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鹿児島大の大薗博記先生たちの研究が話題だ。 論理的思考が高い人ほど「斎藤氏は陥れられた」と考える傾向…鹿大・大薗博記准教授らが捉えた〝異変〟 兵庫県知事選〈末尾に出典元リンク〉 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 記事では研究の概要が紹介されているのみだが、リンクされているnoteの記事では詳細な結果と、生データも公開されている。こうしたオープンデータな研究は、専門家が再検証する余地を残すという点で非常に有益なもので、ぜひ勉強させていただきたいと思った。 一方で、社会心理学の専門家ではない一般のネットの反応では、懐疑的な意見も多いように思う。ひどいものになると、社会学と社会心理学の区別もついていないようで、これは風評被害も甚だしいという気になる。もちろんそういう人は研究の中身には興味がなく、文字通り「もともとの自分の考え(専門的には先有傾向という)に近いかどうか」でニュースの価値を判断し
2024年11月17日に行われた兵庫県知事選挙は、その発端となった一連のパワハラ疑惑により失職した斎藤元彦氏の当選という結果になった。学生たちからも「今回の選挙、誰に投票すべきですか?」という質問を度々受けたし、ふだん政治の話なんかしない美容室のお姉さんまで「どうなんでしょうねえ」なんて言ってたから、少なくとも周囲でも関心が高まっているとは思っていた。 他方で、そもそもこうした選挙においては実績をアピールできる現職の方が有利だし、この数年、選挙街宣カーの姿を都心部以外でほぼ見なくなっていることも含め、ネットの情報の影響力が相対的に高まっていることは感じていた。直前の動勢調査を噂で聞いていた範囲では、投票日が近づくにつれ「本当に斎藤氏の再選があるかもしれない」という確度が高まっていたので、「意外な結果」だとは思わないけれど、それでもネット上には驚きの声が広がっているようだ。 NHKの報道によ
この週末は、勤め先の大学の学園祭だった。かつては大学自治の象徴として、学生たちの総会と投票によって開催を決定していた学園祭も、コロナ前くらいだったか、実行委員会が「総部」という大学公認の部活となり、ある意味ではシステマティックに、ある面では安定的に営まれるものになっている。 その学園祭には「模擬店」という仕組みがあり、応募して抽選に当選すれば、いろんな団体が出店できることになっている。今年は学生の希望もあってゼミとして初めて出店したのだけど、本当に色々と考えさせられた。 大前提として、模擬店を出店し、特に飲食物を提供しようとすると様々なコストや負担、ルールに制約されることになる。衛生面や安全面で保健所や消防署の指示に従うのは当然のこととして、ガスボンベやガス台、テントなどのレンタル費用が発生する。詳細な数字は控えるけれど、大学生の一ヶ月のアルバイト代よりはるかに多い金額だった。 もしかして
10月25日付の毎日新聞に、僕の談話記事が出ている。衆議院総選挙に関して、いわゆる「中道・無党派層」にどのような影響があるか、という観点でコメントを寄せたものだ。記事内で紹介しているデータは前のエントリで言及したものなので、そこは既出なのだけど、取材後に様々な情勢の変化があり、やや補足が必要なところもありそうだ。 記事の全体的なトーンとしては石破・野田両氏の中道的なスタンスが、とりわけ都市中間層の志向にマッチする可能性があるという話になっているのだけれど、むしろこの選挙期間中の様々な報道は、有権者を幻滅させるものになっていると思われる。記事の最後で言及しているように、選挙後の「ゆるみ」によってさらに「古い政治」への回帰があからさまになれば、人々はより政治への期待を失うことになる。 ここで都市中間層と呼んでいる人々の志向とは、「経済面では、不利な立場にある人々を支援するために財政を用いるので
9月23日、立憲民主党の代表に野田佳彦氏が選ばれ、27日には自民党の総裁に石破茂氏が選出された。2024年は米大統領選をはじめ先進各国で選挙イヤーなのだけれど、ここにきて日本でも年内に衆議院の総選挙が行われる可能性が高まっている。 そんな中で注目のキーワードとして挙がっているのが「中道」ないし「中道保守」という言葉だ。いくつか新聞記事を見てみよう。 社説:野田立民新代表 中道路線で挙党態勢築けるか : 読売新聞 立憲民主党・野田佳彦新体制「中道保守」にカジ 自民党離れの層狙う – 日本経済新聞 (時時刻刻)「政権取りにいく」 立憲新代表に野田氏 中道保守路線、党内で好感:朝日新聞デジタル いずれの記事でも共通しているのは、野田氏が安全保障・防衛政策において立民の従来の主張から距離をとっていることを根拠に「中道」だと評価している点だ。また、それを「現実主義」と呼ぶか「保守的」と呼ぶかは若干の
「技術の進化と労働」というテーマは、もう10年も前からずっと話題になっているものの、そこで取り上げられる技術が日々アップデートされることもあって、尽きることのない関心を集めている。実はそれぞれの技術がもたらす影響は異なっているかもしれないし、話題になっていない技術が水面下で僕たちの生活を変えつつあるのかもしれないのだけれど、ともあれ、注目ポイントを変えながら「今度こそ人間の仕事がなくなるのではないか」という話が繰り返されている。 目下、もっともホットな話題は「創造的な分野における生成AIの利用が奪う雇用」だろう。具体的にはイラスト生成の分野において、この問題が大きくクローズアップされている。 とりわけ重要なのが、生成AIが学習に用いるデータが、制作者の同意を得たものでない場合、そして、それによって生成されたイラストが、もとの制作物と似たようなものになる場合に、その著作権上の扱いをどうするか
「ワープロで書いた文章は、誤字脱字があっても気づかないので、卒論は手書きでの提出とする」 指導教授は僕らに向かってそう言った。1990年代も終わりの頃の話だ。 念のために言っておくと、当時、ワープロはもちろんパソコンも普及しはじめていて、就職活動もインターネット経由で行われるようになるからということで、大学にもパソコン室が設置されるようになっていた。教授は素晴らしい先生だったけれど、民俗学の大御所であり、新しいテクノロジーが学問をどのように変えるのかといったことにはあまり興味がなかったのだろう。 「生成AIを研究指導や教育に用いてよいか」という話題が出るたびに、僕はこのエピソードを思い出す。反対派曰く、生成AIは平気で嘘をつく、間違った回答を返す、自分で考えなくなる、ゆえに、自分で本を読み、資料をまとめて論文を書くことに勝るものではないのだと。 確かに現代に至るまで、日本語文字入力の誤変換
すっかり本が読めなくなっている。 忙しいからではない。自己啓発に毒されて仕事に全力を出すのが癖になっているからでもない。 原因は、現代の情報過多だ。 この社会では、どんな商品に出会うときにでも事前の評価がついて回る。本であれば「新刊紹介」などのようなプロのレビューがその代表だ。リアル書店を歩いていて偶然出会う本もあるだろうけれど、それすら「あの作家の最新刊」とか「本屋大賞ノミネート」とか「ネットで100万人が泣いた」とかの周辺情報が、判型の3割、4割を覆うように貼り付けられている。 そうするとこちらも、あらゆる本を色眼鏡で見てしまうようになる。レシピ本ですら「味の素使ったっていいじゃん、美味しいよね」とか「丁寧にひいたお出汁は日本の文化だよね」という強い思想を自分の中に確認しないと手に取れない。 そう、誰が気にするでもないのに、どんな本を開いても、それが事前の情報によって文脈付けられていて
最近、あるデータを見ていて気づいたのだけど、こと働き方に関して言うと、自分の世代とその下の世代を比較したときに、僕らは「好きなことを仕事にしたい」「リーダーシップや決断力のある上司が理想」という傾向が強いようだ。サンプルの偏りとか調査設計の問題はあるにせよ、どことなくイメージが浮かぶ結果だと思った。なんといっても、自己主張することと、自分を軸に考えることが結びついているのだと思う。 それは同世代から少し下くらいまでの人たちを見ていても感じるところだ。SNSでも隙あらば自分語りが展開されるし、「セルフブランディング」なんて言葉も飛び交っていた。心理学的には承認欲求の中でも「称賛獲得欲求」というのだけど、世の中の立場がどうあれ、まず自分に注目を集めたいし、称賛されたいという意思の強い人が目立つ。ちょうどベンチャーブームだとかSNSの登場だとかが重なった20世紀末から21世紀初頭にかけての動きが
批判的な思想の弱さ この数年、というかコロナ禍以後、「思想」というものに対してまったく期待が持てなくなっている。個別の思想の内容に、ではない。ほんとうなら、何かを伝え、誰かと別の誰かをつなげるはずの言葉が、誰かを傷つけたり、というより、傷ついたぞ、どうしてくれるんだと詰め寄られたり、そのせいで人々がいがみあったりするものになっていることに辟易している。あるいは、ちょっとした言葉尻を気にして「そういうこと言うとまた炎上するのでは」と怯えたり、センシティブになっている人を見かけたりするのも苦しい。 まず確認しておきたいのは、ここでいう「思想」はいわゆる哲学とか現代思想とか、あるいは文化人類学や精神分析、宗教学など、とりわけ人文系の学問と関わりの深い理論的な思考のことを指している。だから、個人の経験に基づく信念とか、世の中を生き抜く知恵みたいなものとは違って、「役立つ」ことを必要としていない。強
3月1日に東京・お台場にオープンした「イマーシブ・フォート東京」。事前に大きな話題を読んでいたことや、この分野について以前に論じていたこともあって、春休みのタイミングを利用して行ってきた。結論から言うと、自分が論じていた「没入性(イマーシブネス)」について実践的な取り組みが行われていることが確認できた一方で、今後に向けた課題も感じるものだった。 まず押さえておかないといけないのは、「イマーシブ」が2020年代のエンタメのキーワードになりつつあるということだ。イマーシブなエンタメには大きく言って、「イマーシブ・ミュージアム」のように、既存の絵画を動画化してプロジェクション・マッピングとして投影するタイプのものと、今回のイマーシブ・フォート東京のように演者が演劇を行う場面に一緒に参加できる「イマーシブ・シアター」がある。イマーシブ・シアターには、「ひろしまナイトミュージアム」のように舞台と美術
Shank et al. 2019より インタビューの結果からShankらは、人間がAIに対して心を持っているように知覚する条件には3つあると述べている。1点目は、AIがその時々の技術に対する期待を超えるような反応を見せること。この場合、人々は失望よりは驚きを見せることが多い。2点目は、AIが社会的な役割を担うこと。この場合に人々は、AIが本当に何らかの心を持っているように感じ、驚いたり不安を感じたりするという。Shankらは、AIが社会的な役割を担っていると感じることが、より強い反応を引き出していると分析している。3点目は、AIを擬人化することだ。つまり、AIが人間のような心を持っているのだと知覚することで、さらに強い心理的反応が見られるというのである。 もちろんデータとなっているインタビューは統制されたものではないし、その意味では個人の感想の寄せ集めだとも言える。とはいえ、「AIが心を
「AIによる業務効率化」がブームだ。といってもAIが仕事に使える、使わなければという機運が高まったのもこの1年足らずのことだし、技術動向が目まぐるしく変わっていることもあって、いまだ「定番」と呼べるスキルは生まれていない。プロンプトエンジニアリングが大事になるぞとか言われていたかと思えば、データ分析、画像生成、直近では動画の生成などが話題になり、「何に使える技術なのか」というイメージすら明確ではないのが現状だ。 こういうときに、新しもの好きというか、アーリーアダプター層とマジョリティの間の「キャズム」はずいぶん大きなものになると思われる。マジョリティ層が「使い方や規制の動向がはっきりするまで待っておこう」と考えるのに対し、アーリーアダプター層は次々と新しいものを試し、それによってAI活用の「コツ」のようなものを掴んでいく。おそらくそれはかつての「検索エンジンの使い方」と一緒で、言語化しづら
生きていることがもう間違い 1年の振り返りをする習慣がついたのは、ブログを始める少し前のことだから、1998年かそこら、だいたい25年くらい前のことだと思う。当時の僕は色んなことに追い込まれていて、それが回り回ってすべてに諦めがついたというか、もう年の境を超えたら自分は死ぬのだと思っていれば、どんなことも爽やかな気持ちで受け入れられる、そんなことを考えていた。 それから四半世紀もたったのに、やっていることは相も変わらない。今年も僕は自意識上の問題に追い込まれ、それこそ吊ったり飛んだりしなかった自分を褒めてやりたいくらいには落ち込み続けていた。 きっかけは色々ある。それらの出来事の中には、悲しいけれど仕方のないことも、むしろ喜ぶべきことも、また必然的な流れとして起きたこともある。ただそれらの出来事を並べたときに、これって全部、自分さえいなければ起きなかった、自分がすべての起点にある、要するに
普段、ドラマをリアルタイムで視聴することのない僕ですらハマったTBS系ドラマ『VIVANT』。肌感覚でも「話題になっている」なあと思うのだけど、一方で、漏れ伝わってくる話を聞いていても、誰一人として話の中身を理解していないのではないか、という気がする。ネット上では「考察動画」があれこれと流れてくるし、放送の翌日には「ネットにはこんな考察が」なんてマッチポンプで煽り記事が出るのだけど、それを含めて「盛り上がっている感で見ている層」と「ガチ考察勢」がうまく交錯しながらヒットに繋がっているということなのだろう。 僕の仕事に関して言えば、このヒットの背景なり特徴なりを分析することもできるのかもしれないけれど、実はあまりそこに関心はない。そもそもこのドラマに惹かれたのは、僕のもうひとつの専門分野である国際関係論とも関わるストーリーの部分だ。ウクライナ戦争以後に、しっかりと中央アジア地域を舞台した物語
Twitterがいよいよヤバいらしい、という話が、再び話題になっている。イーロン・マスクが経営権を握って以降、似たような話は何度も囁かれていたが、今度こそは本物だ、ということのようだ。 ことの発端は日本時間の7月1日から2日にかけて、Twitterが全ユーザーに対して1日あたりの閲覧数を制限したことだ。上限の投稿数についてはたびたび変更が繰り返されたものの、春に行われたAPIの有料化に続いて大きなインパクトを持つ出来事だといえよう。 背景にあるのは、Twitterに対するスクレイピングがサーバーにもたらす過負荷らしい。ただこのスクレイピングも、そもそもAPIの有料化によってデータを取得できなくなったユーザーが代替策として行っているものである可能性が高い。さらに、Twitter内部のバグによってセルフDDos状態になっているとの指摘もある。単純に技術的な問題というよりは、経営の判断ミスがネガ
2023年5月8日をもって、この3年、日本社会を統制していた「コロナ対策」は、特別扱いされることがなくなる。勤め先の大学でも先だって、この日をもって「コロナ特別対策本部」が解散され、すべての制限が撤廃されるというアナウンスがあった。「コロナ対策の終わり」と「コロナの終わり」はまったく別のものだろうけれど、両者を同じものだと受け取る人は少なくないだろう。 学生ですし詰めの満員電車や、観光地の長蛇の列を見ていると、ああ、この3年はほんとうに非日常だったのだなと実感する。人のいない京都のお寺や美術品をじっくり見て回ることができたのはありがたかったけれど、「あれはあれでよかった」なんて到底言えない。そのくらい、苦しいことだとか、永遠に失われたものが多かった3年だったと思う。 大阪大学のグループの研究によると、「新型コロナ感染禍に接した直後(2020年1月)の心理を1年後に回顧させると、過小評価する
47歳の誕生日は、この数年でもなかったくらい、複雑な心境だった。自分の人生を振り返ると5年おきくらいに大きな転機が訪れるのだけれど、昨年秋から今年にかけての半年くらいの間、「もうこれまでの自分とは考え方も、やり方も変えなければいけない」という確信が日に日に強くなり、その新しい姿を求めて悩み、考え抜く時間がすごく多かったと思う。 実際、この春からとある企業の顧問に就任したり、その他にも新しいプロジェクトが始まったりしたこともあって、その「転機」は頭の中だけのことではなく、縁あって実際的なこととしても起きたのだけれど、それによって、これまでの自分の価値観や考え方の中にあった迷いや甘さのようなものを捨てなければいけなくなっている。 LifeのPodcastでも話したことだけれど、特にこの半年は、スピリチュアルな言葉を参考にすることが多かった。オカルトという意味ではない。そもそも合理的に考えたり解
1年間の締めくくりの日には、いつも自分が死ぬ日のことを考えるようにしている。今日でもしも自分の人生が終わるとしたら、そのとき自分は何を思うのか。世界のすべてに別れを告げなければいけないとして、そのときに何を言うのか。 二十歳くらいの頃から毎年そんなことばかり考えていたら、いつの間にか歳をとってしまった。死ぬとか死なないとかいう話がどんどんリアルになる。「もしも」の話ではなく「いつか」の話として死を考えなければいけなくなる。 とりわけ今年は、夏に母が他界したことも大きかった。体調を悪くしてから亡くなるまであっという間だったし、直前まで元気だったことを思えば、人はいつも突然にいなくなるものだなあと思わされる。何度も心のなかで繰り返してきた「朝には紅顔ありて暮には白骨となる」という言葉も、実感を持って刺さってくる。 考えたのは、肉体の死ではなく、精神的な死のことだ。もっというと「忘却されることに
「鼓舞激励」を貫いた1年 今年、何人もの教え子に「先生が死ぬときは絶対に突然死ですよね」と言われた。突然でない死があるのかよく分からないが「早く死ねばいいのに」と思われながら死ぬよりはいいんじゃないかな。そもそも、明日生き延びるために今日したいことを我慢して、それで明日死んだら意味ないじゃんその我慢。 ただそこまで言われるからには、それ相応にアクティブだったのだと思う。2022年の頭に立てた目標は「鼓舞激励」だった。特に大学の仕事では人を勇気づけること、進む先によい未来があると信じさせることを目指して、アウトプット活動に勤しんだ。年の前半は、学部の広報用サイトをリニューアル、後半には受験生向け動画の企画・監督を手掛けた。3年ぶりの対面イベントが多く、卒業生や仕事で関わる企業人と学生をつなぐ企画も動かした。この数年続けてきた研究活動も書籍化された。去年までの2年間が、立ち止まらないために必死
「帰ってきた」のではなく「はじまった」 2022年も終わろうとしているけど、今年の音楽を振り返ると、むしろ「はじまった」という感が強い。確かに、サマソニ、ミナホ、レディクレと大型フェス、サーキットイベントには軒並み参加したし、ライブを見に行くという点ではすごく充実していた。ただここで「はじまった」というのは、コロナからの行動制限緩和によって様々なエンタメが再開されたということだけでなく、昨年の音楽まとめ記事にも書いた、新世代、新ジャンルへの入れ替わりが進んだということでもある。 とりわけ印象的だったのは、いわゆる「ラブソング」でない曲の存在感だ。世界的に見ても若い男女の恋愛を歌った楽曲はスタンダードでなくなりつつあるし、アーティストに求められるものも、感情の代弁ではなく自己啓発になっていると思う。誰かの背中を押したり勇気づけたりすることが音楽の重要な役割であるような、そういうトレンドはしば
僕はその日、久しぶりのミスをした。溜まった仕事を片付けるつもりで休日出勤のために訪れたオフィスの前で、カードキーを忘れたことに気づいたのだ。家まで取りに帰っても時間がかかるし、夕方から別の予定もあったので、数時間、ぽっかりと予定が空いてしまうことになった。 仕方がないので、映画でも観て時間をつぶすか、と考えた。上映時間がぴったりだったという理由で選んだのが、今泉力哉監督『窓辺にて』。主演の稲垣吾郎さんの演技はこれまでも評判だと聞いていたし、ミスって軽く落ち込んでいるときに、陽気なエンタメや不穏なサスペンスを観るくらいなら、落ち着いた気持ちで見られそうなものにしよう。そんな軽い気持ちで、予備情報もなく鑑賞したのだった。 結果的に、作品そのものも素晴らしかったし、いろんなことを考えさせられることにもなった。この作品の中に答えがあるわけじゃないけど、いま自分が感じていたことや、来年に向けて考えた
公開直後に観に行って、ほんとうに声を上げて泣く寸前まで嗚咽したのが、新海誠の最新作『すずめの戸締まり』。過去2作と比べてもエンターテイメント性の高い、アクションありコメディあり感動ありの高い完成度には舌を巻いたし、ものすごいスクリーン数で公開されていたことを考えても、興行収入は記録的なものになるだろうという印象を持った。周囲に聞くと人によっては「難しい」という声もあったのだけど、公開直後から良質なレビューブログもたくさん書かれていたので、以前のような考察を書くほどでもないかなと思っていた。 ただ、少し時間がたってあらためて振り返ってみると、自分の気になっていた点について論じている人があまりいなかったことや、それが自分自身の考えてきたこととシンクロする論点であることにも気づいてきて、それならば、と少し書いてみることにした。以下では作品へのネタバレを含むものの、作品そのものへの批評や感想ではな
調べてみたら2014年以来8年ぶりだった、サマーソニック2022。普段は音源で「聴くだけ」の海外アーティストが多数来日ということもあって、これは行くしかないと意気込んで参戦。お目当てのステージを何度も行き来するハードなタイムテーブルだったけど、ものすごく満足できる内容だった。 この8年、またはコロナ前と比較して大きく変化したこととして、エンターテイメントと政治的なものの関係がある。アーティストたちはステージで、SNSで、自分たちの政治的なスタンスを表明するようになった。社会全体としても、価値観をめぐる議論が沸き起こることが多くなった。 今年のステージでは、リナ・サワヤマが自身の曲を紹介するMCでLGBTQの権利に言及。日本がG7の中で唯一、同性婚を認めていないこと、セクシャル・マイノリティをからかうようなジョークを言わないこと、自分たちと一緒に戦ってほしいということを訴えていた。続いて登場
社会調査や世論調査をめぐる、ひとつの興味深い議論がある。 それは、「誰も聞く相手のいない状態で表明された意見を、どう考えるか」というものだ。 僕たちはたいてい、何かの意見を表明するときに、どんな相手が聞いているのかを意識する。不特定多数に聞かれる場面では、できるだけ主張をマイルドにしたり、批判されそうな意見を言わないようにしたりする。逆に、自分と同じような立場、同じような意見をもつ人ばかりだと思える場面では、他の場面より強くそのことを主張するかもしれない。つまり、相手が誰であるかによって、僕たちの言うことは変わる。 さらに、その意見は自分と相手との関係や、自分の信念の強さや態度の明確さにも関係する。上司から「最近の新入社員は心が弱いよな」と言われたときに、部下が「ほんとにそうですよね」と同意したとしても、それは相手が上司であり、自分には新入社員についての強い意見がないことの現れかもしれない
もしかしたら、あれが生涯で最後の瞬間だったのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。コロナで途絶えてしまった飲み会やイベント。誰かと話をしたこと。悔しくて涙が止まらなかったこと。自分は無敵だと思えた瞬間。あれもれこも、あのときが最後だったのかもしれないと。 懐かしいとか戻りたいとか、そういうことじゃない。すべてのものはいつかなくなってしまう。だからこそ、愛おしいとか美しいと思えたその瞬間を、永遠に記憶していられるくらいのつもりで全力で生きようと思っている。ただそれでも、あの瞬間はもう来ないのだという事実は、時間の流れの前に抗うことができる人間はいないという真理は、やっぱり体のあちこちを軋ませる。ちゃんと、明日死んでもいいと思えるくらいの今日を生きられているだろうか? 先日、沖縄に行く機会があって、いくつか戦跡をめぐった。おとなになってからそうした場所を真剣に見て回るのが初めてだったのですご
人から奪った時間は高く売れる。民放テレビ局の平均年収が異常に高い、あるいは一部のYoutuberの年収がトンデモないことになっているのはそういうことです。奪われた側はどうなるかというと見ての通りです。ホッブズ的に言えば現在の様相は「万人による万人の時間の奪い合い」です。 — 山口周 (@shu_yamaguchi) April 9, 2022 あとに続く議論も含めて考えると、じっくりと考えるべき論点はたくさんある。一方で、「人から奪った時間は高く売れる」という最初に提示された命題は、それ単体で検討するに値するものだとも思う。僕自身、時間と消費の関係についての著作があるくらいなので、せっかくだから思いついたことをいくつか書き連ねてみたい。 時間を奪うということ まず、命題を要素に分解しよう。この命題は「人から奪った時間」が主語になり、それが「高く」「売れる」という修飾語、述語につながっている
学者が論文を書くときのプロセスにはいくつかのパターンがある。先行研究を広く批判的に読み込んだ上でリサーチ・クエスチョンを立てるというのが正統派のやり方だと思うのだけど、僕が好きなのは、先行研究と最新の事例や現象を組み合わせて、既存の枠組みをアップデートするような研究だ。なので、書いたときにはまだはっきりしなかったけれど、あとになって振り返ったときに、この指摘はいまのこれを示しているのではないか、と思えてくることがある。 たとえば『ウェブ社会のゆくえ』(2013)は、後にポケモンGOが登場した際、現実空間と情報空間の関係を表す理論枠組みとしてたびたび言及されたし、社会学の教科書で書いた「グローバリゼーション」(2017)は、執筆時点でまだ起きていなかったトランプ現象やブレグジットの背景とされた、格差が生み出すグローバリゼーションへの反発を主題としていた。書いた方は、あまり自分の論考を振り返る
2022年2月に発生したロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、国際関係論、あるいはグローバリゼーション論の観点から、非常に多くのユニークな要素を持っている。現在までのところ情勢は不安定であるだけでなく、侵攻したことそのものだけでなく、様々な点で専門家の予想を裏切る事態が起きていて、起きていることを意味づけたり、今後を予測したりするのは容易ではない。しかしながら、そうした「予想外」も含めて、現段階で言えること、考えられることを残しておいて、状況の変化を見極めることも重要だろう。というわけでこのエントリでは、ここまでの流れで見えてきている、今回の出来事のユニークな点を挙げておきたい。 (1)はじまりも終わりも不合理な戦争 まず国際関係論の専門家を困惑させ続けているのは、今回の軍事侵攻がどう見ても不合理である点だ。ロシアの思惑は、どうやら電撃作戦によってキーウ(キエフ)を陥落させ、ウクライナに傀
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