猫からの伝言 #1
2009年 10月 07日
既に,随分昔の話だが,これについて論議したまともな論文や実験を見ない状況であるかどうかについての最近の研究についての文献ワークは,実際のところまだあまり手をつけていないのだけれど,エントリはサイエンティフィックペーパーではないから適当に補完して進めていけば良いことにしておいておく。この話は未だに猫の行動の聖書的な扱いの著書の効果もあって,結構猫好きには信じられている。私の母も,この説はいたくお気に入りだった。件の書籍を読み終わった後、「c_C,聞いて。私はR(当時の飼い猫)に養われていたんだわ!」とかなり喜んでいたことも確かだ。で,こんなエントリを今ここで上げるわけだから,当然ながら,私は,この獲物持ち帰り行動=飼い主扶養説とは異なる考え方を持っている。
画像はアカネズミを持ち帰ってきた直後のチコ。
基本的に,猫が獲物を銜える,このときの獲物が抵抗する力に合わせて顎の筋肉の力の入れ方が変わり,その結果,啼き声に変化が生じる,というような至近要因的な説明の検証を飛ばして,子供に獲物の違いについての情報を信号して送るという究極要因的説明に飛んでしまっていることがまず気になるのだ。ラインハウゼン自身が,「マウス啼き」も「ラット啼き」も同じ声の出し方で発せられる声であること、強く声を出すとラット啼きになるということに,気がついている(「猫の行動学」邦訳版,p.339)。
これは,彼らにとってコアエリア,ねぐら,もしくはテリトリーの要所である場所に獲物を移動させて,改めて処理するだけということから,獲物のリトリービング(持ち運び行動)を考えないというところと共通している。
近代生態学が与えてくれた学問的な恩恵はいくつもあるのだけれど,ここで思いつくものとしては「適応度という動物の行動を解釈する場合の共通通貨を研究者が手に入れたこと」と,もう一つは「至近要因と究極要因を区別してそれぞれについての解析と解釈を行うことを前提としたところ」だろう。
もちろん生理学者は通常は究極要因を考えずに済む仕事をするし,至近要因にコミットした生理学,遺伝学的なアプローチを執る手段を手に入れて,その領域まで手を伸ばしている生態屋は,限定されている。で,先端で戦っている研究者においては,両者を視野に入れて戦うのを生業とする,そういう領域の方も少なからずおられるけれど。
彼は,戻るとコンクリの土間に蝉をぽとんと落とすと,スタスタと家の中に入った。もちろんご飯を強請るためである。いわゆる「マウス啼き」,ラインハウゼン解釈だと,小型の餌を扶養者に持ち帰ったことを知らせる鳴き声ということになる。で,私も彼にとっては,不器用なハンターであり,つまり一度もネズミや鳥を捕まえているところを見せたことがない口ばっかりのハンターで,「ああ,父ちゃんは,なんだか知らないが,獲物を獲るのが駄目なんで,僕が頑張らなきゃなぁ。ほら持って帰ってきたよ,後は好きにして」という解釈になるそうな。
基本的に哺乳類の成長と発育過程で,独立前,仔が餌を親と共同で暮らす巣に持ち帰る場面はあるだろうし,そこに親がいて,コールすることでサポートや本日の狩猟の終わり,獲物の存在を伝えるという場面は生じると思われる。それはたとえ親が優れた狩猟者であっても。だから,餌を持ち帰って親に伝えることは,狩猟の匠である成獣に対しても行われて当然なのだ。
肉食獣の成長過程を考えると,仔は親から獲物の姿とその味,そのハンティングの機会を与えることで,適応度確保のための技を伝授されていく。彼が喰いたいと思う,缶詰も,カリカリも,シイラの刺身も鰹のたたきも,烏賊の活け作りも,ささみの蒸しものも,親の手から貰うわけで,本人は,その捕獲プロセスを見せてもらえない,体験させてももらえないという状況で,疑似親子関係はそのまま継続する。彼は,獲物を捕って私に示すことで,私からの何らかのフィードバックを期待している。その獲物の処理や,或いは,それに対する返歌としての狩猟に関わる情報の提示を。そう考えた方も出来る。
だから,私としての反応は,ほらこうやってここに云って生け簀の鯛をこうやって爪で引っかけて捕ると良いんだよとか,別の獲物,例えばお隣の鶏を追い立てて,チコの目の前で喉笛に食らいついて,しとめるとかを見せるべきなんだろうかと密かに考えたりしたわけで,いや,これは,彼の手に余る猟なので,教育的には間違いで,彼には外でしとめる獲物と,自分が口にしている食べ物の乖離自体は理解するのは難しいのかも知れない。あのキビナゴに繋がる猟場と狩猟プロセスを彼に見せられない父ちゃんは,基本的には親失格かも知れない。
ラインハウゼン解釈で何が気に入らないかと言えば,猫が飼い主を「へたっぴハンター」と認識してしまうという仮定自体であって,それは酷く恣意的としか思えないのだ。
猫の獲物持ち帰り行動の一つとしては,邪魔の入らないコアエリアに持ち込んでくるだけで,それがたまたま人の知る場所であるということだけという気がする。また,近所の家のポーチなども,彼のコアエリアであり,ある意味要所であり,目立つように置かれた獲物は,自分自身がそこに存在して猟をしているという信号であり,肉食獣のよくやるサインポスト的な情報発信のアイテムと考えた方が私にはしっくりくる。肉食獣の場合,闘争はやむを得ない場合は徹底してやるし,そこに至るまでの情報戦もある。余計なバトルはしたくないし,かつ公算が高かろうとも,こっちの情報を入手して相手が回避してくれればそれに越したことはない。同等の存在がそこにあるというだけでも,バトルを仕掛けるのはそのリスクを考えれば,そうやって回避させる術として機能してもおかしくないと思う。
もしも,親子間の行動に関して強引に解釈するならば,むしろ,チコは,自分自身でその見せてもらえない捕獲プロセスを自分で体験して,そして補完していると思われるのだが,その行為の延長に,自らも口にしない餌をとってきて,親を扶養しているという意識が果たして彼にあるものか疑問なのである。
むしろ,彼はフィードバックを求めているのかも知れない。私が,他に何を銜えて持ってくるか,あるいはその猟場や捕獲プロセス,熟達するためのチップスにコミットするような,なにがしかの情報を求めている。そのための信号が,そのお供え物ではないかという仮説も成り立つ。
ラインハウゼン解釈は,「マウス啼き」「ラット啼き」を保護者側にたってのケアする側への,「獲物獲ったよ,さあお食べ」信号だと解釈し,なおかつそれを発した場合,その信号の意味が普遍的であるという場合にのみ成り立つ。私は,前者も後者も少し意味が違うのではないかと思っている。動物の場合,信号は同じであっても受け取る側によって信号の意味が変わる。ほほえみは,威嚇行動から発しており,親和的個体にとっては共通の的に対する威嚇,つまり結果的に相手とは仲良しだという信号に転用されている。婚姻行動にまつわる多くの行動は,攻撃行動からの流用であり,それは,一緒にこうやって戦いましょう,故に僕と貴方は味方同士という受け取る側への信号として成り立つからだ。
だから,チコが私に発したのは,「帰宅した」「獲物を銜えている」という以上の意味は存在しないと云う気がしている。それで,もしも彼が育児中の雌猫であれば,それを聞きつけるのは子猫であり,「お母さんは今,帰ったよ,獲物あるよ」というケアに関する信号であると仔猫側は解釈して全く問題がない。実際そのように機能している。ここがまず最初の立ち位置。
「僕はここだよ,獲物あるよ。」でその獲物を使ってまだ色々「データを取る」つもりだったのに(恣意的に擬人化して現象を見る人は「いたぶる」と見る)いきなり取り上げられてしまうと,どんなに猫を誉めてよしよしとやっても,猫は次から巣穴(飼い主の家)に獲物を隠すようになったりする可能性を私はチコとのやりとりの中で見ている。
そして獲物がでかい場合は,「データとっている間に逃げられたりする」のを当たり前のように認識しているので,捕殺は速やか。口の中でやんわり銜えても抵抗して逃げられないカエル,小鳥はすぐに殺されない。捕獲シミュレーションをやり直すことも含めて=これをいたぶっていると勝手に擬人的解釈するのも自由だが。はっきり言って動物の見方としては少し問題があると思っている。
もちろんplyaing behaviorとして判断されれば,娯楽というように解釈できないわけではないが,野生動物の場合,余計な遊びも新たな適応度上昇の可能性を生み出す適応的行動でもあるわけで,高度に発達しすぎて,本人を滅ぼすほどに適応度とのリンクについて分け分からなくなった人間の娯楽とは一応線を引いた方が良いと思う。つまり,獲物に関する情報を沢山引き出した捕食者ほど次の狩りにおいて,より熟達した効果的なハンティングが出来る可能性があるわけで,どのように獲物が反撃してくるか,ぎりぎりまで責めないと出てこない隠し技だってあるかも知れないし,どうやってその獲物は逃げるのか,どうやったら逃げられず,獲物からの反撃を含めて最少のリスクで仕留められるか,彼らは意図せずに,獲物で遊びまくるという行動によりデータを取っていると考えれば「猫って,逃げられない獲物をいたぶって,最後に殺してしまうところなんか残酷だ」なんてのは甚だ半端な知識と観察の元に構築されていて擬人的でけしからん解釈ではないだろうか。シャチが同じ様ないたぶり行動をアザラシでやるのは知られている。
いざというときのために安全な相手を使って捕獲のシミュレーション実験を絶えずしていると思えば,なんて練習熱心なんだと,人なら褒め称えられるだろう。高等動物の生活史を見てリサーチコストやアセスメントコストの重要性を想起できない人は,結構動物行動観察をしてきた人にも普通なので、意外と盲点だと思う。
さて獲物が大きい場合と小さい場合で鳴き声を変えているというラインハウゼンの解釈も,チコが持ち帰る餌の抵抗強度により,噛みしめずに生きたまま無傷で帰ってくる場合と,それが困難でそれをしとめて持ち帰ってくることが多い状況を観察できたお陰で,単純に顎の噛みしめ方が,獲物の大きさや抵抗強度によって違うため,発する声に影響が出るだけではないかという仮説を考えた。生理的,機能的制約が全くかからずに,猫が思った通りの声を使い分けで出せるかどうか,試しに,鉛筆を強く噛みしめた場合と,軽く傷も付かないくらいに噛みしめた場合とで,ちょっと声を出して欲しい。絶対違うから。大きくて抵抗強度が高い獲物は,ラインハウゼンに依れば,親がしとめて,小さい獲物は子供に練習させるというのは,それはあくまで結果であって,親がしとめないと逃げてしまう相手ならそうするだろう。
行動について,擬人的な意匠を考えずに説明が可能であれば,その方が進化的に行動が適応してきたプロセスも無理が無くて,そして矛盾しない。哺乳類は,確かに高次の心理学的な部分が行動に影響する,過去体験とか。だが,この擬人化の呪縛や観察化の環境が,自然状態との資源分布との乖離していてそれに対してフレキシブルに変化した行動を読み損なって,過去の動物学者的解釈の多くは失敗してきた。仔別れは,インセストタブー,近親交配回避ではなく,単純に親のテリトリー内で仔がそのまま暮らせば,資源重複から,親自身や次の子供を育てるための資源確保が不利になり,適応度が落ちるから,追撃してテリトリー外に放逐しても,死亡率が極端にかからなくなった時点で追い出しているだけとか,ボスザルは,自然界ではあり得ない量と質の給餌による餌資源を一カ所に与えたから発生した存在であって,もともと野生のニホンザルの社会には存在しないとか。
猫についても家というエンクロージャーの存在の効果を,きちんと読みとった上で解釈している話は少ない。これについてはまた別の機会に述べたいが,この空間に持ち込むということは,親と共同で処理しても良い場所であり,かつ,本来の利用性のある餌資源がおかれている場所であって,外から撮ってきた,特に,量,質とも十分とは言えないけれどようやく撮ることができた蝉やトカゲに対しての興味を失う空間でもある。野生動物がとりあえずの餌を食べていて,唐突にそれに興味を失って投げ出す瞬間を見たことがあるだろうか。実に猫が「そこにいる個体のためにとって来たかのように放り出す」みたいに,スイッチが切り替わるように興味を失って,次の必要な資源にアプローチする。
この時のスズメの救出も大変だった。にこやかに「チコ,偉いな〜,有り難うね〜」とやっても,頑として渡さず,この一件以来,家に持ち帰ってきた獲物もこっそり隠すことになり,ヒメダニで溢れた何かが二階のもの影に転がっていたり,撃墜したクマネズミが庭のワイフのクルマの前に延々と並べられたりという状況になった。ちなみに,上のアカネズミは,既に急所の首を咬まれて死亡,下のスズメは無傷で無事飛び立っていった。過去ログで示したとおり,メクラヘビもアマガエルも,その他の大量のヤモリもカナヘビもニホントカゲもチコに無傷で家に持ち込まれてきた。抵抗する力の弱い獲物は,やんわり咥えても捕定できるので無傷でコアエリアまで持ち帰ることができるということだろう。今度はでかいドブネズミやキジバトを口にやんわり咥えて同じことをやろうとすればそれが結構難しくて,仕留めるしかないということになると思う。ラインハウゼンは,でかいラットも生かしたまま持ち帰ったが子猫の前で母猫は速やかに仕留めて見せたというような記述をしている。そういった狩りについての教育的な指導を行う行動が存在することは分かるが,基本的な問題はその行動と同じレーヤーで猫の持ち帰り行動の解釈が成り立つかどうかということである。
ちなみにラインハウゼンの時代には,動物行動における数的処理についての話はないし,彼がどのような個体,何例についてどのくらいの観察を行ったかは書籍からは分からない。原著にも当たっても基本的に全部ディスクリプションである。
上述の仮説の下に十分な検証として通用する雌雄別観察例,観察個体を蓄積するのは容易ではないのだけれど,猫の持ち帰り行動については,こんなようなことを私は考えている。
ってなことを言えよと,チコが伝えてきたような気がしたものだから。
なお,少々精神的ゆとりが無いので、このエントリのレスに着いては,少しお時間をいただきたく、またこのエントリ自身も、ちょっとの時間ごとに書き加えてきたので、文の流れも何もかも実際全く満足できないので,もう少し余裕のあるときに書き直しと補足を考えている。それでも今アップすることをご容赦いただきたい。