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課題でオランダの政治体制について答えよ。という課題があって、使わなければいけないワードに自由貿易があります。16世紀後半から18世紀前でオランダと自由貿易の関係について教えていただきたいです。

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回答(1件)

オランダと自由貿易の関係、これは課題のキーワードとしてとても重要ですね。16世紀後半から18世紀前半のオランダを理解する上で、自由貿易は本当に中心的なテーマです。 まず、オランダの政治体制の特徴から説明しましょう。1581年にスペインから独立を宣言して成立したネーデルラント連邦共和国(オランダ)は、ヨーロッパでは珍しい共和制国家でした。7つの州が連合した連邦制で、各州が高度な自治権を持っていました。全体の代表機関として連邦議会がありましたが、最も力を持っていたのは商業の中心地ホラント州でした。 この政治体制の大きな特徴は、商人階級が実質的な権力を握っていたことです。貴族や王ではなく、貿易で富を築いた商人たちが政治を動かしていた。これがオランダの自由貿易政策と深く結びついています。 オランダが自由貿易を推進した背景には、いくつかの理由があります。まず、オランダ自体が小さな国で、天然資源も限られていました。だから、海外との貿易なしには繁栄できない。商人たちは貿易の自由、つまり規制や独占をできるだけ排除して、自由に取引できる環境を求めました。 当時のヨーロッパでは、スペインやポルトガルが重商主義政策をとっていて、植民地との貿易を独占し、金銀を蓄積しようとしていました。これに対してオランダは、より開放的な貿易を主張しました。法学者のグロティウスが「自由海論」を著して、海は誰のものでもなく、すべての国が自由に航海し貿易する権利があると主張したのは有名ですね。これはオランダの国益を理論的に正当化するものでした。 実際の政策を見ると、オランダは東インド会社や西インド会社といった特許会社を設立しました。これは一見矛盾するように見えますが、会社自体は民間の株式会社で、多くの商人が出資できる開かれた仕組みでした。国家が直接統制するのではなく、商人たちが自主的に組織して貿易を行う形だったんです。アムステルダムには世界最初の本格的な株式取引所もできて、資本を集めやすい環境が整いました。 オランダの港は、ヨーロッパで最も自由で開かれた貿易港でした。他国の商人も比較的自由に取引でき、アムステルダムはヨーロッパの商業の中心地となりました。穀物、香辛料、織物、あらゆる商品が集まり、金融の中心地としても発展しました。 政治体制との関係で言えば、商人層が政治権力を握っていたからこそ、自由貿易を促進する政策が実現できたわけです。貴族や王が支配する国では、領土拡大や威信を重視しましたが、オランダでは商業的利益が最優先されました。戦争も基本的には貿易ルートや商業権益を守るために行われました。 ただし、オランダの「自由貿易」は完全に無制限というわけではありませんでした。東インド会社はアジアで香辛料貿易を独占しようとしましたし、植民地では現地住民に対して厳しい支配を行いました。つまり、オランダ商人たちにとっての「自由」であって、他国や現地の人々にとっては必ずしも自由ではなかったんです。 17世紀はオランダの黄金時代で、この自由貿易政策によって驚異的な繁栄を実現しました。しかし18世紀に入ると、イギリスやフランスといった強力な王権国家との競争に敗れていきます。皮肉なことに、分権的で自由な体制は経済的には効率的でしたが、軍事的には不利でした。中央集権的な国家の方が、大規模な軍隊を動員しやすかったんですね。 課題をまとめるなら、こんな感じでしょうか。オランダの政治体制は商人階級が主導する共和制で、その体制が自由貿易政策を生み出した。自由貿易によってオランダは17世紀に空前の繁栄を実現し、世界の商業と金融の中心地となった。しかし18世紀には中央集権国家との競争で衰退していった、と。 政治体制と経済政策が密接に結びついていて、商人による統治が自由貿易という経済思想を実現させた、という流れを押さえておくといいと思いますよ。頑張ってください。

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