私たちは日常的に「清潔であること」を当然の価値として受け入れている。しかし、その「清潔」は本当に普遍的で客観的な概念だろうか?また、清潔をめぐる価値観や制度はどのように形成され、誰にとっての利益になり、誰を排除してきたのだろうか?
こうした問いに向き合うのが、「清潔論(Cleanliness Studies)」という比較的新しい学問領域である。
清潔論は、文化人類学、衛生学、都市社会学、ジェンダー研究、精神分析などの知見を横断的に統合し、「清潔」という概念の歴史性・構築性を検討する学際的分野である。特に21世紀初頭のパンデミック(COVID-19)を契機に、「衛生」が公共空間の秩序や身体管理の手段として再定義されたことが、清潔論の形成に大きな影響を与えた。
初期の清潔論は、ミシェル・フーコーの生権力論やメアリー・ダグラスの「汚れとは場違いなものである」という視点に影響を受けつつ、現代的な社会実践へと接続されていった。
清潔論が注目するのは、清潔/不潔の区分が単なる衛生上の問題ではなく、社会的・政治的な境界線として機能している点である。たとえば、近代都市の公衆浴場の設計、学校教育における手洗い指導、家庭内での掃除の役割分担──これらはすべて、清潔が「正しい市民」の条件として機能している証左である。
こうした現象は、「清潔線引き(cleanlining)」と呼ばれる。これは、誰が清潔で、誰が不潔かを暗黙に定義することで、社会の内外を分ける行為である。
近年、特にSNSや就職活動、恋愛市場などで頻繁に語られるのが「清潔感がある人」への評価である。だが、この「清潔感」は極めて主観的で、実際の衛生状態とはしばしば無関係である。
清潔論では、こうした現象を「視覚的衛生性(visual hygiene)」と名付けている。これは、身だしなみ・服装・香り・体型・肌質など、外見に現れる清潔イメージの集合体であり、文化的・階級的バイアスを含んでいる。
たとえば、同じ髪型や服装でも、社会的背景や人種、性別によって「だらしない」と見なされるか「洗練されている」と見なされるかは異なる。視覚的衛生性は、単なる個人の努力ではなく、社会的に構築された規範と審美である。
さらに、「清潔感がない」とされることは、恋愛や就労の機会の剥奪につながる。これは、「清潔感資本(cleanliness capital)」という新たな資本形態として分析されている。清潔感を備えた身体や外見は、現代社会における市場価値を決定づけるファクターであり、その配分には明確な不平等が存在する。
現代社会では、抗菌・除菌・無臭化といった商品があふれ、「自分自身の不潔さ」への恐怖を煽るマーケティングが常態化している。これにより、清潔の基準は過剰化し、「過剰清潔主義(hyperhygienism)」とも呼ばれる状態が蔓延している。
過剰清潔主義は、アレルギーや免疫機能の問題だけでなく、精神的な強迫観念や、他者への「不潔レッテル貼り(dirty-tagging)」といった社会的排除を生み出す。こうした病理的な清潔観は、現代の都市生活における新たなリスクとも言える。
清潔論は、「汚れを落とす」という単純な行為の背後にある、権力と規範の構造を照射する。私たちはどのように清潔を欲望し、どのようにそれを他者に要求し、また拒絶してきたのか。それを問うことは、すなわち私たちが「どのように他者と共に生きるか」を問うことに他ならない。