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「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」については、すでに『検証「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」』や『「従軍慰安婦」問題 秦郁彦教授の論述に対する疑問』の中で、これを「従軍慰安婦」の証言として利用することにはとても問題があるということを、具体的にその形式や内容と関連づけて指摘した。 秦郁彦氏は、「慰安婦」を「性奴隷」などと表現するのは間違いで、「慰安婦」は、「合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだった」と指摘し、「慰安婦」には「相手を拒否する自由」「廃業の自由」「外出の自由」があった証拠資料として、これをあげている。また、多くの人たちが同じようなかたちでこの資料を利用し、「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」などという活動を展開してきた。し
「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)の著者で、元陸軍軍医であった麻生徹男は、戦後写真集『戦線女人考』を編集し、印刷するばかりのところで亡くなったという。「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)は、その写真集をそのまま「第1部」とするかたちをとり、「上海から上海へ」と題した回想記を第2部、「麻生徹男軍陣医学論文集」を第3部として、彼の死後に出版されたものである。写真集の中の写真は、彼が「1300枚ほどの写真の中から、戦争中の女達に焦点を当てて、看護婦、付添婦、慰安婦、中国現地の女性、上海のバー、カフェの女給やダンサー、軍の慰問に訪れる芸人(日本人と中国人)、芸者」などを撮ったものをまとめた62点で、それぞれに彼自身が丁寧な説明をつけているのである。したがって、「従軍慰安婦」の問題に関して も、当時の実態を知る上で貴重な資料といえる。 その説明
日本人が目を背けてはいけない歴史的事実として、第二次世界大戦における日本軍の無謀な作戦によって多くの人が尊い命を落としたこと、特にほとんど全ての戦場で大量の「餓死者」を出したことがあると思う。そこで、「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)から一人の青年将校のガダルカナルにおける状況を記した文を抜粋するとともに、餓死者の概数を拾い出しておきたい。 ------------------------------- 12月27日(1942年) 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。 どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。 生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぽやぽやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変わったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を
「細川日記」は、もともと昭和28年2月に、磯部書房から『情報天皇に達せず』という標題で出版されたものであることが「あとがき」に記されている。東条が独裁体制を敷いて情報を統制したため、近衛が、細川護貞に各方面から情報を集めて高松宮に報告する任務を与えたことを考えると、磯部氏による『情報天皇に達せず』の標題の方が、内容を暗示して理解しやすいのであるが、世間の耳目を聳動させることを避けたい著者の思いによって、再出版の際に、「細川日記」としたようである。 下記は、細川護貞が、沖縄の日本軍の蛮行について、高村秘書官(近衛前首相秘書官)から得た情報を記述している部分である。高村秘書官は、直接沖縄に赴き、視察してきたことを話しているので、その事実は疑いようがないが、沖縄戦の始まる前から、下記のような蛮行があったということに驚かざるを得ない。この少し前までは、東条憲兵が絶大な権力を振るっていたのである。
「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)の著者は、「日本の阿片政策」というテーマで研究を進めるかたわら、ケシ栽培農家を訪ねたり、自身で、ケシの乙種研究栽培者の許可を得て、ケシの栽培にも取り組んだようである。そして、日本の阿片政策をケシ栽培の側面からも追及している。日本のケシ栽培の普及に力を尽くし、「阿片王」といわれたニ反長音蔵(ニタンチョウオトゾウ)についても、彼のケシ栽培や阿片生産に関する著書の内容にまで踏み込んで分析・考察したり、また、新たな情報を得るべく彼の遺族を訪ねたりして、ほとんど知られていない数々の事実を明らかにしている。 さらに著者は、名古屋商工会議所図書館で、佐藤弘編『大東亜の特種資源』(大東亜株式会社、1943年9月)という貴重な書物を発見し、その内容の一部を取り上げて、考察を加えつつ紹介している。『大東亜の特種資源』によると、明治以来の日本のモルヒネ
昭和20年4月中旬、大本営移転準備命令が発せられた。にもかかわらず、小林四男治中佐は移転にそなえる輸送を中止した。梅津参謀総長や阿南陸軍大臣から、関係部署に命令が発せられているにもかかわらず、陸軍省次級副官兼大本営参謀であったとはいえ、小林中佐は独断で輸送を中止したというのである。帝国陸軍において、大本営の行く末にかかわる軍命がそれほど軽いものであったとは考えにくい。なぜ、何の進言や相談もなく命令を無視できたのか、一部に合意があったのか、あるいは、大戦末期、それぞれが独断で行動するしかないほど混乱していたということなのか、疑問が残る。下記は「昭和史の天皇 3」(読売新聞社)から小林四男治中佐の証言を中心とする部分の抜粋である。 ------------------------------ ”アリ輸送”を中止 大本営移転にともなう通信基地の設置は大前提であり、常識であるが、いよいよ御本尊の
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