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大そうじへの備え
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J-CASTに反応するのもどうかと思うのだけど、この問題、色々と思うところはある。 年収1000万クラスの教授に対し、非常勤講師は300万円以下、100万円台も珍しくない。そんな「格差」が大学内に存在している。こうした高学歴ワーキングプアの放置は「大学の荒廃につながる」と指摘する首都圏大学非常勤講師組合の松村比奈子委員長(憲法学)に話を聞いた。 『高学歴ワーキングプア』でも触れられていたことだと思うが、現在のポスドクの置かれた環境の厳しさは、大学院重点化に伴う無計画な院生の増加に負うところが大きい。これに90年代の不況が「就職できないからとりあえず大学院」というルートを用意し、さらに少子化による学生数の減少が追い打ちをかけた。教員側は雇用の確保を条件に、大学の学部新設を容認し、それまでの所属学部と兼任したり、新学部に異動することになった。そのため専任教員のコマ数負担は増大する一方で、大学設
良くも悪くも、「ブレない人」というのは色んなことを考えさせてくれる。 さしあたって以下を引用しておこう。 われわれはいま見たような、二つの知を区別するという解釈に従うわけにはゆかない。われわれにとっては、その解釈はそれが解決しようとしている二者択一の問題を再生産しているに過ぎず、しかもこの二者択一の問題そのものが、いまわれわれの研究対象となっている社会に対してはもはや有効性を失っており、またその問題の立て方自体が、もはやポスト・モダンにおける知のもっとも生き生きとした様態には適合しない、対立による思考に属していると思われるからである。技術やテクノロジーの変化に助けられた資本主義の現段階における経済の《再発展》は、すでに述べたように、国家機能の重大な変化と対をなすものである。この症候群から出発して形成される社会のイメージは、二者択一によって表現されていたアプローチを徹底して見直すことを要求す
久しぶりにきたなあ。 神奈川県平塚市の県立神田高校(渕野辰雄校長)が2004、05、07年度に実施した入学試験で、学力テストなどの点数では合格圏内だったのに、服装や態度などから「生徒指導が困難」として、22人を不合格にしていたことがわかった。 県教育委員会は、希望者を入学させるとし、他の県立高校についても調査する。 県教委の発表によると、願書受付時や入試当日に、服装や髪形、態度を担当教員がメモにして提出。「つめが長い」「胸のボタンが開いている」「まゆをそっている」などの報告があった受験生の中から不合格者を決めていた。 タテマエの問題を抜きにすれば、こうでもしないと指導が成り立たない状況というのが、特に底辺校では続いている。教育に対して「指導力不足」が批判として投げかけられるようになってから久しいが、教員のスキルや人員に対するサポート、カバー策なしに、見かけ上の指導力を回復させようとすれば「
この手の調査がやっと出てきてくれたという印象。実証調査とは、企画立案から実査、報告書が出るまで一定の時間がかかるものであるわけで、予算を取ってきたり、雑多な書類を書いたり、そうした苦労を自ら買って出て、それを公表してくださる研究者の方々にまず感謝。 インターネットにおける「右傾化」現象に関する実証研究 調査結果概要報告書 まだ斜め読みなので細かいことは言えないけれど、ざっと見る限り、ネット右翼層が少なすぎて彼らの特徴について分析できないというあたりの苦労が忍ばれるなあという感じ。ただ、「2ちゃんねるとネット右翼との関連」「マスメディア不信とネット右翼的な層との関連」が見られる、「ネット右翼的な層に、年齢、学歴や年収でとりたてた特徴は見られない」というだけでも、十分な成果だろう。いわゆる「ネット=右傾化=若者」の三位一体論は、この調査においては仮説として不適当であるという結果が出たと言ってい
少しだけ気になったので考えてみる。 「大きな物語が失われたために人々は生きる意味を見出しにくくなってしまった」というストーリーにはもっと率直な疑問を感じる。つまり、「大きな物語のおかげで生きる意味が保証されていた」という状況がそもそもうまくぼくにはイメージできないのだ。たとえば、「大きな物語」として「冷戦構造」が挙げられることがある。そのとき「資本主義vs共産主義」のような大きな対立構造が各種の思想や制度を布置づけていた、という話を否定しようとは思わない。しかし、市井のある人物が「冷戦構造のおかげで生きる意味がみつかりました!」と述べているような状況は、ぼくにはまったく想像することができないのだ。 もちろん、政治的な人間であればその種の運動に「アンガージュマン」することで「生きる意味」を 見出すことができたかもしれない。しかし、それは、一部の人間にとってだけのことだったのではないのか?そし
思想的に、とか書いたものの、もう少し理詰めで考えてみる。 そもそも私が増山氏の提案で問題だと思ったのは、性の問題ではなく、国家の介入という点だ。私自身は、性的な欲求を抱えながらもそれを満たされない人に「自助努力で相手を見つけてこい」などと言うつもりはないし(前のエントリでも売春は否定していない)、売春がイコール搾取を導く極限的な労働だとも思っていない。では、何が問題なのか。 ディベートの定石に従って、どうやったら増山氏の提案を肯定できるか考えてみよう。まず、需要があるとする。この人たちは、自らが性愛的に満たされていないことに対して鬱屈を抱えている。それは時に極端な形で暴発する可能性があるので、なんとか対策しないといけない。では、この人たちの需要はどのようにすれば満たせるか。本来ならば「あなたがどんな人でも愛してあげる」と言ってくれるパートナーと結ばれることが、最良の解決となる。だが、それは
行かなくてよかったという思いと、行っておけばよかったという思い半ば。 増山:性欲が殺気立っている気がする。性風俗の充実に国が保護を出して3000円で女を抱けるようにするべきでは。 赤木さんも「加藤容疑者は、女を抱きたいんじゃなくて、継続してつきあえる相手=彼女がほしかったんじゃないか」と語っていたけど、そうか、彼らも消費されない関係を求めているんだ!当たり前か。 3000エンで公共売春所を作ったらいいんじゃないかと、いう提案しかできなかった自分に反省。 この発言が事実だとすれば、そしてそれがスルーされたのだとすれば、もう『ロスジェネ』には何も期待しないし、するべきではないと思った。既存の左翼に不満を表明するのも、アートと政治を融合するのも勝手だが、搾取されている人間のガス抜きのために、別の誰かを、国家まで持ち出して暴力的に搾取してよいなどと考える人間に、貧困や差別を論じる資格はない。それが
日本に存在していたのは、おそらく知性主義ではなくて知性主義に名を借りた優越感ゲーム。竹内洋はそのあたりの事情を、西洋に近いから偉いという山の手文化的なものとして論じていたっけ。その対極には、庶民の実感に根ざした伝統的な智恵を重んじる下町文化がある。現場か理論かというあり得ない対立が生じるのは、そういう淵源があるのだろう。 教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書) 作者: 竹内洋出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2003/07/01メディア: 新書購入: 17人 クリック: 277回この商品を含むブログ (139件) を見る 西洋的な知性主義とは、そうした優越感ゲームとは異なり、人生の意味とか「善き生とは」みたいなものの追求の上にある。その背後にはさらに、絶対的な孤独感というのがあって、人に認められさえすれば生きていける共同体−内−生を生きる私たちにはいまいち伝わりに
※元の文脈とは完全に切り離された純粋な感想なので、ソースとかその辺のことはパスします。 資源を最適に配分するという。配分されなかった人がかわいそうだという人がいる。配分しないともっとかわいそうな人が出るじゃないかという。私から見れば、両者の立場は少しも対立しない。かわいそうな人を減らすために「より善い/より最適な」配分をすべし、と言っているだけだから。重要なのは、誰が配分するかという話なのだ。配分されないかわいそうな人たちに配分せよ、と迫る人たちは、最終的には、自分が配分する権力を奪取しなければならないと考える。ネオリベ的な「最適」配分を批判する人たちが、いつの間にかネオリベ的に権力を奪取して「俺にとって最適な」配分を要求し始めるように。いずれ彼は別の人に、それが権力によって恣意的に決定された配分だと非難されるようになる。 解決策にはたぶんふたつあって、ひとつはトレードオフがあるから最適配
ヴェルナーの『ベーシック・インカム』は買ったまま読んでないので、あまり言及できない問題なのだけど。 BIは貧しい人々に今までの自分の「正しくない行い」を悔い改めさせると同様に、社会が彼らを搾取する免罪符にもなるのです。そのような欺瞞に加担するのはもうやめるべきではないでしょうか。何もBIで無くても、生活保護の拡充と基準の緩和、教育・医療の無償化、最低賃金の設定や雇用保険の充実など、現実的に出来る社会福祉はたくさんあるわけです。 BIってのは無償のバラマキではなくて、たとえば教育におけるBIとも言えるバウチャー制度なんかは、ハイエクによって「選択の自由を高める」ための手段として提案されたものだったはず。赤林英夫氏なんかは、日本のような初等教育における受験機会の多い環境では、バウチャーの導入の仕方によっては、それが「富裕層への補助金」になることを指摘していた(『中央公論』07年2月号)。 で、
こないだの論争がらみでいろいろ見ていて、少し気になったことを。 まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです。なぜなら、いまのブログ環境においては、あることを主張したいときに、検索エンジンを駆使して自分に都合のいいようにデータを並べ、本の一節とかをどっかから取ってきて、「ほらAはBだ」「AはBじゃない」と言うことはいくらでもできるからです(ぼくがやったのがまさにそういうことですw)。よく考えたら、そんなことは自明でした。 ポストモダン論とかネット社会論の一部で言われるようになったこうした現象は、実は割と根の深い問題なのではないかと思う。南京問題をはじめとして、ネットでは歴史問題やマスメディアの報道を巡って、それが「真実」か否かというアジェンダが持ち上がりがちだ。90年代に修正主義論争が持ち上がった際には明確に存在していた「戦後史観・的なもの」に対するカウンター、すなわち政治的立ち位置の
お昼休みくらいゆっくりご飯がたべたいです。 東浩紀の渦状言論: 信頼社会は不安社会よりいいのか? 問題の背景がよくわかんないけど - finalventの日記 東浩紀の渦状言論: finalvent氏への応答 両者の違いは、たぶん「ネーション・ステート」を支える「ナショナリズム」なるものの認識のズレに由来しているのではないかと思う。東氏がそれを、血族的同胞感情に基づく一体感、つまりフランス社会主義的に捉えるのに対し、finalvent氏の方は、ヘーゲル−ドイツ国法学的な意味で、つまりそうした血族感情を止揚するものとして捉える(だからヘーゲルは市民社会に任せたって福祉なんて無理だぜ、と考えた)。 ただ東氏の問題提起は、それをさらに踏まえても、ネーション・ステートなんてあらかじめ定められたメンバーとそうでないメンバーを区分して守るだけでしょ、というところにある。これは社会科学的には、「市民権」
先日、とある本を立ち読みしていて、あまりの出来の悪さに頭を抱えた。同時に、ネット時代になって「データを用いて文章を書く」ことの問題も痛感させられた。その本では、著者が取り上げた分野について論じているもののうち、こちらの議論は根拠のない決めつけで、あちらの議論にはそれを覆すデータがある、といったことがこれでもかと並べられている。その膨大なデータ量は、反論の材料としては十分すぎるほどで、普通に見れば「よく調べたなあ」と言ってもらえるものだろうと思った。 では何がダメなのか。要は、著者が批判している議論より、自分が出してきた議論の方が信頼に足るという根拠が、どこにも示されていないからだ。確かに、データがないものよりはデータがあるものの方が信頼性はあるだろう。では、そのデータがねつ造だった場合には?著者が言っているのは、あちらの人はこう言っているが、別の人はこう言っている。自分は後者の言うことの方
これねえ、倍率は実際問題じゃないのよ。それって教員に対する指導報酬が確保できるかどうかの問題でしかないから。 文部科学省によると、全国の博士課程の入学定員に対する志願者の平均競争倍率は、3年度に開始した「大学院重点化」計画以降、上昇を続け、8年度には1.08倍を記録。15年度まで1倍を超えていたが、その後、漸減を続け、18年度には0.9倍まで低下。そして19年度は計2万3417人の入学総定員に対し、志願者は2万773人で競争倍率は0.89倍に落ち込み、5年度以降初めて0.9倍を割り込んだ。 ちなみによくロストジェネレーション問題で、高学歴ニートも同じ扱いにされることが多いのだけど、話としてはまったく別。確かに就職がないから緊急避難的に院進学した手合いはいたし、それが大学院重点化と重なってしまったために、無駄に院生を抱え込むことになったのは事実だけれど、別に彼らは騙されて進学したわけじゃない
文学者は、夫婦の仲が崩壊する作品に名作が多いと言う 歴史学者は、夫婦の愛は近代の産物に過ぎないと言う 文化人類学者は、一夫一婦制は世界共通の文化ではないと言う 脳科学者は、愛は三年で終わると言う 心理学者は、健全な夫婦仲とは愛情と打算の混合物であると言う 法学者は、夫婦とは愛情関係ではなく法的な契約だと言う 社会学者は、近代的夫婦を可能にしたのは家父長制だと言う 統計学者は、離婚原因の1位は「性格の不一致」であると言う 経済学者は、夫婦仲が悪くなるとストレス発散のため支出が増えると言う 宗教学者は、人類愛は夫婦愛にまさると言う ブロガーはそれらをすべて読んで、結婚なんてするもんじゃないと結論を出す。
週末に読んだ本から2冊。 3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書) 作者: 城繁幸出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/03/01メディア: 新書購入: 12人 クリック: 412回この商品を含むブログ (275件) を見る まずは城繁幸の新刊。大部分はWebでの連載を元にしたインタビュー。ところどころにコラムを挟みつつ、「昭和的価値観」を脱し、自分なりのキャリアを積み上げたり、独立した人たちを紹介している。著者の基本的なメッセージは、いい学校→いい会社→いい人生という昭和的価値観に凝り固まった連中が日本をダメにしている、もっと雇用を弾力化し、能力のある人をきちんと評価しない会社からはとっとと逃げ出して、自己責任で人生設計をできるようにするべきだというものだ。そのために城は、賃下げや降格など、労働条件の不利益変更を可能にする「劇薬」さえも肯定する。
「コンビニ売りのビジネス誌」というと、もうその時点で役に立たなそう、あるいは即物的すぎる、と決めてかかっていたのだが、昨日見つけた『PRESIDENT』08年3月31日号の特集「一流が読む本、二流が好む本」は、割に面白かった。どうせ宗教まがいの自己啓発と司馬遼太郎なんでしょ、と思いきや、哲学や社会科学の書籍もそこそこに取り上げられている。 PRESIDENT (プレジデント) 2008年 3/31号 [雑誌] 出版社/メーカー: プレジデント社発売日: 2008/03/10メディア: 雑誌購入: 2人 クリック: 25回この商品を含むブログ (11件) を見る ま、冒頭から「本はただ読むだけでなく『気づき』が重要」だの「脳の回転数が上がっている状態で本を読め」だの書かれているのだが、その辺はとばして「役職別 『一歩抜きんでる』貫禄の126冊」のパートへ。タイトルはアレだが、役職別に見てみる
そもそもデータの根拠がぎりぎりですが。 J-CASTニュース : 一番の関心事は貯金 20代は「かわいそうな世代」なのか まず20代の段階だと貯蓄と自己投資は対立する概念ではないので、脊髄反射する必要もなし。それ以前に、日本の家計貯蓄率は1970年代半ばをピークに下降の一途をたどっており、06年度は3.2%の過去最低を記録したことが報じられているので、若い世代が突然貯蓄を始めたわけでも、上の世代が若いときに貯蓄をしていなかったわけでもない(参照1、参照2)。さらに、「家計の金融行動に関する世論調査」によると、2002年を底に家計の貯蓄は回復する傾向にあるのだが、その要因としては、可処分所得からの貯蓄率の引き上げではなく、株式の評価額上昇などがあるように見える(参照3)。記事にあるように若者が可処分所得を貯蓄に回しているのであれば、こういうデータにはならないのではないか。 ま、あとは与太話だ
まったくの門外漢としてはどちらも面白かったのだが。 「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG Enemy of the Sun - 宇野常寛氏のネオリベぶりについて 宇野−荻上がともに肯定する「ジャスコ的な文化」に対して、それはそもそも選択可能性のない環境要因なのであり、それによって疲弊した地方の現実を無視している、という批判は、そもそも軸が違う話ですね、というツッコミをとりあえず無視すれば、興味深い対立だと思う。だが、そこでやり玉に挙がる「ネオリベ」なるものは、俗流化された規制緩和+格差肯定論のことを指すと思うのだが、そもそもそんな「ネオリベラリズム」は思想として存在しない。多くの人がサッチャーの「社会は存在しない」という発言を引き合いに、規制緩和と自己責任論を一体のものとして語りたがるが、両者はルーツとしては別のもので、ネオリベラリズムの議論の
1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。 第二部:討論編 (質問パート以前の討議は削除しました) 東 質問に行きたいんだけど、あらかじめ集めたものの中では、萱野さんに質問が集中している。 萱野 社会構成主義の話が多いね。 会場から、その辺をはっきりさせろよ、と野次。 萱野 ひとことで言うと、国家というのは人々が虚構した、人間の相互作用を通じてできたものだと考える立場。そこに縛られているんだ、実体的な根拠はないんだというのが構成主義。いただいたものの中では、やっぱり構成主義なんじゃないかという質問もあったり。具体的な暴力が、DVとか相撲部屋の問題とか、まだ社会に拡散してるんじゃないかと。 暴力の独占ってのは物理的に集まっているのではない、合法的な暴力が独占されていること。国家はそ
1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。オフィシャルな議論のテクストは、『思想地図』に掲載されると思われるので、この議論に興味を持たれた方はそちらを購入しましょう。 第一部:報告編 東 『思想地図』創刊にあたって考えていたこと。思想は政治性を持たなければならない。95年以降、思想が具体的な実効性を問われる言葉に縮減していったと認識している。だが思弁的な言葉で考えてもいいはず、そういうものを取り戻したい。現実との繋がりは「あればいい」けど、ことさらに強調する必要はない。ほかの論壇誌ではできない、抽象的だけど具体的な思考を載せていきたい。 「日本」と「国家」というのは、どっちも生活に関わるものでありながら抽象的なテーマ。まずはそれぞれの報告を経て、ディスカッションを行う。会場からの
正直、突っ込もうかどうか悩んだというのもあるのだが。 周知の通り、はてな界隈には(俺を含め)情報技術者とか理系大学生が結構いるのだけど(以下略) ほとんどはてブで突っ込まれてしまっているので特に言うことはない。が、この辺の断絶というのは、ステレオタイプ化しているだけに意外に根深い。実際には、理系といっても工学と医学では大きく違う(最近は両者の架橋も進んでいるのだけれど)。まして数学あたりになると、領域が理系なだけでディシプリン的な部分は人文系に近い。 他方、この手の「理系コンプレックス」「文系コンプレックス」の根っこにあるのは、実は文系の方の問題。工学やプログラムの連中に言わせれば、世の中を仕切っている「ブンケイさん」のおかげで、自分たちの仕事は正当に評価されていない、まともな予算配分がなされない、このままでは世界に後れをとる一方、ということになる。だが、文系の中でも特に哲学や文学などの人
「空気」絡みで「水」の方も話題になっていたのだが、わざわざ人と絡むのも好きではないので、山本「『水=通常性』の研究」から一部引用するだけにとどめる。 さて「『空気』の研究」から「『水=通常性』の研究」まで、臨在感的把握とか、空気の醸成とか、「父と子」の隠し合いの倫理とか、一教師・オール3生徒の一君万民方式とか、それを支える情況論理と情況倫理とか、実にさまざまなことをのべてきた。では以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体勢となった「虚構の支配機構」だということである。 それは演劇や祭儀を例にとれば、だれにでも自明のことであろう。簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定の元に人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観
モテない男性のダメな部分ランキング - 恋愛&結婚ランキング - goo ランキング 1位:KY(空気が読めない)→その場に流されない信念を持っているのね 2位:文句ばかり言う→トラブルがあったときにきちんと抗議してくれそう 3位:マザコン/ファザコン→支えてくれた親に感謝とかカコイイ 4位:ネガティブ思考→「なんとかなるっしょー」じゃ困るものね 5位:自分の話ばかりする→あたしの知らない面白い話を聞かせて! 6位:視野が狭い→あたしだけを見てくれるタイプね! 7位:人の話をきかない→その調子でお父さんのことも説得してね 8位:気が利かない→そういうところはあたしが支えてあげなくちゃ 9位:仕事ができない→仕事仕事で家に帰ってこないよりマシでしょ 10位:服装を気にしない→他の女の子が寄りついてこないから安心 「※ただしイケメンに限る」禁止。 大学生の8割は日本を「競争社会」と考えながらも
asahi.com:マック「×××はいけない」 週刊誌中づり広告を黒塗り - 暮らし ことの顛末より、それぞれの鉄道会社の言い分の違いの方が興味深い。澎湃としてわき上がる「これはまずいよ」の感情は、まさに『空気の研究』そのものなのだが、そこで「読まれた」のは、他の鉄道会社の措置ではなく、マクドナルドと自社との関係。だから証言が食い違う。ここで横のコミュニケーションがあったりすると、また別の「空気」が醸成されるのだろう。 ところで、 南海は「車内の広告を扱った広告会社が、表現があまりに抽象的で直接的だと判断した」と述べた。 意味が分かりません>< 空気がらみでもうひとつ。 出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題 - MIYADAI.com Blog なんだか細かいツッコミどころが目に付く。山本七平が挙げたのは、極東裁判ではなく、吉田満『戦艦大和』における、大和の沖縄出撃や、自
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