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※この記事には性暴力に関する内容が含まれています。フラッシュバックを起こしそうな方は、ご注意ください。 診察覚え書きです。 本来の診察日はもう少し先なのですが、あまりにも調子が良くないので行って来ました。 安定剤が増えました。 最近よく思い出す出来事があって、それを聞いてもらいました。 不快に思われる方もいるかもしれません。 その場合はコメント等にて、ご指摘ください。 18歳くらいの出来事だったと思います。 地下道で、車椅子に乗ったおじさんに声をかけられました。 「トイレに連れていってほしい」と。 その地下道はデパートにつながっていたので、私は車椅子を押してデパートのトイレに行きました。 おじさんは、車椅子の後ろのポケットに尿器があるので、それを当てて欲しいと言いました。 私は、その通りにしました。 でも尿は出ませんでした。 おじさんは「出さないと、出ないんだよ。分かるでしょう?」と言い
2月から3月にかけて調子が悪いのは毎年のことなのだけれど、少しずつその程度は軽くなっているような気がするし、回復するのも早くなっているような気がする。 でも3月は外出らしい外出はしませんでした。通院以外は。ずっと部屋にいることも多かった。でも、そのこと自体を過剰に責めたり、落ち込んだりすることは少なかったように思う。 あまりにも調子が悪かったので、主治医が珍しく新しく薬を加えた方が良いのかなあと言いました。私は今の薬が多くなってきたんじゃないかと思っていたので、試しに少しだけ減薬したいと希望を伝えたら、OKだったので減薬してみました。 結果、睡眠状態が良くなって倦怠感も少し軽減。夜、眠れるというのはいいなあ。今まで二時間から三時間くらいで目が覚めていたのが、五時間続けて眠れるようになりました。薬のせいだけではないと思うけれど。 先日は姪っ子の誕生日だったので、一緒にケーキを食べまし
前回記事を書いて、けっこうぐったりしてしまい寝逃げしていたんですが、ある日ぽんとアクセス数が増えて、おや?と思っていたらRinRin王国さんでした。初めまして、というか、どうもありがとうございましたと言えばいいのか。何か思うところがあり、取り上げてくださったんだろうと思うので、ありがとうございましたなのかな。 訪問してくださった方が何を思ったかは分からない。何を言ってやがるんだと思った人も中にはいるだろうし。最後まで読まなかった人もいるだろう。それは分からないけれど、中には何かを考えてくれた人もいるかもしれないと思っています。 で、ずっと放置していたんですがブックマークコメントの中で気になったものの感想を書いてみようかなと思った。 2008年02月21日 Marumameko 性犯罪 誰かこの問題で学校&親の性教育の視点から書いていないのかな?『きちんとした服装をするとか夜道を出歩
私が今まで診てもらった医師は、一人を除いてよい先生だなあと思う。これって運がよいのだろうか?と時々思う。本当に「悪い先生」というのに当たったことがない。で、役に立つか分からないんですが、今までどういう風に病院(医師)と付き合ってきたか書いてみようかなと。自己流なので、それ違う!というのもあるでしょうが。 1.病院探しの仕方 とにかく、あらゆるところから情報を集めました。今は精神科に通院していることは珍しくもないので、友達のダンナさんが通っているだとか、あとは妹の同級生で医療事務をしている人がいるので、病院の印象を聞いてもらったりしました。特に内部の情報は信頼できるかなと思います。そのときに、その医師の得意分野や、自分が何を求めているのか(カウンセリングを受けたいとか)ということが、はっきりしているとなお良いかなと思います。 2.疑問や不満は伝える 診察内容に関する疑問・不満や「この薬は
それまで私は、小説家をはじめとする人々の私生活エッセイを読むたびに「この人は、どうしてこんなに赤裸々に自分のことを書けるのだろう?恥ずかしかったり、困ったりすることはないのだろうか?」と、不思議だったものである。 ところが自分で描くうちに少しわかったことは「どうしても描きたくないことは、描かなくてよいのだ」ということだった。そして「描いているのは確かに全て事実だし、嘘はないけれど、自分というフィルターを通した時点で、これは"フィクション(創作)"になっているのだと」と、気がついた。 高橋由香利「トルコで私も考えた」4巻あとがきより 何となく最近、書かなくなってきて、書こうと思っても「これは書いちゃいけないんじゃないか」と思って結局やめておくということが続いたのだけれど、この文章を読んで「そうかあ」と思っていました。まあ気力がなかったというのもあるんだけれど。 今まで私が書いてきたこと
縞瑪瑙の国で劫初を想う:距離感を上手く保つためのルール この記事自体も面白かったのだけれど、リンクされていた「synchronicity」というブログの記事も面白かった。サイドバーを見ると「mixiむかつく」という記事がある。この記事からトラックバックを辿りながら「Re:mixiからのリンク」という記事に辿りつく。この記事が興味深かった。 mixiがどうの、というのではなくて「怒り」という感情について。 喜怒哀楽という言葉があるけれど、私は「怒」と「哀」を抑える傾向があると思う。「哀」はかなり表出できるようになったかな。でも「怒」は、まだまだ溜め込んでは、いきなり爆発することが多い。言語化できるのならまだよいのかもしれないけれど、それもできずにいきなり行動化してしまうことがある。 以前は、ひたすら自分を傷付けたり、身近な人を傷付けたりということを繰り返していた。結果、私は大切な人を
ふうむ、と思ったこと:S嬢 はてな 愛されるには自己愛を満たす必要があり自己愛を満たすには愛される必要がある :出られないから仕方なくここにいるよ。という記事を読み、リンクされている「自己愛をうまく活かす」という文章を読む。 あ〜、そうですね、違うな、と今なら言える。二つの例が出てくるけれど、この人たちは自己愛が強いんじゃなくて「愛されたい」のだけれど「自分にはその価値がない」と思っている人たちなのだと思う。私は多分、後者に近いんじゃないかな。昔はもっとそれが強かった。今は多少マシになっただろうか。 私は人間関係の構築は得意とは言えないと思う。多分、苦手。というか非常に時間がかかるというか。時間がかかるのは、もうこれは性格だと思ってあきらめているところがある。自分からのアプローチはすごく苦手。でも得意な人っているんだな、これが。向こうからアプローチしてくれるのは、ある意味楽なんですが
※この記事には性暴力に関する内容が含まれています。フラッシュバックを起こしそうな方は、ご注意ください。 あの過去の嫌な出来事のことで、私がずっと引っかかっていたこと。 「どうして私は逃げなかったのか」ということ。 そして繰り返し主治医に聞いた「私を軽蔑しませんか」という言葉。それは、「ああいうことをした私を軽蔑しませんか」ということ。 最初、私は泣きながら必死に抵抗した。その時のことは、はっきりとは覚えていない。夢中だったから。でも抵抗するのを諦めた後の情景は鮮やかに覚えている。何を思ったかということは、あまり覚えておらず、その風景だけが繰り返し繰り返し頭の中に浮かぶ。 よく「少し離れたところから、もう一人の自分が見つめている」というようなことを言うけれど、そういう感じだったと思う。もしかしたら、その時点で解離を起こしていたのかもしれない。 私にとって「抵抗した時間」と「抵抗す
夫と会う。何度も二人で来た喫茶店。私の治療のことや、夫の仕事の話などをしばらくする。 話が途切れたところで「はい、これ」と封筒を渡される。先週、会ったときに離婚事由を文書にして欲しいと私は言った。それを書いてきてくれたらしい。 「ここで読んでいい?」と聞く。夫は一瞬とまどい「あまりいいことは書いてないよ」と言う。私が泣いたり取り乱したりするのを恐れたのだと思う。「大丈夫。いい?」と聞く。夫は「うん、まあいいけれど」と言う。 離婚事由として一つ目に書いてあったのは、私から受けた暴力、暴言がどうしても許せなかったということ。直接的な暴力は無かったかもしれない。でも、自傷行為や事あるごとに八つ当たりをしたこと。特に被害のことを思い出してからは、夫に対する拒否的な態度が強くなったこと。病気だからと思って耐えてきた。でも、もう我慢できない、限界だと。 二つ目は私の両親のこと。病気の娘を持つ親
前回記事のコメントより。 自分の状況を貴方はこんなに冷静に書けているのに… 精神疾患って難しい。 というか疑わしい、と感じてしまいます。 全部演技じゃないかってどうしても思ってしまう。 > どうして自分に原因があると思ってしまうんだろう。 違うって他人から言ってほしいからでは? 自分に自信がなく、依存して生きているからでは? やっぱり理解しがたい。 虫唾が走る。 通りすがりのコメントではありますが、興味深かったので。 前回の記事は診察時の出来事ですが、あのように文章にできたのは二週間経ってからです。だいたい診察時の出来事は、ある程度時間を置かないと書けません。冷静に書けているように見えるとしたら、それは私が冷静に書くように努力をしているからです。 私の限られた範囲内での経験ではありますが、精神疾患だからといって冷静に物事を考えられないわけではありません。ただ波はありますし、その方の病
夫と会う。いろいろ話す。主に薬のことやら仕事のこと。その中で、薬は毒なのか?という話になる。 薬を飲み続けている立場としては、薬は毒だと言い切られるとちょっと…という思いがある。使いようによっては毒にも薬にもなるという表現の方がしっくりくる。そして毒にも薬にもならないようなものを飲んでもしょうがない、という思いもある。 精神科系の薬は怖い、というイメージを持たれやすいような気がする。薬によって気分がこんなにも違ってくるものなのか、と思うと、それはやっぱり「怖い」という感覚を持ちやすいのかなと思う。 私自身は、そんなに怖くない。自分が飲んでいる薬の中では、精神科で使われる薬よりも、他科で使われる薬の方が怖い。比較的新しい薬が多いからだと思う。それなりに長い間使われてきた薬だと副作用に関しての情報が多くある。長期連用によって出てくる影響についての情報もある。 新薬は、副作用に関する情報
学生のとき、一つ上の先輩で「ちはるちゃん」という人がいた。ちょっと変わっているというか独特の雰囲気を持っている人だった。私から見ると、ちはるちゃんは誰にも媚びず、わが道を行くというような感じの人だった。 ちはるちゃんと知り合ったばかりの頃、誰かの舞台を見に行くという話が仲間内で出たことがあった。私は何となくその場の雰囲気で「私も行きたい」と言った。その時、ちはるちゃんは私の目をじっと見て「本当に行きたいの?」と言った。私は黙ってしまった。 本当に行きたいの?あなたは、その舞台に本当に興味があるの?ただ何となく「みんなと一緒」でいたいから行きたいんじゃないの? ちはるちゃんには、ずいぶんキツいことも言われたし、泣いたこともあった。それでも、ちはるちゃんと話すのは楽しかった。よく飲みにも行った。ちはるちゃんにはよく「お前な、自分の言葉で話せ」と言われた。間違っていてもいいから、自分が思っ
ヘボメガネ一進一退:「いい人」になる必要なんてないを読んで思い出したことなどを。 「いい人」というと何となく自己犠牲という言葉を思い出す。自分の欲求や感情よりも、社会的な規範や他人の感情を優先してしまう。自分の欲求を通すことに罪悪感を感じてしまう。私の思う「いい人」像というのは、そういう感じ。 私の思い込みかもしれないけれど「いい人」であることを求められる職業というものがあると思う。いわゆる「聖職者」と呼ばれる職業の人たち。学校の先生や医療関係者など。 ここからは自分語りなんですが。 私の父は小学校の教員をしていた。娘の私から見た父は、立派な教育者という感じではなく、ちょっと短気でやや理屈っぽい普通のおじさんという感じ。 私は小学生の頃は、そこそこ勉強ができる子だった。テストで良い点数をとると「ののかちゃんのお父さんは先生だからね」と言われた。できて当然のように思われていたような
ネット上での争いは非常に不毛な結果に終わることがほとんどだし、彼を批判することは今まで彼を擁護するような発言をしてきた自分を批判することにもつながるのだろうと思います。まあでも書いてみようかなと。 ゆがんだはしごさんの最新記事を読んで、私はあきれてしまいました。反省が全く感じられず、批判を自分の都合の良いように捻じ曲げるやり方は、たいしたものだと思います。 「人を罵倒するとしても、そこに信念が通わなければ」と書かれていますが、罵倒するのに信念もクソもないと思う。「自分が気に入らない」それだけで充分です。それに信念というのは「理屈を超えて固く思い込む心」です。理屈を並べる必要はありません。 あなたの怒りは理不尽なものです。そんなものが人に理解されるわけがない。 自分の思いを理解してほしいと思うならば、まず人の思いを理解しようとする姿勢が必要だと思います。あなたは、らぶさんの記事をちゃ
精神科の診察は、「話すこと」がメインなんですが、自分の思うままに話していると、いつの間にか他人の悪口になっていることが時々ある。で、そういうときは主治医に軌道修正されます。 「僕は○○さんの話を聞きたいわけじゃないよ。自分の話をして欲しいな」という感じで。 他人の悪口というのは、大抵「誰々がああしてくれない」とか「誰々が分かってくれない」とか「誰々がこう思ってる」ということなんですが、それを言うと大抵「他人の考えは変えられるわけないじゃん」と言われてしまう。…その通りなんですが。 まあもっとはっきりと「病気になったことを周囲のせいにしているうちは、何の解決にもならねーよ」と言われることもある。これ、時と場合によるのですが。 主治医は「自己言及的であること」「自己肯定できること」、この二つを、よく言います。自己言及していくと私はどうしても自己否定に走ってしまうので、この二つを両立させ
heartbreaking:ミクシィやメールに割く時間に意義を見出せない 誰もが何かを背負っている。 自分の人生は自分で背負うしかない。 誰かに自分の人生を背負ってもらうことなんて、できやしない。 だから、あなたは誰かの人生を背負う必要なんてないんだよ。 誰もあなたに自分の人生を背負ってもらおうなんて思っていないよ。 やりたくないことを無理してする必要はない。 誰もあなたに無理をさせようなんて思っていない。 自分が辛いときは、自分のことを一番に考えればいい。 他人の思いやりが辛ければ、辛いと言ってもいい。 一人になりたいときは一人になればいい。 あなたを縛り付けているのは、他人じゃない。 自分で自分を縛り付けているんじゃないか? 他人の言葉を受け取るかどうかは、あなたの自由なんだよ。 あなたが受け取りたいと思ったときに、受け取りたいものを受け取ればいいんだよ。 誰もあなたの自由を奪おうなん
「あなたに隙がある 誰かがそう言ったの?」 「両親も教師も最後には必ずそう言いました 私にも責任がある 気を引こうとしているんじゃないか 自意識過剰なんじゃないかって… でも小学生が担任の先生に抱き上げられて窓から落とされそうになったらしがみつくしかないんです たとえその先生が嫌いだとしても 友達からえこひいきされてると言われたとしてもしがみつくしかなかったんです(中略)私は疑い深くなりました―――…… 私に対してもです」 またまた吉野朔実『恋愛的瞬間』第1話 恋愛的瞬間より 私が初めて痴漢にあったのは小学生のとき。ピアノのレッスンの帰り道でした。まだ午後三時か四時頃だったけれど雨が降っていて薄暗く、私は傘を差してうつむきかげんに歩いていました。その時いきなり目の前に男の人が立ちふさがりました。私は、その人がどういう目的でそういうことをしたのかも分からなかったのだけれど、ただ怖くて逃げ
以前、所属していた合唱団の友達からメールがありました。先日、コンクールの県大会で金賞&理事長賞をいただいたことと、支部大会では一緒に歌いませんか?というお誘いでした。(コンクールは県大会→支部大会→全国大会という流れ) うーん、支部大会まで約1ヶ月で現代曲の音取りやら暗譜は難しいなあということと、練習に通うのは今の私の状態ではキツイと思ったので、「体調が良くなったら、また」ということで返信しました。 ま、しょうがないんですが少し気分が落ちました。 その後、何気なくフルート講師をしている友達に「よいピアノの先生はいないかなあ」と電話しました。あんまりキッチリじゃなくて、のんびーり習えるような先生。そしたら、話が別のことになって。 その友達と他のピアノの先生の三人で、大人の生徒さんのコンサートを10月にやるのだそうで、私も演奏することになっちゃったよ! 実は、去年は「聴く人」で参加さ
こんな世界のはしっこで…:自信というのは積み上げていくものらしいのだけど…。 ああ、何だか私のことみたいと思いながら読んでしまった。私は「自信がないこと」に対しては自信があります、というと変な言い方になってしまうけれど。でも本当にそう。いつも何となく「これでいいのかなあ」と迷ったり不安に思いながら生きているような気がする。 時々、自分の身の丈に合わないような大胆なことをしてみては落ち込んだり、そういうことの繰り返しのような気がする。何かを決断するのにも時間がかかるし。そうやって今まで生きてきたのだから、いきなり「自信を持て」なんて言われても無理なんだよなあと思う。 だから「自信のある人」はうらやましいのだけれど、同じようにはできない。多分、自信のないひとには自信のない人なりのやり方があるのかなとも思う。 でも最近は、ドキドキするのにもちょっと慣れたかなと思う。「こんなことを言っても
BLOG STATION:ブログのネタと書き続けることについてのKenさんのコメントレスにずきずき、ぎゅーっときました。 私は、その人の日常が垣間見えるブログが好きです。どんなブログであっても、文章のすみっこにふと見えるその人の日常のようなものが見えると、少し嬉しいような温かい気持ちになります。 それは、その人が確かに存在して何かを感じたり考えたりしたということが、感じられるからかもしれません。 私がここで書いているもの。嬉しかったこと、怒ったこと、悲しかったこと、悩んだこと、泣いたこと。それは私が確かに存在して、現実に考えたり感じたりしたこと。それは私のかけがえのない大切な日常の一部です。 つまらない日常なんてものはない。どのような日常であっても、それはその人にとっては大切なもの。あなたの身近に存在する人がいなくなったら、毎日何気なくしていたことができなくなったら、そこにあったも
もやもやしたままに書いた、この記事がブックマークされて「ありゃ」と思っているうちに、ニュースサイトに取り上げられて、頭ぱやぱや状態です。ニュースサイトは初めてじゃなかろうか…。 それはまず置いといて。 こう、ぽそっとつぶやいたものを誰かが拾ってくれて、言葉を投げてくれる。その言葉を拾って、また「ふ〜ん」と首をひねってみる。そういう喜びを味わうことができて、よかったなあと思っています。 書いたもの自体は、たいしたものじゃないと思う。最近の気持ちの不安定さというものや迷いみたいなものを、何とかしたくて無理やり言葉にして出したような感じ。 文章というものの中に「自分」が感じられない、そういう苛立ちみたいなものもあったと思う。これは自分なのか、誰かが書いたものをなぞっているだけなんじゃないか。私は、ここでもまた「いい子」であろうとして、自分に無理をしているんじゃないか。そんな感じ。 けれど、このよ
こうしてネット上に文章を出すということを続けていて、何となく息苦しさというか不自由さを感じることがある。これは誰もが思うことなのかもしれないけれど。昔、レンタル日記に書いていたときの方が、自分のやりたいようにやっていたという気がする。 私は、自分と違う意見に出会ったとき、「私、間違っているんじゃないか」と思ってしまうことが多いような気がする。本当に間違っていることもあると思う。でも「絶対に、これが正しい」ということってあるんだろうか。正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとか、そういうことを考えすぎちゃうと、私は何も書けなくなってしまうんだ。 いつだったか「過剰適応」ということを言われたことがある。環境に適応しようとして、自分自身を抑えつけてしまうこと。カウンセラーさんに「何を聞いても、優等生的な答えが返ってくる」と言われたこともあった。私は常に正しくあろうと、良い人であろうとしてしまう
「愛」も「萌え」も定義は広い:「リストカットする勇気があるなら」という勘違い こういうときは(情報元:まなめはうす様)と書けばよいのでしょうか。 私は2年くらい前まで、リストカットをしていました。 はてブのコメントでkanimasterさんが「自傷行為と自殺衝動がいっしょくたに語られている気がする」というのは、私も同じように感じました。 リストカットは自殺目的で、するものではないと思います。本当に希死念慮があるときは別の方法をとると思います。少なくとも「死んで楽になりたい」という考えは、私にはありませんでした。 実際に自分がリストカットをするようになるまでは、それは「してはいけないこと」だと思っていたし、まさか自分がするようになるとは思っていませんでした。 私の場合、リストカットをするのはイライラして落ち着かない時。それも普通の落ち着きのなさではなく、病的な焦燥感がひどかったときでした。焦
何となく今になって、じわじわと悲しみが込み上げてきている。 先日、夫と食事をして、その後いろいろ話をしました。私は病気になってから入退院を繰り返してきました。特にここ数年は入院している期間が長かった。結婚してから7年経つけれど、二人で生活できたのって、そのうちの半分くらいじゃないかと思う。 夫の周囲の人から「(私のことを)守らなくちゃいけない」という言葉を聞いたことがあるのだけれど、その時何となく違和感を感じました。私は守られなくちゃいけない存在なのか、ということ。それはでも薄々感じていたのかもしれない。夫はいつからか私の「保護者」になってしまったんじゃないかと思う。それを夫に言ってみたのです。そしたら「そうかもしれない。妻としては見ていなかった」という答えが返ってきました。 それを聞いたときは「やっぱりそうか」なんて思っていたのだけれど、今になって傷付いています。「妻としては見ていなかっ
少し前の記事に「人様のブログを見るのが面白くて・・」 というようなことを書きました。 今日は、以前からやってみたかった 「最近知った、面白いブログBest3」 を上げてみたいと思います。 どのブログも有名なようなので、「そんなの知ってるよ〜」 と言われそうですが、まあ良かったら私の自己満足に付き合ってください。 「うさこ日記」 いえうさぎの、うさこさんのブログです。 一歩足を踏み入れたら、そこはもう「うさこワールド」が広がっています。 「いえうさぎふぜいですよ」と仰いますが、作詞・作曲もされ絵も書かれる という多彩な才能をお持ちです。 記事も面白いのですが、コメントレスに表れる、うさこさんの暖かいお人柄が素敵です。 そしてなかなかの博識でもいらっしゃいます。 過去ログが山ほどあるので、ゆっくりゆっくり読んでいきたいです。 うさこさんの、くちょうは、ついつい、うつってしまいますね。 「むだづ
エントリを書くことが恐くなる時があります。 「じゃあ書くな」って言わないでね(笑 うちなんて弱小ブログなので見ている人も少ないのだけど、それでもWeb上で公開するということは、誰でも見られるということなのよね。 そして文章って、意識する・しないにかかわらず、「自分」が表れてしまう。なんかこう「そのまま」の自分をさらしている、というのが恥ずかしかったり恐いと思ったりすることがあるということです。 私にとって書くことはリハビリなのかな、と思うことがあります。 入院中は、ある意味「保護」されていたのだと思います。でも、今はこうして自分をさらしている。いろいろな人が見る可能性があるところに。 批判されたりということもあるかもしれない。でも、それは良いことだと思います。(批判と中傷は別です。当たり前だけど) ネット上のお付き合いも、現実でのお付き合いも基本は一緒だと思います。 「言葉」だけのお付き合
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