ご無沙汰しておりました。1年半ぶりの新刊です。
4/28(日)開催の超文学フリマにて、『筑波批評2013春』刊行です!
フミカ
筑波批評と合同スペースになってます。
今回、僕は書いてませんが。
詳しくは【フミカ宣伝】レヴュー・オブ・レヴュアーズ【枠組み編/実践編】 - フシギにステキな素早いヤバさ
筑波批評2013春
目次
グッドマン『芸術の諸言語』を読む
- 座談会 記号から美学へ――グッドマン『芸術の諸言語』をめぐって
- 『芸術の諸言語』要約
- 用語集
天海春香は遊具となりて揺動す――『百円M@ster』論 シノハラユウキ
にわかラブライバー対談―音楽・キャラクター・声優― 島袋八起+シノハラユウキ
ダンスについて――TVアニメ『ラブライブ!』OP「僕らは今のなかで」論 島袋八起
丘の向こうの不確かな楽園――『まおゆう魔王勇者』論 塚田憲史
ブックレビュー亜人(ヒューマノイド)SFの現在
グッドマン『芸術の諸言語』を読む
去年の夏頃から、ネルソン・グッドマン『Languages of Art』(未訳・以下『芸術の諸言語』)の読書会を行ってきまして、その集大成としての座談会です。
ネルソン・グッドマン(1906−1998)は、グルーのパラドックスなどで知られるアメリカの哲学者で、言語哲学、科学哲学、論理学、そして美学において仕事をなしています。彼は、学位を取る前に画廊を経営していたり、妻が画家だったりして、プライベートにおいても芸術との関わりが深く、この本もそのタイトルのとおり、芸術を論じたものです。
この本は、絵画や音楽もまた、言語と同様の枠組みにおいて分析することができるという彼の立場から、絵画や音楽をも含めた記号理論を立ち上げようとしているものです。
グッドマンの美学というのは、今現在においてあまり注目されているものではなくなっていますが、いわばアメリカ美学の古典といえます。
座談会参加メンバーは、
松永さん(9bit: ゲーム研究と美学)、高橋さん、真塚さん@truetombと、筑波批評社の島袋、シノハラの5名
松永さんは、ゲーム研究や美学を専門とされていて、再現芸術についてグッドマンの美学に着目されている方で、我々美学初心者に対して色々教えていただきましたが、それ以上に、マンガやゲームや萌え記号についての話なんかがなかなか面白いことになっているのではないかと思います。
島袋 やっぱり、タイトルに惹かれますよね。
高橋 俺にとってグッドマン避けがたくなってきた
真塚 一番不思議なのは、何故それがユニコーン的絵といえるのか
シノハラ マンガには複数のシステムが走っていると思う
松永 統語論レベルで分節されたもので萌えとか言ってる人は分かってない
まだ邦訳されていない本なので、内容について知らない人も多いと思うので、要約も載せておきました。
かなり詳細なレジュメになっているので、これを読めばグッドマン美学がかなり分かってしまうのではないか、というものになっています。
また、あわせて簡単な用語集もつけてあります。
天海春香は遊具となりて揺動す――「百円M@ster」論 シノハラユウキ
ここで考えてみたい問題は、ある種の映像表現から得られる抽象的な興奮のことだ。
今回、ニコニコ超会議内で文学フリマが開催されるということで、今まではしてこなかったのですが、初めてアイマスを題材にした評論を書きました。
が、実はアイマス論ではなくて、ある種のMAD動画について論じるものになってます。もちろん、それがニコマスであることは重要なポイントではあるんですが。
グッドマン『芸術の諸言語』と渡邉大輔『イメージの進行形』を理論的枠組みとして使いつつ、最近、永野ひかりが提案していた「声のキメラ」という概念をもう少し抽象的に捉えることで、オタク文化(アニメ声優、ダンスの3DCG動画)とクラブ文化(サンプリング、VJ)の混淆の魅力を考えてみる、というような内容になってます。
それから、今回論じる対象となっている百円M@sterというのはややマイナーかと思うので、以下のマイリストで、これは、というものを紹介しておきます。
にわかラブライバー対談―音楽・キャラクター・声優―
島袋八起とシノハラユウキによる、タイトル通りの対談
二人とも、アニメを機にラブライブ!にはまった、にわかラブライバーなのですが、どうして好きになったのか、どこが好きなのかということを徹底的に話していますw
島袋、シノハラの二人は、音楽批評『フミカ』という同人誌も作っていて(今回、筑波批評の隣です!)、なので、ラブライブ!の音楽については結構ぐいぐいと話せたのではないかなーと思っております。
ダンスについて――TVアニメ『ラブライブ!』OP「僕らは今の中で」論 島袋八起
ダンスはキャラクターの身体を用いたひとつの表現形式であり、彫刻的でもあり、音楽的でもあり、
絵画的でもあり、なにより「ダンス的」としかいいようがないものを形式として持っている。
島袋八起による、「僕らは今の中で」ダンスの徹底したスケッチ
アニメのOPとして流れていたダンス映像について、どのような要素や構造があったのかを執拗に描写していくことによって、ダンス論を切り開いていこうとしています。
僕たちがダンスを見るときに、これだけ豊かな表情を向けられているということに、改めて気付かされるはずです。
丘の向こうの不確かな楽園――『まおゆう魔王勇者』論 塚田憲史
もし『まおゆう』を面白いと言いたいのであれば、この『まおゆう』のラストシーンからいくばくかの恐ろしさを読み取らなくてはいけない。
2ちゃん発のWEB小説として、アニメ化まで果たした人気作品『まおゆう』に対して、塚田憲史が、経済学における「リスク/不確実性」概念と、ディストピア小説論の見地から論じています。
『まおゆう』において、魔王がもたらした知識は、その物語世界を近代化させていくわけですが、そこで近代化として提示されている発明が、リスクヘッジに関わるものばかりであることに注目します。そのようなリスクヘッジによる近代化の先にあるのは、僕たちがいる「現代」に他なりません。
しかし一方でこの「現代」とは、金融危機や原発事故といった「想定外の事態」がある世界でもあります。
中世の社会が近代化して現代にいたる『まおゆう』をディストピア小説として読み解きながら、「想定外の事態」に怯える我々が「丘の向こう」でどのような社会を作れるのか展望しています。