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大そうじへの備え
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番外篇 城戸禮 序文のための序文(2000.8.15) この文章は、一九九七年五月頃より別のサイトに「日本文學發掘シリーズ」として公開していたのを、サイト移設を期にこちらへ持ってきたものである。 シリーズと称しながら結局城戸禮しか発掘できなかったのは残念である。 序文 春陽堂という出版社がある。この出版社の文庫が「春陽文庫」であり、ここにはかつて時代小説を中心に多くの作品が収録されていた。現在では春陽文庫を書店の棚に見かけることはめっきり減ってしまい、大きな書店でも江戸川乱歩や柴田錬三郎の作品をいくつか揃えている程度になってしまった。 文庫本にはいちばん後ろの数頁を費やして自社の作品一覧が掲載されていることが多い。日頃あまり眼を通すことのない部分であるが、先だって古い春陽文庫で乱歩を読み返した折、何気なく眼に触れたこれらのページで私はのけぞった。ものすごい作品群を発表している作家がいたのだ
第114回 正しい子供の殴り方 最近は大人に殴られたことがない子供も多いと聞く。児童虐待やら暴力教師やらとマスコミが騒ぎ立てるせいであろう。昔の子供は父親や教師からよく殴られた。もちろん、私も殴られた。 私の父親の殴り方はいわゆる軍隊式であった。「胸を張れ」「歯を食いしばれ」という命令のあとに、握り拳が頭に、がつん、と飛来する。これがまことに痛い。あとでさすってみると、大きなたん瘤がきっとできていたものだ。 そういえば、以前は磯野家でも家長が長男を殴る光景がしばしば見掛けられたものである。以前、というのは長女が球形乃至は円形の食品を咽喉に詰まらせて「ん、ご、うぐ」ともがいていた時代である。それがじゃんけんに変わってからはほとんど知らないのだが、時代の趨勢というやつでそういった場面はほぼ皆無になっていることと思われる。 近頃の大人には子供の正しい殴り方を知らぬ者が多い。たかが殴るという行為で
第286回 わからない 「曖昧な日本の私」というのは大江健三郎のノーベル賞受賞スピーチであり、これはもちろん「美しい日本の私」を下敷きにした題名であった。一般に日本人は肯定否定の意思表示が不明瞭であるという言い方がされる。Noと言えない日本というやつである。しかし、私はむしろ現代の世相は「わからない日本の私」とよぶのが相応しいように感じる。 アンケートというのがある。さまざまな企業や団体や機関が、さまざまな目的に応じてさまざまな調査をするのだ。例えば、何らかの商品を買うと、「お客さまカード」などという葉書が添えられていることが多く、そこにアンケート調査の質問が載っていたりもする。 質問:あなたはこの製品をどこでお知りになりましたか。 a.テレビ・ラジオ b.新聞・雑誌 c.インターネット d.人から聞いた e.その他( ) f.わからない ここで私がわからないのは「わからない」という選択
第82回 俺のことかと 外国語や外来語の表記発音がなかなかむつかしいことは今更言うべきことでもなく、有名なところでは「ゲーテ」という人名は定着するまでにギョエテをはじめゴエテ、ゴエゼ、ギョエゼなどが罷り通っていたらしい。この辺はもっぱら昔読んだ豊田有恒氏によっかかって書いているのだが明治時代には英語には書生読みと車夫読みの二つがあったという。譬えば 'one' という語を書生は文字から入って覚えるので「オネ」と発音し、外国人の発音を耳で覚えた車夫は「ワン」と発音したというのである。 まあ、いずれにせよ根本的に発音が違うゆえどちらがいい悪いということもなかろうが、Hepburn をヘボン、Jitterbug をジルバというはかなり極端であり、しかもかたや映画女優については二人ほど「ヘップバーン」と発音表記する例があり、釣りに使うルアーの種類では「ジッターバグ」と呼ぶのでややこしい。 コンピュ
第252回 第三の性 生物はその生殖方法に二通りあり、すなわち無性生殖と有性生殖である。無性生殖には単為生殖と言われる単一の性のひとつの個体のみで生殖活動をおこなえるものやあるいは細胞分裂などの砕片分離があり、有性生殖には両性生殖や自家受精がある。われわれ人間はもちろん有性生殖をおこなう生物であるが、といってもそのうちの自家受精ではなく両性生殖のほうである。自家受精というのは両性具有の人間が自分のナニと自分のアレでもっていやそのごにょごにょそういう行為で生殖すれば可能だろうけれど両性具有の人というのは大抵生殖能力がないようで、そういう例はない。もしかしたら二千年ほど前に例の大工の嫁が孕んだのはそういう仕組みだったかもしれないけれど迂闊なことを言うと刺されたり回し蹴りされたりしかねない。あるいはチョップを喰らうかもしれぬ。チョップはいやだ。 そんなわけで、と言ってもどんなわけだか判らないがま
第339回 カツカレーがだめです 定期購読している雑誌はないのだが、気分によっていろんな雑誌を買ってきてつらつら眺めることがある。特に面白いのはまったく立場の異なる二誌を併読することだ。たとえば朝日の「論座」と産經の「正論」を一緒に買ってくると、かなり楽しめる。 その「正論」で最近「ハイ、せいろん調査室です」というコーナーが始まった。読者からの質問や相談を受け付けて回答するもので、回答は編集部かあるいは質問を読んだ読者が次号に投稿しておこなうようになっている。 質問には、京都の旧日本軍兵器を展示していた美術館が移転したが、移転先が判らぬゆえ調べてほしいだの、陸軍中野学校の送別会で歌われていた「三々壮途の歌」の歌詞を教えてほしいだのといった、流石に右翼的なものが並んでいる。 ただしどんな場所にも勘違いした人間はいるもので、十四歳の少年から「好きになった異性を彼女にする方法を教えてください」と
第361回 剽窃神髄 大瀧詠一の有名な挿話にこういうのがある。「あなたのこの曲は、これこれとそれそれの曲のこれこれとそれそれの部分にそっくりですね」と指摘された大瀧詠一が答えて曰く「あれ。たったそれだけしか気づかなかったの」というやつだ。 この発言は大瀧詠一の抽斗の多さを感じさせるとともに、「俺は大好きな音楽を二十も三十も詰め込んだんだから、聴く側のあなたもたったそれだけじゃなくもっと気づけるくらい音楽を好きになってよ」という意図、つまり「開き直ることによる先人へのオマージュ」と解釈することもできて、非常に格好いいものだと思っており、私も目指すところはかくありたいと考えている。 私の場合は、という書き方は、未だ何者でもない癖に偉そうなのだが、とにかく私の場合はお気づきの方も多いだろうし、自分でも時折言及しているように、筒井康隆・町田康・宮沢章夫・土屋賢二等々の方々の影響を随分受けた文章を書
第352回 イレギュラー・エクスプレッション 変わっている人というのはどこにでもいるものだろうけれど、コンピュータ業界には特に多いように思われる。たとえば、新しい言葉を聞いて「頭の中に単語登録しておきます」と言ったり、頼んだ出前がなかなか来ないと「ルーティングおかしいんじゃないか」と呟いたり、捜し物が見つからず「404だ」と叫んだりと、日常会話にコンピュータ用語を持ち込む人は結構いる。まあしかし、この程度ならどのような業種でもあることかもしれない。 だが、正木氏はそんなもんではない。 正木氏は取引先のエンジニアで、はじめて会ったのはある打ちあわせの席である。かなり大人数での打ちあわせだったし、その時はほとんど喋らなかったので、私は彼の「変わっている具合」に全く気付かなかった。ちょっと変だなと思ったのは、仕事でメールをやりとりするようになってからである。 正木氏のメールにこのような部分があっ
第75回 ダメ人間の系譜 古来、文字というものは権威であり、たとえば私などがこうやって飄飄と用いることあたうべからざるものであった。 そもそも文字が崇高なものあることは、たとえばエジプトでは王侯貴族が用いる神聖文字ヒエログリフと、庶民が用いる民衆文字デモティックを分けていたことや、時代はぐっと下がるが日本において成立した当初の仮名の低い扱いを見ると明らかなわけであり、その崇高さゆえ古くは文学と政治は不可分であった。たとえば日本における為政というのは梅原さんや丸谷さん最近では井沢さんの主張するように御霊信仰であり(私は勝手に彼らを「怨霊トリオ」と呼んでいる)、それゆえ祝詞や和歌などは鎮魂の意味合いが強く、だから文学表現イコール為政であった。ところが、貴族社会が崩壊しはじめると同時に文学は政治から離れて存在するようになり、そうなってくるとダメ人間だって文学に手を染めるようになる。基本的にダメ人
第326回 軒ビーム 現在使っているコンピュータは、はじめのころからどうも調子が悪く、一年おきに電源装置が故障するので、その度に電源だけ取り替えてきたが、先日もまた内部ヒューズがぶっとんで壊れてしまい、原因は明らかで本体の拡張ベイというところにMOやらCD-Rやら追加のハードディスクやらをぶちこめるだけぶちこんでいるから電源容量が不足しているのであるが、とにかく電源装置を買ってきて修理はしたものの、そのうちまた具合が悪くなるのは確実であり、このままではいかんというのでここはひとつ新しいコンピュータを作ろうと思い立った。日頃はのらりくらりしているのだが、こういうことだけは早い。さっそく部品を買ってきて一台作り上げた。アスロンというCPUで七百メガヘルツのやつだ。現在のマシンはペンティアムの二百メガヘルツというやつで、アスロンはこれよりはかなりいいものなのだろう。よくは判らない。処理が速くなる
第310回 モンタージュ理論 映画の文法なんていう言葉があって、文脈によってはかなり鼻持ちならない使い方をされたりもするのだが、とにかくその「映画の文法」と呼ばれるもののうち、非常に基本的な事項として「モンタージュ理論」というのが存在する。モンタージュというのは、組み立ての意味らしいので、警察が犯罪捜査に利用する例のモンタージュ写真と本来の意味は同じだが、あれではなく、複数の映像を組み合わせてそこに新しい意味を作り出すのがモンタージュ理論である。 たとえば、「笑っている男の顔」という映像があったとする。そこに存在するのは「笑っている男の顔」というだけの情報である。ところが、「揺り籠ですやすや眠っている赤ん坊」の映像のあとにこの「笑っている男の顔」を映すと、男が慈愛に満ちた笑みを浮べて赤ん坊を見つめているように見える。一方、「風でまくれあがったスカートを慌てて押さえている女子の人」の映像のあ
第368回 カツカレーは駄目ではありませんでした 三年ぶりである。 これじゃ、まるで三年寝太郎である。 とはいえ、三年間寝ていたわけではない。むしろここで書き散らかしていた寝言が三年間途絶えていた分、社会貢献だったのかもしれない。 それはさておき、とうとう行ってきたのである。 どこにって。決まってるじゃないか。知覧だ。 皆さんは、知覧というと何を連想するだろう。 「武家屋敷跡」 んー、マイナー。というか、かなり渋いとこだな。 「特攻平和祈念館」 まあ、普通はそうくるな。 「知覧には何があるか、ちらん」 はいはい。先生、つまんない冗談は嫌いですよ。とび蹴りしますよ。 他には、どうですか。はい、そこの大坪さん。 「ちらん亭のカツカレー」 そうですね、よくできました。知覧といえばカツカレーですね。って、誰だよ、俺。 とにもかくにも、前世紀の終わり頃に書いた文章で、「ちらん亭」のカツカレーについて
第367回 くちびるげ 物語原型に貴種流離というのがあるが、子供の頃、自分は本当はこの家の子供ではなくて、いつか産みの親が引き取りに来てくれるのだ、という幻想を抱いたことがある人は多いのではなかろうか。真実の両親はもちろん金持ちであり、欲しいものは何でも買ってくれるし、ステーキでも寿司でも喰いたいだけ喰わせてくれる、というのがそういった空想の常である。えへらえへら、と涎を垂らしながら、夢想に耽っていると「ご飯よ」などと階下から響く母親の声、降りてみると薄っぺらい豚肉を焼いただけのものが食卓に並んでおり、「ほら、今夜はステーキよ」と訳もなく自慢げな母親の声色、「ほう、そりゃ素敵だ」などという跳び蹴りしたくなる父親の駄洒落がうつろにこだまし、額に縦線を十本程度刻みつつ両親を改めて見ると、自分と同じ目に同じ口もと、ああどうみても俺はこの両親の子供に間違いない、よよよ、と泣き崩れながら豚肉を焼いた
第368回 2005/06/12 カツカレーは駄目ではありませんでした 第367回 2002/07/01 くちびるげ 第366回 2002/05/26 繰り返す 第365回 2002/04/24 裏声だけで歌へ君が代 第364回 2002/04/19 裏声では歌ふな君が代 第363回 以前も駄目でした [新着順] [日付順]
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