Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)

都美で開催されている「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」に出かける。

実は南の島に移住したこと、トロピカルな植物をカラフルな色使いで描いていることなどから、田中一村=「日本のゴーギャン」という勝手なイメージを持っていた。今回、その無名のまま終わった生涯を知り、じっくり作品たちを見ることで、その勝手なイメージを手放すことができた。そしてなぜ今再評価されているのかがわかる回顧展であった。

南画をベースにさまざまな日本画の技法を独学で身につけ、独自の境地に行き着いた田中一村。Web サイトからその生涯を紹介した文章を引用する:

田中一村(たなか・いっそん/明治41年[1908]-昭和52年[1977])

栃木町(現・栃木市)に生まれる。本名は孝。大正3年(1914)、東京に転居。翌年、彫刻師の父から米邨(べいそん)の画号を与えられる。幼年期から卓越した画才を示し、神童と称される。南画を得意とした。大正15年(1926)、東京美術学校(現・東京藝術大学日本画科に入学するも、2ヶ月で退学。「家事都合」とされるが詳細は不明(同級生には後の日本画壇を代表する東山魁夷橋本明治らがいた)。その後、3人の弟と両親を立て続けに亡くす。昭和13 年(1938)、姉、妹、祖母と千葉に転居。農業をしながら制作に従事。昭和22年(1947)、柳一村と画号を改め、《白い花》が青龍展に入選。翌年、田中一村の名で同展に入選するも、自信作が落選したため辞退。その後、日展院展と相次いで落選。わずかな支援者を頼りの制作が続くが、昭和33年(1958)、50歳にして単身奄美大島へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては、奄美の自然を主題とした絵に専念する日々を送る。昭和52年(1977)、夕食の支度中、心不全により亡くなった。享年69歳。

昭和54年(1979)、有志により奄美で遺作展が開催され、異例の3千人もの動員を記録。昭和59年(1984)、NHK日曜美術館」の特集放映で全国的に注目を集め、その後も展覧会の開催や評伝刊行など、顕彰の動きは止まず、平成13年(2001)、奄美田中一村記念美術館が設立された。

この展覧会の詳しいレポートがあるので、参考にされるとよいと思う。

nhk-groupmall.jp

展覧会では年代順に作品が並んでいる。幼年期、わずか 7-8 歳でこれだけの絵を描いていたのか、その才能に驚かされる。千葉では農業、移住した奄美大島では染織工で生計を立てつつ、独自の作品を生み出していく。個人的には《黄昏野梅》、《黄昏》、《秋晴》といった作品の夕暮れの木々をシルエットで描く色使いが好きである。

奄美に移住してからの作品は、まさに南の島における花鳥画。大胆な構図。鮮やかな色使い。技術に裏打ちされた写実と装飾の融合。田中一村を「南の琳派」と称するのもわかるような気がした。

展覧会の最後を飾るのは、奄美における二つの大作。田中一村自身が命を削って描いたと言った《アダンの海辺》と《不喰芋と蘇鐡》である。当時は奄美が日本最南端であったという解説文に、はっとさせられた。

《アダンの海辺》1969年

《不喰芋(くわずいも)と蘇鐡(そてつ)》1973年以前

今回は図録ではなく、『別冊太陽 田中一村』を購入した。