yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大衆演劇の十八番、『上州土産百両首』が「新春浅草歌舞伎」にかかる!

以下が配役。

正太郎:市川 猿之助
牙次郎:坂東 巳之助
勘次女房おせき:上村 吉弥
宇兵衛娘おそで:中村 梅 丸
亭主宇兵衛:市川 寿 猿
みぐるみ三次:中村 亀 鶴
金的の与一:市川 男女蔵
隼の勘次:市川 門之助

『歌舞伎美人』に掲載された紹介記事が以下。

歌舞伎に限らずもっと上演してほしい
   ――『上州土産百両首』
 六世菊五郎の正太郎、初世吉右衛門の牙次郎で、昭和8(1933)年9月東京劇場で初演された作品。「オー・ヘンリーの短編が元なので、非常に洒落ているんです。歌舞伎座での上演(平成6å¹´12月)は、猿之助(猿翁)・勘九郎(十八世勘三郎)が何十年ぶりかの共演ということで選ばれ、僕は自主公演で(平成22å¹´8月国立劇場)、福士誠治という俳優との仲のよさが芝居に出ればいいだろうとやりました」。
 男二人の友情、信頼、関係性が描きこまれており、「二人がよく"立つ"。よく見える。本当によくできている」と言います。今回の牙次郎役は巳之助。「友情とはまた違うものも出せたら面白いと思います」。猿之助の正太郎は「気のいい役で、いいせりふも多い。また、舞台が浅草の待乳山聖天様でちょうどいい」と、浅草での上演を楽しみにしている様子。そして「いろんなジャンルの人がやってくれれば」と、上演を重ねて作品を残したいという強い思いを感じさせました。

この芝居がオー・ヘンリー原作とは知らなかった。 早速原作をネット検索してその短編を読んでみた。”After Twenty Years” という、(pdfファイルで)数ページの短編だった。タイトルにリンクしておく。

興味深かったのは、原作短編の発端部分。一人の男(Bobというこの男が『上州土産』では正太郎にあたる)が、二十年前に待ち合わせをした友人のJimmy(『上州土産』では牙次郎)を待っていると事情を説明する場面から始まっていた。

警官が去ったあと、ようやくBobは二十年前に再会を約束していた「Jimmy」に出会う。西部で成功して羽振り良さげなBobと現在は公務員をしているというJimmyの二人は、連れ立って歩いて行く。とそのとき、Bobは相手がJimmy本人でないことに気づく。Jimmyを名乗った男は実は警官で、「”Silky Bob”と異名をとったお尋ね者のお前を連行するのだ」という。そして彼に手紙を渡す。

それはBobが最初に出会った警官からのもので、「さきほど会った警官こそが自分、つまりJimmyだった。Bobの顔を彼がタバコを吸おうと擦ったマッチの灯りでみた途端、それがシカゴでお尋ね者になっていた男と判った。だが自分で逮捕するのは忍びなく、他の警官にそれを任せ、この手紙を書いた」と認めてあった。

大衆演劇でこの芝居が演じられる際、いまや岡っ引きの助手になっている牙次郎はどうしても正太郎に縄を掛けることが出来ない。ましてや警官側に立って彼の逮捕を誘導するなんてことはない。むしろ、二人の途絶えなかった友情に涙し、なんとか逃がしてやろうとまでする。それは日本版が男の友情(いうなれば日本的なウェットさ、情を強調している)というテーマの上に成り立っているからである。それは上に引用した猿之助の弁にもよく表れている。

日本版「二十年後」とオー・ヘンリーの原作を比べると、もちろんオー・ヘンリー版の方が近代的といえるだろう。人の心が長い年月でいかに変容するかというのが、テーマだから。きわめてドライ。「オー・ヘンリー短編って感傷的な作品ばかりだ」というのが誤解だったことが、分かった。でもそういう近代性は日本の芝居では(観客が)なかなか受け入れ難いとは思う。とくに伝統演劇の世界では。それにしても、『上州土産』がアメリカ文学を下敷きにしていたなんて。それも、たとえば先日記事にした谷崎の『春琴抄』が、トマス・ハーディの ”Barbara of the House of Grebe”からのアダプテーションであった以上に、近似性が高いことにも驚いた。これで論文が一つ書けそうなんて考えてしまった。

猿之助は彼の言葉にもあるように、2012年の自主公演、「亀治郎の会」でこの作品を舞台に乗せている。そのときは福士誠治が牙次郎をしたようである。この方、私の大好きな俳優さんの一人である(どうでも良い情報で、失礼)。これを知ってうれしくなった。3、4月の猿之助、「スーパー歌舞伎II,『空ヲ刻ム者』」でも彼と組んで出演することになっている。

今回の猿之助の『上州土産』、どういう形になるのか、とくに若丸バージョンと比べてみたい。