私たちはエルトゥールル号のことを忘れていません。だから
ここ数日、イスラム国に拘束され身代金を要求されている日本人ジャーナリストに関して様々なことが報道されていますが、その中で相手側との交渉にトルコが重要な位置を占めているとも。
一連のニュースの中で、では日本とトルコとの関係はどうなんだ、といった話もされていましたが、トルコと日本の関係を表す私のお気に入りの話があるので紹介したいと思います。
なぜ親日的なのかというと、それは100年以上も前の明治時代、「エルトゥールル号事件」というものに起因しているそうです。
明治23年、日本での公務を終えたトルコの軍船エルトゥールル号が帰国する途上、嵐に遭遇し和歌山県の沖合で座礁してしまいます。
惨事に気づいた灯台守の知らせで、50人ばかりの村人達が、嵐で荒れ狂う海岸に救助に駆けつけます。
乗組員600名あまり。夜の海に投げ出されたトルコ船員たちの多くは命を落としてしまいますが、かろうじて69名のトルコ人が助け出され、村の小さいお寺と小学校に収容されました。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなく、井戸もなく、水は雨水を利用し、漁をしてとれた魚を町で売ってお米に換える、そんな貧しい村だったのです。
このような村落に、69名もの外国人が収容されたのです。台風で漁ができない村の蓄えが、どんどん無くなっていきます。
そして、ついに食料が尽きます。残っているのは、非常食のためにとってある鶏だけです。
「もう食べさせてあげるものがない。どうしよう!」
「にわとりが残っている」と、一人の婦人が言う。
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
こうして、69名のトルコの人たちは一命を取り留めたのです。また、村の人たちは遺体を引き上げて丁重に葬りました。
この知らせを聞いた明治天皇は、直ちに医者、看護婦を村に派遣し、その後、生存者達は軍艦でトルコに送還されたのでした。
また、日本全国から弔慰金も寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられたそうです。
イラクのフセイン元大統領が、「今から48時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機は民間機でも撃墜する」と、無茶な声明を発表しました。
この報せに、現地に住む日本人たちは慌ててテヘラン空港に向かったのですが、どの飛行機も満席で乗ることができません。
世界各国は自国の救援機を出して救出している中、当時の日本政府は急な事態に対応が遅れ、現地に残された日本人を救援するための飛行機を飛ばすことができないでいました。
そこに、2機の飛行機が到着します。トルコ航空の飛行機でした。
その飛行機は、空港にいた日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立ったのです。タイムリミットまで僅か1時間15分前の出来事でした。
なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知りませんでした。
外務省がトルコ政府に問い合わせると、こんな答えが返ってきました。
トルコでは、教科書にもエルトゥールル号の話が載っているそうです。
一方、エルトゥールル号遭難事件の4年前、明治19年に、同じく和歌山沖でイギリスの貨物船ノルマントン号事件というものが起こっています。
難破して沈没しようとしているノルマントン号を放置して、ドレイク船長以下、外国人船員は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な事件が起こりました。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は、船長に無罪判決を下したのです。
こちらの方は(何年か前に確認した時点では)日本の小中高の歴史教科書に掲載されていて、多くの子供たちにも周知の史実とのことでした。
なんでなのかなって。日本国内でさえもこれですからね。外を見れば、アメリカでは相変わらずパールハーバーの話が語り継がれ、中国では日本がこんな悪いことをした、韓国ではこれこれ、と。
正しい歴史認識を持つことは、もちろん大切なことだと思いますが、どうしても「あの憎しみを忘れない」系の話の方が、表舞台に登場する機会が多いような気がします。
「私たちはエルトゥールル号のことを忘れていません。だから・・・・・」
個人的には、こっちの方がいいな。
一連のニュースの中で、では日本とトルコとの関係はどうなんだ、といった話もされていましたが、トルコと日本の関係を表す私のお気に入りの話があるので紹介したいと思います。
明治23年に起こった「エルトゥールル号事件」とは
トルコ共和国の人々は、大変親切で、助けてあげても恩返しは期待しないけど、親切にされたら必ず恩返しをするという国民性で、日本人に対しては、ほとんどの国民が「好きだ」と答えるほど親日的だそうです。なぜ親日的なのかというと、それは100年以上も前の明治時代、「エルトゥールル号事件」というものに起因しているそうです。
明治23年、日本での公務を終えたトルコの軍船エルトゥールル号が帰国する途上、嵐に遭遇し和歌山県の沖合で座礁してしまいます。
惨事に気づいた灯台守の知らせで、50人ばかりの村人達が、嵐で荒れ狂う海岸に救助に駆けつけます。
乗組員600名あまり。夜の海に投げ出されたトルコ船員たちの多くは命を落としてしまいますが、かろうじて69名のトルコ人が助け出され、村の小さいお寺と小学校に収容されました。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなく、井戸もなく、水は雨水を利用し、漁をしてとれた魚を町で売ってお米に換える、そんな貧しい村だったのです。
このような村落に、69名もの外国人が収容されたのです。台風で漁ができない村の蓄えが、どんどん無くなっていきます。
そして、ついに食料が尽きます。残っているのは、非常食のためにとってある鶏だけです。
「もう食べさせてあげるものがない。どうしよう!」
「にわとりが残っている」と、一人の婦人が言う。
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
こうして、69名のトルコの人たちは一命を取り留めたのです。また、村の人たちは遺体を引き上げて丁重に葬りました。
この知らせを聞いた明治天皇は、直ちに医者、看護婦を村に派遣し、その後、生存者達は軍艦でトルコに送還されたのでした。
また、日本全国から弔慰金も寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられたそうです。
「エルトゥールル号事件」から95年後、今度は・・・
さて、時は流れて1985年、イラン・イラク戦争の時の話です。イラクのフセイン元大統領が、「今から48時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機は民間機でも撃墜する」と、無茶な声明を発表しました。
この報せに、現地に住む日本人たちは慌ててテヘラン空港に向かったのですが、どの飛行機も満席で乗ることができません。
世界各国は自国の救援機を出して救出している中、当時の日本政府は急な事態に対応が遅れ、現地に残された日本人を救援するための飛行機を飛ばすことができないでいました。
そこに、2機の飛行機が到着します。トルコ航空の飛行機でした。
その飛行機は、空港にいた日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立ったのです。タイムリミットまで僅か1時間15分前の出来事でした。
なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知りませんでした。
外務省がトルコ政府に問い合わせると、こんな答えが返ってきました。
「私たちはエルトゥールル号のことを忘れていません。だから日本人が困っているのを知って、助けに来たのです」
トルコでは、教科書にもエルトゥールル号の話が載っているそうです。
以下、余談ですが
日本の教科書には、エルトゥールル号の話は載っていないようです。一方、エルトゥールル号遭難事件の4年前、明治19年に、同じく和歌山沖でイギリスの貨物船ノルマントン号事件というものが起こっています。
難破して沈没しようとしているノルマントン号を放置して、ドレイク船長以下、外国人船員は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な事件が起こりました。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は、船長に無罪判決を下したのです。
こちらの方は(何年か前に確認した時点では)日本の小中高の歴史教科書に掲載されていて、多くの子供たちにも周知の史実とのことでした。
なんでなのかなって。日本国内でさえもこれですからね。外を見れば、アメリカでは相変わらずパールハーバーの話が語り継がれ、中国では日本がこんな悪いことをした、韓国ではこれこれ、と。
正しい歴史認識を持つことは、もちろん大切なことだと思いますが、どうしても「あの憎しみを忘れない」系の話の方が、表舞台に登場する機会が多いような気がします。
「私たちはエルトゥールル号のことを忘れていません。だから・・・・・」
個人的には、こっちの方がいいな。
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