『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)

(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

『ちくま日本文学016 稲垣足穂』

以前、大正時代について少し読んでいたころから、稲垣足穂が気になっていたので、読むことにした。
前半、メルヘン・ファンタジーっぽい作品がおかれ、続いて私小説・日記っぽい作品があって、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」がどんとあって、最後はエッセイがいくつか
前半の作品群と「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」とがやはり面白いけれど、後半のエッセイも、大正時代の思想って感じで興味深い(戦後にかかれたものもあるけど)。

一千一秒物語

すごく短い話(一番短いと3行とか、長くても2ページちょっとくらい)がたくさん載っている。
大抵、月が降りてきてちょっかいかけてくるとかなんかそんな話が多い。
月や星が空にぶら下がっていて、それが人のように降りてくるようなことが多い。
主人公も(各話で同じ人なのか違う人なのかもよく分からない。一人称はまちまち)、すぐに石投げたりするし、場合によっては発砲したりもするので、治安が悪いw

ある晩 ムーヴィから帰りに石を投げた
その石が 煙突の上で唄をうたっていたお月様に当った お月様の端がかけてしまった お月様は赤くなって怒った

とか

自分は憲兵の鉄砲を借りて街上で片ひざを立てた ねらいをつけズドン!
お月様はまっかさまに落ちた
一同はバンザイ! と云った

とか
大正12年

鶏泥棒

これSFだ
丸い胴体の異星人がおりてきて、鶏を盗む。ポリスとエア・フォースの高射砲部隊がやってきて、逃げた異星人を追う。中尉は主人公を乗せて飛行機で追う。星々の間を飛ぶと、星が当たって痛い。
最後、なんか宇宙人と全面戦争になっている。
そもそも一番最初から、ピーピーピーピーと映画『宇宙戦争』のような音がする、みたいな文で始まっている。
大正15(1926)年の作品である

チョコレット

ポンピイが道を歩いていると、妖精のロビン・グッドフェロウが前からやってくる。
実は最近、ほうき星になっていたんだというロビンに、何にでも変身できるなら、このチョコレットの中に入ってみなよ、というと本当に入ってしまう。
で、うんともすんとも言わなくなってしまい、割ろうと思っても割ることができない。
鍛冶屋にもっていって、色んな金槌で叩いてもらうが、一向に割れない
大正11年

星を売る店

これは『文豪ナンセンス小説選』 - logical cypher scape2で読んだ
前半は友人Nとタバコ談義をしたりしている
後半、友人Kの店に寄った際に、物語を思いついたので家へと帰る。その時、電車で走っていく夢だったか空想だったかを思い返している。
すると、星を売る店が目に入った、と展開していく。
大正12年

放熱器

少年時代、飛行機には、蜂の巣みたいな板がついてるけど、あれは何だろうと思っていて、それが次第に放熱器というもので、放熱器とはどういう仕組みのものかというのが分かっていく
昭和4年

フェヴァリット

なんかマゾっぽい願望を抱いている少年がいて、年上の友人たちがなんかいかがわしいクラブをやっていて
昭和13年

死の館にて

稲垣足穂は1941(昭和16)年に腸チフスで2ヶ月入院していたことがあり、おそらく、その時のことを書いたもの(発表は昭和20年)
付添看護婦のFについての愚痴やらなんやら、同室の患者についてとか
甘い物を隠れて食べているとか、食事を削られて廃棄されてしまうとか(おそらく食事制限されているんだろうけど、それへの恨み言的な話か)
夜うるさかった人がいたからちょっと注意したら、病室の中で浮いちゃったとか
隣の人が先に食事制限解除されてて、ちょっと不公平だと思ったんだけど、次の日には自分も解除されたし、そもそも隣の人の方が入院した日も一日早かったし、早合点しちゃいけないな、とか
入院生活の話なので、明るい話はないものの、とはいえ、決して重苦しくもなく進んでいくのだが、最後の退院の時に、一緒に退院できた人もいるけど、同室でそのまま亡くなった人もいたし、退院時に遺体室を見たりして、自分が退院するまでに何人くらい死んでるんだな、みたいなことに思いを馳せて終わる。

横寺日記

横寺は地名(新宿か)
天文関係のことについて。毎日、どの星座を見ることができたかなどが書かれている。灯火管制があった頃で星がよく見えていたっぽい。
「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」
天文分野ってどうも人気ないよな、みたいなことも時々言っている
カントと宗教についての言及が一瞬ある
昭和30年

雪ヶ谷日記

これも天文関係の話しているけれど、小説や美術の話もしている。
東郷青児とか
昭和23年

山ン本五郎左衛門只今退散仕る

寛延2(1749)年7月、「僕」(稲生平太郎)は、触ると物の怪に憑かれるという塚に肝試しに行く。
「僕」は享保19(1734)年生まれで、既に両親はなく、弟と二人暮らしをしている。隣人の相撲取りと親しくしている。
で、その後、「僕」の家には次々と怪奇現象が起きるようになる。弟は親戚の家に預けられることになるが「僕」はそのまま家に居座る。
この「僕」の肝が据わっていて、怪奇現象が起きると「不気味だ」とかは思うのだけど、気にしても仕方ないといって平然としている。
そうすると、色んな人が、一緒にいてやろうとか、祓ってやろうとか申し出てきてくれるのだけど、ほとんどの人は実際に怪奇現象が起きると泡を食って逃げ出してしまう。
狐狸の仕業に違いないといって、狸を捕らえる罠の名人が来たり、霊験あらたかなお札を持ってきてくれる人がいたり、鳴弦で打ち払おうとしてくれる人が来たり、名剣を携えてくる人がいたりと、色々出てくるんだけど、みんな失敗して恐れをなして逃げてしまう。
それでも「僕」は平然としていて、夜寝るのが遅くなって困るなあくらいのテンションでいる。
怪奇現象もバリエーション豊かで、家鳴りから始まって、天井がどんどん下がってくるとか、霊の顔が出てくるとか、家の中の物が勝手に動いているとか、
とまあこういのが1ヶ月続く。
で、最後の最後になって出てくるのが、山ン本五郎左衛門(「やまもと」ではなく「さんもと」という)
正体はよく分からないが、狐狸でも天狗でもなく、はるか昔に大陸から日本へ渡ってきた怪異で、神野悪五郎というのと敵対しているらしい。で、これまで驚かなかった平太郎を賞賛し、今後もし神野悪五郎がやってきた時この木槌を振って呼んでくれたら神野を退治しに来るから、と言い残すと、多くの家来を引き連れて去って行った。
と、そこで終わりかと思ったら、さらに2ページほどついていて、主と客というのが、三次ってのはどこだい、広島でねとか、この話を映画にしたいよね、みたいな会話をかわしているところで終わる。
読後、Wikipeidaを見て知ったが、江戸時代に書かれた怪談が元ネタであり、平太郎少年は実在する人物らしい。

江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、稲垣足穂(「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」)、折口信夫らが作品化している。妖怪・怪奇ブームにのり、21世紀に入っても民俗学者谷川健一荒俣宏、伝奇作家の京極夏彦らも解説書を刊行(下記参照)。水木しげるも『木槌の誘い』で漫画化。『地獄先生ぬーべー』でも劇中のエピソードで紹介された。また、三次を舞台にした宇河弘樹の『朝霧の巫女』に取り上げられたことで、三次には若い観光客が増えているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E7%25A8%25B2%25E7%2594%259F%25E7%2589%25A9%25E6%2580%25AA%25E9%258C%25B2%20

妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。
(中略)
明治以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E7%25A8%25B2%25E7%2594%259F%25E6%25AD%25A3%25E4%25BB%25A4

現代語訳って位置づけなのか
そういえば、時刻の表記が、最初「丑三つ時、つまり2時頃」って書かれた後は、基本的に24時間表記で書かれていた。
ググっているうちに見つけたが、高原英理に『神野悪五郎只今退散仕る』という作品もあるらしい。
昭和43年

空の美と芸術に就いて

飛行家(飛行機乗り)もまた芸術家の一種である、というようなことを論じているエッセイ
人類は、地上だけでなく空にも進出したのだという文明論的な観点も交えつつ、平面ではなく立体的に把握するセンスが必要な点や、空を飛んでいるときに美的な感覚がある点、また、実際に芸術家でもあるような飛行家がいることなどがあげられている。
稲垣足穂の飛行機愛みたいなものが
大正10年

われらの神仙主義

機械と生命
ベルグソンやウェルズ、構成主義未来派への言及あり
大正15年

似而非物語

私がT・Y氏に語ったことや、T・Y氏と訪れた天文台でT技師に聞いた話など
天文学者Pによる「世界線」論
星造りの花火 ポロというフランス人の発明
ハッサン・カンの魔術
ほうき星の捕獲、星畑、食料ともなる星
パルの都
昭和12年

タッチとダッシュ

夜の電車に乗っていて窓外の風景が平べったく見えて、別世界を織り出してゆくとき
「そこにタッチが払拭されて、その代わりにダッシュを(該風景の左肩に)くっつける」
タッチというのは絵のタッチとかのタッチ
ダッシュの方は、(なんでダッシュって呼んでいるのか分からないけど)絵でいうと様式化とか抽象化とかそういうものを指しているっぽい。
こういう言い方はしていないけど、自然主義モダニズムの対比みたいなものか、と思った。
絵の例がでているけれど、絵に限った話ではない。
タッチ派の代表は白樺派
ダッシュについては、若き日の東郷青児を挙げている
人工的とかもダッシュ
摩天楼、交通機関、あるいは「燈火に飾られた街」、「照明を受けて闇中に浮き出した博覧会の塔や円屋根」
昭和4年

異物と滑翔

稲垣足穂は、初めて読んだのが『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2に入っていた「澄江堂河童談義」で、延々、お尻の話をしていたので面食らった記憶があるのだが、これもまたお尻の話というか、アナルの話をしている。
『群像』のエッセイだったのかな? 注に、これの前の連載が「A感覚とV感覚」だったと書いていて、ここでもA感覚とV感覚の話をしている。
A=アナル、V=ヴァギナ、P=ペニス
3節に分かれていて、第2節は対話篇で書かれている。第3節はふたたび「私」の一人称で書かれているが「先生」というのも出てきて、語り手がもしかしたら変わっているのかもしれない。
フロイトだったり何だったりを交えながら色々書かれている
VやPは結局功利的な道具であって、表面的なものだ、と。Aの方が、内面的だったり精神的だったり抽象的だったり本来的だったりするんだ、と。
話の内容は全然違うけれど、論理展開というか何を優位に置くかという点で「タッチとダッシュ」と通じるのかなと思った
女性が個性として見られていない、ただVとしてしか見られていない、ということが書かれていたりして、ちょっとフェミニズムとの関係が気になったりもした(対話篇の中でおそらく女性らしき人物が話している)。
内臓感覚
飛行の話も少し。

解説:佐々木マキ

なるほど、確かに佐々木マキっぽいかもなあと思った。
元々は読んでいなくて、人から似ているよねと言われていて、後日実際に読んだら好きになったという感じらしい。
プロになる前に読んでたら影響受けててやばかったなあ、的なことも

トニ・モリスン『ソロモンの歌』(金田眞澄・訳)

ミルクマンとあだ名される青年が、自分の家族のルーツを探し出す話
と一応まとめられるが、ほんとはもう少し複雑
呉明益『自転車泥棒』(天野健太郎訳) - logical cypher scape2につづいて、プロットが面白い系文学だった。

本作については橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2で存在を知っていた(し、そこでもプロットの面白さについて触れられていた)が、『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で実際にトニ・モリスンの短編を読んで、トニ・モリスン面白いなとなり、読もうかなと思うようになっていた。


第一章から第九章が第一部
第十章から第十五章が第二部
という構成になっており、第一部は、ミルクマンが生まれてから30代くらいになるまで
第二部は、ミルクマンが叔母が隠したかもしれない金塊を探して旅に出る話


ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2が南部で成り上がった白人の話だったけど、本作は、北部で成り上がった黒人の息子の話
アメリカの人種問題を描いている作品ではあるけれど、単に黒人が差別されているという話ではない。
まず、主人公・ミルクマンの父親は、不動産で財をなしており、ミルクマンはわりとボンボンだったりする。彼は父の後継ぎとして父の仕事を手伝い始めるが、父親の金ではなく自分の力で生きていきてぇと言うのがこの物語中盤での彼の目下の悩みとなる。あんまり人種とか社会とかの問題には目を向けていない感がある。
また、彼の父親は家賃とか取り立てて財をなしてきたので、黒人だが魂は白人なんじゃないのか、と言われていたりして、黒人なんだけど白人側と思われている。息子であるミルクマンもその点ボンクラ感がある。
白人はあまり出てこなくて、むしろアメリカ国内での南北格差というか、都会と田舎の差が描かれていて、物語の後半でミルクマンは南部に旅立つのだけど、その際ミルクマンは南部の黒人はみんないい人たちで南部いいとこだな、と素朴に思ったりするのだが、彼の金持ちムーブが敵意を誘うことになったりする。
また、ミルクマンが、歳の離れた姉から、男であることで、無自覚に他の家族に対して権威的な振る舞いをしていることを詰問されるシーンなどもある。
つまり、差別されている黒人、ではなくて、黒人の中での貧富の差、性差を描いてる。
もっとも、では黒人差別の話がないかといえばそういうこともなくて、それについては、ミルクマンの友人ギターが担っている。


ということを扱いつつ、この作品は一種のファミリーサーガみたいなところがあって、読んでいて少しフォークナーを想起したりもしたが、モリスンは学生時代にフォークナーとウルフについて研究していたみたい。
ミルクマンは、(明らかに経済的には恵まれているのだけれど)周囲の人々(家族)から自分の存在は望まれていないと感じ、今いる町から出て一人立ちしたいと思っていて、そのために金塊探しにいくのだが、そこで自分の先祖(祖父母)について知っていくことで、自分のルーツに誇りを持つようになっていく
ミルクマンがこの町から出ていきたいなあと思うのは、両親の確執、ふった女性から命を狙われていることとかが要因になっていて、それらの展開の仕方、そして後半、金塊探しがルーツ探しへとなって、ミステリの謎解きのようなことが成されていく展開などが面白い。


結構あっという間に作中の時間が過ぎる(10年くらいがすっとスキップされたりする)
あれ、これ何のことだ? と思った記述が、次の次の章くらいでさらっと解説されたりする(初出っぽい登場人物がさも当然知っているかのような言及されてて、どっか読み飛ばしたかなと思っていると、むしろそれより後の方でちゃんと出てきたりするなど)


商品名などの固有名詞がわりと多めの印象があって、それも特徴かなと思う。


物語は、ミルクマンが生まれる前日から始まる。
とある男が、空を飛ぶといって建物の屋根から飛び降りるのである。
この「飛ぶ」ということは、ミルクマン自身のテーマとなっていく。幼い頃、自分が空を飛べないということに絶望する。
物語は、ミルクマンが「飛ぶ」ところで終わる。しかし、この最後の「飛ぶ」が一体何を意味しているのかは、読者の解釈に委ねられている。
さて、話を戻すと、この冒頭のシーン、あとから読み返すと、ミルクマンの母と姉たち、叔母、後の友人が集っていたりする。
ミルクマンの父親はメイコン・デッドというが、その父親(つまりミルクマンの祖父)も、ミルクマン自身も名はメイコン・デッドという(つまりミルクマンはメイコン・デッド3世)
元奴隷だった祖父が自由民として登録される際、「生まれは?」「メイコン」「父親は?」「死んだ(デッド)」という会話があり、酔っ払った役人がそれを勝手に姓名にした、という経緯で名付けられた名前である。
祖父は農場主をしていたが、白人に射殺される。父はその後、ミシガンに出てきて不動産業(家賃収入)で財をなしていく。
ミルクマンの母親であるルースは、医者の娘。その家がある通りは、黒人たちによってドクター・ストリートと呼ばれていたが、白人がその名で呼ぶことを禁じたため、以後は、ノット・ドクター・ストリートと呼ばれるようになっている。
父・メイコンには、パイロットという妹がいる。
このパイロットという名前も由来がテキトーで、字の読めない父親が聖書の中から適当に指さした名前(ピラトー)をとったのである。
メイコンとパイロットは子どもの頃は仲のよい兄妹であったのだが、父親が射殺されたしばらく後に仲違いし、パイロットは放浪するようになる。
ずっと音信不通であったが、ミルクマンが生まれてくる少し前くらいに、メイコンのいる町にやってきて住み着くようになる。その頃パイロットには、娘と孫娘ヘイガーがいた。
パイロットには、生まれつき、へそがなくて、そのことによって人から(魔女の類いとして)恐れられている。実際彼女は、父親の幽霊を見てたり、魔術っぽいことを時々することがある。
パイロットは密造酒によって生計をたてており、掘っ立て小屋のようなところに娘、孫娘と3人でくらしている。パイロットもその娘も夫はいない。パイロットと娘はヘイガーのことをめちゃくちゃ溺愛していて、ヘイガーが欲しいものは何でも買ってあげている。
パイロット、ヘイガーを泣かした男だったかに対して、心臓にナイフ突き立てて脅す、とかもやっていて、とにかく、強キャラ
で、メイコンはパイロットのことを嫌っているので、ミルクマンにも会わせないようにしていたが、ある時、友人のギターに連れられてパイロットの家を訪れることになる。
ミルクマンという名前は、彼が少年になっても、母親の乳を飲んでいた(飲まされていた)ことに由来する。
ミルクマンは、大きくなってくると父親の仕事を手伝うようになり、わりとそれ自体は順調で、容姿もよいので、わりと女性にもモテる。
もともと父親が絶対な家だったのだけれど、ある時、ミルクマンが父親を殴るという事件が起こる。その日の夜、父親はミルクマンに対して、何故自分が妻(ミルクマンの母)に冷たくしているのかを話し始める。妻が自身の父親(医者、ミルクマンにとっての祖父)を愛しており、メイコンは彼女に対して近親相姦の疑惑を抱いているのである。
ミルクマンとしては、そんな話聞きたくなかった~なのだが、母親の行動を調べ始める。果たして、深夜に祖父の墓参りをしている母親を目撃する。
ところが今度は、母親ルースから、医者である父とはそういう関係はなく、逆にメイコンとのレスの話をされる。で、ミルクマンは、姉2人とだいぶ年が離れているのだが、ミルクマンの出生にパイロットが関わっていたことを知る。
夫との関係に悩んでいたルースに対して、パイロットは媚薬のようなものを与え、その結果、数日間だけメイコンがルースに迫り、それによって生まれたのがミルクマンなのである。その後もパイロットがルースを守ったことによって、ミルクマンは無事産まれることができたのだった。
母親が、大きくなってからもミルクマンに乳を吸わせていたのは、夫とのレスの代償行為だったのかーということに気付かされて、やっぱりこんな話聞きたくなかったなあ、となる。
ミルクマンは、パイロットの家によく行くようになってから、彼女の孫娘であるヘイガー(ミルクマンより年長)と関係を持つようになる。ただ、ちゃんと恋人関係になったわけではなく、ミルクマンはヘイガー以外の女性と付き合っていたりする時期もあるのだが、なんだかんだ一番長く関係をもっているのがヘイガーで、しかし、あるクリスマスの時、手紙で感謝と別れを告げる。
しかし、これがヘイガーを傷付け、以降、ヘイガーはミルクマンの命を狙うようになる(ヘイガーは何度かミルクマンを襲撃しているが、毎回失敗している。ミルクマンもヘイガーが来ることが分かって一人になったりしている)。
章がかわると、突然、ミルクマンが命を狙われていて、一体何だと読み進めていくうちに、実はヘイガーが、と分かるように書かれていて、他にもあるけど、展開のさせかたが上手い。
一方、友人のギターが変わり始める。
10代の頃は悪友で、年上のギターから色々と遊びを教えてもらっていたのだが、ある時期からギターは人種問題に関心をもつようになり、酒なども飲まないようになる。
2人は異なる意見・価値観を持つようになるが、しかし、友情自体が変わることはなかった。
そしてある時ミルクマンは、ギターから過激思想を告白される。
曰く、白人というのはいかれた人種である、と。理由のない異様な殺人などをおかす。黒人はああいう殺人はしない、と。そして、人数のバランスをとる必要がある。白人が理不尽に黒人を殺した場合、同じ数だけ白人を殺すのだ、と。そのための仲間がいる。それは完全な秘密結社で、曜日ごとのメンバーがいるので七曜日と呼ばれている。日曜日に黒人が殺されたのであれば、日曜日のメンバーが白人を殺す。
ギターはこの思想を、黒人への愛なのだと説くが、ミルクマンには理解不能で、その考えを批判する。それ以上にミルクマンは、果たしてギターが既に人を殺してしまったのか、まだ殺していないのかという点を気に病んでおり、友情が決裂するような状態にはなっていない。
ミルクマンには2人の年の離れた姉がいる。
姉のエピソードは、あまり本編と絡んでこないサブプロットという感じなのだが、これはこれで面白い。2人の姉のうち2番目の姉は、大学まで行っている。これは結婚相手を探すための進学だったのだが、それは果たされない。で、大卒未婚黒人女性というのは、変にスペックが高いせいで働き先も嫁ぎ先もないのである(教養はあるが家事ができない)。
しかし、そうも言っていられなくなって、結局メイドとして働き始めるのだが、周囲にはメイドということは隠している。そして、通勤時間で出会った男性と恋に落ちる(この男性、確か最初の方にも出てきていて、父メイコンの所有する物件に暮らしている人ではなかったかと思うのだが、ちゃんと確認していない)。
本編とあまり絡んでこないといったが、親に頼らず自力で労働する喜びみたいなのを感じるあたり、後に親からの独立を望むようになるミルクマンと並行関係にあるプロットなのかもしれない。
で、彼女はしかしこの恋人のことを父親に明かすわけにはいかないなと思っているのだけど、どうもミルクマンが父親にチクったらしくて、長姉の方がミルクマンに対してキレる。
さて、父親と母親、どっちもアレな感じだし、姉からもキレられるし、ヘイガーは自分を殺そうとするし、もうこんな町から出ていきたいな、とミルクマンは思うようになる。
そんなところに舞い込んでくるこんな話(時系列的には、この話と姉からキレられるのは順序逆だけど)
パイロットの家に緑の布にくるまれた荷物があるという話にメイコンが反応する。
そしてメイコンはミルクマンに対して、何故自分がパイロットを嫌っているのかという話を始める。
2人の父親が殺され、2人だけで生活していた頃、行きがかり上メイコンがとある白人を洞窟で殺してしまう。洞窟の中に金塊があって、メイコンはこれを持ち出そうとするのだが、パイロットがそれを止める。ところが、後日、パイロットと金塊は姿を消してしまった、と。
メイコンは、ミルクマンにパイロットの家から金塊を盗ってくるように命じる。メイコンがその金塊を換金して、山分けしよう、と。
ミルクマンはこの話を密かにギターに話して、2人で決行するのだが、しかし緑の袋の中にあったのはなんと誰かの骨であった。2人は警察に逮捕されるが、パイロットが警察と話して釈放される。


金塊は一体どこへ行ったのか。
第二部でミルクマンは、金塊を見つけるために、メイコンとパイロットの生まれ故郷へ向かい、その金塊があったという洞窟を探す旅に出るのである。
ネットで人の感想を見ていると、第一部は読むのが大変だったが第二部から面白い、という感じのが多い。個人的には、第一部も十分に面白いと思うのだが(父親から、母親から、親友から次々とヤベー告白されていく展開が)、確かに第二部からは一気に弾みがついていく。
第一部はミルクマンが生まれてから南部で旅立つことになるまでの経緯を描いているので、章が変わると一気に時間が10年くらい飛んでいたりするのに対して、第二部はそれこそ数日間くらいの話のはず。


まず、ミシガン州からペンシルベニア州
メイコン・デッド1世のことを覚えている老人たちが残っていて、孫であるミルクマンの来訪はおおいに歓迎される(父親のことを彼らに話すと「それでこそ、メイコン・デッドだ!」ってみんな喜ぶ)。
ミルクマンは、父親や自分は直接会ったことない祖父が慕われていたことを知り、自分も誇らしく感じるようになる。
メイコン(2世)とパイロットは、父親が射殺されたあと、産婆であり隣家のバトラー家で家政婦をしていたサーシーという女性にいっとき匿われていた。メイコンとパイロットは、誰が父親を殺したのか知らなかったが、バトラー家の者だということが分かる。
サーシーは既に死んでいるといわれ、もし生きているとしたら100歳をゆうに超えるのだが、ミルクマンがその家を訪れてみると、なんとサーシー1人が犬たちとともに暮らしていたのだった。
このサーシーが一体何なのか、つまり幽霊の類いなのか、超高齢なのか、といったことは明らかにされない。
ところで、まだこの家に住み続けて、バトラー家に義理立てしてんのかと訝しむミルクマンに対して、サーシーは、そうではなくて、この家が朽ちていくところを見届けるんだ的なことを言っている。バトラー家の一人娘は、親が死に、家が次第に没落していくと、貧しさに耐えられなくなって自殺している。これについてサーシーは、お嬢さんはわたしのようになる(サーシーのような労働者になる)くらいなら死を選んだんだよ、とも言っている
サーシーから、祖父母の名前がジェイクとシングであることが分かる
パイロットは、父親の幽霊から「歌え」と言われていたが、これが実は単に妻の名前を言っていたのだと気付かされる
(ところでパイロットは母娘3代でしょっちゅう歌っている)
それはそれとして、サーシーの話を聞いた後、実際に洞窟へとおもむく。洞窟にまだ金塊が残されているのではないかとミルクマンは考えていたのだが、洞窟に金塊は残されていなかった。
また、サーシーの話から、パイロットの箱に入っていた箱は、メイコン1世の骨だろうと思い当たる。


ミルクマンは、さらにメイコン1世の生まれ故郷とされるヴァージニア州シャリマーへ向かう。
これは、パイロットも、兄と別れた後ヴァージアへ行っていたからである。
ここでミルクマンは、無意識に金持ちムーヴをとってしまい、人々はこれを侮辱されたと受け取り、喧嘩が始まる。
また、お前銃は使えるのかと聞かれて、ほんとは使えないのに使えると見栄張ったところ、じゃあ今夜、狩猟に付き合えという話になる。
一方、ギターが自分を追いかけてここまで来ているようだ、ということを知る。
都会のボンクラであるミルクマンは、夜の山歩きの仕方などまるで分からず、同行者とはぐれ、さらにそこをギターに襲われる。
という、ハラハラのアクションシーンがあり、その後、怒濤のミステリ展開が待っている。
シングという人を知らないかと尋ねると、スーザン・バードという女性を紹介される。バード家は、インディアン系で黒人とは距離を置いて暮らしている。
果たしてシングは、まさしくバード家の人間であった(スーザンにとってシングは叔母にあたる)
さらにミルクマンは、シャリマーの子どもたちが歌っているわらべ歌が、パイロットが歌っている歌と一部の歌詞が違うだけで同じ歌だと気付く。さらにその中に、ジェイクの名前が含まれていることも。
再び、スーザンのもとへと訪れると、かつてこの土地にはソロモンという男がいて、彼はアフリカへと「飛び」去ってしまった。ソロモンの妻は泣き暮らして死んでしまうが、それがシャリマー近郊の山の名前として残されている。ソロモンが残していった子どもの一人がジェイクで、バード家は彼を引き取って育てた。ということを教えてもらう。
一方その頃ミシガンでは、ミルクマンがいなくなり、ヘイガーはずっと泣き暮らしていた。が、突如立ち直ったかと思うと、なりふり構わず衣服や化粧品を買い漁り始める。しかし、やはり立ち直ったわけではなく、それもある種の狂気の発露か何かで、亡くなってしまう。
ミルクマンが帰郷する。ヘイガーが死んだことでパイロットに殺されかけるが、パイロットのもっている骨がパイロットの父のものであることを告げ、二人でその骨を埋葬するために再びシャリマーへと向かう。
しかしてシャリマーで待ち受けていたのは、ギターであった。


最後、パイロットは銃弾に倒れるのだが、訳者あとがきによると、これには2つの解釈がある。
訳者はもともと、パイロットが自らを撃ったのだと解釈した上で、ピストルの弾と訳していたが、ギターが撃ったという解釈についても知り、どちらともとれる銃弾に訳し直したという。
ただし、訳者自身はパイロット自身のキャラクター造形(特に、人は死なない、人は自分で死んでもいいと思ったときに死ぬのだ的な台詞が中盤にあること)や、銃弾を受けた後のリアクションなどから、パイロット自身が撃ったという解釈を変わらず支持しているようである。
自分は読んだ時、ギターが撃ったものだと思って読んで、パイロットが自身で撃った可能性に全く思い当たらなかったので、訳者あとがきを読んで驚いたが、確かにギターが撃ったと考えると物語的には筋が悪いという指摘は頷けるところがある。


ところで、ギターはミルクマンに「誰もが黒人の命を欲しがっている」と語るシーンがある(死んだ命ではなく生きた命だというので、殺すという意味合いだけでなく、むしろ奴隷として搾取するという意味合いかと思う。また、ミルクマンが家族から疎まれヘイガーから命を狙われという話からの流れでもある)。
この一連のギターの台詞は、後にミルクマンが、狩猟の獲物である山猫が解体されているシーンで反復される。
ここでギターの台詞が(傍点で強調されながら)反復される意味はちゃんとは分からないのだが、ここのシーンは明らかに1つのクライマックスになっていて、北部の都会で経済的には何不自由なく暮らしながらも、その生活からの脱出を望んでいたミルクマンが、自分のルーツでもある南部の町で、しかも山の中で一晩過ごしたことで、何らかの精神的変化が起きている(アイデンティティの回復なのかもしれない)。
その後、ミステリ的な感じでも(わらべ歌の歌詞からの謎解き!)自らのルーツが明らかになる。
「飛ぶ」というのが、冒頭では飛び降り自殺?を指していたのが、ソロモンのアフリカ帰郷のエピソードによって、やはりアイデンティティ回復的な象徴的な行為になっていて、それがミルクマン自身も「飛ぶ」というラストシーンにつながっていくのだろう。
(ところで、ヘイガーは、ソロモンの妻と同様、愛した男が去ったことによって亡くなる。スーザンは、ソロモンの妻について、昔はそういう、男のために命を失ってしまう女がいたんだ、という言い方をするが、ソロモンの家系における反復となっていて、ファミリー・サーガ感がある)


そういえば、ミルクマンの脚の長さが左右で違う、という設定があって、わりと色々と描写に組み込まれていた気がするけど、あれなんだったんだろ

呉明益『自転車泥棒』(天野健太郎訳)

失踪した父親とともに消えた自転車を探す過程で、自転車の持ち主たちに隠された過去にふれていく物語
台湾文学を読むのは甘耀明『鬼殺し』(白水紀子・訳) - logical cypher scape2に続いて2作目
(次に台湾文学読むとしたら本作かなあと目星はつけていたのだが、このタイミングで読むことにしたのは、文フリで買った『F』に載っていた『自転車泥棒』論がきっかけ。これについてはまたいずれブログに書く予定)
甘耀明は1972年生まれ、呉明益は1971年生まれと同世代。『鬼殺し』は2009年刊行(日本語訳2016年)、『自転車泥棒』は2015年刊行(日本語訳2018年)
作風は全く違うが、2作とも台湾の戦争の記憶を描こうとしているところが同じである
本作は、翻訳には反映されてはいないが、原著では中国語の中に、台湾語や原住民族の言葉が織り交ぜられていて、それらはアルファベット表記されるという形で、台湾の多言語状況をあらわしているという。『鬼殺し』もまた台湾の多言語状況を組み込んだ作品だった。
(主人公は中国語と台湾語、親世代になると中国語が苦手だったりできなかったりする。さらにもう少し上の世代は日本語ができるが、主人公は日本語はできない)
語りの重層性も特徴で、主人公(と読者)は、他の人から直接話を聞いたり、カセットテープに吹き込まれた語りを聞いたり、小説の形で読んだり、手紙として読んだり、と様々な形で人々の過去の記憶に触れていくことになる。
そういう、ある種の文学的技巧がこらされた作品であるが、一方で、プロットも重視されていてエンタメ性も高い作品だと思う。
また、作中、自転車などのイラストが挿入されているのだが(文庫版だと表紙にも使われている)、作者自身の手によるものらしい。
そもそも、本作の中心となるのはタイトルにある通り自転車、特に古い自転車コレクターの話なのだが、これも作者自身の趣味らしい。多才多趣味な人っぽい。
主人公の「ぼく」は40代のライター兼小説家なのだが、前作となる小説のタイトルが呉明益自身のそれと同じであり、私小説的な要素もあるのだろう。
ただし、本文の中で語り手自身が言ってもいるし、訳者解説にもあるが、かなり虚実入り混じる感じらしい
動物が多くでてくる作品でもある。
自転車を台湾語では「鐡馬」というらしく、作中でも、自転車か鐡馬と書かれていることが多い。
また、後半からは象の話でもあるし、蝶のエピソードも中盤に入っている。サメや魚人も印象的なシーンに使われている(サメは比喩としてだが)



「ぼく」の父は失踪しており、その際、一緒に乗っていたはずの自転車もなくなっている。その自転車(と父)の行方を探すうちにすっかり古い自転車コレクターと化した「ぼく」は、ある時ついに父の自転車を発見する。
この父の自転車について、アブー(古物商)→ナツさん(コレクター)→アッバス(戦場カメラマン)→アニー(アッバスの元恋人)→サビナ(アニーの友人)→静子さん(ムー隊長のつれ)→ムー隊長(サビナに自転車を譲った人)と辿っていくことになる。
この中ではアッバスが重要人物で第二の主人公と言ってもいい感じで、ここからラインが分岐する。
アッバスは台湾原住民族の血を引いているが、兵役中に駐屯地の近くで知り合った元兵士のラオゾウ、そしてアッバス自身の父であるバスアの話から、ラオゾウやバスアが従軍した太平洋戦争の様子が描かれる。
戦争中の自転車部隊、そして、ビルマから台湾までやってきた象の話によって、アッバス・ラオゾウ・バスアのラインが、ムー隊長のラインと合流していく。
終盤、「ぼく」が父の自転車を「レスキュー」(コレクターたちのスラングで、パーツを付け替えて自転車を元の状態へと戻すこと)して、早朝に完成するシーン、かつて、象の剥製が作られた過程と重ね合わせられながら語られていくところに、カタルシスがあった。


ところで、この物語は、主人公が失踪した父の自転車を探す話であり、この自転車は確かに主人公のもとへと帰ってくるわけだが、では、何故父は失踪したのか、という疑問には直接答えてはいない(はず)
主人公は、アブーから目当ての自転車の写真を見せてもらい、その持ち主であるコレクターのナツさんのところへ向かうが、ナツさんは預かっているだけだという。ナツさんは、それをとある喫茶店で見つけたのだが、その自転車はその店のオーナー(アッバス)の恋人の友人(サビナ)のものだという。そしてサビナは、ムー隊長という老人からその自転車を譲り受けたのであり、果たしてムー隊長に自転車を譲ったのが主人公の父親だったのである。
さて、上述した通り、しかし物語は途中からむしろアッバスを中心に巡っていく。アッバスが、ラオゾウから譲られた自転車。そして、アッバスの父、バスアが乗った自転車について。
この作品には、アッバスをはじめ、主人公以外にも父を亡くしている者が複数出てくる。ただ、主人公の父は(おそらく亡くなっているが)どうなったかは書かれていない。
バスアやムー隊長の過去は描かれるが、主人公の父の過去はほとんど明かされない。
バスアやムー隊長の過去が明らかになっていく過程は、プロットの面白いところで、本作をエンタメ的にも面白いものにしている。それに対して、主人公の父の過去が必ずしもはっきりしてこないところは、(仮にある種のエンタメの面白さが謎解きプロットに由来するとすると)謎が謎のまま残されてエンタメ的にははっきりしないともいえる。
一方、それは、戦争に関わった者たち(あるいはもっと一般化して、年長者とか人間とか)には、人に言えない過去があるものだ、という暗示になっているともいえるのかもしれない。
また、この物語はあくまでも自転車にまつわる物語である。「ぼく」やナツさんは、ただ自転車をコレクションしているわけではなく、必ずその自転車にまつわるオーナーの物語も聞いている。これは古自転車にはみな持ち主の物語がつまっていて、それを蔑ろにして譲り受けることはできないと分かっているからだ。
その上でいうと、確かに探していたのは「ぼく」の父親の自転車だが、それは彼にとって3台目の自転車であって、その自転車にまつわる物語は明かされているが、父について明かされていない過去(戦争時、日本で少年工をしていた頃)についていえば、自転車とかかわりのない過去であるから、語られなかったともいえる。
ところで、もうひとつ、あからさまに語られなかった箇所としては、サビナが「ぼく」にメールで送ってきた小説の結末もやはり明かされなかった。


先ほど、終盤の自転車レスキューシーンがカタルシスがあったと書いたが、それ以外にも、印象に残るシーンの多い作品で、非常に映像的な作品だなとも思う。
アッバスとラオゾウが潜水したときに見た「魚人」たち
蝶の貼り絵
アッバスが単独でマレー半島のジャングルを縦断したこと
「自転車を抱いた樹」など


それから、印象に残るフレーズも色々ある
「お前は45歳までしか生きられない」
「サルは私たちのために死んだ。いつか私たちも、サルのために死ぬだろう」
「昨日より前とはわずかに異なる世界が、もうそこに生まれている。風のなかにいる小さな虫も、はるか遠い恒星がここまで届ける光も、ガラスについたほこりも、二度と同じであることはない」


「ぼく」という中年男性の一人称のせいなのかなんなのか、文体が村上春樹っぽく感じられたけど、そもそも自分があまり村上春樹を読んでいないので、どこまで村上春樹っぽいと言っていいのかは分からない。
ただ、鴻巣友季子の解説で、欧米の翻訳文学に影響を受けたという点で、村上春樹と似ているかもしれない、というような言及はされている。


1 我が家族と盗まれた自転車の物語
「ぼく」の家族の話
台北の中華商場というところに住んでいた(これは『歩道橋の魔術師』の舞台になっているらしい)
「お前は45歳までしか生きられない」
幼い頃、1人で公衆便所を使っていると、男性同士の行為を見せつけてくる男たちがいた。ある時、そのうちの1人しか来なくて、その1人から言われた台詞
父が亡くした3代目の自転車
自転車で小児科へ連れて行ってもらった時のこと


2 アブーの洞窟
アブーのこと
古道具を集めていて、その倉庫が「洞窟」
「ぼく」のこと
前作『睡眠的航線(眠りの航路)』で、戦時中日本で航空機の少年工をしていた父の話を書いた。そこで、自転車を置くところで終わるが、その自転車の行方について読者から質問のメールが来ていた。
ナツさんのところへ

ノート1
資生堂から幸福自転車


3 鏡子の家
アッバスの店(「鏡子の家」という三島由紀夫の作品からとった店名。のちに「林檎」になる)
アッバスはカメラマンで彼の作品が飾ってある(のちに戦場カメラマンであることが分かる)
アッバスとラオゾウ(とシロガシラ)
アッバスが兵役中に滞在していた二高村で、旧日本兵のラオゾウと自転車の貸し借りを通じて親しくなる。ラオゾウの近くにはいつもシロガシラがいるのだが、ラオゾウがこのシロガシラは自分に話しかけてきて、正体は日本兵だという
ラオゾウに頼まれて、アッバスは2人でスキューバダイビングを行う
潜水中に意識を失ったときに見た「魚人」たち(虐殺された農民たち)
ラオゾウの自転車を持ち帰った時に反応したバスア


ノート2
自転車のデザインについて
主人公が最後に父の自転車に乗ったのは、中学生の時


4 プシュケ
蝶の貼り絵についての小説が、アニーからメールで送られてくる
かつての台湾は、蝶産業が栄えていた


ノート3
産婆車(女性用の自転車)
ホームレス
 

5 銀輪部隊が見た月
バスアが残したカセットテープ「銀輪部隊」
旧日本軍には、自転車部隊があった。バスアは台湾でその訓練に参加していた。
バスア自身は参戦していないが、銀輪部隊はマレー半島シンガポール攻略を行っている。海側から攻めてくると想定した英印軍は為す術もなく敗れる。

ノート4
自転車と戦争


6 自転車泥棒たち
母の入院
兄と父が自転車泥棒を捕まえようとした話(しかし、父は自転車泥棒を逃がす)
アッバスマレー半島縦断
自転車で銀輪部隊と同じルートを辿る旅をする。銀輪部隊の侵攻速度に驚く。ジャングルで九死に一生を得る
どこだったか忘れたが、アッバスがシャッターを切ることと写真を撮ることとは違うというようなことを言っていた箇所があった。彼は戦場カメラマンとしてあちこち行っているのだけど、戦場に無感動になっていって、むしろこのマレー半島での経験(しかも途中から写真を撮っていない)がカメラマンとしても重要な経験になっている
サビナからのメール(小説を書いたのはアニーではなく、アニーの友人であるサビナだということが分かる)
兄のギターを東京で聴く


ノート5
「手間」について


7 ビルマの森
バスアのカセット「北ビルマの森」
バスアは日本兵としてビルマへ行き、そこで現地の象使いと親しくなる
中国軍の攻撃により、バスアと象使いは自分の部隊から離れて2人でジャングルを彷徨うが、象使いが流れ弾を受けてしまう。
サビナの話(動物園で出会ったムー隊長)
子どもと象を見ていた時に、ムー隊長という老人から自転車を譲り受けた。


ノート6
「ふぞろい」について
自転車のパーツが交換されていて、元とは異なっている状態をコレクターは「ふぞろい」と呼ぶ
母やその世代の人々は、満ち足りた状態を求めつつ、満ち足りない状態(ふぞろい)によさを感じていたのではないか、というような話


8 勅使街道
父が逃がした自転車泥棒は日本時代の父の同級生だった?
静子の話(戦前から戦中にかけての台北。オランウータンの一郎、象のマーちゃん)
殺される動物たち
川で目撃された「サメ」(実際は日本に協力していた台湾人の死体。市役所で働いていた静子の父はおそらくこの際に殺されているが、静子は直接確認できなかった)
ムー隊長と静子は、お互い高齢になってから動物園で出会い、親しくなった
ムー隊長は中国軍側でビルマに行っていて、バスアのいた部隊の象たちを接収していた。
ビルマにいた際にはアーメイと呼ばれていた象が、台湾までつれていかれてマーちゃんとなり、戦後はリンワンという名前になった
福じいと象の脚の椅子


9 リンボ
ゾウ(アーメイ)視点で語られるビルマから台湾までの物語


ノート7
「レスキュー」と象の剥製
上述した通り、「レスキュー」とはコレクターたちのスラングで、パーツを付け替えて自転車を元の状態へと戻すこと。静子から自転車を受け取った「ぼく」は、パーツを探し求め、ついに「レスキュー」することになった。
(この元のパーツを探す過程に果てがないことも言及されているが)
リンワンが亡くなった際に剥製にされていて、その剥製が完成した時、作業した人々はそこが神殿であるように感じた、といい、「ぼく」も早朝についにくみ上げた際に神殿であるかのように感じる。
この章の最後に出てくるフレーズが以下。

昨日より前とはわずかに異なる世界が、もうそこに生まれている。風のなかにいる小さな虫も、はるか遠い恒星がここまで届ける光も、ガラスについたほこりも、二度と同じであることはない。

こういう時の流れが、自分個人は時にとても怖くなるのだけど、ここではポジティブに描かれていて、グッときた。徹夜で読んで作中と同じタイミングで朝を迎えたかった。


10 樹
おじから聞いた、母が乗った自転車と祖父の死の話(一番冒頭に書かれていエピソードが母の幼少期の話だとここで分かる。実は母にも隠されていた過去があることが分かる)
ムー隊長の樹木の戦役
勝沼さんの娘からの手紙(マーちゃんがいかにしてリンワンになったのか(どうやって殺処分をまぬがれたのか))
アッバスからの手紙「自転車を抱いた樹」
バスアが戦地で埋めた自転車は、その後生えてきた樹によって樹上へ
母の病室で空漕ぎする「ぼく」(父の姿に似てくる)


後記「哀悼さえ許されぬ時代を」
この作品の登場人物は、主人公がときどき程さんと呼ばれる以外はみな名前がカタカナ表記されている(アッバスや静子さんは中国名も書いてあったはずだが)ので、ともすると中国語圏の話だというのを忘れそうになるのだが、この後記で書かれている謝辞の相手はみな中国語の名前で、そういえばそうだった、となる。


訳者あとがき
虚実いりみだれる話で、あえて史実についての訳注はつけなかったというが、一点、日本人向けの解説として、象のリンワンは台湾で有名な象だということ。

SFマガジン2025年2月号

2025オールタイム・ベストSF結果発表

これ目当てだったのだが、結局あんまりちゃんと読んでないし、ブログになんか感想書く類のものでもないな

「アフター・ゼロ」 グレッグ・イーガン/山岸 真訳

勤めていた核融合ベンチャーがつぶれてしまった女性エンジニアが、次なるプロジェクトとして、ラグランジュポイントに太陽光を分散させる装置を作ろうとする話
なんか出資か何かのライバルとなるプロジェクトがトンデモで、それと対峙するあたりが、まあイーガンっぽいといえばイーガンっぽいが、全体としては、まあまあって感じの作品

「陽の光が届かなくなった年」 ナオミ・クリッツァー/桐谷知未訳

パンデミックが起きたり、天候不順が起きたりして、インフラが不安定化した世界の、とある町の話
みんなで協力しあって困難を乗り越えようという話で、読んでいて気持ちの良い話ではあるが、すごく面白いというほどでもない感じだった。

「やけにポストの多い町」 大木芙沙子

望が、恋人の洋平を、自分の故郷である喜浜町へと連れてくる。
ここは、携帯電話の電波が通じないため、かつては一種のホラースポットとして、今はデジタルデトックスできる町として、観光地となっている。
タイトルにある通り、この町には、ポストが非常に多い。普通の郵便ポストではなく、黄色いポストで、この町の住人はそれをメール代わりに使っている。ポスト番号を書いたハガキを入れるとそれが送られる(内部にFAXのような機械が入っている)。
とはいえ、それ以外にはそれほど目立った何かがある町ではなく(夕焼けが美しいというのも観光資源だが)、また、実は今は電波も入る。
洋平は、一緒にいても疲れないという点で望との付き合いを好ましく思っているのだが、町に帰ってきた望はどことなく様子がおかしいというか、自分の故郷を気に入ってほしいからなのかもしれないが、非常に熱心に町のよさを推してくるのである。
ところで、登場人物としてはもう1人、望の幼なじみである唯がいる。彼女は、小学6年生の頃に町に引っ越してきて以来、望と親しくしている。だが、町の外を知っている唯は、あまり先のないこの町に執着している望を、町から引き離したいと思っている。
実際、望も、唯の上京とあわせて上京しており、東京で就職している。洋平とも東京で出会っている。しかし、望の目的は、東京で見つけた恋人と一緒に再び町へ戻ることなのである。
と、ここまでだとあまりSF要素がないが、このポストの中には、ハガキを処理してくれる粘菌が入っていて、それが夕焼けのような赤をしていて、小学生の頃にこれを見た望は、いたく感激して、以来、時々それを食べたりしている(食べても望の体内には定着しないが)。

ヴェルト 第二部 第四章 吉上 亮

こういうタイトルの連載作品があることは知っていたけれど、内容は全然知らなかった
ページをパラパラとしていたら、革命とかサンソンとかロペスピエールとか目に入ったので、なんとなく気になって読んでみた。
たまたま前号も持っているので、第三章もあわせて読んだ。
連載の途中からなので、全体としてどういう話なのかよくわからないが、この部分だけでも結構面白かった。
ルイ16世の眼球は未来視ができるとされ、刑死後、眼球だけがサド侯爵によって持ち去られていた。それを、ロベスピエールの命を受けたサンソンが、ロベスピエールの妹とともに取り返しにいく。
サド侯爵は、精神病院で演劇治療を行っており、眼球と引き換えにサンソンに舞台にたつよう要求する。
サドはマラーを演じ、サンソンがサドを演じ、ロベスピエールの妹がシャルロット・コルデーを演じるその演目は、コルデーがマラーを暗殺するというものだが、この時、マラー暗殺はまだ起こっていない。
そして、このロベスピエールの妹というのが、実はロベスピエールの妹ではなく、シャルロット・コルデーその人で、数年後、本当にマラーを暗殺してしまう。
作中で未来の出来事が劇中劇として演じられ、それも本人が本人が演じていて、みたいな複雑な構成が面白いし、サンソンに正体を明かしたコルデーが自分の身の上とフランスの宗教対立の歴史とかをサンソンに語るくだりとかも面白かった。
今後、ナポレオンも出てくるみたい(眼球の片方がナポレオンの手にわたっている)

日韓SF作家対談 今、SFを書くということ(キム・チョヨプ×池澤春菜 聞き手◎井手聡司早川書房編集部])

秋山文野「宇宙開発 半歩先の未来」

衛星コンステレーションについて
もともと、1970年にジョン・G・ウォーカーという技術者が発表した論文により考案されたアイデア
この論文自体はよく読まれているが、ウォーカーという人が一体どういう人なのかは全くわからないらしい。

長山靖生「SFのある文学誌」

夢野久作のつづき
『SFマガジン2024年12月号』 - logical cypher scape2
東京についてのルポ
都市生活者の堕落について

高原英理編『川端康成異相短篇集』

『文豪ナンセンス小説選』 - logical cypher scape2に引き続き日本文学。
おおよそ大正から戦前昭和くらいの作品を読んでみようかなあという気持ちがあり、横光利一とかが気になりはじめていた。
川端康成は今まで全く読んだことがなく、もしかしたら教科書等で何か少しだけ読んだことがあるかもしれないけれど、少なくとも自発的に読むのは今回が初めてだと思う。
で、川端についての知識もほとんどなかったのだが、「眠れる美女」とか「狂つた一頁」とかの存在を知り、そういう妖しげな作品もあるのかーと気になり始めたところで、高原英理編『川端康成異相短篇集』 ただならぬ世界を描く、巨匠の異色アンソロジー - もう本でも読むしかないなどから、この短編集の存在を知って今回読むことにした。
「異相」という聞き慣れない言葉だが、川端作品に描かれる、常ならない相、只ならぬ世界を編者がそのように称している。
編者によると、近年、幻想文学や怪談という枠組みでの川端アンソロジーも編まれるようになっていて、それ自体は編者の考えとも一致するが、ここでは、幻想要素や怪談要素を含まない作品も拾うということで、「異相」という言葉を使ったらしい。


話の内容やテーマ的な面では、必ずしも自分好みではないのだけれど、どれもするすると面白く読めたので、さすがノーベル賞作家
「白い満月」「離合」が面白かったかなあ。あ、意識して選んだわけではないけどどちらも心霊譚だな。心霊要素があるのは肝ではあるけど、心霊要素以外の部分が面白い。
「死体紹介人」もよかったけど、自分から積極的に面白いといいにくい(そこまでアンモラルな作品というわけでもないが)
あと、「弓浦市」「めずらしい人」といった記憶ネタは、分かりやすい話
「無言」や「たまゆら」は、つかみは結構面白いんだけど、結末がそこまで、だったかなあ。
そういえば川端といえば「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」だが、確かに、全般的に冒頭でぐっと引き込まれる作品が多かったかもしれない。「ん、なんだろ?」と思わせて、段々分かっていく感じのが多い、気がする(いや、こう一般化してしまうと、小説とはそもそもそういうものだろ、となってしまうが)。

心中

1926年
2ページの掌編
母と娘のところに、別れた夫から次々と手紙が来る。
音をたてるなというような内容の手紙で、母は次々とそれに従っていく。
奇想というか不条理ホラーというか。

白い満月

1925年
肺病で湯治している主人公を軸に、女中として雇ったお夏の話と妹の静江・八重子の話とがそれぞれ展開する。
お夏が、北海道にいる自分の父の死を幻視する。
静江が主人公のもとへ訪れている間に、八重子が自殺する。八重子の夫と別の男との関係から。八重子の夫とその男は、どちらも静江の元恋人。これも複雑だが、実は、静江と八重子は主人公とは父親が違う可能性もあるとか、そういう話もあったり。
お夏の謎の霊視能力みたいなのが出てくるのが異相ポイントなのだが、それはそれとして、三兄妹の人間関係が主たる内容で、そこが面白い。

地獄

1950年
これは主人公の「私」が死者で、まだ生きている友人の西寺のもとへと会いに行く話
西寺は、かつて「私」の妹と想いあっていた(が付き合い始めていなかった)。で、「私」夫婦と妹と西寺とで、登別旅行へいったことがあったのだが、そこで妹は自殺のような事故死をとげる。
ところで、その西寺が今は雲仙にきていて、雲仙と登別が似ていることに気づく。なぜ雲仙に来たかというと、西寺の今の妻が雲仙で死のうとしていたから。
この作品は冒頭から、語り手が死んでいる、という点で引きつけられるが、妹がなんで死んだのか、それは死者同士であっても分からないというところで、感情をめぐるミステリになっている(謎解きはない)。まあ、そういう死に方されてしまうとな。

故郷

1955年
ヘリコプタアが冒頭から出てくるので、発表年を見たら1955年だった。ヘリコプターっていつ頃から一般化? したんだろう。
これは全体的に夢か幻かみたいな話で、ヘリで故郷に帰ってきて、子供時代に仲良かった女の子が、その当時の姿で出てきたり、自分も子供時代の姿になってたりしながら、故郷を見て回ったりする話

離合

1954年
結婚を間際に控えた女性が、父親と婚約者をひきあわせるために、父親を東京に呼ぶ。
そして、離婚していた母親とも会わせようとする。
娘が一人暮らししている家で、再会する父と母
なんだけど、最後、この母親はすでに死んでいて、ようは幽霊と会っていたんだなあというオチになっている。

冬の曲

1945年
主人公の幼馴染なのか何なのか親しくしていた男が、招集後すぐに戦死してしまって、その後、縁談があったのだが断ってしまう。ところが、その断った相手も亡くなってしまい、罪悪感にとらわれる話

朝雲

1941年
これは心霊とか幻想とかそういう要素はなくて、いまでいう百合もの
女学生が主人公で、転勤してきた女教師にひたすら一方的に憧れている、というただそれだけの話なんだけど、好きなんだけどうまくお近づきになれない、話せる機会があるとつっけんどんな態度をとってしまうという青春もの
ただ、卒業後、何通も手紙を出すあたりとかはちょっと怖いといえば怖い、か。
まあでも最後は、青春のよき思い出みたくなって終わる。

死体紹介人

1929年
これ、初期の代表作らしい。
屍姦というわけではないが、死体に対して性的なニュアンスをもつ作品となっていて、つまりどことなく変態的な要素がある。読んでいて気持ちのいい話ではないが、しかし、別に変態性欲の話というわけではなくて、奇妙な人間関係の話であって、面白いことは面白い。
この短編集収録の中では一番長い作品かと思うし(あとは「白い満月」と「朝雲」が長めだった気がする)、この短編集のハイライトなのかなと思われる。
主人公は大学生で、昼間の勉強部屋が欲しいとなって、とある下宿部屋を借りる。そこは、乗合自動車・車掌の女性ユキ子が借りている部屋なのだが、昼間はいないので、家賃も半分にできていいだろう、と。
で、直接会うこともなく、部屋にもほとんど生活の気配を残さないような女性だったのだけれど、急性肺炎になって急死してしまう。
どうも身寄りもないらしく、主人公が医学部の友人に相談したら、献体してくれよ、お前が内縁の夫だったことにしてしまえばいいだろ、と唆されて、売ってしまう。
写真だけほしくなって友人に頼むと、遺体安置室に置かれている全裸の写真が送られてくる。主人公は、ユキ子が働いているところを一回目撃しているが、それ以外では生前に直接の面識はない。死体になってから初めて肌に触れて、それが初めて抱く女の身体でもあって、女の身体は冷たい、という認識が生まれ、さらに死体となってから裸を見ることにもなり、何というか、死んでから関係が深まってしまう。そういう倒錯が描かれている。
ところで後日、ユキ子の妹から連絡があって、上京してくるというので、遺骨が必要になるが、もう医学部の方には何も残っていない。火葬場に行って誰かの遺骨をくすねてくるとしたところ、やはり一人で火葬場に来ていた女性たか子と出会う。娼婦だった姉の火葬で、事情を話すと骨を分けてくれることになる。
でまあ、主人公は、結局妹の千代子と内縁関係を結ぶことになり、そしてその妹も姉と同じく乗合自動車の車掌となる。さらに同じ病気で倒れると、正式に婚姻するが、直後に死んでしまう。
一方で、たびたび会うようになっていたたか子と、最終的に結婚する。で、今では、貧民街で葬式代に困っているところに、医大献体するように薦めて回るようになった、と。
ユキ子は遺品がほとんどないのだけど、拾いものという包みがあって、そこに「男女のけしからん写真」が入っており、後に主人公は、その写真とユキ子の裸の写真とを一緒にしてしまっている。あるいは、千代子の火葬の際、葬儀社が不寝番をしてくれる人足を出してくれるのだが、男女2人組で、千代子の遺体の横で抱き合っていたのをたか子が目撃している。
主人公自身の性は描かれていないが、ユキ子・千代子姉妹はその死後に、赤の他人の性行為と結びつけられている。
姉と同じ道を辿った千代子と、姉とは違う道を辿ったたか子という対もある。
こうやって整理してみると、やっぱりよくできてると思う。でも、この主人公あんまり好きになれないなという感じもある。

1950年
掌編で、夢に蛇が出てきたり、知人が出てきたりする。

1927年
ここから、1927年の掌編が3つ続く。
犬は死を呼ぶと言われ、飼い主が死ぬとその飼い犬も死なせる村の話
まあ、嗅覚が鋭いから、死臭を覚えた犬は、死期の近い人が分かるようになるのだろうとか解説され、その風習も次第に失われていく。

赤い喪服

1927年
女学生が赤痢にかかって死ぬ話

毛眼鏡の歌

1927年
思いを寄せる女性の髪の毛を輪にして眼鏡にして、それで覗いた風景に彼女を見出していく話

弓浦市

1958年
主人公のもとに、30年前に会ったことがあると称する女性がやってくる。
九州の弓浦市に主人公が旅行で訪れた際にあって、結婚の約束もしたという。
とはいえ、主人公は、その時期に九州旅行した記憶も、まして旅行先で婚約した女性の記憶もない。
ずいぶんと詳しい思い出話を語った後、女性は帰っていく。
あとで調べると、そもそも弓浦市なる市自体が存在していなかった
一緒に居合わせていたほかの客は、あの女は気が触れていたんだなと納得するが、主人公はもう少しモヤモヤするという話

めずらしい人

1964年
男手1つで息子と娘を育て、その二人も独り立ちした男性教師の話
特にかわいがっていた息子が結婚して家を出ていった後、父親は明らかに気落ちしている様子だったが、帰ってくると、今日はめずらしい人に会った、と娘に話すようになる。
昔の知人にばったり出くわした、ということなのだが、あまりにも毎日続くので、訝しんだ娘が父親の帰る頃合いに、勤務先の学校を見張ってみると、知らん人に声かけて怪訝そうにされているところを目撃してしまう。今までも、知らん人に声をかけてたのか、と愕然とする娘、という話。

無言

1953年
とある老作家が病気で声が出せなくなってしまう。筆談なら、能力的にまだ可能なはずだが、それもしようとしない。全くの沈黙を続けているという。後輩の作家である「私」がそれを見舞う話。
未婚の娘が父親を世話していて、彼女は父親が何を考えているか分かるような振る舞いをしている(「早く、お酒を出せって?」みたいな感じで)。
で、「私」は、あなたがお父さんのことについて書いてみたらどうですか、みたいな話をふる。
というような内容なのだが、見舞いに行く道すがら、タクシーの運転手から幽霊話の噂を聞いていて、それがなんか織り交ぜられながら展開する。

たまゆら

1951年
たまゆらとは、勾玉と勾玉をあてた時に鳴るかすかな音のことを指すらしい。
とある若い女性が亡くなり、彼女が身につけていた勾玉を、主人公、彼女の元恋人瀬田、妹が形見として受け取る。
主人公は、このたまゆらを愛の時に聞かせたのだろうか、などと妄想している。
3つの勾玉を3人で分け合ったので、命日の時は3人持ち寄って、また、たまゆらを聞こうなどと約束したのだが、後日、瀬田が主人公に、勾玉のせいで悪夢を見るようなので返したいのだという相談をする。

感情

1924年
以下、2,3ページくらいの短いエッセーが3本ほど続く
自分は失恋したのに悲しくならない、という話。ただ、この文章自体が、今書いている小説の宣伝らしい。

二黒

1935年
私は後悔をしない云々
タイトルは、掲載誌の方の企画で、一白、二黒、三碧……と各作家にふったっぽい

眠り薬

1959年
睡眠薬を飲んだ時の失敗談(宿泊先で部屋を間違ってしまった云々)

『文豪ナンセンス小説選』

ちょっと昔の日本文学を読んでみようかなと思い始めていて、つらつらと図書館で検索をかけていたら見つけた本。1987年刊行の本である。
「ナンセンス」というのは最近だとあんまり使われないので、ニュアンスをつかみ取りにくい。このアンソロジーに収録されている作品のうちの多くは、今だと「奇想」とかそういうふうに呼ばれる作品では、という気もした。
ただ、これは確かにナンセンスだな、と思う作品もある(個人的に、ナンセンスという言葉からは、ユーモアや笑いの要素が含まれるような気がしてしまうので、それがあるとナンセンスっぽいなと感じ、それがあまりないと、奇想っぽいなと感じた)。


稲垣足穂横光利一中島敦あたりを特に目当てとして、それ以外にもまあ有名な名前がたくさん並んでいるから読んでみるか、という感じで手に取った。
目当てにしていた作家の作品は、想定通り面白かったが、それ以外に、内田百閒と宇野浩二の作品も面白かった。


古い作品は漢字の使い方が違っていて(今だったら普通かなにひらくところも漢字になってたり(「不図」とか)、そもそも難読単語だったり、知らない言葉だったり)、読み方が分からなかったりするけど、それもまた面白い
現代の小説とも翻訳小説とも違ったリズムがあって、それがなんとなく、今しっくりくるのだと思う。

「雨ばけ」泉鏡花

『随筆』大正12年1月号
中国の怪談をベースにした話。初出誌が『随筆』とあるように随筆として書かれた作品らしくて、時々、筆者が出てくる。

夢十夜-第二夜」夏目漱石

朝日新聞明治41年7月
武士が、和尚の首をとるために悟りを開こうとしているが、なかなか悟りが開けない話

「北溟・虎」内田百間

これは、「北溟」と「虎」の2篇。どちらも昭和12年の作品
どちらも2~3ページ程度の掌編
北溟は、船を待っていたら、膃肭臍の子が大挙してやってきて、待っていた人たちがそれを捕まえて食べる、という話
虎は、汽車が通ったあとに虎がでるといわれてて、みんなでたらなんか一人いなくなった話
奇想という感じがする。

「煙草と悪魔」芥川竜之介

大正5年10月
キリスト教伝来の際に、悪魔も一緒にやってきて日本に煙草を伝えた、という話

「星を売る店」稲垣足穂

中央公論大正12年7月
編者がこの作品をセレクトした理由は、タバコつながりらしい
港町を歩いている「私」は、友人がやっていたタバコを素早く出して咥える芸の真似をしたり、街歩きをしていて、蛇使いを見ていたりしている時に出くわした別の友人とタバコの話をしたり、と確かにタバコがよく出てくる。
後半になって、「私」が突然出くわした店で、金平糖のようなものを売っていて、それは、おもちゃの汽車にいれると汽車が動き出すし、楽器の中に入れると楽器が勝手に鳴り、カクテルやタバコの中に入れると美味くなったりと色々な効用があって、それは何かというとエチオピア高原で採れる「星」だという。

寒山拾得森鴎外

『新小説』大正5年1月号
寒山拾得についての話
最後に、作者本人が出てきて、子供にこれは一体どういう話なのか聞かれて困った、というのがついている。寒山文殊だというのがわからぬといわれて、
「実はパパアも文殊だが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」

「頭ならびに腹」横光利一

文芸時代大正13年10月号
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」という冒頭の文が、新感覚派を代表する有名な文らしいが、最初に読んだときは何も思わず通り過ぎてしまっていた。
満員列車の中に、滑稽な歌を歌い続ける小僧が入ってくる。ところが、事故によって列車が止まってしまう。人々は、待つか引き返すか迂回する列車に行くか選ばないといけなくなる。待つのと迂回路線に回るのどちらが速いかわからず躊躇する人々だったが、一人が迂回線へ向かうと雪崩をうってそちらへ向かう。
小僧だけが歌ったままずっと残っているのが、列車が復旧し、迂回せず待ってた方が速かったね、というオチ。
列車が事故った際の人々の反応が、「どうした!」/「何んだ!」/「何処だ!」/「衝突か!」と書かれているのが、リズミカルで楽しかった

「霊感」夢野久作

『猟奇』昭和6年3~4月号
老医者ドクトル・パーポンのもとに、顎の外れたアルマ青年が運ばれてくる
顎を直してもらったアルマは、ドクトルに顎が外れた顛末を話し始める。
アルマとマチラの双子の兄弟と、彼らの従妹であるレミヤとの間に起きた恋愛事件とその顛末
この3人の悲劇(アルマとマチラの双子があまりにもそっくりすぎて、レミヤとどちらが結婚するかという点で、まったく甲乙つかずに3人ともが苦しむ。どうやって解決するかを判事が考えるのだが、なんとレミヤの子は実は……)というの自体は、まあなかなか面白いと思うのだけど、なぜそれが、顎が外れる、というユーモア話的な枠組みの中におかれているのか。

「死なない蛸」萩原朔太郎

新青年昭和2年4月号
1ページほどの作品
水族館の中で飢えた蛸が自分を食べていって、ついに何もなくなっても死ななかったという話

「化物」宇野浩二

中央公論大正9年7月夏季特別号
『新選宇野浩二集』では「熊と虎」に改題。童話仕立てになおした「虎熊合戦」もある。
友人の小説家である島木島吉から聞いた話、という内容なのだが、その前に、語り手である「私」と島木が、学生時代に出会った頃の話から始まる。
島木は大学をやめてしまい、「私」はまだ大学に残ってぷらぷらしていた頃、「私」が居候のようなことになっていた終夜営業のカフェーに島木がやってきた、というような取り留めもない話がされる。そのあたりは本当に取り留めもないところなんだが、学生のだらだらっとした雰囲気が出ていてなかなかいい。
で、後日、島木が、そのカフェーで再会した頃に実はこんなことがあったんだ、と話してきたのが本題となる。
島木も行くところがなくて、夜は終夜営業の店をハシゴしていて、そんな中、やはり同じように深夜のカフェにいる女性と出会う。そして、その女性から、妙なアルバイトを持ち掛けられる。
とある興行師からの仕事で、何も説明されずつれていかれて、なんと熊の毛皮を着せられて、そのまま熊として見世物小屋に連れられた挙句、虎と決闘させられるという仕事だった。
まあ、読んでいたら想像がつくが、虎の方にも実は人がはいっていたのだけど、というオチがつく。

「愛撫」梶井基次郎

『詩・現実』昭和5年6月号
これは小説というよりはエッセーという感じの作品で、猫について書いている
猫の耳を切符切りでパチンと切ってみたいとか、猫の手を化粧道具にしているご婦人がでてくる夢とか、なかなか残酷な感じの話が書かれているのだが、解説では「生を慈しむ感情が温かく底を流れる佳品」と評されており、また、この作品については単体でWikipediaの記事もあって、梶井の猫への愛をあらわした作品としてかなり高く評価されているらしい。
まあ、確かに残虐な話ではないんだけれども……

「謝肉祭の支那服-地中海避寒地の巻」久生十蘭

新青年』で昭和9年から開始された連載の第3回
この話はあんまりよくわからなかったな
コン吉とタヌキ嬢という二人組が、特急で出会った男につれられて、マルセイユだのニースだのに行くのだけど、なんかいろいろ振り回される話だった

「風博士」坂口安吾

『青い馬』昭和6年6月号
風博士という人が、蛸博士とのいざこざの果てに自殺して、その遺書と、それについての弟子の語りなのだけど、語り口の軽妙さというか、無意味な繰り返しみたいなところが面白いものの、内容としてはよくわからない。これはまさにナンセンスな作品という感じではある。

「ゼーロン」牧野信一

『改造』昭和6年10月号
解説によると、牧野信一は、「雨ばけ」が掲載された雑誌『随筆』で助手をしていたことがきっかけで、宇野浩二と知り合い、宇野浩二からかわいがられていた人、らしい。
作家の「私」が、経川という彫刻家に作ってもらったブロンズ像「マキノ氏像」を処分するために、箱根の山奥へと向かうという話。その時、乗る馬の名前がゼーロン
これもちょっとよくわからなかった

「知られざる季節」石川淳

『作品』昭和11年12月号
後半、なんかよくわからない作品が続くなーという感じだったが、この作品がそのピークだった。
一応読んだのだが、あらすじも把握できていない。
解説によると、デビューした石川淳を称賛したのが、先の牧野信一だったとのこと。
また、この作品は、当時単行本未収録であり、編者が石川本人に頼んで本アンソロジーへの収録を許可してもらったという経緯があるらしく、編者の思い入れの深い作品のようである。
ちなみに、このアンソロジー刊行時、収録されている作家のうち、唯一存命だったのが、石川淳だったようだ。

「文字禍」中島敦

『文学界』昭和17年2月号
アッシリア帝国、アシュル・パニ・アパル大王の治世が舞台で、その大王の図書館でひそかな声がする。これの調査を命じられた老博士ナブ・アヘ・エリバは、文字に宿る精霊について研究を始める、という話。
文字の精霊というのが、いかに人間に害をなすのか、という話
目が悪くなるとか記憶力が落ちるとか、あるいは、くしゃみをするとか下痢をするとかいう害も報告されているが、主題となっているのは、文字によって書かれたことと現実との関係で、今にも通じるような話である。
最後、老博士が粘土板によって圧死してしまうというオチも含めて、コミカルな感じにはなっている。