ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-11『ヴァインランド』トマス・ピンチョン/佐藤良明訳

君はドレスに裸足のままで

六〇年代の政治闘争、ドラッグ、セックス、ロックンロール、みんなぶちこんだ映画つくンノ、これがワシらの野望でな。(p.70)

<<感想>>

きっとたぶん全部『重力の虹』が悪い。

重厚長大難解。全部嘘だ。むしろ軽妙にしてスピーディ、まるで黒澤明の娯楽作品のように、込み入った筋を繋ぎ合わせる妙技の冴えが素晴らしい。

はたまた、パラノイア?これも嘘だ。ピンチョンのパラノイアは似非パラノイアだ。コメディタッチの背後には緻密な計算と読者への配慮が透けて見える。

この店の夜の店長、バーバー・ハヴァバナンダが口を開いた。(p.70)

今朝、ふたりを待っていたのはヴァートとブラッドだった。"牽引ビジネス"をやっている例のコンビである。(p.224)

この物語には実に多くのマイナーキャラクターが登場する。注目すべきは個々の人物たちではなく、登場のさせ方である。最初の引用のように、三人称の語りの長所を最大限利用し、登場人物の紹介と振る舞いを短く済ませ、明確なポジションを割り振る。さらに上手なのが、二番目の引用の箇所のように、間をおいて*1登場する人物については、きっちり記憶喚起を行う点だ。

さて、肝心の物語の中身はというと、1960年代末期を舞台に、学生運動の記録映画を作るグループに属する女性フレネシと、それを叩き潰そうとする「ファシスト」*2的な検察官ブロック・ヴォンドとの対立が軸になっている。ベトナム反戦、学生運動、ヒッピー、ポップカルチャー、「セックス、ドラッグ、ロックンロール」といった60年代的カウンターカルチャーと、資本主義、父権主義、キリスト教に代表されるような守旧的価値観との対立を描きだし、そしてそれによってアメリカを描き出している。

こんな風に要約すると、当ブログ的には嫌な予感しかしない。それというのも、他の作品の感想で、60年'Sの価値観をディスり【過去記事】、左派ドゥングスロマン【過去記事】は退屈だと罵り、アメリカ人が書く小説のテーマはアメリカばっかり【過去記事】だと悪口を言っているからだ。

ところが、ピンチョン閣下はそんな心配を一蹴してくれる。

たとえば本作と同じようなテーマ群を用いて、一人称視点か、三人称でありながらも主人公に視点人物を固定したような物語を作る。学生側=善、権力側=悪として、友人や教師や恋人との出会いを通して主人公を成長させれば、クソ小説の一丁上がりだ。

ここでもピンチョンの忍術は冴える。物語の中心であるフレネシから語りの位置をずらして、その娘である14歳のプレーリィを視点人物に据えるのだ。このため、作品の現在時は60年代ではなく1984年~となる。「母の過去を探る物語」として仕立てあげて、60年代を相対化をしているのだ。これにより、悪しき勧善懲悪に堕さず、物語に厚みを持たせることに成功している*3。

もう一つ、『ヴァインランド』の際立った特徴として、リアリズムに固執していない、という点が挙げられる。例えば、フレネシの学生時代の仲間で、後にプレーリィの探索を手助けするDLという人物が登場する。彼女はなんと、無敵のニンジャガールなのである。あるいは、一度死んだ登場人物などが、シンデルロ*4という名称の死にぞこないとして物語に登場したりする。

最後に、このある種異様な文体にも触れなくてはならない。ディティールが異様に細かいのだ。同じディティールの細かさといっても、プルーストのような微細な内面描写とも、ナボコフのようなもって回った表現とも異なる。物語に登場する音楽、武器、TV 番組、靴などの小道具への言及が奔流のように押し寄せてくる、そういう細かさだ。

熟練の小説家が見せるこれらの小説技法により、本作のテクストはより外へと大きく開かれる。

まず、本作を素直に読解してみる。すると、左右の激しい闘争の歴史を前提に、努力・出世・成功・失脚というテクノクラート的な価値観の交換可能性に、地縁・血縁という交換不可能な人間的関係性を対置したのがポイントのように思われる。これは、次の引用箇所に端的に示されている。

・・・ポケットのコインはだんだん減っていくけれど、無言で自分のゲームに没頭する者たちの間で、だれにも気づかれず、スコアだけがすべてと化した人生を生きる。目当ては一列に並ぶ数字だけ。得点を伸ばし、他人のイニシャルの列の間にほんの短い時間、自分のイニシャルを差し挟んでおくことだけ。もう外の世界とはからまない、それ自体の内に固く閉ざされたゲーム・タイム。その狭い枠のなか以外にけっして彼女を連れ出してくれない、死を超越したというのは見せかけだけの、アンダグラウンド・タイム。(p.367)

だが、先ほど指摘したとおり、本作のテクストは大きく開かれている。これを本作の物語の中だけに押し込めておくのは実にもったいない。

・現代アメリカ

まずは軽いジャブ。やっぱりこの物語と現代アメリカの分断状況とを見比べてみるのは面白そう。特に、両陣営を支える要素が60年代と今とで、どれほど同一でどれほど異なるのか。例えば、2016年のアメリカ大統領選挙では、知識人ほどリベラルの支持にまわった。エスタブリッシュメント嫌いの気質はむしろトランプ支持へと向かい、60年代とは左右逆転している。行儀の良い左派とヘイトを撒く右派という関係性も面白い。

・女性性

プレーリィが読者ウケする人物像に押し込められている反面、フレネシの描写が実に面白い。この複層的な人物を描けているところが、本作の最も見事な点といっても良い。特に、赤ん坊(プレーリィ)を生んで憎しみを覚える場面が素晴らしく、母性を巡る物語の暴力に冷や水をぶっかけている。

赤ん坊は搾取のプログラムを進めるばかりで、自分のことを寄生宿としてしか認知せず、母乳と睡眠を奪い取っていく。母親になることで人は新たな汚れなき魂、真実の愛、大人の現実に向けての跳躍を勝ち取るとか聞かされたことがあったけれど、何のことだかわからなかった。(p.358)

・日本の戦後

本作を読んで強く感じるのは、日本の戦後史との親和性だ。それは、ニンジャガールが活躍し、舞台の一部として日本が選ばれ、日本人の主要人物まで配置されていることから来るのではない。恐らく、日米安保以来30年の長きにわたり同じ政治的立ち位置に居たことにより、ある部分において日本がアメリカの写し絵*5になっていることから来るのだ。

例えば、作中、フレネシの裏切りが原因で学生運動が崩壊する場面がある。ここでは、政治運動だったはずの活動が、男女関係が元で崩壊に行き着いている。これ、私としては山岳ベース事件*6を想起せずにはいられない。あるいは、次の文章なども、日本の学生運動への言及としても成立しそうだ。

いわゆる、"過激派愛好会"。気分屋で、ひとつのことに集中がきかない、単にスリルを求めて群れてきただけ、女とドラッグが手に入りゃそれで満足、政治なんかは実は頭にない・・・(p.339)

日本戦後史との関連をもう一つ。

LSDの力が信じられ、革命の成功が信じられ、東洋の瞑想のパワーも武術の奇跡も無邪気に信じられた時代である。DLの雲隠れの術にしてもみな文字どおり信じたのだ。(p.315)

LSD、革命、瞑想。チベット密教にTVショウまで出てくる。武術の奇跡をサリンの奇跡にして、雲隠れの術を空中浮揚の術にすれば、オウム真理教の役者が揃い踏みだ。本作は1990年の作品だから、教団による事件はまだ明るみに出ていない。しかし、同じ道具立て、拗らせた60年代の残滓は現実に日本社会が胚胎していた。

・日本の表象文化

さらに一歩進めて指摘をしたいのだが、日本の90年代エンターテイメント作品との親和性だ。先述した、小道具に対する偏執も、なんだか日本の物語作品におけるオタク的なこだわりと同じにおいを感じる。「無敵のニンジャガール」というアメリカ人受けする紋切り型の利用も、なんでもロボットモノにしたがる紋切り型の写し絵に見えてくる。14歳の子どもを主人公に据えて、親世代の宿題にケリを付けさせようとする様も踏まえると、具体的には『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~)の名前が浮かんでくる。

あるいは、70年代と00年代を往還する物語も知っている。この作品には、『ヴァインランド』と同様、バンドに熱中した過去にすがって生きていた中年親父が登場する*7。この親父、なぜかシングルファーザーで、女の子の赤ん坊を育てている。女の子の母には敵に付いた過去がある。やがて女の子は成長し、強大な敵と対峙することになる。そう、ここに挙げた作品とは『20世紀少年』(1999~)である*8。

ところで、『ヴァインランド』を読んで感じた最大の違和感は、敵役であるブロック・ヴォンドが強大過ぎることだった。ニンジャガールが出てくるような世界だから、荒唐無稽が許されないわけではないが、一個師団レベルの権力を握る検察官というのはどうにもしっくりこない。むしろ、「検察官」という権力性と、強大さというイメージを一人の人物に仮託された像だと理解した方がしっくりくる。しかし、そうすると今度は、その強大な権力=ブロック・ヴォンドという存在に、フレネシという一人の小娘が対峙するという構造自体に違和感を覚える。

そういえば、『新世紀エヴァンゲリオン』も『20世紀少年』も、「セカイ系」という表現で揶揄をされることがあった。『ヴァインランド』を媒介にして考えれば、90年代から日本・アメリカ双方でこうした表現が現れたのは、恐らく60年代的な連帯の破壊が所与のものとなり、国家≒世界という強大な存在と個人とが中間項無しで対峙する時代が現れたからなのではないだろうか。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(表象文化論とか好きな人にぜひ)

 

・池澤夏樹世界文学全集の他の作品はこちら

<<背景>>

1990年発表。本文でも触れたとおり、作中年代としては大きく二つの時代が取り上げられる。作中の現在時は1984年~である。作中にプレーリィが探ることとなる母フレネシの学生時代~はおおむね1969年~であり、ニクソン政権下と重なる。プレーリィは1970年生まれと思われる。感想で触れた山岳ベース事件が起きたのは1971年の暮れのこと。オウムはさまざまな事件を起こしたが、坂本弁護士一家殺害事件が1989年、地下鉄サリン事件が1995年だ。

なお、些末だが当ブログにとっては大事な話、作者ピンチョンは1957年からコーネル大学に学び、なんとナボコフ先生の授業を受けていたようだ。なんと羨ましい!!ナボコフ先生が許してくれそうな文章も一つ引用しよう。

まさにTVフリークの奇跡というべきか、網戸の向こう側に、ハンサムな連邦保安官が立っていた。網戸ごしに見る姿は、画素がやや角張すぎているものの、TV画像のようである。(p.110)

<<概要>>

章番号や章題はないが、改ページが存在する。改ページを一章で数えると、全15章構成だ。きちんと整理しようとすると時系列はだいぶ錯綜しているように見える。しかし、読み味としてそれを複雑に感じたりすることはほとんどない。それというのも、登場人物の出し方のテクニックと同様、時系列を歪めるときも、きちんとそれとわかるように描かれているからだ。

視点の取り方は三人称で、ほぼ神視点といってもよい。多数の人物を登場させることや時系列の跳躍を行うことと、可読性の要請との調和を図っているように見える。

<<本のつくり>>

素晴らしい訳業だ。膨大で詳細な訳注、巻頭の地図、邦語で読んでいても工夫が凝らされていることが伝わる訳文など、非の打ち所がない。訳者の先生は、本邦におけるピンチョン研究の第一人者のようだ。若島訳『ロリータ』【過去記事】のように、原文の偏執がダイレクトに伝わる偏執的な(褒め言葉)訳文といって良いのだろう。ただ唯一、二段組は読むのに疲れる・・・。

なお、本全集版のさらに2年後に、新潮社の「トマス・ピンチョン全小説」版として同じ訳者の『ヴァインランド』が出版されている。そちらの版は、本全集版の訳文にさらに手が入っているそうだ。訳注は凝縮された反面、「ヴァインランド案内」という独立した読み物が付加されたという。

*1:引用箇所の人物の初出は60頁である。

*2:フレネシ側の視点から見た表現

*3:さらに踏み込んでいうと、このプレーリィの使い方はちょっとあざとい。父娘の絆(P.74)とか、お料理奮闘(p.144)とか、ワル仲間との最後の万引き(p.413)とか、ウケのよさそうな感動譚をチョイチョイ挟み込んでくるのはどうか。

*4:素晴らしい翻訳

*5:逆もまた然り

*6:ドストエフスキーの『悪霊』との関係で語られることも多い。

*7:本作ではプレーリィの父、ゾイド・ホィーラがこれにあたる

*8:浦沢直樹氏だったらもしかするとピンチョンを読んでいてもおかしくない(明示的な影響関係があってもおかしくない)かもしれない