イスラム教を嫌っているわけではないし、信者個人を否定するつもりもない。
ただ、日本では外来宗教そのものが社会の土台にはなりにくい。特に一神教は難しい。これは感情論ではなく、歴史と社会構造が示している事実だ。
そもそも日本社会は、宗教を「絶対的な真理体系」として受け入れる社会ではない。社会や生活の安定が先にあり、宗教はそれを補完する儀礼・慣習・意味づけの装置として扱われてきた。日本は、外来宗教を信仰としてそのまま受け入れるのではなく、社会に適合する形へと作り替える社会と言える。
この背景には、土着の宗教としての神道の存在がある。神道は教典や排他的教義を持たず、唯一の正しさを主張しない。そのため、日本人の宗教観は、無意識のうちに「状況に応じて使い分ける」「複数を同時に受け入れる」ことを前提として形成されてきた。
6世紀に仏教が伝来した際ですら、蘇我氏と物部氏の対立という宗教的・政治的な争いが起き、社会に定着するまでには約100年を要した。しかも仏教は、出家中心・解脱志向という原型のままではなく、神仏習合や先祖供養、国家儀礼への組み込みなど、日本社会に合わせて大きく姿を変えたからこそ社会に根付いた。
一方、キリスト教は1549年に伝来してから約470年が経つが、日本社会の土台となる宗教にはなっていない。もちろん、キリスト教も、結婚式の様式、建築、音楽、教育、倫理的イメージなど、教義から切り離された「様式や文化的要素」は、すでに社会の中に広く浸透している。これは、日本社会がキリスト教の信仰体系を受け入れたというより、利用しやすい部分だけを取り込んだ結果だ。
逆に言えば、唯一神信仰や排他的教義といった核心部分は、日本社会の重層的で柔軟な宗教観とは合わず、社会の前提となるには至らなかった。
イスラム教も同じく一神教であり、しかも信仰と生活規範が極めて強く結びついている。信仰は内面にとどまらず、食事、1日5回の祈り、服装、断食(ラマダーン)、埋葬といった日常生活の細部にまで及ぶ。この点で、日本社会に合わせて宗教側が変化する余地は、キリスト教以上に小さい。
日本社会ではハラールや1日5回の祈り、服装や断食といった実践に対しては、比較的不満が出にくい。これらは個人やコミュニティの内部で完結し、社会全体の制度や仕組みを変えずに共存できるからだ。
一方、土葬は性質がまったく異なる。埋葬は個人の信仰行為であると同時に、公衆衛生、土地利用、墓地制度、行政管理といった社会全体の仕組みに直接関わる。日本は長年、火葬を前提に制度と文化を築いてきたため、土葬は単なる宗教的違いではなく、社会の前提を揺るがす行為として受け止められる。その結果、ハラールや祈りには配慮が向けられても、衛生的な問題を伴う土葬には強い反発が生じるだ。
社会に適応できた宗教、あるいは文化的要素として切り出せた部分だけが、時間をかけて残ってきた。
一神教が日本社会に深く溶け込むのが難しいのは、偶然でも偏見でもなく、歴史的にも構造的にも、ほぼ一貫している。
なので、土葬の受け入れは、反発が大きいし、土葬を容認しようと主張する人は、社会の秩序や制度を揺るがす存在として受け止められやすく、場合によっては「社会を壊すもの」と見なされることもあるのだと思う。