2025-04-05

最近よく言われる清潔感について

私たち日常的に「清潔であること」を当然の価値として受け入れている。しかし、その「清潔」は本当に普遍的客観的概念だろうか?また、清潔をめぐる価値観や制度はどのように形成され、誰にとっての利益になり、誰を排除してきたのだろうか?

こうした問いに向き合うのが、「清潔論(Cleanliness Studies)」という比較的新しい学問領域である

1. 清潔論の成立と背景

清潔論は、文化人類学衛生学都市社会学ジェンダー研究精神分析などの知見を横断的に統合し、「清潔」という概念歴史性・構築性を検討する学際的分野である特に21世紀初頭のパンデミック(COVID-19)を契機に、「衛生」が公共空間の秩序や身体管理手段として再定義されたことが、清潔論の形成に大きな影響を与えた。

初期の清潔論は、ミシェル・フーコーの生権力論やメアリーダグラスの「汚れとは場違いものである」という視点に影響を受けつつ、現代的な社会実践へと接続されていった。

2. 清潔という「境界線

清潔論が注目するのは、清潔/不潔の区分が単なる衛生上の問題ではなく、社会的・政治的境界線として機能している点である。たとえば、近代都市公衆浴場設計学校教育における手洗い指導家庭内での掃除役割分担──これらはすべて、清潔が「正しい市民」の条件として機能している証左である

こうした現象は、「清潔線引き(cleanlining)」と呼ばれる。これは、誰が清潔で、誰が不潔かを暗黙に定義することで、社会の内外を分ける行為である

3. 「清潔感」とは何か──視覚化された衛生

近年、特にSNS就職活動恋愛市場などで頻繁に語られるのが「清潔感がある人」への評価である。だが、この「清潔感」は極めて主観的で、実際の衛生状態とはしばしば無関係である

清潔論では、こうした現象を「視覚的衛生性(visual hygiene)」と名付けている。これは、身だしなみ・服装香り・体型・肌質など、外見に現れる清潔イメージ集合体であり、文化的階級バイアスを含んでいる。

たとえば、同じ髪型服装でも、社会的背景や人種性別によって「だらしない」と見なされるか「洗練されている」と見なされるかは異なる。視覚的衛生性は、単なる個人努力ではなく、社会的に構築された規範と審美である

さらに、「清潔感がない」とされることは、恋愛就労の機会の剥奪につながる。これは、「清潔感資本(cleanliness capital)」という新たな資本形態として分析されている。清潔感を備えた身体や外見は、現代社会における市場価値を決定づけるファクターであり、その配分には明確な不平等存在する。

4. 清潔イデオロギーとその病理

現代社会では、抗菌除菌無臭化といった商品があふれ、「自分自身の不潔さ」への恐怖を煽るマーケティング常態化している。これにより、清潔の基準は過剰化し、「過剰清潔主義(hyperhygienism)」とも呼ばれる状態蔓延している。

過剰清潔主義は、アレルギー免疫機能問題だけでなく、精神的な強迫観念や、他者への「不潔レッテル貼り(dirty-tagging)」といった社会排除を生み出す。こうした病理的な清潔観は、現代都市生活における新たなリスクとも言える。

おわりに

清潔論は、「汚れを落とす」という単純な行為の背後にある、権力規範構造照射する。私たちはどのように清潔を欲望し、どのようにそれを他者要求し、また拒絶してきたのか。それを問うことは、すなわち私たちが「どのように他者と共に生きるか」を問うことに他ならない。

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