピタリティー(歓待)」のルールさえあればいいと言っている。市民が互いに世界を行き交っていれば、自然と世界がよくなる、それ以上のルールを作ってはいけないという。これがカントの面白いところで、これが本当に実現されれば、確かに国民国家は薄まっていって、もしかしたらグローバルなシチズンシップにも近づいていくのかもしれません。「移民、難民は民主主義者なのだ」という主張も非常によく分かります。ある意味で、だからドイツは難民を受け入れる決断をして、まさしくカントが言っていたような「歓待」のルールを実践してきたわけです。
 ただ他方で、一足飛びにグローバルなシチズンシップに僕らは行けるのか、とも思います。そこで一つ問題になってくるのは、手紙の中で出した「主権」ということばです。主権というものは非常に扱いが難しい。一方で民主主義は「民衆が主権を行使する」ということを意味します。でも「主権」という概念はやはりどこか怪しくて、本当に自分たちで自分たちのことを統治できるのだろうかという疑いもあるわけです。国民国家という枠を取り払ってしまったときに、いったい主権はどういう形で担われることになるのか。つまり、グローバルなシチズンシップを目指していく中で、主権をどう考えたらいいのだろうか。  というのも、ぼくは「主権」という考え方に懐疑的ですが、今のところ、主権がない政治を思い描けないのです。もしかしたらガブリエルさんは「主権のない政治」みたいなことを考えていますか? 主権についてどういうことを考えているかお聞きしたい。

 ガブリエル氏:私も、(その後に)デリダが議論した「歓待」という発想を支持しています。とはいえ、以下では「主権」というテーマの歴史にさかのぼって考えたいと思います。一番有名なのはトマス・ホッブズですが、ホッブズ自身は主権や民主主義というテーマで論じられることが多いものの、彼自身は民主主義者ではなく、むしろ奴隷を所有しました。彼の哲学、政治理論というのは矛盾を含んでいます。  ですから、私たちは政治と主権というものの関係について考え直す、再考する必要があると思います。私たちが民主主義について考えるとき、しばしば「人民の主権」、自分たちで統治する、人々により多くの権力を与える、というかたちで考えがちですが、民主主義というものは、先ほど説明したように普遍的な価値システムなわけですから、主権という概念とは相いれないものです。
 なので、主権という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります。ホッブズの場合は、政治的な共同体を内戦の結果として生まれたものとして理解しています。自然状態では人々は闘争をしてしまうので、それを調停するために社会が生まれたと考えるわけですが、こういう考え方をやめる必要があります。実際、主権が存在しなければ人々は自然状態における内戦状態になってしまう、という実証的な裏付けは、ホッブズの主張にもかかわらず、ないわけです。
 むしろ、ホッブズの主権理論は、アメリカの先住民族に対するジェノサイドを正当化する目的で、自然状態を早く乗り越えないと内戦が深刻化してしまう、そのため強い主権が必要だ、という奴隷所有者としてのホッブズの主張と結びつけているわけで、そうしたものを受け入れる必要はないのです。

民主主義と主権  

國分氏:もう一つ、非常に強い主張が出されたと思います。先ほどの「国民国家と民主主義は相いれない」というテーゼに加えて、「民主主義と主権の考え方は相いれない」というテーゼですね。これは僕は今の政治理論の最先端の問題だと思います。先日、僕は憲法学者の石川健治先生と憲法について話しましたが、石川先生も主権概念について非常に強い疑問を呈されていました。やはり正面から理論的に考えると、主権という概念には大いに問題があるのです。まやかしがあると言ってもいい。例えばハンナ・アレントは主権の概念をまったく認めない立場でした。僕の専門分野だと、デリダもずっと主権について批判的な考察をしてきました。だから、すごくよく分かる。
 ただ主権を要求しなければいけない場面も間違いなくあるということも一応付け加えておきたいと思います。3年前、僕はフランス留学時代の恩師であるエティエンヌ・バリバール先生がいるロンドンの大学に客員研究員として滞在していたんですが、その時、先生の講演会に行って、同じようなことを質問したことがありました。主権概念に問題があるのはよく分かる。しかし主権を要求しなければならない場合もあるのではないか、と。バリバール先生は、「それは『WHEN(いつ)』と『WHERE(どこで)』の問題だ」とおっしゃいました。やはり場合によっては主権を要求しなければならない。
 例えば、いま沖縄県で、外国の軍隊の基地が、ものすごくきれいな海を埋め立てて造られています。地元の人の反対の意思があるけれども、本土は基本的に無関心です。僕はしばしば「この国は本当に主権国家なのだろうか」と思います。「基地を造ろうとしている国の『属国』なんじゃないか」と感じるときがある。こういうとき、主権を要求する必要が出てきます。
 話を少し展開しましょう。ガブリエルさんの今日の話で印象的なのは、「平等」を非常に大切にされているとともに、「ナレッジ(知)」の重要性を強調されているところだと思います。僕はガブリエルさんに宛てた手紙を、自分が体験した、地元の道路建設をめぐる住民運動から書き起こしました。様々な知識や情報がきちんと共有されない。これは情報公開の問題でもありますが、行政と住民は知識と情報に非対称性があり、住民側からこういう事実があると持っていっても、一方的に「道路をつくる必要がある」と言われてしまう。民主的社会が実現するためには、知識と情報を行政と市民が平等に共有することが非常に重要だと思います。
 ただ、ここにパラドックスがあります。ガブリエルさんも政治家の無知について言及されていましたが、そうすると、たとえば専門知識がある人が大臣になるのがよいのだろうかと考えてしまいます。例えばイタリアでは先日、法学者が首相になりました。一見すると、経済学者が財務大臣になるといい気がします。けれどもそれには民主主義的には問題があります。専門知識を根拠として政治家や大臣が選ばれるとなると、それは民主主義的に見て正統なのかということです。もし専門知識を持った人が大臣をやるのがいいならば、選挙をやる意味がなくなってしまう。ここには、専門知識と民主主義的手続きの問題がなかなか一致しないという重大な問題があります。
 危機のときには専門知識を持った大臣の方がいい気もします。けれども、これを常態化、恒久化していいのか。もしこれを認めるなら僕らはある意味で民主主義を捨てることになります。けれども他方で、今の世の中でみんなが専門知識を持つことも不可能です。例えば僕は、年金の仕組みなど全然分からないわけです。厚生年金とかもよく分かっていない。自分に関係あるのに(笑)。これはある意味では20世紀頭ぐらい、あるいは19世紀からかもしれませんが、ずっとある「行政国家」がもつ問題です。専門知識が必要だけれども、それがなかなか民主主義の中では共有できない。この問題についてはどうですか。

専門家の意義  

ガブリエル氏:私が言っていたモデルというのは、別に科学者や専門家がそのまま政治家になって統治をすべきというものではありません。政治家自身も当然、私が言ったような政治家としての地位があるので、それは尊重されなくてはなりません。実際、専門家という点においては、今のシステムでは官僚がいるわけです。官僚が年金などの問題についての専門家として既に存在しており、彼らは終身雇用の立場で、政治家たちよりも長い期間はたらく専門家として機能しています。たまたまドイツでは博士号を持った物理学者のメルケルが首相で、彼女は物理学の専門家でもあるわけですが、それはたまたまであって、そういう人が首相になることを、私が薦めているわけではありません。いずれにせよ、官僚のような専門家は必要なのです。
 私が言ったのは、公聴会がもっと必要で、重要な問題について公聴会を必ず開かなければならないということです。実際、法律の教授なら法律の技術的で複雑な問題について相談を受けて、公聴会がしばしば開かれているし、経済学の教授なら同じような形で(経済に関する)公聴会に呼ばれています。ところが、哲学の公聴会はどのくらいの頻度で開かれているしょうか。化学だったら、薬学だったらどうでしょうか。こうした問題についても、もっともっと公聴会を開いていく必要がある、というのが私の考えです。
 その上で付け加えますが、いままさに話しているこの場も公共の場、「公共圏」ということです。そういう意味ではジャーナリズムも非常に重要です。ここではある種の「分業」があるわけですが、まさに「公聴会」はこうしたかたちでも開かれているといえます。この場で私たちの話を聞いて、みなさんは(市民として)自分なりの意見を形成することが出来るのであって、こうした場をもっともっとつくっていく必要があるでしょう。ですからジャーナリズムは民主主義のために非常に重要なものです。
 もう一点あるとすれば、インターネットの問題です。インターネットをどう規制するかが非常に重要になってくるでしょう。なぜかというと間違った情報ばかりでは、しっかりとした公共圏が形成されないので、インターネットを「野性」の「なんでもあり」の状態で放置しておくわけにはいきません。その意味で規制を考えていく必要があります。その上で、主権を含めて民主主義をどうやって実現していくかという問題を考えていかなければなりません。

 國分氏:「知識」を通じて考えた問題にもう少し、こだわりたいのですが、公聴会をめぐるガブリエルさんの提案に僕は賛成です。「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)という著作で僕が民主主義について提案したことも、とても穏やかなことです。議会は万能でも何でもない。ところが民主主義の話をすると、みんなすぐに議会の話になる。「議会をよくしよう」という。でもそうではなくて、民主主義にはもっと別の、民衆の意思の実現ルートがあっていいはずです。例えば僕が関わった住民投票もその一つだし、公聴会もそう。そうしたいろんなパーツを民主主義に足していって、民主主義的な意思の実現のルートを増やすという提案を僕はしてきました。ですから、今のガブリエルさんの話にすごく共感するところがありました。
 さきほど行政権力の問題に触れましたが、この点について別の観点から考えてみましょう。行政権力が専門化しているがゆえに極めて強い力を持つというのは、20世紀にずっと指摘されていたことです。「行政国家」という専門用語でこれはずっと論じられてきました。ただ、行政の方が民主的な手続きに先立って動いてしまうことには理由があるというか、必然性もあるんですね。それは何かというと「スピード」の問題です。グローバリゼーション下では信じられないスピードで、災難が国に降りかかってくるわけです。それに対していちいち選挙して代議士を出して、議会で話し合って……ということは正直できない。いまのグローバリゼーション下では、猛スピードで事態が進行するため、どうしても行政権力は強くなります。
 ドイツというのはある意味で、これを20世紀頭に悲劇的な形で体験した国だと思います。というのも大恐慌が起きて、ワイマール期の民主的な議会は何も決められなくなっていき、どんどん立法権を行政の方に手渡していくということが起こる。そうした結果としてナチズムが出てくるわけです。ナチスによる独裁というのは要するに行政が立法権を持つ、ということです。
 行政は法律によって常に規制されているし、規制されなければならないわけですが、自分たちで自分たちのルールを作ってしまうというのは自分たちで好きに出来るということですから、これは行政の「夢」なんですね。ナチズムとは、絶対に実現してはならない行政の「夢」を実現してしまったものとしてみることができます。
 民主的な手続きにはスピードの点で劣るという構造的な弱点がある。特に現代では民主主義とスピードの問題を無視できないと思う。これはポール・ヴィリリオ的な問題ですがどう考えますか。

民主主義の理念と実行の緊張関係  

ガブリエル氏:まさにおっしゃるとおりです。ここには再び、ここまで話してきた緊張関係が存在しています。つまり、民主主義の理念と、実際にそれをどう実行・実現していくかという問題の間にある緊張です。これは行政の問題になってくるわけですが、行政というのは「中間の媒介的な層」であって、経済、警察の問題、あるいは、火事が起きた時に消防士を派遣するといった問題に対応するわけですが、情報は複雑なわけですから、行政の役割とは、情報を、フィルターを通じて濾過(ろか)して複雑さを減らして処理することなわけです。
 ここでの問題は、そうしたフィルタリングを通じて行政がだんだんと権力を増していくことです。つまり、情報処理すること自体が行政に権力を与えてしまう。この問題に対抗するには、倫理的なものが必要になります。民主主義をいざ実行しようとすると、そうした問題が出てきます。ルソーはかつて「市民宗教が必要だ」と言ったわけですが、これがまさに今で言う倫理が必要という話です。人々が責任感をもって行政を扱う必要があります。行政を行う人もまた市民なのです。
 例えばメルケルであっても、法の前では私と同じ市民であって、その意味では「平等」なのです。メルケルはもし気にくわなければ権力を使って私を抑圧することができるかもしれません。でも倫理的にみたらそれは誤りを侵していることになります。とはいえ、抑圧することは非常に簡単なわけです。
 そういう意味では、哲学が出来るだけ速い段階で人々に教育されること、つまり倫理的判断が出来るためのトレーニングを初期教育として行っていく必要があると思います。中学や高校で、数学と同じように教えるべきなのです。数学もトレーニングなしにはできないように、倫理的判断もトレーニングなしにはできません。倫理的教育は簡単なものであれば5~6歳でもできるので、出来るだけ速く学校で、哲学を他の学問と同じように教えるべきだと考えています。

 國分氏:同感です。実はいま日本では役人が書類を勝手に書き換えたことが問題になっています。この事件は役人が悪いというより、政治家がプレッシャーをかけているから起こったものなのですが、実のところ、僕はあの事件で一番問題だと思うのは、あまり大衆が強く怒っていないことです。とんでもないことが起こっているのに全然怒っていない。それどころか「もう分かったから報道はやめろ」という声すらある。
 僕はここでアレントが「全体主義の起源」で示した、大衆社会における大衆の姿を思い出します。アレントは「大衆は何も信じていないから、何でも信じる」と言っています。何か「これだけは動かせない」という価値を信じていないから、何が起きても「ああそうなんだ」とすぐに信じる。
 もう一つ大事な要素は、そうした「軽信」(何でも信じる)と合わさった「シニシズム」です。どういうことかというと、騙されたことが分かっても、その次の日には「ああ、まあそうだろうと思っていたよ。分かっていたよ」とシニカルにそれを受け入れてしまうのです。騙されていることに驚かない。僕は、これは完全に今の日本だなと感じます。首相が「福島の原発はアンダーコントロール」と言っても、怒らない。そういうことが常態化している。そして、そうした事態を招いている原因の一つは、アレントの分析に従うならば、人びとが何か価値を信じていないということにある。
 例えば今日、ガブリエルさんは「民主主義において平等が大切だ。価値を共有することで権利が生まれる」とおっしゃった。僕もその通りだと思いますが、日本の問題は「平等」とか「権利」といった価値が信じられていないということなのです。ここからルソーの言う「市民宗教」について考えることもできるでしょう。「市民宗教」もまた、ある種の価値の共有のために必要とされるのです。僕は最近「信じる」ということが大切だと思っているんです。ではどうすれば、みんなが価値を信じることが出来るのだろうか。これはガブリエルさんに伺うようなことではないかもしれませんが、もしご意見があれば伺いたいです。

ガブリエル氏:大衆心理に対する診断について、完全に同意します。これは解決策ではなくある種の提案ですが、教育において読み書きを教えるわけですが、読み書きについてはみんな「それは必要だ」というわけです。読み書きなんて教えなくていいという人がいたら「狂っている」と思うでしょう。それに対して、倫理的なことについて無知な状態は一般に受け入れられてしまっています。この状況は本当に大きな過ちです。私たちが民主主義的な社会システムのもとで生きている状況で、本来は「自由に考える」ということが重要ですが、幼稚園や学校では決して教えられない。むしろ「自由に考えない」ように教えられているわけです。
 本来、「自由に考える」というのが最も重要な教育における原理であって、最初に挙げられた大衆の問題も「自由に考える」ということを徹底すれば解決できる問題なのではないでしょうか。いま日本でもドイツでも直面している問題は同じもので、「自由に考える」ということで一つの解決策が見えてくるのではないか。
 もし、「自由に考えること」ということに同意しない人がいたら会ってみたいですね。トランプ(米大統領)は同意しないかもしれないが、彼は民主主義者じゃないので放っておきましょう。

立憲主義と民主主義  

國分氏:次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?  

ガブリエル氏:言いますよ、もちろん。

國分氏:実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。
 立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。
 すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか?
ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?  

ガブリエル氏:まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。
 私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。  

國分氏:いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。
 もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。
 こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。
 立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。  

ガブリエル氏:幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。
 例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。
 ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。  

國分氏:日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。

倫理は教育できるのか

 ――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。  

ガブリエル氏:あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。
 その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。
 民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。
 もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。 多数決は平等なのか  

【会場からの質問】

 いまの民主主義は本当に平等なのか疑問です。多数決は平等なのでしょうか。結局、少数に回ってしまった意見は切り捨てられてしまいますし、代表として選ばれた人は選んだ人の利益だけを追求しており、みんなの権利を探していく民主主義の理念からは隔絶したものに感じられます。
 もう一点、なぜ民主主義は専門家に任せられないのか。例えば水、病院、通信の管理は専門家に任されています。そこには信頼の上でいろんなものが成り立っていますが、なぜ政治は成り立たないのか。自分には自分の専門があって、政治について考える時間がない。すごく短い時間で、政治家が口で言っているすごく少量のことからしか考えられない。自分自身もみんなも無知で、無知な人が代表を選んで、結局はうまくいかない。
 だったら全体を考えてくれる人に任せる選択肢があってもいいのではないか。今まで失敗しまくってきたのかもしれませんが。  

國分氏:日本では「民主主義とは多数決である」という通念が非常に強く存在しています。そんな考えはドイツであるのか、お伺いしたいです。
 あとなぜ専門家に政治を任せてはいけないのかという点に僕が応えておくと、そうやってしまうと、自分が困ったときに何もできなくなるということだと思うんです。道路を作りますが、あなたの家が邪魔ですのでどいてくださいと言われた時、何も言い返せない。確かに何の危機もないときは、政治に参加していなくても何も困らない。けれども、災難が降りかかったときにはものすごく困ります。  

ガブリエル氏:どちらの質問も面白いのですが、日本に来てからよく聞くのが「少数派をどう扱うべきか」という問題です。ドイツでは多数決ではなく、同意を形成していくことが重視されています。今日の話でいうと、「倫理的な土台」を考えるときに、多数決で圧倒的な多数を占めたからといって、その意見が重要なのではなく、「倫理的な土台」に基づいて考えたから、その決定がみんなのためになるから効力、力を持つわけです。
 例えば何か権利を行使するさいには義務がある。その義務とは反対する人を抑圧しない形で権利を実行していかなければならないということです。そうでなければ、倫理的な誤りを犯すことになるでしょう。  もう一点ですが、専門家に任せればいいというのは、まさに中国がそういったモデルになっていますが、私はその仕組みに賛成しません。ある種の独裁です。それが監視社会と結びつく。専門家と監視社会が結びついて独裁がもたらされるというのは、わりと専門家が一致する見解ではないでしょうか。  

國分氏:一つだけ。僕は住民投票は最後の手段だと思っています。他にどうしようもない時に使われるべき手段ですね。あと、住民投票の制度は、いろいろなかたちが研究されています。単に「51%だったらOK」とはしないやり方があるということだけは言っておきます。

【会場からの質問】

 お二人にお聞きしたいのですが、ものすごい衝撃を受けたテーゼが二つあります。一つは「民主主義と国民国家は相いれない」。もう一つは「民主主義と主権は相いれない」という。国民国家も主権も必要としない、それに代わる新しいシステムはありうるのか。公聴会の話がでましたが、日本では往々にして政府の息がかかったものになり、あまり実質的な効果を果たしていない。ドイツではそれを防ぐ仕組みがあるのかどうか教えてください。  

國分氏:実のところ僕も、ガブリエルさんはそこまではっきり言うんだとは思いました。ただ、国民国家について少しだけ言っておくと、国民国家と国家は違うので、国民国家はなくなっていっても、国家は残るわけですよね。国家という制度は簡単にはなくならない。他方、主権なき政治、主権なき民主主義については、僕は今のところアイデアはありません。ただ言えるのは、主権という概念を金科玉条にしてはいけないということです。僕らはもう少し主権に懐疑的になるべきだと思います。  

ガブリエル氏:国民国家については連邦モデルで考えています。つまり、グローバルな政府というものを連邦モデルで考えていて、今の国家のような構造をもっていて、例えば日本でも地方自治体があり、国家があるような同じ構造をグローバルでやればいいと。だから、グローバルな政府の下にローカルな州(国家)があって、今の国民国家モデルをグローバルに拡張した連邦モデルが、一つのモデルのないのではないか。
 そしてそのとき、市民権がない、いわゆる「不法滞在労働者」と呼ばれるような人たちに対して、グローバルなパスポートを発行する必要があるでしょう。グローバルな次元でのシチズンシップが保障されて、個々のローカルな政府があり、ローカルな次元の規制も存在する、さまざまな地域差がありながらも、場所を移動できるグローバルパスポートが必要になる。何でもありのアナーキズムではなく、さまざまな規制のもとに成り立ったモデルになります。
 その場合、地域ごとのさまざまな「情報処理」が必要で、具体的にどうなるかは検討が必要ですがまず、こうしたことを考え始める必要があります。考えれば将来的にどういうものが可能か、が見えてくるでしょう。
 政治理論をやっている人たちが、本や新聞などでこうした考えを発表することで人々に広まり、現実に実行されるということが歴史上においても様々な形で起きたわけですし、こうした問題をグローバルな文脈で考えていく必要があるでしょう。
 主権なしの政治体制というのも同じで、当然ここで言えるような解決策はないわけですが、解決策に向けて一緒に考え始める必要がある。そのために、ほかの人たちと話し、対話をしながら考えていく必要があるでしょう。
 三つ目の公聴会については一つの提案があって、公聴会のメンバーの3分の2の専門家は対立している野党が選び、3分の1は与党が選ぶ形にすればいいんじゃないかと。そうすると与党側が自分たちが決定したい法律を通す際に、野党が多くのメンバーを送り込めるわけで、より超党派的な形で取引を結んでいかなければならない状況に追い込まれるわけで、それが一つの制約になるのではないでしょうか。

 ――ありがとうございました。民主主義、国民国家、倫理的な土台まで、盛りだくさんの話でした。ガブリエルさん、國分さん、それから完璧な通訳をしてくださった斎藤さんに大きな拍手をお願いいたします。    
  ◇  
Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。    
  ◇  
こくぶん・こういちろう 1974年生まれ。東京工業大学教授。専門はフランス現代思想。2013年に都道建設計画をめぐる住民運動に関わり、行政と民主主義の関係に光を当てる議論を展開した。著書に「中動態の世界 意志と責任の考古学」「来るべき民主主義」など  
≫(朝日新聞デジタル)


●民主主義の限界 立法権だけで国民主権は保持できない

2018å¹´07月22æ—¥ | æ—¥è¨˜
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)
クリエーター情報なし
NHK出版

 

後退する民主主義、強化される権威主義:最良の政治制度とは何か (MINERVA人文・社会科学叢書)
クリエーター情報なし
ミネルヴァ書房

 

地元経済を創りなおす――分析・診断・対策 (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店


●民主主義の限界 立法権だけで国民主権は保持できない

最近つくづく思うのだが、民主主義が、その定義通りに動くためには、世界中の民主主義国家では、何かが欠けているように思える。いや、ギリシャやフランスにおける民主主義も、どこかが欠けていた。筆者の感覚から思う場合は、均質性と平等の概念で引っかかる。また、選挙によって、国会(立法権)を設えても、多くの問題(政治)は行政が行うために(行政権)、行政権が強くなり、立法権が後方に追いやられている事実がある。この状況は、民主主義の大前提である三権(立法・行政・司法)の独立が担保されているとは言いがたい。

現在のように、多くの民主主義国家においては、一定の安定した立法が出来上がっていることが多いので、立法を制定することよりも、既存の立法の下で行われる行政行使が、民主主義の肝になる。つまり、立法権よりも行政権が優位になりがちである。無論、立法府が行政府の長(日本であれば内閣総理大臣を選出)を選ぶのだから、立法府(国会・国会議員)の権益は守られていると云う言い分もある。しかしながら、経済国民(損得)になってしまった国民を擁した国では、民主主義政治は衆愚政治に直結している。

ファシズムもナチズムも日本陸軍帝国主義も、この衆愚政治に陥った結果生まれた政治体制なのだ。現在の安倍自民党政権にも、似通った部分が多々見られ、国民の付和雷同的流れにも、その傾向は顕著に見られる。アメリカと云う国のトランプ大統領が率いるホワイトハウスの決定にも、その傾向は見られる。この二国の政治主導者には、経済国民として、生活者的飢餓からの逃避と云う共通の感情が渦巻く。

日本の場合、完全に経済国民化した有権者にとって、経済環境の浮き沈みが、思考のバックボーンになるので、悪い時期から、良い時期のと云う循環に当たると、その世代に人々は、持続性を求めるあまり、“このまま、このまま”と思う感情が優越する。まさに、安倍政権やトランプ政権は、この間隙に生じた衆愚政治権力の例示としてあげることが可能だ。世界的経済の循環と、自らの代表者としての時期が重なったことで、多くの幸運を享受している権力者と言えるだろう。

トランプ大統領の場合は、行政権は握っているが、立法府(議会・共和党若干有利だが、民主党と拮抗)による抵抗と云うブレーキが存在するので、好き勝手は出来ないので、幾分健全だ。しかし、我が国の安倍政権には、ブレーキが存在しない。その上、“嘘も方便”を悪意に濫用して、行政の善悪行為さえ区別しない状況にあり、司法にも人事介入することで、ほぼ独裁政治を完成させる方向に進んでいる。

もうこうなると、民主主義は機能していないと言っても良いだろう。すべてが安倍官邸で決定するのだから、事を為したいものは、官邸におもねればいい状況になる。これが、現在の日本の現実だ。この間に、安倍政権は、その行政的権限や、行政の裁量制度を独占することで、マスメディアの掌握にも乗り出し、ほぼ壊滅状態に追い込んでいる。

その上、仮に気骨あるメディアが、行政の腐敗を糾弾しても、その影響について考えが及ばない、経済国民にとって、それらの問題は他人ごとになり、興味の範囲から逸脱する。衆愚が大多数を占めても、行政が、一定のルールに則って、粛々と為政を行えば問題はないが、ルール破りが常態化しても、今の経済環境が良ければ、関係のないことは、すべて他人事にしてしまうのが、最近の20代から40代に見られる傾向だろう。

日本は、高度経済成長により、世界第二位の経済大国になったことで、迂闊にも、理念性のあった国民が、経済(損得)国民になったことで、今、そのツケを払わされているように思える。上述の理屈で行けば、経済が疲弊的循環になれば、反権力的行動様式が出てくるわけなので、安倍政権であるかどうか別にして、自民党は下野するシーンも見られるだろう。それは甘い考えとも言える。なぜなら、それまでに、自民党政権が全体主義体制を築いてしまえば、衆愚の連中の、経済国民感情さえ無視される可能性がある。たしかに、過去の自民党政治の矜持が懐かしくなっているようでは、安倍ファシズム政治に対抗は出来ない。(今夜は疲れたので、ここまで。2部でこの続きを)


 â‰ªå“²å­¦è€…が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談(1)
 日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。
もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。
 対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。
 通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。

 â– åœ‹åˆ†ã•ã‚“からの手紙
 対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。    
  ◇
①実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
②立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
③主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
④現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか    
  ◇
 手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。
 公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定で日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目された立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。
 また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。

 â– ãƒžãƒ«ã‚¯ã‚¹ãƒ»ã‚¬ãƒ–リエル氏の基調講演「危機に瀕する民主主義」
 日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。
 そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。
 民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャとフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。
 これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。
 まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。
 では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。
 古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。
 また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。
 ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。
 さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。
 一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。
 世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。
 これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。
 そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。
 もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。
 だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。
 ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。 (2)に続く―――  
≫(朝日新聞デジタル)


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●対米従属・日本の将来 「移民国家」による再構築か?

2018å¹´07月21æ—¥ | æ—¥è¨˜
現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)
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「日米基軸」幻想 (詩想社新書)
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問題は右でも左でもなく下である (時代への警告)
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●対米従属・日本の将来 「移民国家」による再構築か?

安倍政権が国内外関連法案等々の成立をみる。以下に概ね時系列に沿って、その性格を考えてみる。このように冷静に安倍政権の主たる政治過程を観察すると、米国からの要望に沿って、骨格となる政治日程が組まれていることが理解出来る。安倍政権の骨太の政治日程は、ことごとく米国主導であることは決定的で、どこに、どのような形で、日本国民の意志を反映させることが出来るのか、呆然とする。

重要法案のすべてに米国の関与乃至は影響力が及んでいるのだから、日本が植民地だと云う認定になっても文句は言えない。これらの法案の成立が、日米同盟の保全上、喫緊の課題とは思えないが、なぜ安倍政権にいて、かくもおびただしい数の対米従属法が成立することになったのだろう。おそらく、米国・ネオコンと、その係累に連なる日本の霞が関組織による共同謀議なのだと思う。偶然と云うべき衆参両院で2/3議席を与党で確保できている今こそ、日部同盟を深化させ、確固たる体制に固めきる時代はない、と認識した結果、これだけの赤裸々な暴挙が行えたものと推量する。

衆参で与党が2/3議席を占めることは殊の外容易なことではなく、将来的に安定継続的に、この状況が続くとは、日米のネオコン勢力は考えていないようだ。筆者自身も、与党による両院の2/3議席の確保、イコール「憲法改正発議」のことにばかり目が向いていたが、どちらかと言えば、日米ネオコン勢力による、日本の構造改革が主眼だったのではないかと気づく次第だ。憲法改正論議は、目糞鼻糞的な改正であり、安倍晋三個人のメンツを立てるだけの改正発議であることからみて、憲法改正が主目的ではなかった事に、今ごろ気づいた。

安倍政権下の政治的あゆみを観察すると、二つのメインストリームがあることが判る。ひとつは、日米同盟の深化と固定化だ。二つ目が、新自由主義経済の餌食として、日本人の富の収奪が目論まれている。もしかすると、日本と云う国を、再度戦後のように焼け野原からの再構築させる目論見で、形状の変わったフロンティア地域に置きかえるイデオロギーが生まれたのかもしれない。新自由主義者にとって、フロンティア地域の枯渇が、悩みの種だったわけだが、異種のフロンティア地域を誕生させることで、擬制フロンティア地域と云う空間を創出しようとしているようにも見えてくる。

この日本と云う国が、異種のフロンティア地域を誕生となるには、「移民政策」が欠かせない要件になるだろう。常に米国が発展途上国型経済で成長をしているように、移民マーケットとして、日本は絶好のターゲットなのかもしれない。このまま、安倍自民党政治が継続すれば、「移民政策」の強化は絶対条件になる。まぁその結果、日本の国体が変わろうが、再度成長に繋がるのであれば、一つの選択だとは言える。ただ、江戸時代までに培った日本文化は語り草になるのだろう。20代、30代、40代の「コミュ力」(コミュニケーション能力)重視の時代のマッチング上も最適化されている可能性はある。敵も猿ものひっかくものだ(笑)。


 â– å®‰å€æ”¿æ¨©ã®ï¼–年弱の動き(★印が米国関連法等)
★アベノミクス3本の矢(金融緩和・財政出動・成長戦略)、
★TPP交渉参加表明、
消費税8%へ、
★国家安全保障会議設立、
★特定秘密保護法成立、
★武器輸出三原則見直し、
★原発再稼働方針明示、
★集団的自衛権行使容認閣議決定、
★TPP署名、
オバマ広島訪問、
消費税率10%引き上げ再延期、
18歳以上公選自民勝利、
★トランプ氏と就任事前会談、
プーチン来日、
★米連邦上下院で演説(安保法改正夏までに成立を国内に先立ち表明)、
★集団的自衛権行使容認含む安保法成立、
慰安婦問題日韓合意、
天皇陛下退位一代限り容認、
★共謀罪成立、
米エルサレムをイスラエルの首都と認定、
名護市長選・自民勝利、
★TPP11に署名(米国除く)、
★民泊新法施行、
佐川国税庁長官辞任、
★経済財政諮問会議「骨太の方針」外国人の受け入れを拡大する政策
★働き方改革成立、
★水道民営化を含む水道法改正案が衆議院で可決、
参議院定数6増改正可決、成立、
★カジノ法実施法案成立、
立憲など野党6党派提出内閣不信任案否決、
国会閉幕


≪通常国会、事実上閉会 森友・加計など疑惑解明置き去り
 カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法が20日夜の参院本会議で、自民、公明の与党と日本維新の会などの賛成多数で可決、成立した。この日、事実上閉会した通常国会は森友・加計(かけ)学園問題が焦点となり、公文書改ざんなどの問題が噴出。だが安倍晋三首相は、これらの疑問に正面から答えなかった。
 朝日新聞社が14、15両日に実施した全国世論調査(電話)では、カジノ実施法案を今国会で「成立させるべきだ」とする回答は17%にとどまった。立憲民主党などの野党は、ギャンブル依存症対策の実効性などについて批判。だが、与党は会期末までの成立を譲らなかった。これにより2020年代前半にも最大3カ所のIRが開業することになる。
 カジノ実施法成立に先立ち、立憲など野党は20日、内閣不信任決議案を衆院に提出した。
 「首相は『丁寧な説明』と繰り返したが、実態は逃げ回る一方だ」。立憲の枝野幸男代表は本会議での趣旨説明で2時間43分にわたり安倍政権を批判した。財務省の文書改ざん問題については「行政が国会に改ざんしたうその文書を出したら、国会は成り立たない」と指摘した。
 だが、内閣不信任案は衆院本会議で与党と維新などの反対多数で否決された。
 与党は、カジノ実施法のほか、野党が「過労死を助長する」と批判した働き方改革関連法、「参院6増」とする改正公職選挙法も相次ぎ成立させたが、数で押し切る手法には強引さが目立った。
 「この国会を政府は『働き方改革国会』と銘打った。厳しい国会となったが、70年ぶりの大改革を成し遂げることができた」。首相は20日の自民党代議士会で成果を強調した。
 約半年間の今国会では、森友学園との国有地取引に関する財務省の決裁文書の改ざんや、加計学園の獣医学部新設をめぐり首相と学園理事長との面会が記された文書の存在、陸上自衛隊のイラク派遣日報の問題など、さまざまな問題が噴出。佐川宣寿・前国税庁長官の証人喚問での証言が虚偽だった疑いも指摘された。だが首相や政府側は野党の質問に十分答えず、疑惑解明はほとんど進まなかった。
 首相と野党側との議論も深まらなかった。党首討論は2回開かれたが、首相の長い答弁もあって双方「言いっ放し」になる場面が少なくなかった。首相は「党首討論の歴史的使命は終わってしまった」とさえ言った。
 政府は20日、公文書改ざんへの処分強化などを盛り込んだ再発防止策を決めた。だが、問題の一因となった公文書のあいまいな定義や保存期間の見直しなど抜本的な対策には踏み込んでいない。事実上閉会した今国会では、審議されることもない。
 â‰«ï¼ˆæœæ—¥æ–°èžãƒ‡ã‚¸ã‚¿ãƒ«ï¼‰


本当に日本人は流されやすいのか (角川新書)
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ファクトチェックとは何か (岩波ブックレット)
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憲法の良識 「国のかたち」を壊さない仕組み (朝日新書)
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●EUと日本の見識の違い 植民地の民主主義というもの

2018å¹´07月21æ—¥ | æ—¥è¨˜
日本の崩壊 (祥伝社新書)
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祥伝社

 

知ってはいけない 隠された日本支配の構造 (講談社現代新書)
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講談社

 

日米同盟のリアリズム (文春新書)
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文藝春秋


●EUと日本の見識の違い 植民地の民主主義というもの

欧州委員会が、Googleに対して、独禁法に違反したと云うことで、5700億円という過去最大の制裁金を課した。昨年にも同違反で3200億円を課しているので合計で8900億円の制裁金になる。Googleによる寡占問題は、単に独禁法に違反すると云う水準を超えている可能性もある。独禁法の範囲を超えた、情報の独占は、個人情報の収集や、そのデーターベース化によって、振るいわけ仕訳され、分類化される恐怖さえある。

後半のエコノミストの記事によると、米国でも、Googleによる独占、独善的な態度に対して、異議を認める傾向があるようだが、かなり政治性を帯びた問題であり、理念的にGoogleへの危険性を指摘しようと云う動きには思えない。EUの理念は、米国による独善的支配に断固抵抗する意志が明確に現れているように見える。このような傾向は、遺伝子組み換え食品(GⅯ)への対応でも明確な態度が示されている。

我が国では、かくも簡単に種子法が廃止され、遺伝子組み換え食品(GⅯ)の抬頭が懸念される事態が起きている。稲・麦など主要食品が遺伝子組み換えがなされた種子を利用するしか方法がなくなる事態が、今そこに迫っているようだが、マスメディアの報道に危機感はない。無論、大きく報道されないのだから、世論がどうこう騒ぐこともない。しかし、EUが、その使用に強い制限を加えていると云うことは、理念的だろう。実利的には、育ちが早く、病害に強い種子による栽培は安直だが、安全性についてのエビデンスは充分とは言えない。

このような問題意識の根底には、善悪基準なのか、損得基準(市場原理主義)なのか、そう云う問題に置きかえることも出来るだろう。無論、詳細に語れば、もう少し話は複雑だろうが、前者が、人間基準で、後者が利益基準のように思えてくる。原子力発電の禁止に踏み切ったドイツの選択にも見られることだった。発電コストを考えれば、原発が有利かもしれないが(コスト高の指摘あり)、敢えて、コストが高くても再生可能エネルギーにシフトした。ネトウヨらは、ドイツ人は電力料金に殺されかけている等との風聞を流しているが、現地では本筋の議論ではない。

善悪と損得の鬩ぎ合いは、多くの場合、その時々の政治によって左右される。所謂、保守政党にとって、歴史的な経験値を覆すことは容易ではない。ゆえに、日本では、遺伝子組み換え食品に対する規制は、それなりに機能していたのだが、安倍政権によって、いとも簡単に覆された。旧態依然の体質から抜け出せないJAではあったが、歴史的経験値は守っていたのだと思う。しかし、米国の市場原理主義に押しまくられ、損得を選択した。安倍政権は、得だと思ったろうが、将来的に損に繋がることもあり得るのだが……。

この種子法廃止も、米国など多国籍種苗企業群からの圧力だろうが、米国圧力にヘナヘナな安倍政権が存在しているうちに、やっつけてしまうと云う意図が明確だ。水道民営化にも同じような問題が含まれている。ただ、不思議なことだが、遺伝子組み換え食品に対して、米国内ではアンチテーゼが盛んになっており、多国籍種苗企業群が窮地に陥っており、そのトバッチリを日本が引き受ける羽目になったと云う説もある。こうなると、まさに一周遅れの市場原理主義を一身に引き受け、ボロボロになる我が国なのか……、ゾッとする話だが、Googleは今夜も無料で、わが個人情報をせっせと掻き集めている。AMAZONもしたりだが、提供するサービスに勝てない我が身である(笑)

しかし、それにしてもだ、大局的にアメリカの植民地的立ち位置の我が国において、幻想とも言える“民主主義”が成り立つ余地があるのかと云う問題だ。特別、“民主主義”に恨みはないのだが、どうもアメリカと云う他国に支配されて国家の“民主主義”と云うものは、どう云うものなのかと考える政治的現象が増えてきている。もしかすると、国会は不要なのではないか?無論、国会議員も不要だし、地方の議員も不要だろう。米国執行官が頂点で、すべてを命じてもいいのではないか、そんな気分になってしまう。

まぁ、こんな気分になることが、“民主主義”にとって、最も危険なことかもしれないのだが、現状の事実関係をなぞっていくと、そんな結論が見えてくる。安倍晋三が行っている政治は、本筋で、アメリカに命じられたままのことをしているわけで、市場原理主義を導入しているのは、安倍の政治によるところとは言えない。安倍が個人的にしていることは、国家権力を利用して、ささやかにコソ泥のような行為をしているだけではないのか。単に、今までの政治権力者との違いは、コソ泥をしているかしていないかの違いだけではないのか?そんなことを考える。

安倍のコソ泥の件は別にして、アメリカの植民地的立ち位置の国家で、民主主義が成立するものかどうかと云う疑問は消えない。この辺りが、安倍内閣の支持率が岩盤的に低下しない原因なのかもしれない。最近の20代、30代、40代の人間は、生まれた時から、アメリカ支配の日本だったのだから、単なる生活者の立場からすれば、アメリカの言う通りするしかない日本だと云うことを自覚してしまっている人々なのだろう。彼らの考えが間違っていると言っても、いずれは、彼ら以降の人々が日本人になるのだから、団塊世代が口出す問題ではないのかと、フト思うのだが、間違っているのだろうか。


 â‰ªã€Œï¼¯ï¼«ã˜ã‚ƒãªã„」グーグル 欧州委が指摘した違反とは
 欧州連合(EU)の行政機能を担う欧州委員会は18日、米検索最大手グーグルが携帯端末向けの自社のアプリ(応用ソフト)を使うよう取引先に強要するなどし、EU競争法(独占禁止法)に違反したとして、43億4千万ユーロ(約5700億円)の制裁金を科すと発表した。欧州委が1社に科す制裁金では過去最高額だ。
 欧州委によると、グーグルはアプリやネット検索サービス市場での支配的な地位を使い、自社のスマートフォンなどの携帯端末向け基本ソフト(OS)「アンドロイド」を採用する携帯端末メーカーに、同社の検索エンジンアプリ「グーグルサーチ」と、インターネット閲覧アプリ「グーグルクローム」をあらかじめ搭載するよう強要したという。
 また、グーグルサーチだけを搭載することを条件に、携帯端末の大手メーカーや携帯電話会社に「奨励金」も払っていたという。欧州委はこうした要求で独占をさらに強固にし、他社のアプリの販売や開発を妨害したなどとしている。グーグルが欧州委の決定に従い、ビジネス手法を改めれば、アンドロイドを搭載するスマホなどを使う日本の利用者にも何らかの影響がでる可能性がある。
 ただ、グーグルのスンダー・ピチャイ最高経営責任者(CEO)は「アンドロイドはすべての人に対し、より多くの選択肢を作り出している。(欧州委の決定に)異議を訴える意向だ」との声明を発表した。
 欧州委の調査では、欧州及び世界全体のスマホやタブレット端末の約8割がOSにアンドロイドを使う。グーグルは欧州の大半の国で、アンドロイド向けに提供されているアプリ市場や、検索サービスで90%以上のシェアがあるという。
 グーグルはEUの競争法違反で2017年6月、自社の商品比較サイトを不正に目立つようにしていたなどとして、これまで過去最高だった24億2千万ユーロの制裁金を命じられたが、不服として争っている。ほかにネット広告サービス「アドセンス」についても同様の調査を受けている。EUの競争法は、世界全体の売上高の10%を上限に制裁金を命じられる。
 ≫(朝日新聞デジタル:ブリュッセル=津阪直樹)


≪グーグル、米でもついに独禁法違反の対象へ?
ITの巨人に迫る包囲網  
「以前は、当社の言い分を聞いてもらうことなどまったくできなかった」──。
 こう語るのは、米口コミ情報サイト、イェルプ(Yelp)の最高経営責任者(CEO)、ジェレミー・ストッペルマン氏だ。同社は6年前からグーグルの検索結果の表示を巡って、この巨大IT(情報技術)企業と争ってきた。だが、ここへ来て米当局がグーグルに対する懸念を強めはじめている。
 â– ç±³å›½ã§ã‚‚ミズーリ州がグーグルの独禁法違反調査に乗り出す
 11月13日、米中西部ミズーリ州のジョシュ・ホーリー司法長官が、同州が定める独占禁止法と消費者保護法にグーグルが違反していないかどうかの調査に乗り出した。起業家たちもストッペルマン氏のグーグル批判を称賛している。以前だったら、起業家たちがそんな行動に出るなど考えられなかったことだ。
 これまでグーグルへの逆風が吹いていたのは、主に欧州だった。今年6月には欧州連合(EU)の政策執行機関である欧州委員会(EC)が、グーグルにEU競争法(独占禁止法)に違反したとして24億ユーロ(約3200億円)という過去最高額の制裁金を払うよう命じたと発表した。
 グーグルが検索サイトでの結果表示順で、グーグルと競合するネット通販サービスを不利に扱ったというのがその理由だ。欧州でのグーグルの行為については、ほかにも独禁法違反を巡る調査が進行中だ。  米国はこれまでは、自国で生まれたこの巨大IT企業をさして問題視してこなかった。独禁法の監督当局の1つである米連邦取引委員会(FTC)が以前、数年かけて同社の反競争的行為の有無を調査したが、グーグルがサービスの在り方に若干の変更を加えることに同意すると、2013年1月にFTCの全5人の委員の賛成によって調査を打ち切った。
 â– è¤‡æ•°ã®å·žã§èª¿æŸ»åºƒãŒã‚Œã°é€£é‚¦æ”¿åºœãŒå‹•ãå¯èƒ½æ€§ã‚‚
 米国は今後、グーグルへの“特別待遇”をやめて、「独禁法上問題あり」として欧州と同様の方針を取るのだろうか──。この点について、米国の態度は既に変わったと考える理由が複数ある。
 その1つは、グーグルの消費者に関するデータ収集法に問題がないか、イェルプのような比較的小さな企業に対して反競争的行為をしていないか、精査を始める州が増えてきているという事実だ。
 ミズーリ州の場合、グーグルがホーリー司法長官の要求する情報を60日以内に提出しなければ、訴訟になる。
 2018年11月の米連邦上院議員選挙に共和党から出馬するホーリー氏が今回、グーグルへの調査を決めたのは、全米規模で注目を集めることにも目的があるかもしれない。巨大企業に戦いを挑むことは、自分の選挙にとってはプラスになるからだ。
 来年の中間選挙に向けて、ほかの多くの政治家も動きだしている。グーグルやフェイスブックなどの米SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)大手が、2016年の米大統領選挙でロシアによるSNSへの広告やコンテンツ掲載を使った情報操作工作をほとんど排除できなかったことから、米国の国益を損ねた、と信じている米国民は多い。
 グーグルについては、もっと調査すべきだと考えているのはホーリー氏だけではない。去年、首都ワシントンのカール・ラシーン司法長官とユタ州のショーン・レイエス司法長官も、FTCにグーグルに対する調査を再開するよう求めた。ほかの州にもグーグルの調査開始を検討している司法長官がいる。
 複数の州による調査が続けば、連邦政府に対しても調査を実施すべきだという圧力は高まる可能性がある。実際、かつてそういう事実はあった。1998年に連邦政府が米マイクロソフトに対して独禁法違反の訴訟を起こしたのは、複数の州の動きに押されたからだ、と指摘するのは当局と協力してマイクロソフトと対決した弁護士の1人、ゲーリー・リーバック氏だ。
 ワシントンには今、企業の独禁法違反に目を光らせる新たな一団がいる。いずれも昨年の大統領選挙でIT業界からはほとんど支援を受けずに当選を果たしたトランプ氏が指名したFTCなどの責任者たちだ。
 オバマ前大統領の場合、トランプ氏とは対照的にIT企業との結びつきは強く、中でもグーグルとは強力な関係を築いていた。特にグーグルの親会社であるアルファベットの会長を務めるエリック・シュミット氏は、オバマ大統領時代に私的な顧問として影響力をふるったことで知られる。
 オバマ氏との関係が近かったおかげで、グーグルは連邦政府による監視を免れてきたとみる向きは多い。ホーリー氏は、「オバマ政権はグーグルと多くの面で密接に結びついていたことから、FTCの調査はあまり独立性のあるものとは言えなかったかもしれない」と指摘する。
 â– ç‹¬ç¦æ³•é‹ç”¨å¼·åŒ–に転じたとみられる米司法省とFCC
 トランプ大統領にFTC委員長に指名されたジョゼフ・シモンズ氏の前職は民間の弁護士だが、以前FTCの競争局長を務めたこともあり、厳しい独禁法の運用を進めるだろうとみられている。
 「共和党が政権の座にある限りシモンズ氏は何もやるまい、というのが大方の見方なら、大方の人は驚くことになるだろう」。こう語るのは、かつてFTCでシモンズ氏の同僚だったジョージ・ワシントン大学法科大学院のウィリアム・コヴァシック教授だ。
 グーグルなどのIT企業にとって独禁法を巡る不安要因はほかに2つある。企業間の競争問題を所轄する司法省が独禁法違反に対する監視の目を強めつつあること、そして連邦通信委員会(FCC)の存在だ。
 11月20日、司法省は米通信最大手AT&Tによる米メディア大手タイムワーナーの買収は独禁法違反になるとして、買収阻止を求めて提訴した。翌21日、今度はFCCが、オバマ政権が定めた「ネットワークの中立性」のルールを撤廃すると発表した。このルールは、ブロードバンド事業者にすべてのコンテンツを平等に扱うことを義務づけている。だが、このルールが見直されるとなれば、グーグルは傘下の動画共有サービス「YouTube」がゆくゆくは不利になるのではないかとの懸念を抱くかもしれない。
 â– ç±³ç‹¬ç¦æ³•åˆ¶ã®å…¨é¢çš„強化も十分あり得る
 最大の問題は、この先、独禁法制の全面的強化があるのかどうかだ。米市場調査会社イーマーケターによれば、グーグルは米国におけるデジタル広告の約42%、ネット検索広告の約80%を占めている。
 これまでの独禁法の監督当局は消費者保護を旗じるしとしてきたが、IT巨大企業が提供している多くのサービスは無料なだけに、消費者の利益が侵害されていると証明することは難しい。
 だが、欧州委員会は、競争を阻害すること自体が消費者の利益を侵害することになるとの観点に立っている。グーグルはこれまでは米国の消費者や政治家による高い好感度に頼ってきたが、今後はもはや故郷の米国でも安心してはいられなくなりそうだ。
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●気味の悪い「AI」って何なんだ 魂まで左右するのか

2018å¹´07月18æ—¥ | æ—¥è¨˜


●気味の悪い「AI」って何なんだ 魂まで左右するのか

以下は、西垣通氏(ITのカリスマ・『AI言論』著者)千葉雅也氏(哲学者・立命館大学准教授)の対談を通じて、怪しくも難解な「AI」について、その一端を、無謀にも知ろうとしてみる(笑)。多少、理解できた場合はコメントを差しはさむが、チンプンカンプンの場合は、引用掲載のみとさせていただく。賢明な読者のみなさまにおいて、ご理解いただきますように……。

まだ適当な理解だが、AIは人間を超える場面もあるが、「人間」にはなれないのは確実なようだ。まぁ、それよりも、マイクロソフトやグーグルが、AIに拘る奥底に、ノアの箱舟的な米福音派の執念が見える部分がゾッとする。日本会議の「神話」が可愛く思えてくる。日本会議などは、安倍一代の泡沫勢力だが、福音派は泡沫勢力とは言いがたいから問題だ。以下、引用が長いので、この辺で……。


≪「AIは人間を超える」なんて、本気で信じているんですか?(1)
 å“²å­¦ã®è¦–点から語る「科学の限界」 西垣 通 , 千葉 雅也

AIが人間を超える知性をもつ、AIで多くの人の仕事が奪われるーーそんな議論が盛んになって数年。空前の「AIブーム」は、どんな結末を迎えるのか? 一部の人が夢見る「シンギュラリティ」はやってくるのか?
こうした過熱に「待った」をかけるのは、情報学者の西垣通氏だ。元エンジニアでコンピュータに精通した氏は、なぜ「AIは人間を超えない」と考えるのか。そこにはカンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエルなど気鋭の哲学者が提唱する、最先端の哲学が関係していた。
今回、メイヤスーの主著『有限性の後で』の翻訳でも知られる、哲学者・立命館大学准教授の千葉雅也氏と西垣氏の対談が実現。科学者さえ気づいていない「AIの限界」を存分に語り尽くす。

■AIブームは、これで3回目
千葉:西垣先生の新著『AI原論』では、「思弁的実在論」と銘打って、僕も訳者の一人であるメイヤスー1の『有限性の後で』という本を、かなり大々的に議論の中に取り込んでくださっています。新しい哲学の動きを、現在のAIブームの状況を考えるためのガイドにして議論を立てていいたので、とても驚きました。

西垣:そうですか。私としては、その試みが絶対に必要だと感じていたんです。ですから、自然な流れでした。というのは、いったいこの本をなぜ書いたのかという話に繋がるんですよね。

千葉:ぜひ詳しくお聞かせください。

西垣:AIは今、すごいブームですよね。しかし実は、AIのブームというのはこれが3回目なんです。
第1次ブームは1950年代から60年代で、私も当時はまだ学生でした。それは日本にはあまり影響しなかったんですが、1980年代の第2次ブームは、日本も非常に盛り上がったんですね。
私はちょうどその頃スタンフォード大学にいたものですから、その渦中にまきこまれました。専門家の思考をシミュレーションする「エキスパートシステム」を考えた先生が、私がいた学部の学部長だったんですね。 日本では、その頃第五世代コンピュータ2というものが出てきました。
これは戦後日本のIT産業のなかで最大の国家プロジェクトで、私もスタンフォードから帰って一時期参加したこともあったんですが、見事に失敗したんです。技術的には成功したものの、実際の産業ではまったく応用されずに終わった。
当時の技術者たちは、「なぜダメだったんだろう」と悔しがったのですが、ご存知の通り、そのあと覇権を握った本当の「新世代コンピュータ」は、つまりパソコンとインターネットだったんですよ。
昔は「メインフレーム」と呼ばれる大型のコンピュータの中で計算をやっていましたが、第五世代コンピュータはその延長です。でも、本当にイノベーティブなシステムは、小型のパソコン群とそれをむすぶインターネットだった。それが90年代から2000年代に一気に広まって、現在に至るわけです。

千葉:大規模システムで集約的に計算するんじゃなくて、個人向けのコンピュータをネットワークでつなぐという発想が、結局は新しいパラダイムだったんですね。

西垣:どうしてそうなったのかを考えてみたいんです。私の周囲にも、第五世代プロジェクトに関わっていた技術者はたくさんいました。彼らとしては非常に心外ですよね。なぜ失敗したんだろう、っていう思いが当時ありました。大変な予算をかけてやったわけですし。
現在のAIブームは、はっきり言って米国の後追いですが、その第五世代コンピュータは、少なくとも日本オリジナルのものを作ろうとしたわけです。それが失敗した理由をちゃんと考えないといけないだろう、という思いが私にはまずありました。
第五世代コンピュータというのは、「知識命題」にもとづく自動的な推論操作を突き詰めて、高速化していくことに真正面から挑戦したプロジェクトだったんです。 知識命題というのは例えば、「こういう症状が出たら、この人はこの病気にかかっている」というふうに医者が結論を出したり、あるいは法律家が「こういう事件を起こした場合はこういう罪になる」と判断したりするような、そういう推論の基礎になる命題のことです。
エキスパートの専門知識を、コンピュータの中で自動的に組み合わせて答えを出すという考え方ですね。 しかし、人間の専門家は単に純粋な論理処理をやっているだけじゃなくて、実はそこに総合的な判断とか直感とかを織り交ぜているわけです。
医者も、こういう症状が出たら100%これだって言うわけじゃなくて、いろいろ試行錯誤しながら診断しますよね。全部を自動的に判断しても、出てくる答えが正しいとは限らないわけです。

【1) カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux):1967年生まれのフランスの哲学者。パリ第一大学准教授。近年注目されている新しい哲学のムーブメント「思弁的実在論」の中心人物の一人とされる。
2) 第五世代コンピュータ:1982年から1992年にかけて、当時の通産省が取り組んでいた人工知能開発の国家プロジェクトにおいて、開発目標とされたコンピュータのこと。プロジェクトには約570億円が投入され、機械翻訳システムなどの開発が目指されたが、目標を達成できなかった。】

 â– ã€Œæ©Ÿæ¢°ã¯äººé–“のように考えられる」のか?
千葉:つまりその世代のシステムは、正しいエビデンスと正しい推論に基づいて、全て正しい論理の連鎖を組み立てて答えを出すシステムだったわけですね。
まさに、いくつかの患者さんのパラメータから病気の症状を導き出すといった試みは、現在の第3次AIブームでもやろうとしていることですよね。現在は論理処理だけでなく、より統計的なアプローチでそれをやろうとしている。

西垣:おっしゃるとおりです。80年代の第2次ブームのとき生まれたエキスパートシステムにも残っているものもある。「ある程度間違っていても、まあまあ合っていればいい」という応用分野にかぎっては、今も使われているんです。
例えば「列車の運行速度を制御する」というものだと、多少の誤差があってもそれなりに動けばいい。 ただ、当時、出発点としては「AIとは絶対的な真理を自動的に実現する機械である」というパラダイムでしたから、それでブームがしぼんじゃったんです。一方で第3次ブームがなぜ成功しているかというと、今おっしゃった通り、統計誤差を容認するというアプローチを使っているからです。

千葉:それが大きな発想の違いですよね。

西垣:第2次ブームの時も、例えば自動翻訳は色々な試みがありました。私の周囲の技術者や専門家も、いろんな工夫をしていたんですが、なかなか上手くいかないんですね。
というのも人間の翻訳家は、色んな要素を組み合わせながら総合的に訳すわけです。ある文をどう訳すのが正確かということは、全体的な文脈で決まりますから。
そういうことを、昔はあまり考えなかったから失敗した。 しかし現在は「コーパス」、つまり用例ベースといって、日本語の文と英語の文の組み合わせがインターネット上に膨大にあるから、その用例をデータベース上で統計的に調べて、ある組み合わせの中で統計的な頻度をとって、一番確率が高いものを出してやれば当たるんじゃないか、という発想ですよね。

千葉:Googleが無料で提供している様々なサービスは、まさにそういう言葉の用例の対応関係を膨大な数、収集するためにあると言ってもいいわけですよね。

西垣:全くその通りです。「絶対に正しい答えを出す」という理想を捨てて、「まあまあ合っていればいい」と。実際に、医者も自分の経験に基づいて推測しているわけですから、そう考えると統計的な処理というのは必ずしも悪い戦略ではないんですよ。

千葉:むしろ人間が自然にやっていることを、すごくたくさんのデータについて高速でやる、という考え方でやっている。

西垣:今の第3次ブームのAIは完全にそうです。いわゆる「ディープ・ラーニング(深層学習)」も全くそうですね。統計的に世界を分類する。
しかし、ここからが本題なのですが、統計を活用するのはいいんだけど、それでもって「機械も人間のように思考できるんだ」「機械も正しい判断を下せるんだ」と言い出した人たちが少なからずいるんです。この言葉の妥当性については、やっぱりちゃんと考えなければいけない。

千葉:西垣先生の本はそういう、「AIが最も公正な判断をする」とか、下手をすると「世界のジャスティスを司る」とか、さらに「人間の知性を超える」というようないわゆる「シンギュラリティ仮説」3——それで国の予算をとってくるような人たちもいるみたいですが——というものに対して、哲学と情報学をつなぎながら疑問を突きつける、という内容ですね。

西垣:シンギュラリティを語る超人間主義者(トランス・ヒューマニスト)の代表はカーツワイル4ですが、超人間主義者たちの本を読むと、人間の知能を代替するだけじゃなく、もっと何か深遠なものを機械が実現してくれるんだ、と考えているような節があるわけですよ。彼らのその夢って、いったいなんだろう、ということに興味があったわけです。それを探求してみたい。

【3) シンギュラリティ仮説:「技術的特異点仮説」とも。指数関数的に進化を続けたAI・人工知能が、ある時点から「自分で自分を再帰的に改良・強化できる能力」を身につけた場合、そこから先は人類の知能を超えるばかりか、自らの能力を爆発的に進化させることも理論上は可能になると考えられる。そのような画期を、宇宙論における「特異点(通常の物理法則が通用しなくなる空間上の一地点)」になぞらえた呼び方。
4) レイ・カーツワイル(Ray Kurzweil):1948年生まれの米国の発明家、未来学者。マサチューセッツ工科大学在学中にコンピュータ会社を設立、電子楽器開発などに携わる。2005年に著書の中でシンギュラリティ仮説について詳しく述べ、シンギュラリティ論の第一人者と目されるようになった。】

シンギュラリティって、普通に考えるとちょっとおかしいじゃないですか。だって、機械は身体を持っていないですよね。人間の知性というのは、やっぱり自分の感性や感情、身体といったものによって支えられていて、その一部に論理というものがある。それなのに、例えば脳を全てスキャンしてコンピュータの中に入れていけば…

千葉:人間ひとりの人格さえも複製できるというような。

西垣:コンピュータの中でずっと生きられる、と言うわけです。それはちょっとおかしいじゃないですか。直感的に考えても。
つまり彼らの論理は、私には、何かに取り憑かれているような感じがするんですね。「テクノロジー」という窓を通して宇宙の深遠さ、あるいは真理とか、そういう宗教的なものを追い求めたい、進歩していきたいというモティべーションが、彼らをドライブしているのではないかと思ったんです。 それを解き明かそうとすると、もちろん宗教学も必要なんだけど、やっぱり哲学です。
近代哲学は何を考えてきたんだろうと。 カント5は、人間がまずあって、人間は人間の枠組みというものを通して世界を認識しているんだ、だから人間が認識できるのは、「物自体」ではなくて「現象」なんだ、と言いますよね。

千葉:そうですね。人間の知性が世界をどう捉えているか、人間の知性のフレームがどうなっているかを問うのが、カントに始まる近代哲学の発想です。

 â– ã€Œç´ æœ´å®Ÿåœ¨è«–」を信じる人々
西垣:ところが、今の超人間主義者たちの話を聞くと、どうもそこのところを、あんまり考えていない感じがする。 「絶対的に正しい知性」というのは、人間にとって正しいのか、それとも人間がいなくなっちゃっても「正しい」のか…そういうことを彼らは本の中でいっぱい書いています。
「どこかに人間より優れた知性体がいる」といったことも語るわけですが、でも「人間より優れた知性体」って何なのか、そういうものを我々は認識できるのか、という疑問が出てくる。そうなるとやっぱり、カントの近代哲学まで戻ってちゃんと考えないといけない。そこで私としては、メイヤスーに着目したんですよ。 メイヤスーっていう哲学者は、千葉さんにちゃんとお話しいただいたほうがいいと思うんだけど、いくつぐらいですか? 40歳くらい?

千葉:もっと上ですけど、中堅の学者ですね(1967年生まれ)。

西垣:彼は、もちろんカントの議論や近代哲学の流れを全部知った上で、「そういう近代哲学の前提に基づいてものを考えるだけじゃ、不十分じゃないか」と言い出したわけですね。

千葉:そうですね。いわゆる自然科学者というのは、何か物体について、あるいは宇宙というもののあり方について、「人間がどういう風に意味付けるか」という主観性の問題から完全に切り離して、単にその物の「真理」を客観的に言える、記述できるというふうに、普通は考えています。
これは「素朴実在論」という考え方ですが、しかし真剣にカント以後の哲学の展開を引き受けるとすれば、人間は言ってみれば「自分の考えているようにしか世界を考えていない」わけです。
つまり「純粋な客観的認識」って、不可能なんですよ。 この「不可能ぶり」をちゃんと引き受けている人って、よほどの哲学好きの人以外にはいませんね。普通の生活をしている人や、科学者や技術者は、そういう近代に発見された「人間は人間の思考の中で思考している」という制約を深刻には引き受けていない。だから、人間がいろいろ計算した結果がそのまま実在のモノを記述している、という発想になる。

【5) イマヌエル・カント(Immanuel Kant):1724å¹´−1804年。プロイセン王国(ドイツ)の哲学者。主著『純粋理性批判』で、「人間は対象(物自体)を直接認識することはできず、あくまでも現象を主観的に認識することができるだけである」と唱えた。】

ところが、カントを前提にすると、そんなことは言えない。
じゃあそうなったときに、「客観的な科学」というのものは近代以後は不可能になってしまったのか、という疑問が出てくる。 メイヤスーはそれをちゃんと考えて、言ってみれば「一周回ってまた素朴実在論をやる」というか、改めて素朴実在論的とも言えるような、単に「モノそのもの」について記述するような自然科学を、どうすれば正当化できるかということを考えるんですよ。

■AIの「責任」や「主体性」とは?
西垣:ほとんどの科学者や科学技術者がそうしたカント的なことを考えないのは、それで事実上は問題が起きないからです。例えば天文学とか、多くの物理的な現象の分析については、「人間が考えられる範囲がどうのこうの…」と考えなくても、通常の手続きを踏めばほとんど問題はない。

千葉:実際、実用に耐えるものができるわけですね。

西垣:天体がこういう軌道を描くだろう、といったことを予測するのは、素朴実在論に基づいて考えても、ちゃんと当たるわけです。 ところがAIというものは、例えば病気の診断とか法律とか、人間社会の問題を扱うのが目的じゃないですか。そうなってくると、人間の存在がやっぱり絡んでくる。純粋な論理だけでうまくいくのかどうか、という問題がどうしても出てきてしまう。 かつての第2次AI ブームの時、ハイデガー6を研究しているドレイファス7やサール8といった哲学者は、AIに対して猛烈な批判の声を上げました。 ハイデガー流に考えると、人間は世界というものの中に「投げ込まれて」、自分を「投企」9しつつ生きているわけです。
しかし、機械にはそうした生活世界がない。そんな機械が、どうやってものを考えられるのか、できないでしょう、という猛烈な反発があった。でもAI学者の側はあんまり気にしなかったんですね。 ただし、彼らは、「フレーム問題」とか「記号接地問題」と言われる問題を提起しました。例えば「水」という物体と「water」という言葉があるわけですが、AIは「water」という記号は処理できるけど、水の「実体」みたいなものと記号を結びつけることはできない、というのが記号接地問題です。そういうプラクティカルな問題で挫折していった。

千葉:しかし、フレーム問題や記号接地問題というのは、工学的にはそういう言い方をしているけれど、実はカント主義的な批判にまさしく対応する問題だったわけですね。そこを工学者たちは曖昧にスルーしてきた。 当時はコンピュータがパズルを解いたり、ごく限定された状況の中で回答を出すことが、限られた計算能力しかなかったこともあって目的とされていたわけです。
ところが、今日ではコンピュータの計算速度がはるかに上がってしまったために、ある種、擬似的な形で人間の質的な概念、例えば価値であるとか、あるいは責任意識や主体性を持っているような振る舞いをするチャットボットなどがそれなりに実現できるようになった。 そうすると、ますますそこで行われている推論や計算過程と、人間的概念との相関性というものを真剣に考えなければいけなくなったということですよね。(第二部「AIが絶対に人間を超えられない『根本的な理由』を知ってますか」につづく)

【6) マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger):1889年-1976年。ドイツの哲学者。フッサールに師事して現象学を学んだのち、存在論に関して多くの足跡を残した。
7) ヒューバート・ドレイファス(Hubert Lederer Dreyfus):1929年-2017年。米国の哲学者。マサチューセッツ工科大学教授、カリフォルニア大学バークレー校教授、アメリカ哲学会会長などを歴任。メルロ=ポンティやハイデガーといった現代ヨーロッパ哲学を専門とし、哲学の見地から人工知能を批判し続けた。
8) ジョン・サール(John Rogers Searle):1932年生まれの米国の哲学者。言語哲学、心の哲学を専門とする。「中国語の部屋」などの思考実験を発案し、人工知能(チューリング・テスト)批判を展開した。
9) 投企:ハイデガーが提唱した哲学的概念。好むと好まざるとにかかわらず、人間は世界の中に否応なく「投げこまれている」存在であり、その上で自己の可能性を追い求めて生きているという考え方。】


 â‰ªAIが絶対に人間を超えられない「根本的な理由」を知ってますか(2)
 ç¬¬ä¸€éƒ¨ã«ç¶šãã€AIが「知性」たり得るか否かについて、議論は白熱してゆく…。
■AIは猫を「知っている」のか?
西垣:最近流行っている深層学習のニューラルネットワークという考え方は、実は1950年代や60年代からありました。自己符号化1というやり方を使って現在の深層学習は行われているんですが、そのアイディアももう80年代からあって、そんなに新しいものじゃないんです。 当時はものすごく計算時間がかかるから全く実用化できなかったんですが、2010年代になり、サーバーをいっぱい使って、ようやく実用化できるまで計算能力があがって、注目されているだけなんですよ。

千葉:要するにAIというものは単なる計算過程で、その計算は言ってしまえば、何の意味もないものです。それは統計的な計算なわけですが、計算でとにかく何らかの結果を出す。その結果がどうやら人間的な意味の世界と対応するようだ、ということで実用性が担保されている。 それは結局、どこまで行っても「量」の世界ですよね。しかし今では、「計算能力の爆発的な向上」というクオンティティ上の変化が、まるで「質」、クオリティの問題に踏み込んでいるかのように言われている。実際は計算量が増えているだけなのに、それがまるで人間の質的思考に代わるようなものをコンピュータが帯び始めたかのような幻想を引き起こしている。

西垣:今、幻想とおっしゃいましたよね。賛成です。しかし、幻想ではないと言う人もたくさんいるんですよ。量の変化というものは質の変化をもたらす、とね。 深層学習というのは、パターンの特徴入力がいらない。ご承知の方も多いと思うんですが、例えば世界には色々な物がありますね。ビンもあるし机もある。そういう物のパターンを認識するためには普通、例えばビンを認識するためには、ここは丸くなっていて、こことここは対称になっていて…とか、そういう特徴を記述していって、それを集積してようやく認識する。この記述が大変だったんですね。 ところが、深層学習の場合にはそれをせずに、コンピュータがダイレクトに世界をいろんな「似たもの同士」で分類してしまうわけです。

千葉:大量のデータを与えると、その中から勝手に答えが浮き上がってくる。「教師なし学習」ですね。

西垣:はい。ところで「教師なし学習」と言われると、なんとなく「コンピュータが事物を理解してるんじゃないか」という感じが出てくるじゃないですか。

千葉:でも、実は「行きあたりばったり」が収束しているだけなんですよね。

西垣:GoogleのAIは、猫を認識することに成功しました。あれは16台のプロセッサを備えたコンピュータを1000台くらい用意して、3日間計算しつづけたそうです。人間なら小さい子供でもたちまち認識できるのですが、そういう大掛かりな計算でようやく認識した。
でもものすごくセンセーショナルなニュースで、「ついにAIが猫という概念をつかんだんじゃないか」と言われたわけです。 しかし、そう簡単じゃないんですよ。例えば犬だったらどうでしょう。
犬って、外見が猫よりも多様ですよね。ブルドッグもいれば狆(ちん)もいるし、大きさもいろいろで、いろんな顔をしてる。そうすると、我々人間が犬という概念を捉えるとき、これは単に表層的なビジュアルが似たものをグルーピングしているのではなくて、もっと生物学的な、あるいは文化的なものから犬の概念を導き出しているわけです。 でもコンピュータは、似た形のものをグルーピングしているにすぎない。そのグルーピングが人間とぴったり一致していれば便利なんですが、全然見当違いのこともいっぱいあります。

千葉:実際に、画像認識で、人間が思いもつかないような分類がされてしまうのが面白い、みたいなことがアートに応用されていますよね。つまり、AIの分類は意味を生成するためのものではなく、どこまでいっても無意味なプロセスですが、それが人間から見るとちょっと面白い、ということがあるわけですね。

西垣:囲碁や将棋の最強はAIになっていくと言われますね。あれは身もふたもないことを言うと、当然です。AIは盤面上の配置を一つの状態、「ステート」と見ればいいわけですから、このステートの数が有限であれば、原理上、コンピュータの計算能力が上がれば人間はコンピュータには絶対に勝てません。それはもう大昔からわかっていることなんです。
例えば詰将棋を考えてみると、ゴールである「詰んだ状態」からさかのぼって、現在の状態までいく一つ一つの道筋を全部計算してたどる。超高速で計算して、見つかった手筋で最短のものを使えばいい。そうしたら、人間は絶対に勝てません。せいぜい引き分けです。だから、人間の名人がAIに負けたという話はそんなにショッキングじゃないんです。

千葉:有限状態ゲームの場合は、勝負は単に「時間の問題」になるということですね。

西垣:ええ。囲碁や将棋は状態数が天文学的なので、局所最適化しかできず、人間が勝つことはまだありますが、量子コンピュータなどでもっと計算能力があがれば時間の問題です。ですから、人間が負けるようになったからといって、「AIが人間より賢くなった」なんて言うのは、私に言わせれば、ちょっと違うんじゃないかと。
ただ面白いのは、やっぱり人間って、直感で「この手が最善だ」というのを見極める道筋みたいなものを持っていて、それが定石と言われるようになったわけですね。人間がまだ見つけていない、「定石みたいなもの」をAIが見つける可能性はあるんですよ。

【1)自己符号化:機械学習におけるアルゴリズムの一種。AIにあるデータを学習させる際、そのデータの特徴を抽出する作業を何度も繰り返させることで、最も適切にデータを再現できるような特徴を抽出させる。】

 â– ãã‚Œã§ã‚‚GoogleはAIにこだわる
千葉:超知性といった話とは別に、人間が歴史の中で培ってきた定石を崩すような形で、例えば文学の創造などでAIが面白いことをする可能性がある。 シュルレアリスムや、あるいは「偶然性の音楽」2では、機械的なアルゴリズムによって思いもよらないような言葉や音の結びつきを作り出していたわけじゃないですか。
それと似たようなもので、我々の常識からすると盲点になっているようなパターンを、コンピュータが作り出してくることがある。 それは超知性というよりも、むしろ「他者性」ですよね。「他者としてのAI」。ただ、この「他者」というのも注意深く扱わないといけない概念で、人間みたいに内面性を持つものではなくて、純粋にただ無意味に計算処理をするだけの「他者」です。そういうものとして面白い存在だとは言えますね。僕はAI 論ではそういう部分に興味があって、ポジティブな思いも持っているんですが。

西垣:とはいえ問題もあって、シュルレアリズム、あるいは自動筆記3といった考え方の中にも、やっぱりそうした手法を通して「我々とは異なる『スーパー知性』のようなものがあって、それと交信する」「交信を通して何かすごいものを作り出す」という意図がどこかに潜んでいる。
芸術的に「ただ面白い」というだけじゃなくて、「それは実は偉大なことなんだ」という考え方が、いわゆるユダヤ・キリスト教的な文化の中に伏流していると思う。私はそれをえぐり出したいんですよ。 「シンギュラリティなんて、そんなもの来ないよ、荒唐無稽だよ」と批判するだけなら誰でもできるんです。でも、なぜGoogleやマイクロソフトはそれに膨大な資金を投入しているのか。
我々は、まあアートで面白いものが出るかもね、とか言っているわけですが、彼らはそういうつもりじゃなくて、やっぱりビジネスでやっているんだし、その背景には、何か崇高な知性がロジックの連鎖の中に出現するんだ、という考え方がどうもありそうだと。

千葉:強い信念がある。

西垣:これを私は、メイヤスーという哲学者の話を引きながら解き明かしたかったんですよ。
さっきのお話に戻ると、いわゆる科学的言説、例えば宇宙が130億年前とか140億年前にできたというのは、科学者の言説の中でそうなっている限りにおいては、正しいんですよ。もう少し正確に言うと、学会があり、そこに参加する研究者の中でいろんな学説があり、精度の高い天体望遠鏡で観測すると宇宙はこういう速度で膨張してるから宇宙年齢がわかる、といった言説は正しい。
ただそうした科学の言説は、私の知っている限りでも、すぐに移り変わっていきます。昔は宇宙の年齢は約130億年と言われてたのが、150億年になり、今は138億年というふうに、10億年くらいはすぐに変わる。実験データと理論との整合性が科学者コミュニティで認められればいい。ですから、あくまでも「人間的な試み」と位置づける限りにおいては、という意味で正しいんですよ。 でも、メイヤスーはそこからさらに問いかけるわけですよね。

千葉:そうなんですよね。たとえ数値がぶれるとしても、その言明自体が「実在に対して直接コミットする言明である」ことは動かない、というのが科学者の信念なわけです。その信念と、「いまの学会では一応そういう話になってます」というのは、やっぱり区別されるというのがメイヤスーの議論ですよね。

西垣:たしかに相対主義というのは、ヘタをすると何もかもがあやふやになってしまう。「科学者がそう言っているだけで、本当かどうかわからない」というように。キリスト教のファンダメンタリスト(原理主義者)は、「聖書によれば、地球は神様が7日間で作ったんだ」と言いますが、科学はそれを否定できるのか、できないんじゃないか、という疑いが出てくると。

千葉:メイヤスーはまさに、出発点にそういう疑念をもっています。だから、実在に対して「じかに」触れているような科学的言明の権利を改めて保証しないと、キリスト教原理主義とか、どこぞの大統領が言っているようなことと区別がつかなくなる、と主張するんです。

西垣:最近は「ポスト・トゥルース」って言いますが、事実かどうかわからないけれど、とにかく「面白い話」を科学が否定できなくなってしまう。そういう状況の中で、現代哲学では「何もかも相対的だ」という話になっているけど、それは違うんじゃないか、というのがメイヤスーの考えですね。
しかし、そうは言っても素朴実在論は使えない。その上で、どうやって「事実性」というものを論証するのかという話になるが、これは千葉さんが訳された『有限性の後で』に書いてあります。

千葉:かなり難しい話ですけどね。

西垣:結局のところ、彼のたどり着いた結論は、まず「事実」というものが存在するーー事実というのは、例えば135億年前に宇宙ができたとか、地球は45億年前にできたとかーーそういうことはまず、ちゃんと認めようと。 ところが、すごいのはそのあとなんですね。そうした「事実」を認める方法を論理的に推論していくんですが、大雑把に言うと、メイヤスーは「確実に存在するのは偶然だけだ」という結論にたどり着くわけです。「偶然性だけが必然的なのだ」という結論になってしまう、と。

【2)偶然性の音楽:20世紀に流行した現代音楽の作曲・演奏技法。五線譜以外の記譜法で作曲された楽曲を演奏したり、音楽とは無関係な法則に従って作曲したり、「聴衆が発する物音」を演奏の一部に取り入れたりするなど、音楽を「偶然」と関連づけた。米国の作曲家ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr., 1912-1992年)が創始したとされる。
3)自動筆記:『シュルレアリスム宣言』を著してシュルレアリスムを創始した、フランスの詩人アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966年)らが取り入れた詩作・著作技法。高速で半ば反射的に単語を書き続けるなどの方法で、著者の作為を作品から徹底的に排除しようとした。】

千葉:そうです。だから地球が45億年前に誕生したという事実、それは自然の法則やさまざまなできごとの連なりの結果誕生したわけですが、それを根本まで辿ったとき、どうして我々の宇宙はこうなっていて、さらにその中で地球が誕生したのか、ということの根本的な理由はない、と言うんですね。
「この世界が、いまこうであるということの根本的な理由」をライプニッツ4は「充足理由」と呼び、また「この世界のすべてのことには、根本的に理由がある」という命題を「充足理由律」という法則だと考えたんですが、メイヤスーはその充足理由律を否定するということですね。
「世界は根源的に、完全に理由なしだ」と。僕はすごくそこに惹かれたんですよ。それを聞いて、なんだかすごくスッキリして(笑)。

西垣:すべて偶然だったわけですね。今日ここに皆さん(聴き手)がおられるのもね。 宇宙は「一寸先は闇」

千葉:ただ、そこはちょっと繊細な議論も必要で、メイヤスーは一応、この世界が法則的なものとして成り立っていることは認めているんですよね。しかしそれは、決定論的な法則ではなくて確率論的な法則系です。
皆さんが何かの用事を済ませてここに来るのにはしかじかの理由があって…ということに関しては、一応理由があるわけですよね。つまり、そういう細かい因果の連鎖はあるんだけど、それを可能にしている確率論的法則系の「全体」が偶然的なものだということですよね。

西垣:もう少し補足すると、いま千葉さんは確率とおっしゃいましたが、その確率法則は局所的に安定して成立することはあるけれど、全体としてはどうなるかわからないと主張する。だから、メイヤスーは「潜在性」と「潜勢力」という2つの偶然的な概念を区別しています。

千葉:「バーチャル」と「ポテンシャル」を区別するんですね。

西垣:「ポテンシャル」のほうは確率法則で予測できるんだけど、「バーチャル」のほうは予測できない。

千葉:根源的な偶然性が「バーチャリティ」ですね。そこだけ取り出してみると、メイヤスーはまるで反科学主義者みたいに見えるんです。でも同時に、そういう偶然性が根本にありながらも、この世界が当座、法則的に成り立っていて、その中で実験科学が可能であるということを認めている。
というか、むしろ「科学が可能である」ということを保証したいがゆえに、あえてアンチ科学的なテーゼを立てるというアクロバティックな議論をやっている。

西垣:その通りなんですよ。難しいですが、非常に面白いですよね。 さっきの話に戻ると、メイヤスーがなぜ物事には「自然的な理由」がないと主張するかというと、「あることが起きたら、それをもたらした理由が必ずある。その理由にもさらに理由がある…」というふうにどんどん遡っていくと、最後は「何か究極的な理由がある」という話にどうしてもなってしまうんですよね。
その究極的な理由って、つまり「神」なんですよ。神に行き着いてしまう。 メイヤスーはそれを踏まえて、本当の意味で世界を支えているのは偶然である、言い換えると、「もし世の中で何か必然的なものがあるとしたら、それは世界が偶然性を孕んでいるということだ」と言うんですね。 これはなかなかショッキングな発想です。
メイヤスーは、世界や事実は存在する、それは数学的にもちゃんと記述できるんだ、と言いたいわけです。するとしかし、それには代償があって、現在成り立っている物理法則も、偶然によっていつ崩れるか分からなくなってしまう。今は天体の動きも何もかもちゃんと物理法則に従っていますが、それだって一瞬先の未来には変わってしまうかもしれない。
そうなると、例えばAIが未来予測をしても、導き出された答えは将来的に全く通用しないかもしれない、ということになってしまう。

【4)ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716年):ドイツの哲学者・数学者。哲学においては「モナド論」、数学においては微積分法の発明など多くの足跡を残した。】

千葉:AIがある物理法則に則ったできごとの予測をするとして、そこで出てきた答えは絶対的真理ではない、ということですね。AIはあくまで事実的予測を行うシステム、事実の世界の中で作動している事実のシステムにすぎない。

西垣:もう少し噛み砕くと、キー概念は「時間」なんです。この宇宙では時間とともに新しい世界が立ち現れる。でもコンピュータやAIが使う統計は、ビッグデータもそうですが、過去に得たデータです。それに基づいて分析して、一番いい方針はこれだ、とやるわけですね。
だけど、生物はちょっと違う。生物は、次にどうなるか全然わからないけど、とにかく生きていこう、という動機だけです。だから、自分で自分の生き方を変えられる。
それは計算しているというよりも、本能的にもがいているわけで、結果として生きていればそれでいい、というものなんですね。
言い換えると、新しい環境状態に適応する力を持っているわけです。過去のデータにあまり引きずられると、その生命力がそがれるんじゃないかという懸念がある。プラクティカルな工学者として、そこが私の心配しているところです。

 â– ã€Œç›®çš„」を持てるのは生命だけ
千葉:つまりAI技術は人間を過去に溺れさせるような技術で、生命体としての人間が未来志向的に知性を使う方向性から堕落してしまうんじゃないか、とおっしゃりたいと。

西垣:そういうことです。人間というのは、人生の時間の中で、常に自分を「投企」していく。そうして新たな自分を作っていくわけですね。それが「生きる」ということなんじゃないかと。 ところが今後は、「AIの判断」なるものが入ってきます。すると過去にとらわれて、例えば「前例がないから」といって新しい道を拓けない、というふうになるのではないか。

千葉:先ほど、現象学で使われる「志向性」5という言葉が出たじゃないですか。それはつまり、「何かに向かっていく」という矢印ですよね。生物には志向性がある。
未来というのも、どこに行くか分からない。機械はどこまでいっても「原因があり、それに対する結果がある」だけですが、それに対して「目的」というものを設定するのが、生物の独特の問題だといえます。 アリストテレスの四原因6の中でも、「目的因」というのは非常に厄介なものです。
科学の発展においては、目的因というものは破棄された。 人文学がいま直面している問題、もっと言うといわゆる「文系vs.理系」の問題というのは、アリストテレスにまでさかのぼると、目的因と作用因の抗争と捉えられる面がある。近代科学では、すべてを作用因に還元するわけですよ。
しかし、その結果「剰余」として残ってしまう目的因的なものが、実は時間性の問題とも深く結びついている。 近代科学においては、時間というものは時空連続体のなかの一つの次元パラメータにすぎない、とされるわけですよね。
それに対し、べルクソン7は「時間の実在的な意味は空間とは別のものだ」と考えたわけですが、このことは、作用因の連鎖にはどうしても還元されないような目的因という「謎」がどうしても残ってしまうということとパラレルなんじゃないか。そしてそこが、どうやら人間の知的活動というものと本質的に関わっているんじゃないか、と思うんです。

西垣:なるほど、そうですね。結局、科学は目的因というものをひたすら排除してきたわけですね。 機械っていうのは、ある条件を満たすという設定で作動してみて、うまくいったら、もうそのパラメータで動きつづけることになってしまうわけです。
ところが自然では、その環境そのものが変わるかもしれないわけですよね。そうなったときに、メタなレベルで人間はパっとアジャストできるけれど、なかなか機械には難しいかもしれない。
メイヤスーの議論なしに、近代哲学を踏まえて「絶対的な事実」の妥当性について正しい答えを出していくことはできないけれども、一方でメイヤスーの議論に基づくと、やがてまた新たなデッドロックが出てきてしまう。それはつまり、「論理に基づいて世界は存在していて、その中に『スーパー知性』が誕生する」というような、いわゆる形而上学的な考え方ですね。(つづく)

【5)志向性:現象学において用いられる概念。意識や思考は、常に「何かについて」のものであるということ。
6)アリストテレスの四原因:アリストテレスが提唱した、事物の存在に必要な4つの原因。その事物が何でできているか(質料因)、どのような性質・特徴・構造をもつか(形相因)、何によって生み出されたか(作用因)、何のためにあるのか(目的因)。
7)アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941年):フランスの哲学者。コレージュ・ド・フランス教授を務める。主著『時間と自由』において、分割不可能な意識の流れのことを「持続」という概念で表して時間のとらえ方を見直し、自由意志の問題を論じた。】

 ã€€â‰«ï¼ˆç¾ä»£ãƒ“ジネス:科学/技術―「AIは人間を超える」なんて、本気で信じているんですか?)


●フリードマン・ケケナカ思想犯 周回遅れの市場原理主義

2018å¹´07月16æ—¥ | æ—¥è¨˜


●フリードマン・ケケナカ思想犯 周回遅れの市場原理主義

失われた20年、いや、失われた時代は、今も続いているのが現実だ。安倍政権は、「選択と集中」というイデオロギー(安倍が理解しているかどうか不明)を、市場原理主義を導入することで、絵に描いた餅を、メクラ滅法な方法で、強権的に推し進めている。このようなイデオロギーによる国家運営は、国民の利益も「選択と集中」の中に取り込まれるので、その枠から外れた地域は、原則、法的保護を受けにくい地域ということになる。

つまり、“強きを助け、弱きを見捨てる”と云うのが、原理原則なイデオロギーで我が国は進み、世界が実証的に、市場原理主義は空理空論で、生きている人間社会を運営するには不適切な思想だと云う事が証明されていると云うのに、“走りだしたら止まらない”国家的性癖を理性的に制御することが出来ず、大失敗のアベノミクスを、大成功だと自画自賛している。一部、安倍政権の経済政策で潤う“点”はあるが、一般国民のレベルでは“面”において、マイナスの利益を押しつけるようになっている。

フリードマン・ケケナカ(竹中)らの考えでいけば、このような答えは当然で、仮に、成長のエンジンを失った経済圏で、この市場原理主義を強行すれば、「選択と集中」は加速化するわけで、問題はない。個別の住民感情に惑わされてはいけない。“強い者、強い地域を強くし、弱い者、弱い地域を切り捨てる”そうやって生き残るしかないのだ。自由主義でもあるのだあら、切り捨て地域に住むのが嫌なら、自助努力で、強い地域に移り住めば済むことである。或る意味で、強制的淘汰の論理だ。

この強い者、元気な者だけが生き残る世界は、弱い者や老いた者達を切り捨てることになり、いずれ市場から追放されるので、国家は、強いものと元気な者だけの世界になる。まぁ現実は、強者の世界でも、ふるい落としがが発生するので、今日の強者は、明日の弱者でもある。しかし、そこまで考えの至らない、若年層には好意を持って受けとめられるイデオロギーなので、安倍政権の強さの源にもなるのだろう。

宇沢弘文氏の薫陶にあずかった筆者にとっては、“それじゃ社会は成り立たたんでしょう”と言わざるを得ない。そりゃ、現状の生活レベルには、それなりの自己努力はつきものだが、自己努力、自己研さんといっても、その過程において、多くの公共財や人々に助けられて、今の現在があるわけだから、今と云う時期を切り取って、自分の人生だと主張する気にはなれない。考えてみれば、戦時の徴兵にしても、地方の次男三男が初めに狙われ戦場に刈りだされた。戦後の経済復興時においても、地方の次男三男が工場地帯の労働力として刈りだされたのだ。

その結果、地方の共同体は脆弱になり、衰弱の方向に向かっている。地方がこのような窮地に陥った原因は、歴史的に見れば、明治維新後の産業革命時点まで遡るわけだが、明治以降、中央は地方の犠牲の上に成り立つのが、資本主義の宿痾だと言ってもいいのだろう。それでも、一定の共同体意識があった時代においては、地方への配慮を行う行政がなされたが、小泉政権以降、安倍政権に至って、市場原理主義は容赦なく地方切り捨ての方向に走りだしている。

結局、日本の経済が総体的に疲弊して、地方への配慮などはしてはいられないので、一定の中核都市をコンパクトシティーに位置づけ、その部分に資源を集中させ、生き残り戦術を画策しているのが現状だ。大都会や中核都市に住む人々には、今までのような公共サービスを提供出来るが、そこから漏れた地域の公共サービスは途絶えることを意味している。公共サービスを受けたいのなら、自力でコンパクトシティーの域内に住む努力を国民に強制する仕組みだ。

このような考え方は、極めて身勝手だがイデオロギーの一種なので、全否定は難しい。しかし、人の営みには、経済学が領域としていない多くのものが混在してはじめて人間社会が成り立つているのだから、数値化出来るものだけとは思えない。経済学者の考える国家は、結果的に損得価値観の国家であり、世界全体を一国となぞらえた場合、その国は、総体的に「地方」に位置づけられるだろう。現実に、世界は、この市場原理主義を否定する方向に動いていると云うのに、我が国の行政は方向の転換が出来ないままだ。あの敗戦の教訓はいまだに生かされていないようだ。

首都大学東京教授の山下祐介氏は、安倍政治の政策を真っ向から受けとめて、批判しているが、カエルの面に小便だろう。人口減少は、テクニカルに移民にシフトすれば済むことで、特に問題はない。兎に角、「選択と集中」で限りある資源を使わなければならない。そう云う考えが、安倍政権にあるのは確実。ただ、キャッチコピー政治だから、無党派層は勘違いしてしまうし、弱者になる連中までが、言葉に浮かれて強者になったような気分にさせる。軍国少年のような老若男女がいるのも困ったものだ。


 â‰ªæ°´é“民営化法案とかやってる場合ですか
ゲスト:橋本淳司氏(水ジャーナリスト)
番組名:マル激トーク・オン・ディマンド 第901回(2018年7月14日)
 200人を超える人命を奪った西日本豪雨では、27万戸を超える世帯が断水に見舞われた。1週間が経った今も、20万を超える世帯で水道が復旧しておらず、復旧・復興の足を引っ張っている。
 今回は未曾有の大雨のため、取水施設や浄水場が水没したことによる断水もところどころで起きているが、とは言え断水の最大の原因は水道管の破断によるものだ。久しく言われていることだが、1960年~70年代の高度経済成長期に一気に日本中で敷設された水道管の多くが今、耐用年数を過ぎ老朽化している。
実際、災害時でなくても、古くなった水道管の破断に起因する断水や事故が毎年約2万5000件も起きているという。
 老朽化した水道管は脆く、地震などの災害に対しても脆弱だ。大雨の場合も、土砂崩れや河川の氾濫によって道路が寸断される際に水道管が破断すると、そこから水が漏れ続けてしまうため、その系統上にある水道を全て止めざるを得なくなってしまう。これが断水の主たる原因になっている。
 しかし、日本はこれまで水道事業は基本的に自治体が運営する公営事業であり、国際的に見ても水道料金が割安に抑えられてきたため、老朽化した水道管を更新するための予算が積み立てられていない。無論、地方自治体も地方交付税に依存している中、水道管の交換に自治体予算を回す余裕はない。
 そこで政府が考えたのが、水道事業を民営化することだった。民営化の是非については、賛否両論があるだろうし、そのメリット、ディメリットがきちんと精査される必要があるだろう。しかし、実は水道民営化を推進する前提となる水道法の改正案が、実は今国会で既に先週衆院で可決し、終盤を迎えた国会で一気に成立してしまうところまで来ているのだ。
 水は人間が生きるための基本財中の基本財だ。その水を供給する水道事業者には、災害や有事の際も水を提供する責任が伴う。水道事業を丸ごと民営化してしまうと、事業者には重い公共責任が伴うため、民間企業にとってはリスクが大きすぎる。
 そこで今回政府が推進している「民営化」は、施設の所有権は現在のまま自治体に残しつつ、水道事業の運営権を民間企業に譲渡する「コンセッション方式」と呼ばれるものだ。
 こうすることで、運営権を買い取った事業者は、経営を効率化し、より広域で水道事業が営むことも可能になるため、サービスの向上や雇用の創出などが期待できるというのが、コンセッション方式のメリットとして強調されている。
 しかし、水問題に詳しい橋本淳司氏はコンセッション方式であろうが、他の形態であろうが、民営化では水道事業の公共性を守ることはできないと指摘する。
 実は水道事業の民営化は欧米ではかなり以前から実施されている。しかし、実際はパリ、ベルリン、アトランタ、インディアナポリス、ブエノスアイレス、ヨハネスブルグなど多くの都市で、一度は民営化した水道事業を公営に戻している。そして、その主な理由は、民営化された都市のほとんどで水道料金が大幅に値上げされたことと、民間事業者を監督することの困難さだという。
 電気などと異なり水道事業は地域独占となるため、値上げをされても住民はそれを拒否することができない。当然、値上げが正当化できるかどうかの外部監査・監督が必要になるが、運営権を取得した企業はあくまで民間事業者なので、情報公開にも限界がある。
 パリ市の元副市長で再公営化当時の水道局長だったアン・ヌ・ストラ氏によると、パリ市は25年間の民営化の後に水道事業を再び公営に戻したところ、事業者が公表してたものよりも遙かに大きな利ざやを稼いでいたことが明らかになったという。民営化されている間にパリの水道料金は2倍近くに引き上げられていたそうだ。
 水道事業は自治体が運営する公営事業のままでは、料金の引き上げに議会の承認などが必要となるため、値上げは容易ではない。しかし、民営化されれば、仮に契約時に一定の縛りをかけたとしても、基本的に民間企業の裁量となるため、料金の引き上げがやりやすくなる。しかも、住民は他に選択肢がないため、泣く泣く値上げを受け入れざるを得ない。
 橋本氏は、コンセッション方式では、企業は利益が上げやすい大都市圏の大規模な水道事業にしか関心を示さないだろうから、利益が出にくい小さな自治体が切り捨てになる怖れがあると指摘する。実際、災害に見舞われる地域の多くは、地方の人口が少ない自治体の場合が多い。
 とは言え、日本の水道インフラの老朽化が待ったなしの状態にあることも間違いない。今国会で政府が通そうとしている法案を通じて政府が主導しようとしている民営化には問題が多いとしても、水道事業をこのまま放置しておくこともできない。厚労省によると、現在日本には耐用年数の40年を超えた水道管の割合は14.8%(2016年度末時点)にも及ぶが、現在そのうち毎年0.75%ずつしか更新されていないそうだ。このペースでは全て更新するのに130年以上かかる計算になり、現実的ではない。
 蛇口を捻れば美味しくて清潔な水がいつでも飲める国というのは、実はそれほど多くはない。日本はこれまで非常に水に恵まれた国だった。しかし、長年にわたり水道施設の更新を怠ってきたことで、日本の水道事業は大きな曲がり角に差し掛かっている。
 今ここで周回遅れの民営化という安直な責任逃れを許すのか、水という国民の安全保障にも関わる重大な問題を真剣に議論し、いかにして水道事業を維持していくかについて国民的なコンセンサスを得るための努力を始めるのか。水道民営化法案の問題点と、先行事例としての海外の民営化事情などについて、橋本氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。
*橋本 淳司(はしもと じゅんじ) 水ジャーナリスト/アクアスフィア水教育研究所長 1967年群馬県生まれ。90年学習院大学文学部卒業。出版社勤務を経て94年より現職。水循環基本法フォローアップ委員会委員、NPO法人ウォーターエイドジャパン理事、NPO法人地域水道支援センター理事などを兼務。著書に『水がなくなる日』、『100年後の水を守る』など。
 ≫(ビデオニュースドットコム)




≪地方を「助けるフリ」をする、地方創生とアベノミクスの根深い欺瞞

AI投資の前にやるべきこと

■地方創生は「仕事づくり」ではない

平成26年9月にスタートした政府の「地方創生」(まち・ひと・しごと創生)は、事業開始からもうすぐ丸4年を迎えんとしている。
:だが、それが何を目指しているのか、国民の間でいまだに十分な理解がなされていないようだ。
:「地方創生って、何を目的にしたものだと思いますか」と、大学での授業や各地の講演で聞いてみることがある。
:すると返ってくる答えは、「地方の仕事づくり?」「ふるさと納税ですか」といったものが大半で、あとはせいぜい「地方移住とか……」といった具合だ。
:「地方創生」は「地方のもの」であり、首都圏には関係ない――まずそういうふうに多くの人がとらえてしまっている。
:さらには、困っている地方のために首都圏が手助けする、あるいは疲弊している農山漁村を都市住民が支えるのが地方創生だと、そういう認識さえ作られてしまったようだ。
:事業の中身についてもとくに、「地方仕事づくり」の印象が強いようであり、「地方には仕事がないので、仕事をつくって経済力をつけさせよう」――地方創生はおおむねそういうものとしてイメージされている。
:だが、間違ってはいけない。
:地方創生が本来目指しているのは、"日本全体の人口減少"の克服である。
:そして人口減少の要因は出生数および率の極端な低下にあるので、まずは1.4程度しかない出生率(期間合計特殊出生率)を1.8(国民希望出生率)まで引き上げるということだった。
:そのことで人口減少がこのまま進んでも、2060年に1億人程度は確保する――これが地方創生の目標だったのである(「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」11頁など)。
:さらに地方創生で克服すべき課題としてもう一つ、"東京一極集中の是正"があげられている。
:東京一極集中と人口減少との関係はこうだ。
:最も低い出生率にとどまる東京に、若い子育て世代が集まっている(図1参照)。これでは人口は維持できない。
:過度な東京一極集中を是正していくことで、地方での子育てを実現し、希望出生率の実現を目指す。
:そのために地方での仕事づくりや地方への移住を進めていこう。そういうことだったのである。

 â– ã€Œãƒ­ãƒ¼ã‚«ãƒ«ãƒ»ã‚¢ãƒ™ãƒŽãƒŸã‚¯ã‚¹ã€ï¼Ÿ
:問題は日本の人口減少なのだから、その問題解決に汗をかくのは全国民のはずだ。
:そして大切なのは仕事や経済ではなく、人口のあり方――とくに結婚や出産、子育ての問題――になるはずだ。仕事や産業はあくまで人口回復のための手段にすぎない。
:では、なぜ全国民の問題が地方のものに、そして人口問題が産業・経済の問題に印象づけられるようになってしまったのか。
:それはもちろん、実際の政府の地方創生政策・事業そのものが、当初の目的を大きく外れて、あるところから別のものへと転換してしまったからである。
:詳しくは筆者の近著『「都市の正義」が地方を壊す 地方創生の隘路を抜けて』をご覧いただきたいが、簡単にいえば、それこそ安倍政権へのおもねりや忖度がそう変えた――そう表現してよさそうなことが地方創生の背後では起きていたのである。
:地方創生の事実上の出発点となった「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」および「同総合戦略」の発表(平成26年12月27日)から約半年後の平成27年6月30日に、「まち・ひと・しごと創生基本方針 2015-ローカル・アベノミクスの実現に向けて-」が閣議決定されている。
:すでに長期ビジョンがあり、それに対応して総合戦略が立てられているのに、そのあとに基本方針が出てくるというのは、どう考えても奇妙である。
:そしてその意図を考えてみるなら、この基本方針にある副題、「ローカル・アベノミクスの実現に向けて」が気になる。
:これはやはり、地方創生に「アベノミクス」の語を付け加えたかったからなのだろう。「アベノミクス」という、個人崇拝ともいえるこの政策用語を強調すること、それがこの基本方針策定の目的の一つであったと考えられる(その他、この転轍の事情はもう少し複雑だが、詳しくは前掲の拙著を参照)。
:そして実際にこの平成27年あたりから、行政文書全体に安倍総理への個人崇拝的な臭いのする文言が滲み出てくるのであり、この点は以前本誌でも東日本大震災の復興政策の分析を進めた際に、「総理御発言」などという言い方が現実にあらわれていた様を取り上げておいた(拙稿「この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる『福島の未来』」)。
:地方創生は本来、人口減少=東京一極集中対策としてはじまったものである。
:ところがそこに官邸や内閣府周辺の非常に強い意向が働いて、その内容が地方仕事づくり=ローカル・アベノミクスの推進へと変えられていった。
:しかもそれが地方創生スタート後の比較的早い時期に行われたので、国民は地方創生がそもそも何を目指したものかよく分からないまま、現実に動いた事業に引っ張られて、冒頭に指摘したような印象を持つようになってしまったわけだ。

 â– ã‚¢ãƒ™ãƒŽãƒŸã‚¯ã‚¹ã§äººå£ã¯å¢—えるか
:さて、もちろん人口減少問題、さらにはそれを引き起こしている東京一極集中の問題が、政府として素通りしてよいようなものなら、その内容をすり替えてもそう問題はない。
:だが、政府自身が当初示したように、「人口減少への対応は、「待ったなし」の課題」(長期ビジョン8頁)である。
:いやまたそれでも、アベノミクスで人口減少が解消し、日本の人口が人口維持へと転換する見通しがつくのなら、それはそれでよいわけだ。
:しかし、産業経済政策で人口問題を解決するというのは、論理的にはまったく不合理なのである。
:それどころか前掲の拙著で指摘しているように、現在、地方創生で進めている地方仕事づくり/産業政策は、かえって地方の人口を減少させ、出生率を押し下げることにつながりそうだ。
:現実にこの間、出生率に関して言えば、2005年を底にして徐々に回復していたものが、地方創生が開始された2016年、2017年に再び低下をはじめているのである。
:まじめにその回復を目指していれば、出生数増への転換まで進んでいたかもしれないのに、である(図2参照。ただし、産む女性の数が減り続けているので、出生数そのものは一貫して減少し続けている)。

 â– ã€Œäººå£æ¸›å°‘より経済成長」が政権の本音
:しかし筆者が最も問題だと思うのは次の点にある。
:現在の政策が、ただ人口回復を産業づくりでという「読み違え」で失敗しているのならまだよいのだ。
:だがもしかすると今の政権は、人口減少問題を利用しただけで、真面目に取り組むつもりなどはじめからなかったのではないかと、そう疑える節が次第に随所に見られるようになってきたことである(拙稿「政府は『人口減少』に無関心?地方創生が地方を壊す未来がやってくる」も参照)。
:そして筆者はつい最近、さらにその疑念を深めることとなった。それは首相官邸のウェブサイトで公開されたある動画を見たときのことである。
:官邸では「アベノミクス」をどう説明しているのだろうとサイトを閲覧した際、アベノミクスの説明から誘導されていった「未来投資戦略」のページの中で、熱心に語る安倍総理本人の言葉に驚いてしまった。
:総理はそこで、国民のみならず、全世界にも向けてこう発言しているのである。動画の最後にある台詞だ。 「人口が減ってもイノベーションによって成長できるのだという、第一号の証拠になることを日本は目指しています」(未来投資戦略2017-Society 5.0の実現に向けた改革-(YouTube首相官邸チャンネル)より)
:まさかとは思ったがやはりそういうことだったのである。
:安倍政権にとって、人口減少からの回復などはどうでもよいことなのだ。 経済成長さえできればよいのである。
:そして経済成長は、人口がこのまま減り続けても、イノベーションで達成できるのだという。
:そういう認識で描かれているものとして、この平成30年6月15日に新しく策定されたばかりの政府の「未来投資戦略2018」を読んでみれば、ゾッとするのは筆者だけではないはずだ。
:政府はもはや、生まれてくる子どもたちがどんどん縮小しているという事態には向き合わず、「2020年までの3年間を生産性革命・集中投資期間とし、大胆な税制、予算、規制改革などあらゆる施策を総動員することとした」のだという。
:第4次産業革命をもたらすために経済産業基盤に巨額の投資をし、各種現場のデジタル化と生産性向上を目指すのだそうだ。
:筆者はこうした「未来投資戦略2018」の背後に、こんな奇態な思想を見る。
:人口は減ってもよい。ただ経済が持続すればよく、そのためには絶えずイノベーションが起きる環境が整えばよい。それでこの国は成り立つのだと。
:いやいや馬鹿を言ってはいけない。経済はAIやロボットが作るのではない。大切なのは人間だ。人間が生産し、消費してはじめて経済なのである。経済は人間の経済であり、イノベーションは人間のためのイノベーションでなくてはならない。人間がいて国家は成り立つのだ。
:その人間がこれから次々と消えていく。このままでは人間がいなくなってしまう。イノベーションや生産性の前に、この事態こそ私たちは取り組まなくてはならない。そしてそれが、地方創生の本来の課題設定だったのである。
:そんな大事な国民の課題をただ触れただけにして素通りし、おかしな政策を現実に作り上げ、国民にさらなる負担を求めている。しかもそれを、この国の総理が世界に向けて堂々と自信ありげに語っている。
:これはきわめて異常な事態である。私たちはこの異常事態をきちんと認識しなくてはならない。サラリーマンが飲み屋で一席ぶっているのとは全く違う次元の話なのである。

■地方が「面白いこと」の犠牲になる
:筆者は、地方創生を題材にこれまで、いくつかの政策批判書を重ねてきた(『地方消滅の罠』『地方創生の正体』『「都市の正義」が地方を壊す』)。
:これらを通じて警告してきたのは、私たちの国家・日本は人口減少問題をはじめ、今大変危機的な状況に立たされているのにもかかわらず、それに対処しているようなふりをして、まったく別なことにこの国の大切な資源を投入しようとする、そういう政治・行政の暴走が現実にはじまりつつあるということであった。
:人口減少というこの重要な課題を振りかざして国民を刺激した上で、話を意図的にそらしながら、自分たちがやりたい政策や事業をただ実現するためだけに利用している。
:それが今実際に進んでいる地方創生の根っこにある政府の姿である。ここには、このところ加計学園の獣医学部新設で問題となった国家戦略特区も含まれている。
:そして実はこうしたことは、東日本大震災・原発事故の復興の現場では先行して起きてきたのでもあり(拙著『「復興」が奪う地域の未来』および本誌の拙稿も参照「福島原発事故から7年、復興政策に『異様な変化』が起きている」)、また筆者はそうした暴走の別の側面を、このところまた再燃しているモリカケ問題でも確認してみた。
:だがおかしなことは、もっと別の形でも起きているように感じる。
:安倍政権を通じて、面白いこと、かっこいいこと、でかいことができればよいと、政治・行政全体がそういうことになってはいるのではないか。
:さらにこうした風潮は、産業面をこえて、労働政策や、教育の問題など、私たちの暮らしの間近や、子どもたちの未来にまで深く広く影響を及ぼしつつあるようだ。
:私たちは今の日本の政治をめぐる状態を甘く見ず、適切に事態を批判して、適正な政策形成機構へと日本の政治・行政が少しでも戻るよう、努力し続けなくてはならない。
:著者もまだあきらめず、警告をつづけてみようと思っている。
 ≫(現代ビジネス:社会・首都大学東京教授・山下祐介)


●安倍首相に異変 関節痛は万病の素などと悪口雑言

2018å¹´07月15æ—¥ | æ—¥è¨˜
武士の日本史 (岩波新書)
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アメリカンドリームの終わり あるいは、富と権力を集中させる10の原理
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ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 (講談社+α新書)
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講談社


●安倍首相に異変 関節痛は万病の素などと悪口雑言

安倍首相は車三昧の生活に慣れているのか、足腰が酷く老化が激しいようだ。トランプ大統領とのラウンド中にも、不様にバンカーで転がっていたようだから。被災地訪問は気が重い責務だけに、逃げ出したのではないのかと云う噂が絶えない。酷暑の中、防災服を着て、避難中の体育館の人々を見舞うわけだが、慣れない正座などをしたことで、股関節が悲鳴を上げたことは想像に難くない。

安倍を天敵のように憎んでいる投稿サイト阿修羅を覗いてみて、腹が捻じれるくらい笑ってしまった。他人の不幸は蜜の味と言うが、責任のない放談だが、正鵠を得ている面も多く、悪口にしては有益だ。なんといっても、「赤坂自民亭」という醜聞を背にして、当該被災地を訪れるのだから、プレッシャーは相当のもので、心理的プレッシャーが体調を崩させ、最も弱い部分を痛めつけたと考えることは医学的だ。つまり、ストレスに負けたと云うことだろう。

折角だから、阿修羅サイトに投稿された、安倍首相が「股関節周囲炎」との診断を受け、15日予定の広島県訪問を延期した件についての、ツイッターや投稿文を紹介しておく。それにしても、現地のことに詳しくないので、何とも言えないのだが、同じような地域なのに山口県の被害が少ないのは何故なのだろう?長州発祥の地は災害にも強いのか、防災予算がタップリあるからなのか、そもそも地形的に恵まれているのだろうか?


≪阿修羅ツイッターや投稿文(発信人は伏せます)
★安倍首相の股関節痛について
・右足を引きずりながら首相官邸に入る安倍晋三首相◎長引くぞ 枝野に交代だな
・復興の邪魔になるので、これでよかったのかもしれません。ヘリに乗ろうとして痛めたらしいですよ、このお坊っちゃま総理
・以前の広島の土砂崩れ災害の時はゴルフ三昧でした。月曜に広島行くらしいですが、折角復旧した幹線道を交通規制しやがるから、復興の邪魔でしかないです。
・ツイッターを見ると、”本当~”とか”仮病じゃないの”とか”広島に行きたくないんじゃないの”等々の書き込みがある。首相の股関節炎のニュースでさえ国民は普通に受け入れられなくなっていることに驚く。何かが可笑しくなっているのは確かだ。
・安倍晋三、毎日外食ばかりで不摂生してると、イザというときには体調壊しやすいからね。土日は結構六本木のホテルのフィットネスジム行ってたはずなのに、おかしいね、何してたんだろうね?
・け、び、ょ、う、じゃね?理由は、被災者が冷たかったから。ともあれ、おふらんすで股関節炎にならなくて良かったね。(おふらんすに行ってたら、ならなかった?)
・テレビカメラに映りたいだけの慰問ポーズが、国民にばれて、それで猛暑に、出歩きたくなくなって、暑くて歩けないほどに、足が痛くなったと、またもやお得意の大嘘ですか?
・逃げる準備 ボクちゃんがんばってるのに、ひこくみんにいろいろいわれちゃうから、もうひさいちにはいきたくないもん!
・天皇陛下のマネして、慣れない正座とかしたからかな? あるいは「外交よりも国内を~」などと「こんな人たち」に言われたくないから? 単に猛暑が嫌なだけかも…何しろ豪雨災害が拡大中の最中でも、自宅でまったりしていた最高指揮官だから。
・そのまま総理大臣も辞めれば?!
・「股関節周囲炎」? まともに信じているのは居ない。外遊に拘ったり、自民亭では二日酔いになるぐらい 飲んだり。。。。 自分が面白いと感じる事、苦痛に感じる事がはっきりしてきて抑えが利かなくなっている。長くポストについて緊張感が無くなると誰しもそうなる。こういう時は後進に 道を譲るのがあるべき姿。
・嘘つきアベ、口を痛めてほしかった(笑 ・体重移動だけで自在に動き回ることが可能なハンズフリー電動車いす「ogo」こういうのを駆使して被災地に行っていただきたい。 被災者はもっと苦しいのだ。
・猛暑と国会から逃げて「外遊」でゆっくりしてこようと思っていたのにネ  2日間災害地を視察していやんなっちゃったんだろう。 いいよな。「足が痛い」って言えば病名つけて休ませてもらえる。 被災者の身にもなってみろ!
・>首相官邸「総理の動きがゆっくりになってしまうため、 この状況で被災地を訪問すると災害対応をしている 被災地に負担をかけかねないため} 安倍晋三 お前の存在が 日本の負担だ。 馬鹿野郎!! ・天皇陛下の真似をして膝をつくスタイルはやめて欲しい。あなたには国民の気持ちに寄り添うという「心」がない。形だけ真似ても国民には響かない。 天皇陛下の真似をしないで政治家としての慰問のスタイルを考えると良い、無理か~~。
・最大の被害を出した広島を視察しないのでは説明がつかんぞ。エアコンの手配が間に合わなかったのか?
・もしかして酒の飲み過ぎで腹の具合が悪くて、下痢でお出かけが出来ないんじゃないの?トイレから出たとたんに股トイレに出戻りじゃぁ、ヘリコプターにも乗っていられないわな~。
・ウソばっか付くから、みんなからウソつきの冷ややかな視線に晒される現実が堪えたのか?そういうタマじゃない(つーか、無神経な)くせに。 マスゴミが誤魔化しても、国民はウソつきヤローだと見抜いている。西日本も山口という奴隷のアホ県以外は、これで自民党に愛想が尽きて欲しいもんだ。
・飲み会や外国旅行は支障なくこなしています。車椅子で行かれたらどうですか。広島ではみんな待っているのではないでしょうか。
・それは大変 総理は激務ですからすぐお辞めになって治療をおすすめします。
・「股関節周囲炎」って、自己申告じゃないの?つまり痛い痛い痛い痛いと言わなけりゃ誰にもわからないし、痛くなくても、股関節の周りが痛い痛い痛い痛いと言えば、「股関節周囲炎」って診断されるって事でしょ。股関節に痛いいた~い関節注射でもしてやりゃ良いのに。そうすりゃぁ途端に「もう痛くありませ~ん!」って言うんじゃないの?

★避難所に急遽巨大エアコン設置について
・「安倍首相が来るので急きょ、取り付けられた」「いや、前から設置することになっていた。総理が訪問するからではない」。  西日本を襲った豪雨災害の避難所に付けられたクーラーをめぐる議論がSNSを賑わしている。前者は地元からの情報を得た市民が投稿した。後者は世耕弘成・経産相がツイッターで発信した。
・他の同じような大きさの避難所も10台もクーラーついてるんですかね?!世耕必死になって反論ツイートしてたけど、どうみても安倍晋三訪問のための対策としか思えないし。
・見方を変えれば 事前にクーラーが付く事を知ってたから、そこに行ったんじゃないかとも思える。つまり、クーラーが無ければ10分どころか、行くつもりすら無かったのでは?
・体育館に10台もクーラーが設置されるなんて、今頃避難者たちは寒いんではないか? 他の避難所にはクーラーが付いたのか付かないのか? 付いたらいつ付いたのか? 何台付いたのか? それを確かめる必要があるが、 確かに安倍が来るから即座に付いたのでしょう。 酷い!
 ≫ 以上、投稿サイト「阿修羅」より


 â‰ªã€€å®‰å€é¦–相、右足「股関節周囲炎」と診断 広島視察を延期
 安倍晋三首相は14日、足の付け根に痛みを感じたため、東京・信濃町の慶応大病院で足の診察を受けた。右足の「股関節周囲炎」と診断され、医師から「数日間できるだけ股関節を動かさないように」と言われたという。15日に予定していた広島の被災地視察は延期する。
 首相官邸幹部は「ヘリに乗ろうとしたときに痛めたようだ」と話す。首相は11日に岡山県、13日に愛媛県の被災現場を視察。陸上自衛隊のヘリコプターで上空から被災の状況を確認していた。
 診察を受ける前の14日朝、首相は西日本を中心とした豪雨非常災害対策本部会議に出席するため首相官邸に入ったが、足を引きずるようにゆっくりと歩いていた。
 ≫(朝日新聞デジタル)

種子法廃止でどうなる?: 種子と品種の歴史と未来 (農文協ブックレット)
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農山漁村文化協会

 

民営化で誰が得をするのか―国際比較で考える (平凡社新書)
石井 陽一
平凡社

 

日本の醜さについて 都市とエゴイズム (幻冬舎新書)
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幻冬舎

●米中経済戦争のさなか 中国ドイツ経済の連携強化の意味

2018å¹´07月14æ—¥ | æ—¥è¨˜
ユーラシア帝国の興亡: 世界史四〇〇〇年の震源地 (単行本)
クリストファー ベックウィズ
筑摩書房

 

戦後と災後の間 ─溶融するメディアと社会 (集英社新書)
クリエーター情報なし
集英社

 

[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発 (朝日文庫)
クリエーター情報なし
朝日新聞出版


●米中経済戦争のさなか 中国ドイツ経済の連携強化の意味

本日は多忙のため、先ずは以下のコラムを参考引用しておく。川口氏の考えの中に「嫌中意識」が存在することを差し引いて、ドイツ・メルケル首相の動きを捉えておく必要があることを、ひと言加えておく。まぁいずれにせよ、筆者コラムでも述べているが、習近平の「一帯一路」構想は、着々と進んでいるようだ。このような問題、つまり歴史観と云うものは、好きや嫌いで論ずるべきではなく、時代の大局に立って観察したいものである。ただし、情報としては、充分に有益なので参考引用させていただく。


PS:

ドイツが親中にシフトしていることは知っていたが、川口氏のレポートを読む限り、経済協力に関しては同盟と云う表現を使っても良いほどに深くコミットしているのが判る。無論、軍事同盟は結んでいないのだから、日米同盟のようなものではないが、平時においてと前置きすれば、日米同盟以上に効果の上がる経済関係構築に向かっていると云うことだ。中独ロと云う塊が透けて見える。

トランプ米大統領がNATO軍の維持費の負担金問題で、EU側の負担増を強く求め、EU側も当面、その言い分に応じる方向で調整に入っていることは既報である。しかし、必要以上のNATOの防衛費に対して、EU諸国の考えはまちまちで、ロシアの東進侵攻を防衛する意味合いは希薄化しており、疑問も多くあり、米国の対ロ政策の片棒を担がされているだけの軍事同盟がNATOではないのか、と云う評価さえある。最近では、対ロに加え、対中も含まれ、NATO軍事費が膨れ上がっている。

しかし、ロシアの東進侵攻のリスクや、中国のEU侵攻リスクなどは、外交や経済協力の深化によっては回避できる問題であって、EUの中には、ロシアや中国は必ずしも仮想敵国と云う条件に当て嵌まる国家なのかと云う疑問が大きくなっている。それに対して、米国やイスラエルは、その危機を強調して、軍事増強を主張しているためNATOの軍事費は膨らむばかりだ。当面はイランだが、イラン包囲網にも異論が絶えない。このような状況になると、EU側にしてみれば、EU合同軍のようなものを創設して、米国主体ではないNATO軍に代わるべき合同軍の構築を模索する動きが出ている。

こうなると、なぜ米国はEUが離反したくなるような要求を突きつけるのかと云う疑問がある。ひとつの答えは、大統領が米国の宿痾を一身に抱えているトランプであり、彼は経済効率一辺倒に頼らざる得ないと云う説である。もう一つは、米国経済は好況に見えているが、産業の空洞化が国力の低下を招いており、多くの国民の後進国化も深刻で、1%対99%問題が、国家を蝕んでいるのが現実だ。そうなると、米国にとって、頼りになるのは軍事力とドル基軸になるわけだが、ドル基軸のメリットが、いつまで享受出来るものか、疑問符がつけられている。

となると、強大な軍事力を背景とした外交攻勢が主たる手段になる。対中、対EU等に対する関税制裁も、その一環だろうが、カウンター関税制裁で対抗され、経済対立の行方は不透明だ。これらの動きは、秋の中間選挙までのトランプ大統領の人気取りという説もあるが、次々と選挙の洗礼は続くのだから、一過性とは言いがたく、この流れは、米国の大国としての能力が落ちてきたことを示していると言うべきだろう。

米中の、覇権争いが開始されたのはたしかだが、中国には、米国を押しやってまで、世界の覇権国に君臨しようと云う意図は、必ずしも見えていない。あくまで、経済における大国化が主眼であり、一気に米国の覇権を乗っ取れるとは考えていないのが肝である。中国の軍事力が、米国の軍事力に追いつくことは、かなり困難なわけで、先ずは経済部門でトップに立ちたいと云う意図なのではないかと思われる。

“百年河清を俟つ”だけではないとしても、米国の凋落度に応じて、中国の覇権が近づくことはあっても、おそらく、中国はみずから覇権を握りに行こうとはしないだろう。あまり根拠のある答えではないが、体質的に、中国人には世界全体の問題に責任を持つと云う発想はないと思われる。責任を持つ気がないから、総体的な意味の覇権を欲しがってはいないと云うことだ。ドイツや中国、ロシアの考えは、おそらく、世界は「G20」が平均的に力を持ち、影響し合い、牽制し合う“世界均衡”を考えているようにみえる。

緩やかな“ユーラシア大陸覇権”の考えはあるだろうが、英米などが持っていた所謂“覇権”とは意を異にした覇権なのだろう。その意味で、デモクラシーも一定の役割を終える流れかもしれない。核による牽制軍事力が世界に存在する限り、残された覇権は、経済に限定されることは自然のなり行きだ。このような大きな流れの中で、私利私欲と、亡霊のような長州政治を実現させ、明治回帰論に妄執している内閣を抱えた我が国は、なんともはや、手の打ちようもない……。北朝鮮問題で蚊帳の外なのだが、世界の潮流においても蚊帳の外のようだ。

 
≪米中貿易戦争の裏でドイツと中国が調印した「巨額経済協定」の中身

メルケル首相の表情は何を意味するのか

■中国とドイツの親密度
7月7日、ドイツの大手一流紙「フランクフルター・アルゲマイネ」に、中国の李克強首相が寄稿した。
:文章の中身は、「中国は国際貿易において、自由と公平を重視し、多国間協力体制の強化を支持していること」、「EUの繁栄を望んでいること」。だから、「ドイツ企業は不安を持たず、ドイツやヨーロッパに進出する中国企業に対して、公正でオープンな環境、および、安定した制度上の枠組みを整備して欲しいこと」。中国は「WTO(世界貿易機関)の原則をいつもちゃんと守ってきた」のである。
:実は、中国のこういう望みに、ドイツはこれまでも十分に答えてきた。独中関係は、小さな例外はあっても、すでにここ100年以上、概ね良好だ。
:先日、中国に行った人から聞いたが、北京の国際空港のパスポート審査のところには、「中国人」「外国人」というどの空港にでもある区別以外に、「Air China Easy Way Beijing-Frankfurt」という窓口があるそうだ。そればかりか、北京~フランクフルト間を移動する人専用のチェックインカウンター、荷物のターンテーブルなども整備されているという。中国とドイツの親密度を考えると、さもありなんとも思える。
:李克強首相の寄稿文が掲載された2日後の9日、本人がベルリンにやってきた。中国とドイツは定期的に政府間協議を行っているが、李克強首相は今回で5度目。カウンターパートはいつもメルケル首相だ。
:2016年、中国はドイツにとって最大の貿易相手国となった。以来、メルケル首相は公式の場で、「中国はドイツにとって一番大切な国」とはっきりと言う。
:去年の交易額は、中→独が1000億ユーロ、独→中が860億ユーロ。ドイツのGDPの半分は輸出によるものだから、中国の存在は大きい。ドイツ車も、3台に1台は中国市場向けだ。ドイツ経済は、中国がくしゃみをしたら、風邪どころか肺炎になる。
:だから、現在の米中貿易戦争も他人事ではなく、ドイツ人にとっては我が身に降りかかった災難に等しい。しかも彼らは元々トランプ大統領が大嫌いなので、あの大統領のおかげで中国の景気が冷え込むかもしれないと想像しただけで、頭に血がのぼる。
:このトランプ憎しが後押しになったのか、今回の政府間協議はまさに独中スクラムの大展開となった。22の経済協力協定も調印された。

 â– ãƒ‰ã‚¤ãƒ„が自給できない意外なモノ
:一番インパクトの大きかったのは、電気自動車用のバッテリー工場だ。旧東独のチューリンゲン州の州都であるエアフルトに、中国最大のバッテリーメーカーCATLが進出することになった。工場の敷地は80ヘクタール。サッカー場にすれば、112面。初期投資額が2億4000万ユーロという。
:実はヨーロッパには、電気自動車のバッテリーを作れる会社がないそうだ。だから、これまでも主に中国から輸入していたが、バッテリーは危険物なので飛行機では運べない。だから輸送に時間と手間がかかった。
:ところが、新工場の建設予定地はアウトーバーンのインターチェンジに近く、どの自動車メーカーにも数時間で運べるとか。BMW社は早くもこの日、2021年の分として、ここで作られたバッテリー15億ユーロ分の発注を出した。
:それにしても、電気自動車をこれから爆発的に伸ばそうと言っているドイツが、バッテリーを自給できないというのは意外だ。しかも、EU中を探しても、バッテリーに関しては、目下のところ中国のライバルはいないという。
:この調子ではますます中国依存が進みそうだが、これがドイツ人の考えるウィン・ウィンの関係なのだろうか? :ちなみに第一テレビは、ニュースでこのバッテリー工場の建設予定地の映像を出した。もちろん、今はただの広大な野原なのだが、そこに金キラの招き猫を置いて、撮っていた。何が言いたいのかはよくわからない。自虐的ユーモア?
:そういえばメルケル首相も記者会見で、「わが国が自分でバッテリーを作れれば、それは悲しいことではないが」と、これまた自嘲的なジョークで、自国がこの技術で出遅れたことを皮肉った。「だから、どうせ中国がヨーロッパに進出するなら、それがドイツであったことは喜ばしい」のだそうだ。
:一方、CATLの誘致に成功したチューリンゲン州の州知事も、同社が東欧に進出しなかったことに感謝したうえ、「中国はいつもテクノロジーを盗むと非難されているが、こうしてテクノロジーを持ってきてくれているではないか」と、中国に成り代わって胸を張った。ドイツ人の思考回路はどうもよくわからない。
:ちなみにドイツでは、リチウムなど重金属を使わず、環境に負荷をかけない新しいバッテリーの開発も細々と進んでいるらしいが、投資が滞り、実用の目処はないという。

 â– çµŒæ¸ˆé–¢ä¿‚はますます深まり…
:さて、今回の独中政府間協議において、成功と考えられていることがいくつかある。
:たとえば、中国が外国企業に、合弁ではなく、単独での投資を認めたこと。また、自動車メーカーは、これからは合弁会社の持ち株を、50%を超えて所有することもできるようになること。
:メルケル首相はそれらを、「市場を開くという中国の言葉には、行動が伴っている」と称賛した。ただ、正確に言えば、今後も中国では、国産企業だけに補助金が出るなど、まだ完全に平等な市場になるとは言えないらしい。
:いずれにしても、この日、李克強首相とメルケル首相が見守る中、両国の大臣や企業のボスたちが続々と契約書に向かった。一つサインが終われば、笑顔で握手。カメラのフラッシュが焚かれ、はい、お次。
:調印された主な契約を挙げると、ドイツの総合化学メーカーBASFが、ドイツ、オランダに次ぐ、世界第3規模の工場を、85億~100億ドルかけて広東省に作るという。これまで南京にも工場があったが、その2倍の規模だ。2026年に完成予定。合弁ではなく、単独出資。
:また、ドイツの複合企業シーメンスとState Power Investment(中国の5大電力会社の一つ)が、発電用の超高性能ガスタービンを共同開発することも決まった。
:その他、ドイツの工作機械の大手Voith社と、世界最大の鉄道車両メーカーであるCDDC(中国中車)の協力、ドイツのSAP(世界第4位のソフトウェア会社)とSuning Holdings Group(中国最大のホールディング会社の一つ)の協力、独シーメンスとアリババが産業用のインターネット網の整備で協力。
:自動車産業では、BMWとBrilliance Auto(華晨汽車)の合弁会社であるBBAが生産規模を拡張し、2019年より、2ヵ所の工場でBMW52万台の現地生産を開始するという。そのほか、ダイムラー、フォルクスワーゲン、ボッシュなども、軒並み、生産を拡大する方向で話を進めつつある。
:また、鳥インフルエンザのあと中国への輸出が止まっていた鶏肉も、この度、めでたく解禁。とにかく独中の経済関係はますます深くなる。
:ただ、これは私見だが、今回、李克強首相と並ぶメルケル首相の表情を見ていると、にこやかではあるものの、何か硬直したものがあったような気がする。4年ぐらい前のこの二人は、もっとリラックスした雰囲気を醸し出していた。ところが今回はどこか不自然なのだ。水面下の緊張が見え隠れする。

 â– ãƒ‰ã‚¤ãƒ„人の危機感
:さて、その二人が共同記者会見の場で強調したのが、自由貿易の推進。「多国間協定のシステムは大切」「摩擦のない交易を」など、つまり、トランプ大統領に向けてのアピールである。
:「中国とドイツの協力関係は、トランプに対する強いシグナル」というのは、経済紙Handelsblattのオンライン版に載った記事のタイトルだが、どことなく、独中関係をさらに深化させるための大義名分のようにも聞こえる。
:それにしても、この二人がアメリカの「横暴」の前に立ちはだかる自由貿易の守護者とは! 李克強首相に「公平で正義ある国際秩序を維持せよ」と発破をかけられると、いくら何でも、ちょっと片腹痛い。メルケル首相は、いったいどんな気持ちでこの片棒を担いでいるのか?
:ただ、DIHK(ドイツ商工会議所)も、「アメリカが孤立主義を取るなら、ドイツはさらに中国との関係を深めるべき」という意見らしく、いまやドイツでは、中国との協調は国是のようだ。すでに深く関わりすぎて、引き返せないということもあるかもしれない。そのうえ、前進すれば、今のところはまだ儲かる。
:一方、最近のEUでは、中国の進出に対して警戒を強めている国が増えている。EU内に中国の投資を厳しく見張る規則を作ろうという動きもあるのだが、こともあろうにBDI(ドイツ産業連合会)があまり乗り気ではないという。だからこそ中国は、2016年、ドイツのハイテク産業ロボットメーカーであるKUKA社も問題なく買収できたのかもしれない。
:李克強首相は今回、独中関係は新しい段階に入ったと言っている。しかし、このままでは、ドイツ企業はそのうち巨大な中国に飲み込まれてしまうのではないか。中国にしてみれば、ドイツを影響下におけば、EU全体を影響下に置くことができる。あるいは、北アフリカや中東まで、その影響力を広げることも夢ではない。
:今、中国の工場では、KUKAのロボットがせっせとドイツ車を作っている。しかし、ドイツ人には危機感はあまりない。唯一、メルケル首相の表情が、私には少し引っかかっているのだが、非常ベルは今もスイッチが切られたままだ。
 â‰«ï¼ˆç¾ä»£ãƒ“ジネス:国際・川口マーン恵美)

次なる金融危機
クリエーター情報なし
岩波書店

 

逆転の大中国史 ユーラシアの視点から
楊 海英
文藝春秋

 

中国 経済成長の罠 金融危機とバランスシート不況
クリエーター情報なし
日本経済新聞出版社

●米国支配の世界に亀裂 こんな時代に安倍が首相とは……

2018å¹´07月13æ—¥ | æ—¥è¨˜
前川喜平「官」を語る
クリエーター情報なし
宝島社

 

対立の世紀 グローバリズムの破綻
クリエーター情報なし
日本経済新聞出版社

 

権力と新聞の大問題 (集英社新書)
クリエーター情報なし
集英社


●米国支配の世界に亀裂 こんな時代に安倍が首相とは……

菅官房長官の死亡者数の発表により、西日本豪雨災害の甚大さを報道しても、お咎めなしになった民主主義国家、我が国日本の報道機関のようだ。そもそも、日本の大手メディアに、多くを期待することが間違いと云う考えもあるが、常に現場にいることが出来ない国民にとって、かなりの範囲、報道機関の情報に頼らざるを得ないのが現状だ。結局は、それらが提供する情報と補足情報を加味、吟味して、より真実に近い状況をキャッチアップするしかないのだろうが、よほどの興味や時間がない場合は、真実を把握するのは容易ではない。


≪菅官房長官「死者200人 不明21人」
2018年7月12日 17時02分
菅官房長官は午後の記者会見で、「これまでの人的被害は死者が200人、心肺停止が1人、行方不明が21人となっている。
政府としては、今もなお多数の方が安否不明になっていることから、まずは人命第一の方針のもと捜索・救助活動にあたるとともに、道路・水道の復旧・復興に全力で取り組んでいる」と述べました。
また菅官房長官は、政府の対応について、「政府としては被害の発生に備え官邸を司令塔として情報収集にあたっていた。その後も被害の拡大を想定して、いかなる事態にも対応できるような万全の態勢で対応にあたってきた。国民の皆さんの生命と財産を守ることは政府の最大の責務であるという思いで取り組んでいるところだ」と述べました。
 â‰«ï¼ˆï¼®ï¼¨ï¼«ãƒ‹ãƒ¥ãƒ¼ã‚¹ï¼‰


話はかわるが、トランプ大統領による、世界貿易戦争は混沌としているが、米・中・朝の軋轢も目を離せないが、中国・ロシア・イランの結びつきも米・イスラエルには脅威であるし、トルコの存在の不気味である。そんな中、トランプ大統領は、ロシア・中国・イランを睨みつける軍組織NATOの軍事費負担について異を唱えだした。早い話が、英仏独はNATO軍維持費をもっと出せ。言葉にこそしないが、日本を見よと軍事費負担の優等生・日本を持ちだしたかったに違いない。

日本などは駐留維持費の殆どを負担した上に、新たな基地建設にまで着手し、基地の治外法権枠を拡大さえしてくれ、尚且つ、こちらから依頼せずとも、年々負担率を上げてくれているのだ。トランプ大統領が、そのように思っているかどうかは別の話だが、ディールでは持ちだしても不思議ではない。

トランプ大統領の「米国第一主義」も度を過ぎると、友好各国が離反するリスクも抱え込んでいるようだ。EUは金食い虫のNATO軍に代り、「EU合同軍」を創設し、ロシアや中国との対立を緩和する路線も模索しているだけに、諸刃の剣といわれる交渉術の展開だ。単に、中間選挙の為のパフォーマンスと位置づけるのは難しい、基本的部分に抵触しているようだ。

習近平の「一帯一路」の話に乗って、中国経済の成長に我が身を委ねた方が得策ではないかと云う考えがEUに生まれても不思議ではない。歴史的に、中国の外国支配は朝貢外交の流れをくむので、米国型の「米国第一主義」という外交よりは、緩衝的であると判断する可能性がある。グローバル経済とローカル経済の棲み分けを目指すEUなどにとっては、住みやすい中国の「一帯一路」とみることも出来る。

このような流れが加速すると、ユーラシア文化とヨーロッパ文化の融合が見えてきて、米国第一主義が後手に回る可能性もあるのだろう。そのような時代がきた場合、「米国第一主義」は中東にイスラエル・サウジアラビアと云う飛び地、韓国・日本と云う飛び地、そんな防衛さえ容易ではない、裸の大魔王になってしまう悲劇もありそうだ。そのような時代においては、米国第一主義」に追随する各地の飛び地の国々は、ユーラシアとヨーロッパの勢力に囲まれ、身動きが取れなくなるリスクを抱えそうである。米国の孤立化は、飛び地放置の憂き目にあいそうだ。


 â‰ªç±³æ¬§ã€å®‰ä¿ã§ã‚‚亀裂 NATO会議で米が国防費増要求  
【ブリュッセル=中村亮、森本学】北大西洋条約機構(NATO)が11~12日に開いた首脳会議は、安全保障を巡る米国と欧州の同盟関係の亀裂を改めて浮き彫りにした。欧州に国防費の負担増を求めるトランプ米大統領は、通商を安保に絡め、欧州側に強い不信感が残った。第2次世界大戦後に米欧が作り、西側として旧ソ連に勝利した経済・安保の枠組みは、「米国第一」を前に大きく揺らいでいる。
 「これで米国がNATOで公平に扱われるようになる」。トランプ氏は12日、会議の閉幕後に急きょ記者会見を開き、加盟国が国防支出を国内総生産(GDP)の2%に増やす目標を前倒しすることで合意し、拡大は「比較的短時間で実現できるだろう」と語った。
 国防費負担の協議は11日に終えていたが、12日に各国首脳らに再度早期増額を迫ったと内幕を披露。その結果、緊急会合で合意に至ったという。「NATOを離脱するつもりはない。関与も揺らいでいない」「すばらしい2日間だった」と述べて会場を後にした。
 一方、NATOのストルテンベルグ事務総長は会見で米国との結束をアピールしてみせたが、2%目標の前倒し合意の有無については明言を避けた。マクロン仏大統領とイタリアのコンテ首相は新たな目標などの合意はなかったと述べた。
 両者の解釈は大きく食い違っており、国防費負担問題は今後も火種となりかねない。
 トランプ氏は11日にはドイツがロシアからガスを大量輸入するパイプライン計画を批判した。欧州連合(EU)にとって公然と触れられたくない弱点で、ポーランドなどはこの計画に反対している。トランプ氏は同計画に焦点を当てて欧州分断を狙っているとの見方が浮上。米国産ガスの輸出拡大を迫る「米国第一」主義の側面も透けて見え、あらゆるカードを使って圧力をかけるトランプ流の交渉は米欧の結束に深い禍根を残した。
 ≫(日本経済新聞)


こちらもガラリと話はかわるが、安倍の姑息で心根の賤しさが透けて見える話題だ。安倍の判断に、沖縄県民への憎しみを感じた。自民党議員を当選させていない県民性に苛立ち、辺野古に執拗に反対する住民らへの憎しみは相当のものなのだろう。安倍に聞いたら、福島と言い出すのだろうが、東日本大震災のメモリアルであるなら、宮城や岩手がメインプレーヤーであり、福島は、原発と東京電力メモリアルになる。しかし、宮城、岩手は自民が弱い。福島は自民が強い。東京電力に貸も作れる。まぁ、下品な心で考えれば、福島に落ち着くのはよく判る。


≪ 聖火リレー出発地、一時「沖縄」有力 転機は首相の一言
 2020年東京五輪の聖火リレーの出発点が12日、東日本大震災の被災地である福島県に決まった。出発点については「被災地案」と1964年大会と同じ「沖縄案」があり、大会組織委員会は一度は「沖縄案」に傾いていた。組織委の森喜朗会長が安倍晋三首相に会いにいったことが、転機の一つになった。
 聖火リレーのルート選びについて、組織委は昨年2月から有識者による検討委員会(委員長=布村幸彦・組織委副事務総長)で検討してきた。出発となる3月では被災地は寒さ対策の費用がかかること、全都道府県の「一筆書き」がしやすいことなどから、沖縄案を推す声が多かった。
 これを受け、森会長は4月3日、首相官邸に安倍首相を訪ね、検討状況を報告した。政府関係者によると、森氏は出発地点について二つの案を示し、沖縄案に利点が多いことを説明。聖火リレーの前に、岩手、宮城、福島の被災3県に聖火を巡回提示するイベントの案も示したという。
 沖縄案はうなずきながら耳を傾けるだけだった安倍首相は、被災地案にはこう答えたという。
 「復興五輪と言ってきましたから」
 東京での五輪開催が決まった13年、首相は国際オリンピック委員会総会が開かれたブエノスアイレスで「五輪の成功は、震災の際にいただいた世界からの支援に対する恩返しだ」と語っていたこともあり、被災地案の方が反応は良かった。
 その上で、選定については森会長に一任したという。
 その後も組織委内では具体的なルート案が検討された。「被災地出発の方がメッセージ性が強く出る」(組織委幹部)と福島案へ傾いたのは6月ごろ。この組織委幹部は「きちんとしたリレーのルートを見たのは、7月初めだった」と話した。
 「『復興』で五輪誘致を勝ち取ったんだから、被災地発は当然だ」と首相官邸幹部。菅義偉官房長官は12日の記者会見で「東日本大震災の被災地のみなさんを勇気づけ、日本中が大いに盛り上がる聖火リレーであればいいなと期待している」と述べた。(野村周平、大久保貴裕)
 ≫(朝日新聞デジタル)

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