パオロ・バチガルピ特集
以前読んだ「第六ポンプ」*1が面白かったので思わず。
「ギャンブラー」
ソーシャルネットワーキングがさらに盛んになっている近未来。ニュース配信サイトはこぞってアクセス数を競い合っている。ラオスでのクーデターを逃れてアメリカにやってきた主人公は、そんな中あまりアクセス数を稼げないような、政府の不始末や環境問題に関する記事を書いている。
同僚のマーティが、とあるラッパーのスキャンダルをすっぱ抜いて、彼の会社のアクセス数は一躍トップに躍り出る。その一方主人公は、上司からもっとアクセス数の稼げる記事(すなわち芸能スキャンダル)をとってこないとクビにすると宣告される(彼のビザの関係で、クビは強制帰国とイコールである)。
そんな中、マーティはとあるインタビュー企画を譲ってくれる。それはラオス出身で、世界的に人気のあるクラープへのインタビューだった。
クラープは主人公から見ると、ラオス人というよりはアメリカ人になりきっていた。だが一方で、ラオスに関するソーシャルネットに参加している一人であることも分かる。彼女は、主人公の置かれている立場を知っており、彼と自分との「デート」をパパラッチさせることで、彼のページのアクセス数を伸ばさせる。
しかし、彼女もまた、彼の書く環境問題には興味を示さない。
彼は、彼女との「スキャンダル記事」ではなく、前から用意していた環境問題の記事に、自分の進退を賭けるのだった。
タイトルのギャンブラーというのは、主人公の父のことを指している。彼の父親はインテリであり、民衆革命に「賭け」たのだが、結果として秘密警察に捕まっていた。
そして最後の主人公の行動もまた、父親と同じような「賭け」であるのだが、こちらはもしかして勝つのではないかというほのかな希望とともに終わっている。
「砂と灰の人々」
未来の鉱山のようなところで警備員として働いている三人の男女が、生きた犬を発見するところから始まる。
この時代の人類は、肉体をいくら傷つけてもすぐに回復し、あるいは腕や脚を取り外すことも可能で、また食事も砂などを食べることによって足りてしまう。おそらく環境破壊がとてつもなく進行していて、普通の動植物はほとんど滅んでいて、人類は自らの肉体の方を改造しまくることで適応したというところ。
なので生きている犬というのは非常に珍しい存在で、最初は一体何なのかもよくわからない状態。
だが、なんとなく3人で飼うようになり、ついにはある程度かわいがるまでになるのだが、最終的には結局飼うのにかかる労力やお金がネックとなって、食べてしまうという話。
SF評論賞・優秀賞「玲音の予感」と選考会
最終選考には、『高い城の男』論、『タイムマシン』論、『serial experiments lain』論、『ソラリス』論が残った模様。アニメと映画を論ずるものが最終選考に残ったのは、意外なことに初めてらしい。論文と評論の違いは何か*2、SF評論とは何か*3といったことが議論にあがっていた。
lainはちょっと前に見た気がしていたのだが、それでも1年半くらい経っていて*4、結構内容を忘れていた。
R.D.レインの「超空間」という考えを参照しながら、情報ネットワークと意識のあり方の関係を論じている。lainの独特の演出などの細部に言及しながら論じていくのはいい感じだけど、情報ネットワークの話とかはやっぱりあまり新しさとかを感じるところは少ない。
しかし、この論のメインはそこではなく、玲音が肉体を手に入れたことをキリストの受肉になぞらえ、それが「隣人愛」を見いだしたのだと論じている点である。
マクルーハン的には、情報ネットワークによって手に入るはずだった「隣人愛」的なものは、しかし実際には情報ネットワークの特性が故に手に入らない、ということをlainはしっかり描きつつも、情報ネットワークが生んだ存在である玲音が肉体を手に入れることで「隣人愛」を体現するのだと論じている。
もっとも玲音は最終的には肉体を捨て「遍在」することを選ぶ。これは究極の「隣人愛」の形でもあるが、我々に対しては愛の不可能性を示してもいるのだ。
うーん、まるでまどマギ論を読んでいるような気分にもなるなあw
でもやっぱりlainは、情報生命体が肉体と人格を得てしまうというところにポイントがあると思うので、lainならではの論になっていると思う。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20091204/1259922793
*2:『タイムマシン』論は学術論文としては優れているが、評論としてはどうかと言われていた