山本周五郎著 「松風の門」
山本周五郎著 「松風の門」(全集未収録作品集1 士道小説集収録)のご紹介。
この短編を初めて読んだのは、もう35年前のこと(本の発行年度から推測)ですが、あまり印象に残ってはいませんでした。
ところが少し前にたまたま読んでから、なぜかその中の一節が頭から離れません。
伊達藩のお世継ぎ伊達宗利が十歳の秋、お相手として殿中に召出された少年達の中に、池藤小次郎も入っていた。
そして、宗利と小次郎との間に、ある「事件」が起こった。
翌年、宗利は江戸へと去り、それ以来、ほとんど二十年ぶりに帰国することになった。そして二十年前に遊び相手を勤めた者たちを懐かしさから引見するが、その中に小次郎は入っていなかった。
宗利が小次郎のことをたずねると、彼らは妙な含み笑いをしながら、「なったくあんなに変わった者も珍しい」などと口々に云いだした。
宗利の命により捜索の末、洞窟の中で発見された小次郎は、飢えと寒さのためにすっかり憔悴しており、足軽の背に負われて帰るのがやっとのことであった。
十日あまり養生したのち、登城した小次郎に宗利が、「なぜ余が帰国するのを知っていたのに、迎えもせずそんな処へ行っていたのだ」と問いただすと、小次郎は、
「実は、達磨(だるま)が面壁九年で何を悟ったのか、ふとそれが知りたくなったのでございます」
と答えた。
「それで達磨の悟りがわかったのか」
小次郎はちょっと黙っていたが、やがて平板な口調で答えた。
「面壁九年ののち、達磨は起ちながら、かように申したと存じます、なるほど、ただ睨んでいるだけでは壁に穴を穿つことは出来ぬ」
宗利は声をあげて笑った。真面目くさって云えば云うほど、それはばかげた、埒もない言葉に思われた。宗利は小次郎のとり澄ました顔と、その言葉の愚かしさとの対照の奇妙さに笑った。
「益もない者になってしまった」小次郎が退出してから、宗利は明らさまに失望の色を見せながら云った、「人間は誰でも、一生に一度は花咲く時期をもつというが、小次郎は十歳までに生涯の花を咲かせてしまったのかもしれぬ、あれではもうしようがないな」
宗利が家督すると共に参政となった朽木大学に話しかけながら、宗利はそのとき初めて、老人の眼が責めるように自分を見つめている事に気が付いた。
「大学はさようには思いませぬ」老人は低い静かな声で云った。それは久しく聞いたことのない厳しい調子をもったものだった。
近郷十五ヵ村六百人あまりの人たちが党を組み、竹やり、山刀、猟銃などを手に、今にも城下へ攻め寄せる気勢を示していた。
城中の意見は二つに別れた。国許の者は強硬で、兵を出して揉み潰してしまえと主張した。然し宗利はじめ江戸から来た人々は幕府の監察を慮って、あくまで穏便な方法を固守しようとしていた。
こうして両者が互いに意見を戦わしていたとき、騒動を一挙に転換するような事件が起こった。小次郎が一揆の首謀者三人を斬って捨てたのだ。
御前へ出た小次郎は、宗利の表情がかつて見たことのない、烈しい怒りに震えているのを認めた、彼は悄然と頭を垂れた。
「一揆の者を斬ったというのは事実か」
「はい、粗忽を仕りました」
「誰が斬れと命じた」
「私一存にて仕りました。些か助力を致そうと心得、出向きましたところ、一揆の有様を目の当たりに見まして、事の怖ろしさに前後を忘れ、思わず三名を斬ったのでございます」
「斬ってよいものなら、其の方などの手を待つまでもなく斬っておる、事を穏便に納めようと思えばこそ、余をはじめ老職共もこれまで苦心していたのだ、それを知りもせず、短慮に事を誤るとは不届きなやつだ」
「恐れ入り奉る、平に、平に」と、小次郎の声にはただ慈悲を願う響きしかもっていなかった。・・・・・そしてそのようすを、朽木大学だけが、眼をうるませて見つめていた、今にも涙の溢れ出そうなまなざしだった。
「起て」宗利は叱咤した、「沙汰するまで閉門を申付ける」
宗利は予想外の結果に驚いた。血を見た農民たちは更に凶暴になって、恐らく城兵を動かさなくてはならぬ事になるだろうと案じていたのである。
「こうなると小次郎にも多少は怪我の功名を認めてやらなければなるまい、然し斬ることはなかった、三人も斬るなどとは」
「いや斬るべきでござりました」
「なんだ、大学までがさようなことを申すのか」
「小次郎が断固として彼等を斬ったればこそ、一揆の者共はその支配者を失うと共に、初めて検地の正しい事実を見知ったのでございます。初めに三人斬ったため、農民たちからは罪人を出さずに相済みました」
宗利は体の中から、なにかがすっと脱けてゆくような気持ちを感じた。
「明日にでも使いをやって、閉門を許してやるとしようか」
「恐れながら小次郎には御無用でござります」
「赦しては悪いか」
「彼は切腹をして相果てました、小次郎はあの日、屋敷へ立戻ると間もなく切腹を仕りました、まことにあっぱれな最期でござりました」
宗利はなにか聞き違いでもしたように大学の方へ振り返った。
「なんで・・・・・なんで、小次郎が」
「おわかりあそばしませぬか」大学は一語ずつ区切りながら、感動を抑えつけた声音で云った、「もし仮に、このたびの騒動がこういふ結果にならず、裁判にかけて何人かを刑殺した場合、農民たちの怨みはどこへ向けられましょうか、・・・・・恐らく藩の御政治に長く恨みを遺すことでございましょう、小次郎はそれを、御政治に向かうべき遺恨を、自分の一身に引き受けたのでござります」
大学は言葉を切った、かなり長い沈黙があった。それから再び続けたが、その声はもう隠しようのないほど濡れていた。
「いつぞや達磨の悟りの話をしていたことを、覚えておいであそばすか・・・・・お上はお笑いなされた、益もない者になったと仰せられた、然しあれは決して笑うような言葉ではござりません、睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ、もういちどよくお考えあそばせ、彼が断固として三人を斬ったのも、即日腹を切って果てましたのも、みな、この一語の悟りから出ているのです、農民たちの遺恨を背負って彼は死にました、もはや・・・・・御家は安泰でござります」
-----そうだ、たしかにそうだ、宗利は大学の言葉とはまったく別にそう考えた。小次郎は「あの日」以来、いつかあの時の過失を償う機会の来るのを待っていたのだ、その日の他にはなんの役にも立たなくともよい、そう覚悟していたのだ。
「墓へ参ってやりたいが」宗利は暫くして云った、「忍びで、このまま直ぐに行きたいが、供するか」
「お供仕りまする」
城を出た二人は、馬を駆って寺に向かった。左右に松並木のある参道までくると、そこで二人は馬を繋いで歩きだした。石段を登って、高い山門をくぐると、寺の境内も松林であった。そこは潮騒のような松風の音で溢れていた。
-----小次郎、会いに来たぞ。宗利は口のなかで呟いた。そのとき、初めて堰を切ったように涙がこみ上げてきた。
この短編を初めて読んだのは、もう35年前のこと(本の発行年度から推測)ですが、あまり印象に残ってはいませんでした。
ところが少し前にたまたま読んでから、なぜかその中の一節が頭から離れません。
神童と呼ばれてから二十年の年月が過ぎ
伊達藩に郡奉行の子で池藤小次郎というのがいた。子供の頃から神童と云われた俊才で、学問にも武芸にもずばぬけた能力を持ち、ほとんど一家中の注目の的になっていた。伊達藩のお世継ぎ伊達宗利が十歳の秋、お相手として殿中に召出された少年達の中に、池藤小次郎も入っていた。
そして、宗利と小次郎との間に、ある「事件」が起こった。
翌年、宗利は江戸へと去り、それ以来、ほとんど二十年ぶりに帰国することになった。そして二十年前に遊び相手を勤めた者たちを懐かしさから引見するが、その中に小次郎は入っていなかった。
宗利が小次郎のことをたずねると、彼らは妙な含み笑いをしながら、「なったくあんなに変わった者も珍しい」などと口々に云いだした。
達磨(だるま)は、九年間壁に向かった後に何を悟ったのか
実は小次郎は、城下の山奥にある洞窟の中で座禅をしていて、宗利との面謁の場に出られなかったのだ。宗利の命により捜索の末、洞窟の中で発見された小次郎は、飢えと寒さのためにすっかり憔悴しており、足軽の背に負われて帰るのがやっとのことであった。
十日あまり養生したのち、登城した小次郎に宗利が、「なぜ余が帰国するのを知っていたのに、迎えもせずそんな処へ行っていたのだ」と問いただすと、小次郎は、
「実は、達磨(だるま)が面壁九年で何を悟ったのか、ふとそれが知りたくなったのでございます」
と答えた。
「それで達磨の悟りがわかったのか」
小次郎はちょっと黙っていたが、やがて平板な口調で答えた。
「面壁九年ののち、達磨は起ちながら、かように申したと存じます、なるほど、ただ睨んでいるだけでは壁に穴を穿つことは出来ぬ」
宗利は声をあげて笑った。真面目くさって云えば云うほど、それはばかげた、埒もない言葉に思われた。宗利は小次郎のとり澄ました顔と、その言葉の愚かしさとの対照の奇妙さに笑った。
「益もない者になってしまった」小次郎が退出してから、宗利は明らさまに失望の色を見せながら云った、「人間は誰でも、一生に一度は花咲く時期をもつというが、小次郎は十歳までに生涯の花を咲かせてしまったのかもしれぬ、あれではもうしようがないな」
宗利が家督すると共に参政となった朽木大学に話しかけながら、宗利はそのとき初めて、老人の眼が責めるように自分を見つめている事に気が付いた。
「大学はさようには思いませぬ」老人は低い静かな声で云った。それは久しく聞いたことのない厳しい調子をもったものだった。
事の怖ろしさに前後を忘れ、思わず三名を斬ったのでございます
そのころ領内では、検地をめぐって不穏な空気が一藩の上に重くのしかかっていた。そして、農民たちの不穏な動きがとうとう一揆に発展したのはそれから四五日後のことであった。近郷十五ヵ村六百人あまりの人たちが党を組み、竹やり、山刀、猟銃などを手に、今にも城下へ攻め寄せる気勢を示していた。
城中の意見は二つに別れた。国許の者は強硬で、兵を出して揉み潰してしまえと主張した。然し宗利はじめ江戸から来た人々は幕府の監察を慮って、あくまで穏便な方法を固守しようとしていた。
こうして両者が互いに意見を戦わしていたとき、騒動を一挙に転換するような事件が起こった。小次郎が一揆の首謀者三人を斬って捨てたのだ。
御前へ出た小次郎は、宗利の表情がかつて見たことのない、烈しい怒りに震えているのを認めた、彼は悄然と頭を垂れた。
「一揆の者を斬ったというのは事実か」
「はい、粗忽を仕りました」
「誰が斬れと命じた」
「私一存にて仕りました。些か助力を致そうと心得、出向きましたところ、一揆の有様を目の当たりに見まして、事の怖ろしさに前後を忘れ、思わず三名を斬ったのでございます」
「斬ってよいものなら、其の方などの手を待つまでもなく斬っておる、事を穏便に納めようと思えばこそ、余をはじめ老職共もこれまで苦心していたのだ、それを知りもせず、短慮に事を誤るとは不届きなやつだ」
「恐れ入り奉る、平に、平に」と、小次郎の声にはただ慈悲を願う響きしかもっていなかった。・・・・・そしてそのようすを、朽木大学だけが、眼をうるませて見つめていた、今にも涙の溢れ出そうなまなざしだった。
「起て」宗利は叱咤した、「沙汰するまで閉門を申付ける」
睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ
一揆は、然しそれで逆転した。小次郎の思い切った方法が功を奏したのであろうか、騒動はその日の内に鎮まって、検地の事もいつ始めてもよいという状態にまで解決した。宗利は予想外の結果に驚いた。血を見た農民たちは更に凶暴になって、恐らく城兵を動かさなくてはならぬ事になるだろうと案じていたのである。
「こうなると小次郎にも多少は怪我の功名を認めてやらなければなるまい、然し斬ることはなかった、三人も斬るなどとは」
「いや斬るべきでござりました」
「なんだ、大学までがさようなことを申すのか」
「小次郎が断固として彼等を斬ったればこそ、一揆の者共はその支配者を失うと共に、初めて検地の正しい事実を見知ったのでございます。初めに三人斬ったため、農民たちからは罪人を出さずに相済みました」
宗利は体の中から、なにかがすっと脱けてゆくような気持ちを感じた。
「明日にでも使いをやって、閉門を許してやるとしようか」
「恐れながら小次郎には御無用でござります」
「赦しては悪いか」
「彼は切腹をして相果てました、小次郎はあの日、屋敷へ立戻ると間もなく切腹を仕りました、まことにあっぱれな最期でござりました」
宗利はなにか聞き違いでもしたように大学の方へ振り返った。
「なんで・・・・・なんで、小次郎が」
「おわかりあそばしませぬか」大学は一語ずつ区切りながら、感動を抑えつけた声音で云った、「もし仮に、このたびの騒動がこういふ結果にならず、裁判にかけて何人かを刑殺した場合、農民たちの怨みはどこへ向けられましょうか、・・・・・恐らく藩の御政治に長く恨みを遺すことでございましょう、小次郎はそれを、御政治に向かうべき遺恨を、自分の一身に引き受けたのでござります」
大学は言葉を切った、かなり長い沈黙があった。それから再び続けたが、その声はもう隠しようのないほど濡れていた。
「いつぞや達磨の悟りの話をしていたことを、覚えておいであそばすか・・・・・お上はお笑いなされた、益もない者になったと仰せられた、然しあれは決して笑うような言葉ではござりません、睨んでいるだけでは壁に穴は明かぬ、もういちどよくお考えあそばせ、彼が断固として三人を斬ったのも、即日腹を切って果てましたのも、みな、この一語の悟りから出ているのです、農民たちの遺恨を背負って彼は死にました、もはや・・・・・御家は安泰でござります」
-----そうだ、たしかにそうだ、宗利は大学の言葉とはまったく別にそう考えた。小次郎は「あの日」以来、いつかあの時の過失を償う機会の来るのを待っていたのだ、その日の他にはなんの役にも立たなくともよい、そう覚悟していたのだ。
「墓へ参ってやりたいが」宗利は暫くして云った、「忍びで、このまま直ぐに行きたいが、供するか」
「お供仕りまする」
城を出た二人は、馬を駆って寺に向かった。左右に松並木のある参道までくると、そこで二人は馬を繋いで歩きだした。石段を登って、高い山門をくぐると、寺の境内も松林であった。そこは潮騒のような松風の音で溢れていた。
-----小次郎、会いに来たぞ。宗利は口のなかで呟いた。そのとき、初めて堰を切ったように涙がこみ上げてきた。