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今年の「かわいい」
www.refugee.or.jp
難民支援協会の活動は、様々な背景から難民に思いを寄せ、関心を持ち続けてくださる方々に支えられています。寄付者として難民支援協会(JAR)の年次報告書にメッセージを寄せてくださった、ロックリー・トーマスさんもその一人です。 日本で10年以上教壇に立ち、国際的視野に立った日本史を教えるイギリス出身のロックリーさんに、ご自身の研究や難民に関心を寄せてくださった背景について、お話を伺いました。 *** ――ロックリーさんにJARの事務所で初めてお会いした時、難民の方への支援物資として、たくさんの食料品などと一緒に持ってきてくださったのが、ご著書の『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』『Yasuke: The true story of the legendary African Samurai)』でした。戦国時代に織田信長に仕えたアフリカ人の侍「弥助」に関する著作で、「難民の人にも読んでほしい。
ある人物が80年近くも前に「密航」していたとして、その事実をどうやったら知り得るだろうか。そのことを家族に語っていたら。あるいは、どこかに書き残していたら。 けれど、それが「密航」と名指される移動であるがゆえに、その経験は語りづらく、書きづらいものとなる。だからこそ、少ない例外を除いて、広くは語られず、書かれてもこなかった。 誰もが参照できる資料はと言えば、例えば1946年に日本の警察が2万人弱の「密入国者」を検挙した、そんな公的な記録。そこに「個」の姿はない。万の単位の「群」がいるばかりで。 写真:田川基成(以下同) 日本語で書かれ、1960年から61年にかけて発表された小説「密航者の群」を通読したことがある人は、これまで一体何人いるのだろう。三桁はいるだろうか。それとも二桁にとどまるだろうか。 私自身は、無名の作家・尹紫遠(ユン ジャウォン、1911〜64年)によるこの忘れ去られた作品
今日は大切なお知らせがあります。 2017年に立ち上げたウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』を出版します。 在日朝鮮人文学史などを専門とする研究者の宋恵媛(ソン へウォン)さんと私(望月優大、もちづき ひろき)が共同で長時間のインタビューや各種資料の調査に取り組み、写真家の田川基成(たがわ もとなり)さんと一緒に本書の主題にゆかりのある様々な場所(韓国=蔚山・釜山、日本=山口・東京など)をめぐりました。 その結果、この本ができました。 その「洗濯屋」は東京都目黒区の外れにあった (装画:木内達朗/装丁:小川恵子) 1946年夏。朝鮮から日本へ、男は「密航」で海を渡った。日本人から朝鮮人へ、女は裕福な家を捨てて男と結婚した。貧しい二人はやがて洗濯屋をはじめる。 蔚山、釜山、山口、東京——洗濯屋の「その後」を知る子どもたちへのインタビューと、わ
*本記事には同内容のポルトガル語版もあります(ニッポン複雑紀行で初の二言語記事の試みです)/ Segue o link do artigo em português. > 20 anos no Japão. O desafio de Shizuka Miyawaki que se acompanha as crianças que “crescem no Japão” 静かに増えていく「日本育ち」の子どもたち 名古屋市から北西30キロほどの位置にある岐阜県大垣市。 周辺には自動車関連などの様々な工場があり、1990年代前後からブラジルにルーツを持つ人々が暮らすようになった。 バブル景気に沸く日本社会は1990年施行の改正入管法でブラジルなどから日系人の受け入れを拡大し、その多くは工場での不安定な労働に組み込まれた。 写真:柴田大輔(以下同) その時代からすでに30年以上が経つ。 当然の帰結
これらは、難民支援協会(JAR)の相談者予約一覧のメモです。JARの現場には、世界約70か国から逃れてきた難民の方々からさまざまな相談が日々寄せられます。「難民として逃れてきた。助けてほしい」という相談だけではありません。多くの方は「今日泊まる場所がない、食事を取りたい」と命や健康が脅かされるレベルの相談事も抱えています。 JARが支援活動を通じて把握する限り1、来日した難民の生活困窮は難民申請者の急増などを背景に2010年代ごろから年々深刻化していきました。2020年の新型コロナウイルスの感染症の拡大により新規来日の相談者は一気に減りましたが、2022年秋からの入国制限緩和により状況は急変。この間、ひと月約600人の方がJAR事務所を訪れています。 現在、JARの支援活動は限界に近い状態です。他の難民支援団体、生活困窮者支援団体、宗教施設などさまざまな方々と連携や相談をしながら、なんとか
大阪市生野区。年間200万もの人々が訪れる「大阪コリアタウン」を北西部に抱え、外国籍住民が全体の2割を超える。 写真:田川基成(2022年10月末撮影、以下同) これがどれほど高い割合かというと、生野区のような政令都市下の行政区まで含めても、外国籍住民が10%を超える地域(市区町村)は全国にわずか5つしかない。 大阪市生野区21.2%(外国籍人口 26,588人) 群馬県大泉町18.8%(同7,834人) 大阪市浪速区12.3%(同8,762人) 北海道占冠村12.1%(同149人) 横浜市中区10.2%(同15,491人) ここに大久保を含む東京都新宿区が9.9%で続く。日本全体の2.2%と比べるまでもなく、生野区の21.2%が突出していることがよくわかるだろう(住民基本台帳、2022年1月)。 生野区には鶴橋の商店街も。日本国籍を持つ方の中にも、日本以外のルーツもある方々が少なくない。
ここは「いくのパーク」。 外国籍住民が全体の2割を超え、その割合が日本で最も高い大阪市生野区にできた、多文化共生の拠点となる新しい複合施設だ。 100年近い歴史の末に閉校した大阪市立御幸森(みゆきもり)小学校の跡地をいかし、今年5月にグランドオープンした。 すぐ隣にある大阪コリアタウンには、年間200万人もの人々が訪れるのだという。 写真:田川基成(2022年10月撮影、以下同) 昨年10月末のプレオープンイベント「いくの多文化クロッシングフェス2022」のステージでは、筋原章博生野区長がオリジナルのラップを歌った。 筋原区長「今日ここに来ておられます、御幸森連合町会長の宮崎隆志さん。御年77ですけど、ラップの歌詞を書かれて」 「若い子に歌ってほしいねんということで、『区長、これラップの曲、誰かつけてくれへんかな?』と持ってきていただきました」 「それで、僕今、御幸森に住んでるんですけど、
<要旨>2023年3月7日、政府は入管法改正案を閣議決定した。2021年の通常国会に提出され、その後廃案となった法案から、実質的な修正は行われていない。日本の難民認定制度には様々な課題があり、難民として認定されるべき人が認定されず、複数回申請を行わざるを得ない実態がある。当会は、日本に逃れた難民の送還を可能とし、命や安心を脅かす法案に強く反対する。日本に逃れた難民を国際基準に則って保護するための包括的で公平な庇護制度の確立こそが、最優先で行われるべきである。 2023年3月7日、政府は「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案」(以下「本法案」とする)を閣議決定した。本法案は、2021年の通常国会に提出され、その後廃案となった法案(以下「2021年法案」とする)を再提出するものである。 2021年法案に対
2023年3月7日 本日、「出⼊国管理及び難⺠認定法及び⽇本国との平和条約に基づき⽇本の国籍を離脱した者等の出⼊国管理に関する特例法の⼀部を改正する法律案」(以下「本法案」とする)が閣議決定されました。今後、国会での審議が行われることが予想されます。 本法案は、2021年の通常国会に提出され、その後廃案となった法案を再提出するものです。前回の法案に対して、当会を含む国内外から多くの問題点が指摘されました。しかし、再提出にあたって実質的な修正が行われることはなく、本法案が「日本に逃れた難民の保護や処遇の悪化につながる内容」であることには変わりがありません。当会は、日本に逃れた難民の送還を可能とし、命や安心を脅かす法案に強く反対します。 本来行われるべきは、日本に逃れた難民を国際基準に則って保護するための包括的で公平な庇護制度の確立です。本法案の成立でもなく、現行制度の維持でもありません。難民
「すごいです。本当にすごいです」 大阪大学特任教授の榎井縁さんは、尊敬と称賛の言葉を何度も口にした。東北各地で移民第一世代の親たちが取り組む「継承語教室」についてだ。 榎井縁さん。大阪大学大学院人間科学研究科特任教授。中学校教員、大阪市教育委員会相談員、とよなか国際交流協会の事務局長兼常任理事などを経て現職。専門は教育社会学。共著に『外国人の子ども白書』『公立学校の外国籍教員』『日本の外国人学校』など。 外国籍住民の割合が少ない東北各県には、少数の朝鮮学校などを除き、移民などのルーツを持つ子どもが母語や複数言語で学べる「外国人学校」「民族学校」「インターナショナルスクール」といった教育機関がほとんど存在しない。 そうした東北の逆境の中で、留学や日本人男性との結婚などを機に来日した移住女性たちは奮闘した。様々な地域で独自に小さなグループを作り、日本で(生まれ)育った子どもたちに、母語や文化を
東京都新宿区は外国籍住民の割合が全体の1割を超えており、東京23区の中でも最も高いことで知られる。 特に新宿駅の北側に位置する大久保周辺は集住地域で、区内で最多の外国籍住民が暮らす大久保2丁目ではその割合が3割超にも及ぶ。日本全体(2%強)と比べると10倍以上の割合だ。 大久保はコリアンタウンとして有名だが、コリアン以外のお店や日本語学校なども集積している。また、レストランやショップなど、大人が「働く場所」としての側面に目が行きがちだが、子どもを含めた「暮らしの場」としての側面も、そのすぐそばにある。 そんな大久保地域周辺で、多様なルーツを持つ子どもたちを20年近く支え続けてきた一人の女性がいる。NPO法人「みんなのおうち」代表の小林普子(こばやしひろこ)さん。 現在は、日本語と教科の両方を対象とする学習支援教室「こどもクラブ新宿」(小4〜中3対象)と、多目的の居場所「みんなのおうち」(主
東北各地には日本人男性との結婚を機に来日した「外国人結婚移住女性」が少なくない。1980年代ごろから始まった流れで、主に中国、韓国やフィリピン出身の女性たちが、農村や沿岸部など様々な地域で暮らしている。 宮城県女川町に暮らす紺野杜華(こんの とうか)さんもその一人だ。2003年の結婚後に来日し、水産工場での仕事や震災の経験を経て、現在は夫の文男(ふみお)さんと共に女川の街で料理店を営む。 関連記事:東北の男性と結婚した外国人女性たちの経験。「不可視化」の理由と託された言葉の数々。#移住女性の声を聴く 杜華さんは中国の東北部、ハルピンの出身だ。春の女川港を歩きながら「日本の東北の寒さはどうですか?」と尋ねると、マイナス30度にもなる故郷に比べればそれほどでもないと笑う。 二人が営む「中華杜華 焼き鳥ぶんぶん」を訪れた。屋号が二つ並ぶ不思議な店名だが、それぞれ別のお店があるわけではない。あくま
東北地方の農村地域や沿岸部には、いわゆる「結婚難」や「嫁不足」を背景として、行政や事業者の仲介で日本人男性と結婚した外国人女性たちが数多く住んでいる。1980年代ごろに始まった動きで、中国、韓国、フィリピン出身の女性が大半を占める。 ときに日本語がままならない状態で結婚を決断し、都市部ではなく外国人の少ない地域にたった一人で飛び込んだ女性たち。彼女たちはどんな理由で日本で暮らすことを選び、その後どんな人生を送ってきたのだろう。 結婚生活はどうだったか。夫の両親や親族との関係はどうだっただろう。仕事のこと、子どものこと、お金のこと、地域のこと。東北各地に移住した女性たちはどんな経験をし、どんな時間を過ごしてきたのだろうか。 近年、結婚移住で新たに東北に来る女性の数は減少傾向にあり、日本で今も暮らす女性たちは徐々に高齢化している。各地に散らばったその存在は見えづらく、社会的な関心も必ずしも大き
「自分のほうが助けられる側になるとは思ってもみませんでした」 仙台で暮らす裘哲一(チュウ ツァイ)さんは、昨年起きた突然の出来事を思い出していた。 仕事中にかかってきた電話。横浜での留学時代に知り合ったフィンランド出身の夫からだった。 「ちょっと目眩がするから病院に行ってくるわ」 そう話した2歳年上の彼に「車はやめてタクシーで行ってね」と答えた。それが、最後の会話になった。50代になったばかりの夫はそのあとすぐに意識を失い、2日後に亡くなった。 持病はあったものの、予想だにしない急な別れだった。傍らには高校を卒業したばかりの息子がひとり。「頭が真っ白」になった。 裘さんがまず連絡したのは仲間と一緒に立ち上げた中国出身女性たちのコミュニティだった。宮城華僑華人女性聯誼会。略して宮華女(みやかじょ)。 「宮華女の人に連絡したらみんな来てくれて。手伝ってくれて。日本の葬式に参加したのも一回二回ぐ
PDFファイル 3月3日の難民支援協会Twitter発信よりウクライナからの避難民の受け入れが日本政府によって表明され、就労可能な「特定活動1年」の在留資格の付与1や、省庁横断的な連絡調整会議2の設置などが発表されました。これまでにない迅速な意思決定で、日本に受け入れられたウクライナ難民が、長期的な見通しをもって日本で安心して暮らしていけるよう、包括的な定住支援が今後も検討されることを期待します。 同時に、現在日本には、様々な国や地域から紛争や迫害を逃れ、難民として保護を求めている人々がいます。今回のような保護の広がりを日本における難民受け入れの基盤ととらえ、難民認定制度の改善や、庇護を希望する全ての人を包括した支援制度の確立につなげる必要があります。 昨年度、難民支援協会が支援を行った難民の出身国は50以上にのぼります。2021年、アフリカだけでも複数の国でクーデターや紛争が発生したこと
以下の文書は当初2021年12月22日に発表しましたが、2022年1月13日、追加意見を記載するとともに、表明団体として2団体を追加しました。 2022年1月28日に賛同団体を追加しました(2月1日掲載)。 PDFファイル 2021年12月22日 (2022年1月13日追加・修正) (2022年1月28日賛同団体追加) 認定NPO法人 難民支援協会 RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク) NPO法人 名古屋難民支援室 2021年12月21日、出入国在留管理庁(入管庁)より「現行入管法上の問題点」と題する資料(以下「本資料」とする)が公表されました。2021年の通常国会で成立が見送られた「出⼊国管理及び難⺠認定法及び⽇本国との平和条約に基づき⽇本の国籍を離脱した者等の出⼊国管理に関する特例法の⼀部を改正する法律案」(以下「入管法改正案」とする)の再提出が報じられる中、法改正の必要性を訴え
世界には、性的マイノリティの人々を処罰の対象としている国々が存在しています。2020年12月時点で、同性の成人の間での性行為を犯罪として刑罰の対象としている国は世界に69か国あり、そのうち6か国では刑罰として死刑が規定されています6。 たとえばイランでは、2019年に同性間の性行為を行った罪で、31歳の男性に対し公開で絞首刑が執行されています7。こうした国はアフリカ、中東地域に多く見られますが、アジア・カリブ海地域などにもあり、その数が減る傾向にあるとは言えない状況が続いています。 異性装など、「ジェンダー規範に反する」とされる服装や行為を刑罰の対象とする国もあります。モーリタニアでは、2020年にソーシャルメディアに投稿された異性装の動画が同国での最初の「同性間の結婚式」の様子としてマスメディアで報じられ、10名が逮捕されました。実際には同性間の結婚式ではなく誕生日パーティーの様子であっ
2021年8月17日 NPO法人 名古屋難民支援室 RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク) 認定NPO法人 難民支援協会 2001年9月11日の米同時多発テロ後、米国政府はアフガニスタンへの攻撃を開始し、その後米軍を駐留し続けていましたが、今年5月1日から駐留米軍が撤収を開始すると、反政府武装勢力・タリバン1が各地で勢力を拡大、8月16日タリバンは首都カブールの大統領府を掌握、政権奪還を宣言したと報道されています。2 現状を受け、日本で難民支援を行う私たちのもとには、日本国内外のアフガニスタン人からの相談が相次いでいます。日本で難民申請中の方からの今後に対する不安、大学を卒業しても帰国できないと訴える留学生、アフガニスタンにいる家族を救う方法を模索している日本に暮らすアフガニスタンの方、アフガニスタンにいる方々からも、どうにかして助けてほしい、日本を含む他国に避難させてほしい等の相談が
※ PDF版はこちら メディア関係者各位 認定NPO法人 難民支援協会 オリンピック選手等の庇護希望に関して東京オリンピック・パラリンピックのため来日している選手等が、自国からの迫害等を理由に、日本や他国での保護を希望されることがあります。これらの方々が適切に保護されるため、メディア関係者の方々には、以下の観点を踏まえ、難民保護の妨げとならない取材・報道をお願いいたします。 庇護希望に関する取材・報道によるリスク 庇護の希望が明らかになることで、本国で本人や家族に迫害のおそれが高まる可能性がある。メディアが注目し取材することで、難民申請自体が困難になることがある。 これらのリスクから取材・報道において、以下の対応をお願いいたします。 個人が特定される形で、選手等の庇護希望について報道しないこと選手等が庇護を希望していることがメディアを通じて本国に知られることで、本人が帰国後に迫害を受けるお
その日は朝から大雨だった。2019年11月24日。長崎では、多くのカトリック信者たちが雨ガッパを羽織ってフランシスコ教皇の到着を待ち侘びていた。ローマ教皇として38年ぶりの来日。前日の夕方に羽田に到着した教皇は、翌朝のフライトで最初の訪問地である長崎へと降り立った。 その後、車で長崎市内に入った教皇は、最初に爆心地公園で核廃絶を訴え、次いで豊臣秀吉によるキリシタン弾圧が行われた西坂の丘でも演説を行った。そして昼ごろ、「パパ様」は長崎県営野球場に現れた。3万人が集う巨大なミサ。いつの間にか、雨は上がっていた。 多くの日本人信者に混じって、ミサにはベトナム人の若い妊婦も参加していた。技能実習生のマイさん(仮名)。マイさんは21歳だった2年ほど前に来日し、熊本県の工場で実習生として働き始めた。そのうち熊本市内の教会にも通うようになり、そこで知り合ったほかの信者たちと一緒に長崎を訪れることになった
今、日本で働く技能実習生は40万人弱にのぼる。2011年には14万人だったから、たった10年で3倍近くに増えた。 かつては中国出身者の割合が圧倒的だったが、2010年代を通じてベトナム出身者がおよそ半数を占めるまでに急増した。妊娠のことを誰にも言えず、孤立出産での死産の末に起訴されたリンさんも、そのうちの一人だ。 【前編】彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(1) 熊本の農園で働く技能実習生のリンさんは、強制帰国を恐れ、妊娠を誰にも言えず、部屋で一人、双子を死産した。出血も多く、恐怖と混乱の中で、一日部屋にいた。それが犯罪だとして21歳の彼女は起訴されてしまう。彼女がしたことは本当に「犯罪」なのか? 技能実習生と聞くと男性労働者のイメージのほうが強いかもしれない。だが、実際にはその4割以上を女性が、そして8割近くを10代と20代が占めている。30代まで含めれば9
2020年11月15日は仕事のない日曜日だった。熊本県南部のみかん農園で働く21歳の技能実習生が、双子の赤ちゃんを死産した。部屋の中で、たった一人だった。 妊娠に気づいてからはすでに半年が経っていた。ベトナムに無理やり帰らされることを恐れ、雇い主にも、妊娠の相手方にも、誰にも言えなかった。病院にも行けなかった。前日まで働いたが、体調が悪化し、夜には耐えがたい痛みに襲われた。 一晩中苦しんだ。たくさんの血が出た。いつからか、おなかの中から反応はなくなっていた。産まれた子どもは、双子の赤ちゃんは、息をしていなかった。泣き声も、どんな声も、聞こえてはこなかった。 私はこの記事でリンさんのことを書く。レー・ティ・トゥイ・リンさんは検察に起訴された。つまり、検察はリンさんのしたことが犯罪だったと言っている。そして、リンさんは無罪を主張している。 ここでは二つの主張がぶつかっている。有罪なのか、無罪な
2021年2月19日、政府は「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案」(以下「本法案」とする)を閣議決定した。本法案は第7次出入国管理政策懇談会「収容・送還に関する専門部会」による報告書「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」(2020年6月)を受けて作成されたもので、一部改善点はあるものの、日本に逃れた難民の保護や処遇の悪化につながる内容が多く含まれている。20年以上にわたり難民支援を行ってきた経験から、本法案の問題点のうち、日本の難民保護に特に影響を与えると考えられる、①難民申請者の送還、②補完的保護、③仮滞在制度、④監理措置の4点について、以下の通り意見を述べる。 《要約》日本の難民認定制度には、国連などから何度も改善を求められるほど多くの課題がある。送還を促進する前に難民認定制度自体の改善が
午前5時。大阪、釜ヶ崎。 日本最大の「寄せ場」があるこの街では、今も陽が登る前から労働者と手配師の間で仕事の交渉が行われている。昨日も、今日も、明日も。多くの人々がまだ寝ているうちに、日雇い労働者たちは行動を開始する。今日の賃金を稼ぎ、今日の生活を続けていくために。 (寄せ場:日雇い労働者の「寄り場」を中心とする居住まで含んだ生活拠点地域/寄り場:求人・求職活動の実際の拠点) 手配師が乗るバンが集まり、労働者たちと交渉を始める。釜ヶ崎は大阪市西成区の北端にある 「はい車通りまーす!」 労働者を集める求人車両が「寄り場」に入ってくるたび、蛍光色の上着に身を包んだ吉岡基さんが大きな声をあげる。彼が声をあげると、同じ安全誘導作業の仕事をしている労働者たちも、彼に続いてやまびこのように繰り返す。 「車通りまーす」 「車行きまーす」 「バックで入りまーす」 釜ヶ崎の寄せ場を「過去の歴史」と見る方もい
大小140あまりの島々が連なる長崎県の五島列島。ペトロ尾上勇(おのうえいさむ)さんはその北部に位置する中通島(なかどおりじま)で生まれ育った。キリスト教徒であり、一人の漁師として生きてきた。「ペトロ」は洗礼名だ。 尾上さんは江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ。江戸後期の18世紀末、多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡った。五島の島々に新天地を求めたのだ。 離島への大規模な移住には政治的な背景もあった。未開の土地を開拓する人手を欲しがった五島藩が、逆に人口が増えすぎて困っていた九州本土の大村藩に協力を求めたと言われる。その結果、3000人もの移民が五島を目指したが、その多くが潜伏キリシタンだったのだ。 2018年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州本土だけ
「迫害の危険がある国へ難民を送還してはならない」 これは、「ノン・ルフールマン原則」と言われ、難民保護の礎石です。 この原則は、難民認定を受けた人だけでなく、難民申請手続き中の人にもあてはまります。 一方で、残念ながら、難民申請中にもかかわらず送還されてしまうことが、海外でも、そして日本でも、起きているのが現実です。そして今、日本では、送還について大きく見直されようとしています。難民申請中は送還が停止になる手続きに一部例外を設けようという内容が含まれた法改定案(改正法案)が、2021年2月に閣議決定。今春の国会での審議を経て、法改定される可能性が迫っています。 法案をめぐる法務省の発表や報道を通じて、複数回の難民申請者が送還停止の対象外になるのは、すでに不認定の判断がなされたのだから仕方がない、と捉えられがちです。しかし、この記事でも紹介しているように、二度の難民不認定を乗り越えて後に難民
東京メトロの広告や人気テレビシリーズ『孤独のグルメ』にも登場するシャン民族料理の有名店「ノングインレイ(NONG INLAY)」(東京・高田馬場)。 だが、現在72歳のオーナー、ハンウォンチャイ・スティップさんが日本で暮らすことになった理由までよく知る人は多くないかもしれない――。それは、冷戦下に大国間の代理戦争の現場ともなった「ラオス内戦」だった。 ベトナム戦争の影に隠れてあまり知られていないが、ラオスは「史上最も空爆された国」とも言われ、当時の米軍によって2億6000万発もの爆弾が投下されたという。ラオス内戦はベトナム戦争と同じ1975年に終結し、左派のパテート・ラオが勝利、アメリカが支援した王政側の敗北に終わった。 そんなラオス内戦にスティップさんはどう関わっていたか。実は、米軍やCIAの通訳として従事していたのだ。それは彼にとって「内戦の終結(敗北)」が自らの「命の危機」であったこ
世界のどの国からも国籍を認められない「無国籍」とされる人々がいる。 多くの人が強く意識せずに持っている「国籍」を、その人たちは持たない。遠い外国の話と思うかもしれないが、日本にも無国籍者は少なくないと言われる。三重県で生まれ育った弘明さんも、そのうちの一人だ。 彼は日本の国籍を持たず、それ以外の国籍も持たずに育った。幼い頃から乳児院に預けられ、18歳までは児童養護施設で暮らした。 日本で生まれ、日本で育ったにも関わらず、弘明さんはどのような経緯で無国籍になったのか。日本の制度の中で、なぜ彼の無国籍は放置されてきたのか。弘明さんはこれまで、どんな人生を過ごし、何を感じてきたのか。 弘明さん、最も近くで彼を支えた児童養護施設の方々、そして彼の国籍取得に奔走した弁護士から、話を聞くことができた。 弘明さん。22歳。 なぜ無国籍になってしまったのか ――弘明さんが無国籍になった経緯から教えていただ
去る1月30日から2月5日までの1週間、ニッポン複雑紀行として初めてとなる写真展を開催しました。短い期間にもかかわらず、SNSなどで口コミが広がり、日毎にどんどん来場者数が増えていきました。 最終日には10時の開場前に並んでお待ちくださる方々までいらしたほどで、数多くの新聞、ウェブメディア、ラジオなどでも取り上げていただき、全日程で1,500名以上の方にお越しいただきました。 会場では、展示の最初から最後まで何周も見て回られる方、涙を流してスタッフに思いを伝えてくれる方もいらっしゃいました。 「今この国にたしかに暮らしている人たちの面影が展示を観終わったあとも残ると思います」、「ウェブで見ているより一つひとつの写真、テーマをかみしめるように味わうことができました」――いずれも、来場者アンケートで記入いただいた言葉です。 この記事では、写真展ニッポン複雑紀行の雰囲気を伝えられたらと思い、会場
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