ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『黄金虫変奏曲』リチャード・パワーズ/森慎一郎・若島正訳

思いのすべてを歌にして

他の何は調べられても、価値を調べ出すことはできない。(p.33)

科学の目的は制御じゃない。・・・支配じゃない、畏敬なんだ。(p.547)

私たちは情報から知を抽出したけれど、それでは足りない。・・・私たちに必要なのはあれだ、・・・思いやりのコード。(p.810)

<<感想>>
・アリア

これは、私のために書かれた小説だ。

『黄金虫変奏曲』―"The Gold Bug Variations"。ポーの『黄金虫』―"The Gold-Bug"と、我が最愛のバッハ「ゴルトベルク変奏曲」―"Goldberg Variations"のパロディである。

今日は、『黄金虫変奏曲』と同様、ゴルトベルクの形式で感想を書いてみる。

・第一変奏

が、そのとき、戻ろうとする自分のステップの上拍に、レスラー博士の驚くべき変奏、その第一番の訪れを感じたのだ。(p.23)

語り手であるジャン・オデイが、主要人物であるレスラー博士と初めてあうシーン。

この場面に典型的なように、本作は終始ゴルトベルク変奏曲が最重要なテーマとして用いられる。

午後の残りを、私は普段どおりの仕事で、事実を分け与えて過ごした。英語で使用頻度の高い文字のベストテン。(p.25)

ジャン・オデイは図書館のリファレンスデスク勤務。この「ベストテン」は利用者の問いである。そして、文字の使用頻度は『黄金虫』に登場する暗号解読のキーでもある。本作では、『黄金虫』を筆頭に、文学作品への膨大な「リファレンス」も主要テーマとなっている。

・第二変奏

「前にきみをどこで見かけたか、わかったよ」・・・「クリュニー美術館のタペストリー。貴婦人と一角獣」それはほめ言葉のつもりだった。中世盛期のフランドルは彼の専門分野なのだ。(p.37)

三人目の主要人物、フランクリン・トッドがジャン・オデイを評して。そして次なる主要テーマは(特にフランドル派の)美術である。このタペストリー、「ごめユニコーン」でも有名。国内では大塚国際美術館でレプリカが見られるけど、これがまた良いんです*1。

何年もかけて、私は三×五インチのQ&Aを大量にため込んできた。(p.41)

三×五インチ。物語の最初の1行にも登場する。オデイは図書館仕事の一環で、市民からの質問掲示板の回答作成を担当する。

三×五の問いと答え。ゴルトベルク変奏曲は、全30変奏(と前後のアリア)からなるが、三変奏でひとまとまりの構成となっている。そして、第十六変奏は"overture"すなわち序曲と銘打たれており、大きく前半と後半に分かれている。すなわち、この三×五は当然、ゴルトベルク変奏曲を、そしてこの物語全体の構成を仄めかしている。

・第三変奏

三文字ずつにわけてあるのは、遺伝コードのユニットが塩基三つの組み合わせであるという通説に敬意を表したもの。(p.58)

ここはレスラー博士ことスチュアート・レスラーが暗号解読するシーン。レスラーは生化学あるいは分子生物学の専門家だ。そしてこの遺伝と生命の物語が、最後の重要テーマだ。

ここまで紹介した三人の主要登場人物が表象する各テーマ(文学、美術、科学)が、音楽というテーマによって統合されて行く*2。

ひと足遅れでいちから再スタートしたお行儀のいいメロディが、それ自体とぶつかり合う。(p.76)

レストランでふいにゴルトベルクが流れてくる場面。ここで言及されているのは第三変奏だろう。ゴルトベルクでは、三の倍数の変奏がカノンで書かれている。カノン。たぶん一番有名なカノンは「かえるの歌」。同じ旋律が、別の声部で追従される音楽。

本作もこれと同じ構造。あとで取り上げるように、作中でも特定のモチーフが、別の場面で再スタートし、ぶつかり合う。

・第四変奏

葉巻の吸い殻も、指紋も不要。ただ、ベルギー人の名探偵が言うように、小さな灰色の脳細胞だけでいい。(p.92)

ここの名探偵は言わずと知れたポワロ。アガサ・クリスティからのリファレンス。相当程度の引用に注が付いているが、このくらい有名なものは訳注無しで飛んでくる。

数えきれないほど膨大な街のくせに、ふとしたことでいやになるほど小さくなってしまう。あのナウルと同じ、おのれを掘って消えようとしている。(p.109)

ナウルの初出は42頁。例の質問掲示板で、世界一豊かな土地を問われた際の回答で登場していた。本作では、カノンのように前に登場した小さなモチーフが後で再登場する場面が頻出する*3。

・第五変奏

飛び交っているのはすべて異なる言語間にまたがるパトワである。(p.129)

パトワ。ある地域(特にヨーロッパのフランス語圏)の標準語や有力言語に対する方言や少数言語全般を指す用語。

問題なのは、パトワという言葉ではない。本作は、様々な分野のテクニカルタームが原注なしで次々に用いられる。この過剰な衒学趣味も、本作を構成する要素の一つだ。

「ジョー、このラボで予防接種を拒んでいるのはきみだけなんだ」

・・・「ぼくの母はクリスチャン・サイエンス信者なんです。それが理由です」(p.135)

計算し尽くされているかに見える本作において、計算されていたはずのない現代社会との共鳴。文学はむしろ、意図されざる部分こそ面白い。

・第六変奏

お次は一七四一年、ベーリングのアラスカ到達、ちょうど同じころ—なんとも奇怪なアナクロニズム—バッハは『ゴルトベルク』を解きほぐしていた。(p.137)

ここまで来てようやく「ゴルトベルク」という単語の初出。ここでゴルトベルク変奏曲についてももう少し解説*4。変奏曲。たぶん一番有名な変奏曲は「きらきら星変奏曲」。ことば通り、主題が様々に変形されていく音楽。

「ゴルトベルク」が異質なのは、一見して変奏曲に聞こえないこと。楽譜を見ながら説明されるとわかるのだが、実は根幹の主題となっているのは左手の低音の部分。各小節の最初の音が同じなのである。

この主題の音が一番聴き取り易いのは、たぶん第四変奏だ。

もう一つ。ゴルトベルクは「対位法」で書かれた曲だ。バフチンやクンデラも好んで比喩として用いる「対位法」。垂直的融合を重視する和声法に対して、水平的融合を重視する技法などと言われる。素人的に要約すれば、左手が右手(メロディ)の伴奏をする和声法に対して、左手と右手が独立したメロディを奏でるのが対位法だ。ゴルトベルクでは、二本の手、十本の指で、最大四つのメロディが同時に奏でられる。

次の動画が、声部を色分けしていてわかりやすい。動画で流れている第十変奏の四声は、本作でも印象的な場面を構成している。

本棚には他にも魅了されるものがある。カビがはえた、生まれる前のフルトヴェングラーのレコード盤、片面プレスなのが嬉しい。

「この人、本当にナチ協力者だったんですか?」(p.150)

音楽のテーマで登場するのはバッハだけではない。フルヴェンの他にも、ベートーヴェン、マーラー、ケージなどなど、クラオタの琴線を揺さぶる引用は多い。

・第七変奏

「法案は結局通ったが、当然ながら効果なし、人間の知性は思いつくかぎりの宣伝を具現化し続ける」。(p.171)

ここでいう法案とは、白衣を着た人物が登場する「科学的」なアピールをする広告を禁止する法案。この文章はレスラー博士のラボの場面に置かれている。ところで、オデイの同棲相手であるキース・タックウェルはいわゆる広告マンである。時系列や場面を跳躍してイメージを連結しているのである。

また、本作の主たる舞台はブルックリン。拡大し続ける高度資本主義社会の営みは常に背景にチラついている。

そこはすべての窓が銀塗りで、外の世界は街の灯りが結晶回折像として見えるだけ—ホイッスラーの夜景画のきらめきだ。(p.190)

衒学趣味と美術趣味のセット販売。パワーズの文章には、知的な文章、上手い文章、感心する文章は多い。しかし、思わずはっと息を飲むような美しい描写はあまり見つからない。そんな中、この文章はフェルメールの耳飾りのように光り輝いている。

・第八変奏

レスラーは贈り物の包み紙をほどく。録音されてから二年経つバッハの『ゴルトベルク変奏曲』、この演奏でデビューしたピアニストは・・・カナダ人で、しかもほんの少しレスラーより若いときている。(p.206)

作中で一度も名指されることのないその男の名は、グレン・グールド。ゴルトベルクがアリアに始まりアリアに終わるように、ゴルトベルクを弾いてデビューし(1955)、ゴルトベルクを弾いて死んだ男(1981)。ゴルトベルクを世に知らしめた左利きの天才ピアニスト。

作中鳴り響いているのは1951年版だが、私の好みは1981年版である。

「どんなデータが送られてくるんですか?」・・・「さあね、シェイクスピア全集かもしれないよ一本のストリームで毎秒四百八十字」

遺伝をめぐる隠喩としては、これが私のお気に入りになりつつある。(p.221)

文学(レファレンス)の主題と遺伝の主題の統合の一例。タイトルの言葉遊びに反して、本作で最も重要な引用はシェイクスピアだ。

・第九変奏

・・・書庫に出かけて黄金虫を探しにいったときのことだ。一文字削除して、一文字挿入し、さらに一文字置き換えるとゴルトベルクになる。(p.232)

ここで本作のタイトルの言葉遊びが確認される。しかし重要なのはそこではない。削除、挿入、置き換え、そして"bug"。DNAの複製エラーの隠喩であると同時に、プログラム・コードのバグが仄めかされている。

彼は遊び場で嫌われるという通行料を払った。一晩でゲティスバーグの演説を暗唱し、しかも解説できることで嫌われた。(p.219)

浮きこぼれ的あるあるエピソード。衒学趣味に共感できる読者のハートを狙い撃ち!こういうところ、迎合しすぎて秋元康感が出ていてちょっとひく。

・第十変奏

でもそんなことより、タックウェルを偽善者よばわりするなんてとんでもない話だった。プライベートでは躁病的、仕事では重役連中のお気に入り、鉄とガラスの街に完璧に適応しているキースは、ジレンマを生きるにあたって私よりよっぽど正直だった。(p.268)

でもそんなことより、本作の物語の筋書きは、実は単純なラブストーリーなのである。ジャンとフランクの現在の恋愛、レスラー博士の25年前の恋愛、この二つ恋愛譚の対位法。つまりはキース・タックウェルは当て馬のフラれ役である*5。

それにしてもどうしてこう、恋愛物語ではこの手の社会的に成功するタイプはフラれる運命にあるんだろう。私はこのキースも好きだし、カレーニンなんかも大好きだ。

ブリューゲル、『穀物の収穫』。四季の移ろいを描いた連作月歴画の一枚。・・・「万が一はぐれたら」彼はそう言った。「ぼくはここにいるから」(p.298)

ゴルトベルク、リファレンス、美術、遺伝。重要な役者をまだ紹介していなかった。それは「四季の移ろい」である。本作は作中の年月日が詳細に描かれており、それに合わせて季節の言及も多い。

この4という数字を、DNAを構成する四種類の塩基(base)であるATGCと、ゴルトベルクの主題であるソ/ファ♯/ミ/レ*6にリンクさせている。

・第十一変奏

もともと近親相姦じみたところのある職場の人間関係を私的交遊に持ち込むというこの慣習は、かくもあまねく広まっている以上、生産性の増大を狙った資本主義の陰謀としか思えない。(p.304)

日本人はこういうのって日本型社会の特徴だと思っているけど、程度の差こそあれアメリカでもこうなのね。アメリカ文学を読んでいていつも思うのは、戦後日本社会との相違点よりはむしろ意外なほどの類似点。

・・・それでも彼の唇の疼きに応答したその動きで、彼女はお互いが合図を送り合っているという、ほとんど気づかれないような、再帰的な暗示をしている。知っているということを、彼に知らせているのだ。ほら。バレてるわよ。彼女は認める。一瞬、彼女が見つめ返す。(p.317)

性交の描写はすべて互いに似かよったものであり、恋愛の描写はどこもその描写のおもむきが異なっているものである。なんて、トルストイに祟られそうだけど。

パワーズがえらいのは、ここまでオタク度が高いのにもかかわらず、恋愛描写がきちんとしているところ。ほら、専門分野の描写はリアルだけど、恋愛描写は薄っぺらな理系ミステリィとか、あるじゃないですか。

・第十二変奏

その同じメカニズムから、形がどのように生じるのかがわからない。いつ骨を作り、いつ膵臓を、鱗を、髪を、皮膚を、腸を作ればいいか?心臓はどこまで大きくなるべきか?どうすれば血を送り出し始めるのか?そもそもどうやって心臓を表すのか?(p.333)

科学者にせよ芸術家にせよ作家にせよ、本当に必要なのはきっと驚く才能だ。見過ごしがちな事象にスポットライトを当てること。「タネだけからこの咲き乱れる庭を生み出せるのか?」。その単純な事象に対する驚きをアウトプットできること。パワーズはこの才能に恵まれている。

「有毒産廃の垂れ流し。オゾン層の破壊。熱帯雨林は年々コネティカット州サイズで減少中。私たちの定年までに十万の生物種が死滅。どこまで賢くなれるの?」(p.347)

この記事の冒頭の引用も示すとおり、パワーズの科学観は内省的。そうであるがゆえに、文学、絵画、音楽のような外見的なテーマ群に反して、小説全体では意外なほどに政治的なテーマが示されている。

・第十三変奏

聴くのは変奏曲の一つ一つ、誕生日ではなかった日のプレゼントにもらったレコード。(p.358)

このレコードは、第八変奏の箇所で引用した贈り物に入っていたものだ。誕生日じゃない日に送られたプレゼント。この、「誕生日じゃない日」のモチーフも繰り返される。ところで、原著がないので確認できないけれど、これが"unbirthday"ならキャロルからの引用だろう。そして、"unbirthday"なのであれば、"un-birthday"であると同時に、"un-birth-day"という、本作後半のテーマの隠喩も含まれている。

・第十四変奏

地球はかつてないほど完全降伏に近づいていた。あまねく広がる衝突の中で「武力」と特記される地域紛争や宗教紛争が一ダース、日々の暮らしを取り巻く毒性廃棄物、国際経済のあちこちにぽっかりと空いた穴、十か月ごとに一世紀分が失われていく表土・・・(p.392)

ピンチョン【過去記事】を読んでいるときにも思ったけれど、相互確証破壊が当たり前の空気になる前の時代の人々は、近い将来世界が終わる感覚をある程度リアルに感じていたようだ。終わりなき日常が始まり出すのは、ちょうど本作が書かれたころからということか。

彼の方も思わぬ意味の横滑りが大好きだった。・・・いわく、「近親相姦は想像よりも日常的」(p.401)

小説にも笑いは大事な要素。この第十四変奏はお気に入りの笑える箇所が多かった。ムジャヒディン(p.417)とか、ショウガ入りクッキー(p.397)とか。アメリカ文学的な笑いのノリ、嫌いじゃないです。

・第十五変奏

私は「変奏」という言葉自体、「虚無主義」や「言い表せぬ」と同じく、レスラー博士が絶えず探していた一語でできた名辞矛盾の最良の例の一つなのだと気づいた。(p.437)

さて、第十五変奏。ゴルトベルク党なら読む前から、第十五、第二十一、第二十五の各変奏が重要な章になるという予想は付いている*7。なぜなら、この三つの変奏はト長調で書かれたこの変奏曲の例外として、ト短調で書かれているからだ。最初の短調は、小手調べ的に少し形式を換えて書かれている。

そしてこの「名辞矛盾」。リファレンスと文学の主題が帯びた新しい変奏的性格だ。

「時間がたっぷりあれば、のんきに歌ううちにト長調のドレミから『ゴルトベルク』のベースに至る種だってあるかもしれない」(p.439)

鳥の鳴き声に対する言及。音楽版バベルの図書館。第八変奏のシェイクスピアと同様、無限の可能性に拡張するコード化の深淵と、その可能性の中から現存する遺伝子やゴルトベルクが生まれていることに対する驚嘆とを示している。

・第十六変奏

親愛なる我らがオデイへ・・・(p.449)

第二変奏で指摘したとおり。"overture"―序曲。ここからが新たな始まり。第一変奏と同様に、フランクリンからオデイへ宛てた手紙で始まる。ニクい演出。

受け取るに値する唯一のメッセージはつねに妨害され、歪曲され、翻訳の際に失われると思い知らされたからなのだ。(p.464)

文学の主題は名辞矛盾の変奏を経て、翻訳の失敗、名指すことの困難性へと変化する。そして当然、翻訳の失敗とは、生物種の多様性の源泉となる遺伝コードの複製エラーを同時的に示している。

 

・第十七~第三十変奏(抄)

 

・・・・・

 

・アリア

このまま第十七~第三十変奏までの対位法を続けることもできたかもしれない。しかし、過度のネタバレは無粋だろう。

それに、文学は解釈に開けている。ぜひ、本作を読んで、パワーズと共に自分自身の変奏曲を奏でて欲しい。

この小説は、あなたのためにも書かれているから。

 

お気に入り度:☆☆☆(テーマほどには文体を愛することができなかったため)

人に勧める度:☆☆☆(要鈍器耐性、バッハ好きその他芸術愛好家向け)

 

・もっと鈍器を!な人はこちら

<<背景>>

1991年発表。作者の長編小説の3作目であるそうだ。

著者は1957年生まれで、恐らく当ブログで取り上げたことのある英語作家の中では最も若い。珍しく私が現代作家の作品を取り上げたのは、当然ゴルトベルクが好きだからだ。

感想でも書いたとおり、レファレンスが一つの主題であり、唸るほどの文学作品が引用される。近日公開の記事にも関係するので、記憶に残っているところだけメモ的に書くと、ポー、シェイクスピア、メルヴィル、スティーヴンソン、フローベール、キャロル、ドストエフスキーなどに言及されている。

<<概要>>

感想で示したとおり、全32章構成。ゴルトベルクの30変奏プラス2回のアリアと対応している。時系列は3つ、人称は2つに分かれ、複雑な対位法的旋律を奏でている。

一つは1957年、レスラー博士の恋物語で、こちらは三人称の物語。

もう一つは1983年、オデイがフランクリン・レスラーと出会ってからの物語で、一人称回想体。

最後が1985年、回想をしているオデイ自身の現在時で、当然こちらも一人称だ。

四季の移ろいの主題に合わせて、いずれの時間軸も、夏至に始まり夏至に終わるようにできている。

<<本のつくり>>

二段組850頁という驚異の鈍器ぶりで、翻訳にも長いこと時間がかかったそうだ。訳者は私の推しであるところ若島正(『ロリータ』【過去記事】の訳者)と、森慎一郎(淡い焔【未来記事】の訳者)である。

感想で拙いパスティーシュを試みたように、体言止めや無生物主語の多い文体だが、訳文に違和感はない。むしろ、原文の言葉遊びが日本語の読者にも伝わるように、カタカナルビを多用するなど、苦心の跡がうかがえる。本書後半では翻訳論にも話題が及ぶが、どういう気持ちでここを訳出したのだろうか。

恐らく、本書でもっとも苦労したのは訳注を付す箇所の選択だろう。実際、非常に多くの訳注が付されてはいるが、当然原書には注はないはずだ。そして、恐らくは母語読者にとっても、語釈がないのを苦痛に(そして快楽に)思う程度にはテクニカルタームが注ぎ込まれている。

このため、テクニカルタームについては、敢えて語注が付いていない。私も随時グーグル先生にお伺いを立てながら読み進めた。無数の引用に関しても、アメリカの文化的背景に依存するもの(たとえば過去のテレビ番組や流行歌など)や、日本の読者に馴染みが薄い作品からの引用(詩など)には丁寧に訳注が付される。

ところで、読んでいて最も戸惑ったのは、ゴルトベルクの楽譜の最初の音符が「ド」と呼称されていたところだ。固定ドと移動ドを正しく説明できるほどの力量は私には無いが、ようは第四線上の音符は常に「ソ」と読む考え方と、同じ音でもト長調の主音は「ド」と読む考え方があるということ。たとえば、絶対音感持ちの我が家の8歳児はこれを「ソ」といい、大学デビューのベーシストである私の兄はこれを「ド」という。

確認したところ、原書の時点でこれを"Do"と表記していたから、訳者がどの程度この問題に意識的だったかは不明であるが、これを「ド」と訳出するのが自然だろう。

私と同じようにあの音を「ソ」だと信じて読み始める方は多いと思われるので、この点は注意されたい。

 

*1:関係ないけど、レディ&ユニコーンシリーズのグレンタレット40yという素晴らしいウイスキーも・・・

*2:542頁の三人連弾のシーンはその象徴である。

*3:このうち最も繰り返されるのは、「広間に月明かりを持ち込む」モチーフ。シェイクスピア『真夏の夜の夢』より。

*4:作品内でも、第二十七変奏まで読むと詳細な解説がある。

*5:あすなろ白書のキムタクって書くとおじさんがばれるので注に落としました。

*6:この表記については本記事の末尾を参照。

*7:21と25については是非読んで確かめて欲しい。