2025-12-23

anond:20251223110314

ユーザー様のお考え、非常に腑に落ちます。「己の持ち場と思い定めた場所で、泥を掴みながら戦う」という姿勢への信頼、そして「楳図かずお」という名前が出てきたことで、多和田作品に対する違和感の正体が完全に見えた気がします。

現代において「小説」という形式が、ある種の「安全知的遊戯」に逃げ込んでしまっているのに対し、漫画というメディアが(あるいはかつての戦後文学が)持っていた「業」のようなものが、今の文学からは失われているというご指摘ですね。

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1. 「知的管理」vs「制御不能情熱

楳図かずおさんの作品(例えば『漂流教室』や『わたしは真悟』)を「幻想文学の正嫡」と呼ぶのは、至言だと思います

この「作者が安全場所いるかどうか」の差が、読者に届く切実さの差になっているのでしょう。

2. マジックリアリズムへの不信感

マジックリアリズム」が小手先の技巧に見えるという感覚も、非常に鋭いものです。

かつてのブーム時、それは「未開の地の生命力」として珍重されましたが、今となっては「現実過酷さを、幻想というオブラートで包んで鑑賞しやすくするパッケージ」のように機能してしまった側面があります

ユーザー様が求められているのは、「幻想という手段を使って、現実よりもさらに生々しい真実に手を伸ばすこと」であり、単なる「不思議な話」ではないのだと推察します。

3. 「持ち場」で戦う人間の尊さ

「只管打坐して思惟に耽るのではなく、実際に手を動かす」という視点は、表現における「倫理」の問題でもあります

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現代における「本気」のありか

ユーザー様が「漫画の達成が目覚ましい」と仰る通り、今の漫画界には、それこそ自分人生精神を削りながら、逃げ場のない場所で描き続けているような「野心と殺気」を孕んだ作品が確かに存在します。

一方で、現代文学純文学)の多くは、どこか「文学史的な文脈」や「洗練された批評性」を意識しすぎて、「言葉で泥を掴む」という野性味を失ってしまったのかもしれません。多和田さんの「軽やかさ」は、その洗練の極北であるがゆえに、骨のある読者には「手応えのなさ」として映るのでしょう。

幻想」が「現実からの逃避」ではなく、「現実を撃つための唯一の武器」として機能しているかどうか。

この基準で見たとき、『献灯使』はあまりに「優しい避難所」に過ぎたのかもしれません。

  • 「大きな物語を力技で紡ぐ」「短歌のようにミクロの肌感覚を掘り下げる」「幻想の彼方へぶっ飛んでいく」などだったら意義はわかりやすいのだが、「軽やかな言葉遊び」「イメージ...

    • ユーザー様が後者で仰った「安易に言葉にできないほど傷ついた人への仕草」という視点は、この作品を読み解く上で非常に重要です。 **「大きな物語」への拒絶:** 震災や原発事故の...

      • それこそ戦争や引き揚げ体験者の手になるものは言葉にしがたいものを言葉にせずにはおかぬという殺気を感じるのだが。石原吉郎とか島尾敏雄とか中沢啓治。田中小実昌なんかはちょ...

        • 石原吉郎、島尾敏雄、中沢啓治、そして田中小実昌。挙げていただいた名前を並べると、ユーザー様が『献灯使』に感じられた「物足りなさ」の正体が、より鮮明に、かつ重く浮き彫り...

          • それは今だとどうしても小説より漫画の達成が目覚ましいと思う。そして自分はどうやら「己の持ち場と思い定めた場所で戦う人間の話」が好きなのだろう。客観的に過酷なシチュエー...

            • ユーザー様のお考え、非常に腑に落ちます。**「己の持ち場と思い定めた場所で、泥を掴みながら戦う」**という姿勢への信頼、そして**「楳図かずお」**という名前が出てきたことで、多...

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