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shinichiroinaba.hatenablog.com
https://bbarchive240815a.peatix.com/ 当日語り切れなかった部分を含めて資料を公開する。 宇宙・動物・資本主義 作者:稲葉振一郎 晶文社 Amazon *自己紹介 稲葉振一郎 明治学院大学社会学部教授 専攻はとりあえず社会哲学 英語の学術論文は宇宙倫理学に集中している。 日本語ではAI倫理学関連の論文もある。 社会学史、経済学史、政治哲学、およそ思いついたことは何でも書いてみる人生。 0.コメントへの回答と反問 *本書は総じて深層学習以前のAI像にとどまっており、それゆえの限界があるので、歴史的コンテキストを振り返ると、 ・機械学習以前のAI・ロボット像=人工生命・人造人間 理想的極限においては自律的エージェントとなる。 哲学の主題としてのAI・ロボット:「どのような機械であればそれを自立した知性と呼びうるか?」という思考実験の課題(その系論としてのAI・
新刊の続きとして 市民社会論の再生: ポスト戦後日本の労働・教育研究 作者:稲葉 振一郎 春秋社 Amazon =================== 1990年代の劈頭を飾った東京大学社会科学研究所の全体研究は『現代日本社会』(報告書は東京大学出版会刊)であり、第一巻の序論に明示されるように、その主導アイディアは当時の現代日本を「会社主義」というキーワードで形容するものであった。このキーコンセプトとしての「会社主義」は基本的に宇野派のマルクス経済学者馬場宏二と、民主科学者協会法律部会の憲法学者渡辺治の合作である。 馬場宏二の「会社主義」概念は、彼と盟友であった財政学者加藤榮一が、師たる大内力の国家独占資本主義論を踏まえてともどもに形成しつつあった現代資本主義論を、主として労働経済学者小池和男の日本的労使関係論と、弟子の橋本寿朗の日本重化学工業論を念頭に置きつつ適用したものである。それは2
マッカスキルを読んで面白いと思ったのは、長期主義は新しいタイプの終末論というか、歴史目的論だなというところ。コジェーヴを引き継いだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論なんかもあるし、そうするとそれらを踏まえた東浩紀の動物化論も終末論と言えるのかもしれないが、分析的伝統に立った哲学的倫理学においてこういう形で歴史哲学の復権が起こるとすると面白い。 もちろん終末論といってよいかどうかはわからないが人類絶滅の可能性、存亡リスクについてはかねてからボストロムが論じてきたところではあり、その背景には当然終末論法、そして人間原理の宇宙論がある。ただボストロム自身は存亡リスクを深刻に受け止めている一方で終末論法自体は受容していなかったのではないか。 人間原理は(語弊のある言い方をすれば)この現時点における人類文明を(人によってはその一員である論者自身の実存を)開闢いらいの全宇宙史の帰結として位置づけ
王寺賢太『消え去る立法者』はディドロ研究者として世界の最前線を担う著者がディドロについて論じるための前振りとしてモンテスキュー、ルソーに遡ったもので、同じ主題を継承してディドロを論じる続篇が予告はされているものの、その概略は終章に提示されている。 また同時にこの本は柄谷行人の薫陶を受けた季節外れのアルチュセール主義者の元左翼青年の初の単著であり、そう考えるとアルチュセールの処女作たるモンテスキュー論と、ルソー、マルクスについての講演を収めた日本オリジナルの一冊『政治と歴史』の反復ともいえる。すなわち王寺もまたアルチュセール同様にモンテスキューの功績を「科学の対象としての歴史」の発見者、近代自然法学における自然状態とそこでの社会契約というアイディアを「回顧的錯覚」と批判しつつ、そうした正当化の操作を受け付けずまた必要ともしない水準の(のちのデュルケーム的に言えば)社会的事実を見出したことに求
2023年5月30日(火) 21:56 稲葉振一郎 木庭先生 ざっと拝読しましたが、やや気になるところがございます。 資本主義の本義は資産の商品化、市場化というところにあり、なおかつそれが過度の投機化によって消耗されることなく守られ、資産のゴーイング・コンサーン・バリューが守られるというところにあると思われます。そのため資産は丸ごと売買されるのではなくlocatio conductioを経由する必要があり、占有が保護されねばならない。 ただ近代資本主義においては同時に、たえざる技術革新が求められるため、守られるべきゴーイング・コンサーン・バリューがその内実においては柔軟に変転する――にもかかわらず占有自体のアイデンティティが保証される――という離れ業が必要になるかと思います。占有の安定と市場における競争のバランスを保つことの困難が資本主義の困難であり、ここに失敗すると市民社会が荒廃します。
もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内ク
大昔に河出の『文藝』のアンケートに答えたことが触れられていた 「もっと明瞭な殺人否定論はないのですか?」 「たしか、いなば先生 @shinichiroinaba が大昔に少年向けに書いたものがあって、まず君には、殺されたくない大事な人たちがいる。ところで他の人たちも、同様の人たちを抱えている。だから人を殺してはいけない。記憶が朧げですが、かなり簡明です」 — 遠藤 with another view (@endoucom) 2023年2月15日 ので少し追記する。 「殺してはいけない」というルールは見ればわかる通りネガティヴな禁止の形をとっている。強い道徳的義務、いわゆる完全義務の多くはこのように「なになにしてはいけない」という形をとり、「なになにすべきだ(しなければならない)」というポジティヴな形をとらない。ポジティヴな義務は多くの場合「なになにしたほうがよい」という推奨の形をとる。そう
朝日新聞の連載企画を基に先般刊行された朝日新聞社編『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』(徳間書店)に寄稿した拙文(インタビューのフォーマットに合わせて編集者に合いの手を入れてもらった以外は当方の書下ろしである)は、紙面でもまた単行本でも大幅に縮減されたものである。徳間書店のご厚意によってここに原型を復元し公開する。 =================== ――研究者としての著書も多数あるなかで、稲葉さんの最初の著書は『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』(1996年刊、2019年に増補版を刊行)です。稲葉さんは、今この作品をどう評価しますか。 宮崎駿のまんが『風の谷のナウシカ』はすでに古典になっています。古典になっている、ということの意味は色々ありますが、ひとつには後進にとっての模範、ベンチマークを提供している、というところです。これについては後に詳しく述べましょう。もうひとつは、もう
拙著『21世紀の資本主義の哲学』ではマルクス、シュンペーター、コルナイの系譜を重視して資本主義の(社会主義その他集権的経済と対比したときの)眼目を「イノヴェーションを伴う/誘発する市場経済」とした。市場で競争する企業はただ単に相場(競争的価格水準等)に追随するだけではなく、相場を脱して一時でも独占的地位を享受するために革新に駆り立てられ、そうした志向は時に独占を長期化させて市場における競争をゆがめてしまう危険がある。さりとてそうした独占志向を過度に抑え込もうとすれば革新は停滞してしまう。 またそのような革新のために必要な前提条件は競争的市場だけではない。所有権の安定もまた重要である。所有権の安定は取引の自由の前提条件だが、取引の自由とは取引する自由と取引しない自由の両方を含む。 (個人であれ組織であれ)企業が必要な資源を調達する方法は、市場などを通じて外部からの取引で入手するか、あるいは自
田島正樹先生の『文学部という冒険』、掉尾を飾る大童澄瞳『映像研には手を出すな!』批評は見事だが、その伏線としてのカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』読解にはやや首をひねる。いやたしかにこの作品のいかがわしさの核心部分に触れてはいるが、肝心なところで外しているように思われる。しかし着眼はたしかに圧倒的に優れている。 『わたしを離さないで』のいかがわしさの一端はSFのフェイクであるところ、SF的意匠を単なる寓話として用いていて、真剣なSFではないところに由来する。あれを真剣なSFとして読むなら、主人公たちが置かれた不条理な状況への告発が作品の主題ということになり、物語の動力はその構造への主人公たちの反逆か、あるいは悲劇的な挫折かということになる。しかしそんな風にはあの作品は読めない。 トリヴィアルなところでしか現実世界と変わらない世界を舞台とする普通のリアリズム小説とは異なり、SFはシステマ
今日びの動向を見ながら近刊予告 - shinichiroinaba's blogへの補足を試みる。 ==================== 『社会倫理学講義』で戦争倫理学についても少しだけ論じたが、そこではあまりはっきりと立場を打ち出せなかったので、このウクライナ戦争を前にもう少しはっきりさせようと思う。 そこで我々はリベラリズムの政治哲学と矛盾しないリベラルな戦争観とでも言うべきものをおずおずとながら提示した。その要点は結局のところ「戦争と平和の区別をはっきりつける」とでも言うべきものだったかと思う。戦争そのものを悪として否定し、なくすべきだという議論は提示しなかった。実際問題としてときに暴力は噴出し、暴力を用いた紛争は現実に起きてしまうものなので、いかにそれを抑え込み、管理するかという方向で議論を進めた。戦争を絶対に否定すると、実際に起きてしまった戦争を前にそれをあたかも絶対悪である
メモ:フィクションの中の感染症 稲葉振一郎(明治学院大学) ・そもそも近代フィクションの起点には感染症がある――ボッカッチョ『デカメロン』 14世紀ペストから疎開(自己隔離)した人々が無聊を慰めるための語り、という形式 ・他に文学史上著名なペスト文学はウィリアム・(18世紀)、アルベール・カミュ『ペスト』(20世紀) ・パンデミックや急性・劇性感染症ではないが、結核やらい病も感染症であり、結核文学・ハンセン氏病文学は日本近代文学史上固有の意義を持つ。 ・80年代以降のHIV文学もやや類似した展開を示す。 ・コレラやインフルエンザ(スペイン風邪)の影が落ちた作品も多い。実は近代文学総体に感染症はメインテーマではなくとも挿話として相応の存在感を持っているとさえいえる。 ・「極限状況」「不条理な運命」の体現としての感染症 ・特にブラム・ストーカー『ドラキュラ』以降のジャンルとして確立した吸血鬼も
関東社会学会:年次大会---第67回大会(報告要旨・報告概要:テーマ部会B) *当日コメント ・拙著『「新自由主義」の妖怪』(稲葉[2018])を踏まえていただいて大変光栄であるが『政治の理論』(稲葉[2017])を踏まえていただかないと実はコンテクストが十分にはわからないはず。 ・古いマルクス主義の発展段階論の構図を前提にすれば「新自由主義」概念は一見わかりやすい。すなわち、後期資本主義=国家独占資本主義が行き詰まり、支配階級たる資本家は体制維持のために小さな政府、規制緩和に逆行しようとする。つまりはファシズム同様の反動、資本主義の断末摩である、と。 この理解の欠点――いつまでも「断末摩」が続く万年危機論。しかも社会主義の崩壊後もまだやっている。国家独占資本主義がそもそも資本主義の断末摩で、その後社会主義に移行するはずではなかったか。「新自由主義=ポスト国家独占資本主義」とかお前ら真面目
『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公碇シンジは内向的で自罰的なヘタレ、ということになっているが、それは本当のことなのか、という疑問はかねてから提起されていた。実際には内向的で自罰的なヘタレは彼の父碇ゲンドウの方であり、権力によってそうした弱さを鎧った父によって一方的に翻弄され虐待される子どもがシンジなのだ、と。実際、料理を含め家事全般をそつなくこなすシンジは、養育者によってかなりよくしつけられており、むしろできすぎた子どもでさえある。彼は周囲から、とりわけ父(の意を汲む組織から)「内向的で自罰的なヘタレ」と決めつけられた上であしらわれ、そこからの脱却という形での成長を促される。それを内面化して引き受けるための自己呪縛が例の「逃げちゃダメだ」なのだ。 ゲンドウがやろうとしていたことが失われた伴侶ユイを取り戻すことでしかなく、そのために全人類を巻き込む陰謀を巡らしていたこと、そのために息子シンジ
理工系学生のための現代倫理学入門のこころみ (2021年2月12日 高知工科大学講義「日本人の教養」用原稿) 稲葉振一郎(明治学院大学) 1.長めの導入 文系科目――人文科学とは? 高校科目の「倫理」は大体道徳を中心とした日本思想史、東洋思想史、西洋思想史をざっと眺めたうえで、現代哲学を道徳哲学=倫理学中心に瞥見し、それにプラスして青年心理学をちょこっと、という変な構成になっている。こんな風になったのにはそれなりに理由があるのだが、それには触れない。 高校時代の地歴公民――昔の社会科というのは変な構成になっている。高校数学は大学以降の数学の準備であり、高校理科の物理・化学・生物もおおむね大学以降の物理学・化学・生物学の準備段階である。しかし高校地歴公民は? 地歴から行こう。世界史・日本史は一応大学以降の歴史学の準備になっていなくもない。しかし地理は大学の学問としての地理学への準備というわけ
来年度新学期に合わせて刊行予定の書下ろし教科書『社会倫理学講義(仮)』(有斐閣)より初校段階で挿入した戦争論についての節を先行公開します。 =================== 第9回 政治哲学 補足 5 現代戦争論 政治哲学を論じたついでに、現代の倫理学・政治哲学においては戦争、武力行使はどのように論じられうるか、考えてみよう。 ・無差別戦争観から戦争違法化論へ リベラリズムの政治哲学を前提とした場合には、先にグローバルガバナンス論においてもカント的な独立国家の世界連邦構想と、リベラルな世界帝国構想とでもいうべき両極が考えられるとしたが、そこでの戦争論においても必ずしもこの両極にきれいに対応するわけではないが、やはり一見互いに対極的な二つの戦争観を導き出すことができる、と私は考える。 ひとつは、これはもう過去のものとなった無差別戦争観であり、近代主権国家は原則的には自由に戦争を行う権利
2年前に某企画から依頼があって書いたっきり放っておかれて塩漬けになっている原稿をこの際だからお蔵出しします。もし本が出る予定が具体的になったらひっこめるでしょう。 ================================ 上野千鶴子さんの「マルクス主義フェミニズム」に対して読者はいろいろな疑問を持つでしょうが、上野さんのお仕事全体を見通したとき特に重大な疑問となるのは「上野フェミニズムにとってマルクス主義は本当に必要か?」「上野フェミニズムの全体系の中でマルクス主義は整合的に位置づいているのか?」「そもそも上野フェミニズムにとってマルクス主義とは何か?」でしょう。 上野さんは『家父長制と資本制』において「なぜマルクス主義フェミニズムであってリベラルフェミニズムではないのか?」と自問し、「リベラルフェミニズムは解放の思想ではあってもそこには解放の理論はない」と答えます。つまるところリ
実際のトークではとてもではないがこの半分も話せてはいません。 ============ 2020年1月31日 『ナウシカ解読増補版』刊行記念トークセッションのためのメモ 稲葉振一郎 1.山川賢一のプロジェクト: ピンカー、デネット、ドーキンス的な現代啓蒙(無神論)の立場からポストモダン左派(「啓蒙の弁証法」的ニヒリズム)を批判している。 しかしその単なる反転(例えば「暗黒啓蒙」)に行かないためにはどうすればよいのか? ex.ドーキンスの宗教否定は裏返しのファナティシズムの危険 単なる現世否定と破滅志向は革命志向や過激な進歩主義の裏返しにしか過ぎない。問題はギアをニュートラルにすること。しかしこれが難しい。 ex.ナウシカのやったことは、ただ未来を餌に人類を管理する権力を拒絶したこと、人類を滅ぼそうとしたわけではない――しかし結果的に、副次的効果として、人類滅亡の可能性を高めた? 私見では「
おかげさまで拙著『銀河帝国は必要か?』と『AI時代の労働の哲学』はご好評をいただいているが、前者に対して時々「えっそこ?」と言いたくなるご不満をたまに見かける。すなわち「これってネタバレじゃない?」という。これには正直意表を突かれた。 そもそも文芸批評、作品批評に対してネタバレもくそもないだろう、とまずは思ったのだが、それも批評のタイプによる。本格的な学術的論考や評論の場合ならともかく、新聞など一般媒体での書評は基本的には紹介のためにあるのだから、未来の読者の興を殺ぐようなことをしてはならない。というわけで「ネタバレダメ、絶対」というのはわかる。また本格的な評論においても、たとえば大著『北米探偵小説論』で野崎六助氏は、少なくともいわゆるパズラー、本格推理小説については厳格にネタバレ、具体的には真犯人やその動機、犯行方法と言った謎の核心に触れることを避けていた――それでも、メタミステリ、推理
木庭顕先生の「日本国憲法9条の知的基礎」(『法学セミナー』2019年8月号)を読んでの吉良貴之氏のブログエントリを受けてのツイッターでのやり取り、とりわけ私のスレッドに対して、木庭顕先生よりメールでコメントをいただいたので、行分け等修正したうえで転載する。転載の許可はいただいている。 非軍事化の達成、集団の実力の克服、のために、軍事化のメカニズムである、「半族」を利用したInitiationがかかわっているというのは、ギリシャ史学では、Vidal-Naquetの有名な研究があり、それによると、しかしこの軍事化メカニズムを掘り起こしかつ徹底的に神話化儀礼化する加工にポイントがあります。 これは私の見解ですが、この点ローマに関してBruniも気づいていました。 これがどこに来るかと言えば、政治的人文主義ないし共和主義の文脈で(アメリカで)市民軍が礼賛されることがあるが、それはリアルと儀礼を混同
木庭顕が協力した朝日の記事に対して一部から「今更のヨーロッパ中心史観」「中世・イスラーム無視」とか頓珍漢な噴き上がりがあったようだ。後者については「紙面が限られていることを無視したないものねだり」ですませてもよいし、そもそもイスラームが古典期ギリシア・ローマの継承者であり、後期中世と人文主義における古典受容がそれを経由していることなど別に言うまでもない前提だろうと茶々を入れてもよいのだが、前者についてはそうもいかない。 ここではっきり言っておくと、木庭史観は当然ながらものすごい「西洋中心主義」である。ただしそこでいう「西洋」とは「古典期ギリシア・ローマの継承」くらいの意味である。そのように考えたとき、日本人は当然のこととして西欧人もまた「西洋によって知的に植民地化され教化された蛮族」に他ならない。「政治とは何か、法とは何か」を絶えず問い返しつつ実践することなしには、誰も「西洋の正統なる継承
社会学入門・中級編 作者: 稲葉振一郎 出版社/メーカー: 有斐閣 発売日: 2019/04/24 メディア: 単行本(ソフトカバー) この商品を含むブログを見る 社会学入門・中級編 [ 稲葉 振一郎 ] ジャンル: 本・雑誌・コミック > 人文・地歴・哲学・社会 > その他ショップ: 楽天ブックス価格: 2,052円 社会学入門・中級編 / 稲葉振一郎 【本】 ジャンル: 本・雑誌・コミック > 人文・地歴・哲学・社会 > 社会 > その他ショップ: HMV&BOOKS online 1号店価格: 2,052円 ===================== 本書は『社会学入門・中級編』という微妙なタイトルをつけておりますが、これには理由があります。 私は十年ほど前に『社会学入門』(NHK出版)(稲葉[2009])という本を出しました。これは基本的には理論に焦点を当てた本ですが、その冒頭に「
shinichiroinaba.hatenablog.com の続きとして。 『社会学はどこから来てどこへ行くのか』は「「社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージを派手にやっているという変な本」である、と先に述べた。「地味なことが大事だ」と主張する派手な本、というのは要するに言行不一致の恐れがあるわけで、その分隙があれば責められるのは仕方がない。その辺を考えたうえで、本書の背景というかコンテクストについて、個人的な感想を述べておこう。 『どこどこ』は基本的には岸と北田のイチャイチャ本であり、筒井と稲葉はゲストという以上のものではない(にもかかわらず応分の印税をいただいていることには感謝の言葉もない)のだが、そのことによって本書についての責任をまぬかれようというわけではもちろんない。というのは、本書に至る二人の議論の形成において拙著『社会学入門』もそれなりの影響を与えてい
岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という本は日本の社会学の現状についてのよもやま話であり、「社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージを派手にやっているという変な本ですが、その背景について少し考えてみましょう。 ひとつにはこれが著者たちをデフォルメしたファンシーなイラストを表紙にしたうえに、缶バッジなどのノベルティまで展開する下品な販促を仕掛けている、という事実の含意です。本書の版元である有斐閣は元来、法律書を中心に人文社会科学の学術書を手広く展開する老舗出版社であり、ひどくお堅いイメージがありますが、近年では重心が法律書、学術書からより広い分野の教科書、入門書へとシフトし、合わせて全体としてライト化、ポップ化の印象があります。よく知られているところでは西洋貴族の紋章風の、獅子と鷲をあしらった社章を「シッシーとワッシー」とゆるキャ
現代社会においては「公的/私的」の区別には幾通りかあり、混乱のもとである。 ひとつに、先に指摘したような、国家など公的権力、政府の領分と、民間の市民社会の領分との区別。 いまひとつは、国家も市民社会もひっくるめた開かれた領域と、秘め隠されうる私的な領域との区別。この場合民間の団体も公的でありうる。すなわち、私的な友人間でのやり取りではなく、表通りに店を出して取引をする場合、私的な営利目的であろうとそこは公的な領域である。 「レンブラントでダーツ遊び」問題はこの観点から意味づけることができる。芸術作品の多くは私的に所有・占有されているし、営利目的で取引されているが、それを権利者が自由に処分すること、とりわけ消費して消耗してしまうことに対しては、強い批判が向けられるのは、この所以である。公的な価値を認められた芸術作品(そして自然の土地など)の所有者が、その管理責任をしばしば公的に負わされる理由
『エドワード・ルトワックの戦略論』を読んでいて開巻早々に驚くべき記述に出くわす。 ここで私が展開する主張は、さまざまな逆説的命題や露骨な矛盾を抱えていても、戦略は必然的に妥当な考えを伴うということではない。むしろ、戦略の全領域が逆説的論理に満ちている、というものである。それは、生活の他の全領域で適用される通常の「直線的」論理とはまったく異なるものだ。生産と消費、商業と文化、社会・家族関係と合意に基づく政治であれば紛争は存在しないか、あるいはそれらの諸目的に付随するにすぎない**。その場合、闘争や競争は、常識に基づく法や慣習といった矛盾のない直線的論理に基づくルールによって抑制される。しかし、戦略の領域では、人間関係が、実際の、あるいは起こり得る武力紛争によって左右される。そこでは、まったく異なる別の論理が働き、反対の一致や逆転を促すことによって通常の直線的論理に常に背くことになる。したがっ
細かい解説は抜きです。 ========= 「イエスの福音が届かなかったとしたら?」という恐れにはどのような意味があるのだろうか? もちろんここで問題は「イエス」でなくてもよいのだが、それでもイエスにはある種の特権性がある。「普遍性を僭称する特殊な教説」としての〈キリスト教〉の特殊性がまさに神(普遍性)にして人(特殊性、個別性)であるイエスに集約されているからだ。 イエスの福音は幸運にも私のところまで届いた。素朴な信仰の立場はこの事実を以てイエスの福音の普遍性やら必然性やらを信じるし、そのことによって現在の自分の存在の必然性を信じ肯定する。しかしながらもう少し真面目に考えると、イエスの福音が私のところにまで届いたこと自体が単なる偶然の所産であり、そんなことは起きなかったかもしれない。イエスの福音は私の時代まで生き延びながら私はそれとすれ違ってしまったかもしれないし、私の時代に到達する前に滅
朝日カルチャーセンター20180521.pdf
専制国家史論 (ちくま学芸文庫) 作者: 足立啓二出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2018/02/07メディア: 文庫この商品を含むブログ (4件) を見る 必読書につき。
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