近刊予告
来年度新学期に合わせて刊行予定の書下ろし教科書『社会倫理学講義(仮)』(有斐閣)より初校段階で挿入した戦争論についての節を先行公開します。
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第9回 政治哲学 補足
5 現代戦争論
政治哲学を論じたついでに、現代の倫理学・政治哲学においては戦争、武力行使はどのように論じられうるか、考えてみよう。
・無差別戦争観から戦争違法化論へ
リベラリズムの政治哲学を前提とした場合には、先にグローバルガバナンス論においてもカント的な独立国家の世界連邦構想と、リベラルな世界帝国構想とでもいうべき両極が考えられるとしたが、そこでの戦争論においても必ずしもこの両極にきれいに対応するわけではないが、やはり一見互いに対極的な二つの戦争観を導き出すことができる、と私は考える。
ひとつは、これはもう過去のものとなった無差別戦争観であり、近代主権国家は原則的には自由に戦争を行う権利があり、戦争状態に入った交戦国は国際法の下では平等に扱われ、どちらが正しいとか間違っているとかいった差別はつけられない、とするものである。どうしてこれが「リベラル」と言いうるかと言えば、第一に戦争の主体としての諸国家が権利上平等に、無差別に扱われているからであり、第二に、いわばその前提として、正当な暴力行使としての戦争の権利が主権国家のみに認められ、それ以外のいかなる主体にも、いかなる団体、そしていかなる個人にも認められてはいない、ということである。この無差別戦争観は、いわゆるウェストファリア体制以降、近代主権国家を主体とする国際秩序の確立に合わせて成立し、キリスト教ヨーロッパ世界において伝統的だった差別戦争観、正戦論――正当な戦争と不当な戦争の区別というものが存在する、という考え方にとって代わっていった、とされる。そして第三に、上記の第二の論点の系論とも言えるが、戦争に際して正当な武力行使の対象となりうるのは原則的には国家の機関として武力を行使する個人/組織、つまりは軍――軍人と軍事施設のみである、という軍民の区別(民間人は非武装で武力行使の主体ではないから、武力行使の対象とされるべきでなない)。
それに対して20世紀以降、象徴的に論及されるのはハーグ陸戦協定であり、また考えようによっては日本国憲法の第九条にも通底している現代の戦争観、戦争規範はおおざっぱに言えば戦争違法化論である。これは、原則的に戦争は国際法上の違法行為であり、このような違法な戦争に対する自衛権の行使、そして議論の余地はあるが、このような自衛権の行使に対する国家間同盟による支援としての集団安全保障の枠組みによる武力行使が、例外的に正当化される、という考え方である。初期近代における無差別戦争観とは一見大いに異なっており、ある意味で自衛戦争を正当化するという意味では新たな正戦論であるという解釈の余地もあるが、これもまた基本的にはリベラルな政治哲学の枠内にあると言いうるというのは、やはり先と同様、ここでの諸国家は平等に扱われ、かつ国家のみが正当に暴力を行使しうる主体であり、かつ文民は武力行使の対象とされてはならない、とされているからである。
カント的な世界連邦構想というものは、無差別戦争観が支配する世界から出発して、諸国家が合理的な主体であれば、戦争違法化論にたどり着き、それを実効化する枠組みとしての世界連邦の結成にたどり着くはずだ、という考え方に則っていると言える。カントは各国家が共和政、民主主義を採用することによって国家はこのような合理性に到達する、と考えた。これは単純な性善説ではなく、大局的に見れば戦争は国民に不利益をもたらす現象であり、国家が民意を反映するようになれば、戦争に訴える確率は下がる、という推論に立脚していた。このようなカントの考え方の現代的な継承者が、現代国際政治学におけるいわゆるデモクラティック・ピース(民主的平和)論であり、統計的に民主国家間の戦争の頻度は、それ以外のケース(民主国家対非民主国家、あるいは非民主国家同士の戦争)に比べて有意に低い、と主張する。これについては、民主国家の好戦性が低いわけでは必ずしもない、との批判もあり、より正確に言えば豊かな民主国家同士の「リベラル・デモクラティック・ピース」論である、とも言われている。
またこのような展開を促したのは20世紀、ことに第一次世界大戦以降の戦争の「総力戦」化である。動力革命以前の戦争は季節的現象であり、「三十年戦争」「百年戦争」といった長期に渡る戦争においても戦闘自体は間歇的で、人や馬匹の糧食が尽きる冬場には自然休戦となるのが普通だったし、陸上での兵員の移動速度は徒歩のそれを超えることもなく、作戦範囲はそれに拘束された。しかし蒸気機関以降の軍艦、兵員を大量輸送する鉄道の出現によって、南北戦争、クリミア戦争あたりから戦争の様相は様変わりしてきた。そして第一次大戦には内燃機関を備えた戦闘車両、なかんずく戦車、そして航空機が出現し、兵員が携行する小火器にも機関銃という桁外れの殺傷力と引き換えに膨大な弾薬を消費するものが現れる。このような軍備の機械化の進行は、自然休戦をなくし、戦闘自体を長期化させ、さらに燃料・弾薬を大量消費するために戦争の遂行を備蓄のみで行うことを不可能とし、後方の市民社会での文民の生産活動をも、戦争遂行のために統制し、動員する必要が生じた。それゆえに戦闘においても、軍のみならず後方の文民が担う生産拠点を攻撃対象とすることが合理的となり、折からの航空機の実用化とともに「戦略爆撃」という仕組みが導入された。かくして20世紀の総力戦は、先の第三点、軍民の区別、戦場と後方の区別を無意味化していく。このような状況もまた、リベラルな政治哲学が戦争違法化論に傾くのを後押ししたと言えよう。
・「非対称戦争」
しかしながらこのような現代的な戦争違法化論、それが克服したはずの無差別戦争観を共に根拠づけているリベラルな「国家のみが正当な暴力行使(戦争行為)の主体である」という前提を揺るがす動きが、20世紀末以降顕著となってきている。
第一に、20世紀末以降、ことに冷戦終焉後の国際社会においては、典型的な戦争、武力紛争の形態は、国家間の戦争――かつての無差別戦争観においては正当、とは言わないまでも合法であったし、戦争違法化論においても、国家による自衛権の行使は合法でありえたし、何より合法か否か、正当化否かは別として「典型」とされていた国家間の武力衝突ではなく、国家以外の主体による武力行使、非国家組織間の武力衝突、そして非国家組織とその活動地域の主権を主張する国家、更には諸国家からなる国際組織の衝突であった。
古典的な枠組みで言えば、これは主権(無差別戦争観においてはそこに交戦権が含まれ、戦争違法化論の下でも自衛権が含まれる)を備えた国家以外の主体による暴力、武力行使であるから、国際法よりその地域を管轄する主権国家の国内法レベルの不法行為、犯罪を構成するものである。古典的にはテロリズムと呼ばれるが、それは軍事というよりも警察、国内治安の問題であったはずだった。しかし現実問題として冷戦の終焉後、主として国家主権が不安定な途上国地域において、警察レベルでは対応できない武力紛争が多発し、更にはその影響は先進諸国にも波及するようになった。象徴的であったのは2001年9月11日のアメリカ合衆国に対するイスラム武装勢力アル=カイーダによる大規模テロ行為であり、単純に考えればいかに大規模ではあれ「犯罪」に過ぎなかった事件が、テロ主体を組織的にバックアップしていると目された国家に対する、アメリカを中心とする同盟による戦争を帰結することになってしまった。
このような、冷戦後に顕著となった、国家間戦争以外の武力紛争をしばしば「低強度紛争Low Intensity Conflict」「非対称戦争」と呼ぶが、「テロとの戦い」を典型とするこのタイプの「新しい戦争」の意義は決して小さくない。それは多くの場合、主権国家がうまく機能せず、管轄地域内での武力を独占できず、法執行ができない「破綻国家」において国家と非政府武装勢力、あるいは武装勢力同士の衝突となって現れるが、それは国内レベルでは合法的な戦争と非合法の犯罪、テロリズムとの境界線自体を揺るがし、更にしばしば国境を超えて展開することによって、一国レベルではなく国際秩序そのものへの挑戦ともなっている。911後のアメリカ主導の「テロとの戦い」はそれへの過剰反応とも言えよう。それだけではない。こうした低強度紛争が、主権が安定した先進諸国や全体としての国際社会にとっての直接の脅威とはならない場合でも、これを単なる「犯罪」「国内問題」として、伝統的な主権の尊重、内政不干渉の原則に則って、発生地域を管轄する国家にそれへの対処を委ねていてはならない、という発想が強まっている。すなわち「人道的介入」である。単に貧困であるのみならず破綻国家のもとにある(そもそも国家破綻が貧困の最大の原因であることが通例である)地域の民衆に対する援助は、武力行使を担保した形でしか行えず、管轄する国家が地域の暴力を制圧できない場合には、外部からの援助主体がその任を代替するべきである、というわけだ。この発想はリベラルな世界帝国という理念からの自然の帰結であるが、実は「テロとの戦い」との距離はそう遠くはない。「低強度紛争」「テロとの戦い」「人道的介入」の世界においては、リベラルな政治哲学が前提としていたはずの、「戦争主体の国家への限定」「軍民の区別」「戦場と市民社会の区別」が揺るがされていくからだ。これをリベラリズムのもとに抑え込むには、リベラルな世界帝国の樹立によって、あらゆる武力行使を違法行為、犯罪か世界政府によるその鎮圧か、のどちらかに区分する以外にはないように思われる。
・ハイブリッド戦争
しかし21世紀の現在、戦争を巡る状況は新たな局面に突入しつつある。すなわち、「ハイブリッド戦争Hybrid War」である。上述の低強度紛争を焦点とする議論においては、「戦争主体の国家への限定」「軍民の区別」「戦場と市民社会の区別」を崩していく主体はテロリストと呼ばれる側、非国家的勢力の側であり、主権国家とそれらが主体の国際社会の方は、これらの区別、リベラルな前提を保守する側に回るものとして図式化されていた。しかしながら2014年のクリミア危機、ロシアによるクリミアの併合は、れっきとした主権国家、国連安全保障理事会理事国たるロシアによって、この区別が大胆に蹂躙された。主権国家が、公然たる正規軍のみならず、秘密裏に援助した非正規非公然の武装勢力をも動員し、サイバー攻撃も併用して目標の軍事インフラを無力化、地域を孤立させた。そして文民の政治家・官僚や民間の経済主体にも働き掛け、更にはマスメディアやインターネットをも駆使した情報操作を内外に展開して、決して破綻国家ではなかった他国の管轄下の地域を、住民投票を経て「平和的」「合法的」に自国に併合したのである。
世界大戦、そして冷戦下においても、各国は情報機関を主体に、単なる情報収集にとどまらない、非合法な工作を他国に仕掛けていた――その中には内戦、クーデター使嗾や要人暗殺など、「テロリズム」の範疇に入れられるべきものも含まれていたが、あくまでもそれらは非公然、非合法の活動であり、少なくとも水面下で行われていた。しかしながらクリミア危機があからさまにしたのは、こうした謀略工作と正規の軍事行動、外交が連続的にシステマティックに、しかも事実上公然と行われるようになった、という新事態である。
これが20世紀の総力戦とどこが異なるのか? 「総力戦」という概念には後ろめたさや批判性がつきまとう。すなわち総力戦体制は、近代国家と市民社会の本来のあり方を歪めるものであり、望ましくはない、と批判されることが多い。そもそも総力戦自体、核兵器の時代においては起こしてはならないものであり、核兵器を伴う総力戦体制は、戦争の遂行のためにではなく、戦争の抑止のためにこそかろうじて正当化されるのだ、と。これに対してハイブリッド戦争においては、何のてらいもなく、情報操作、プロパガンダ、経済的浸透といった間接的な影響力行使からサイバー攻撃、小規模テロリズム、通常戦力による打撃といったより直接的な武力行使までがシームレスにシステマティックに捉えられ、その担い手も狭義の軍にとどまることなく、官民に渡ってあらゆるものが動員される。このようにてらいのない総力戦の肯定としてのハイブリッド戦争のアイディアの嚆矢は、1999年の中国人民解放軍の喬良・王湘穂の著書『超限戦』とも、あるいはより具体的にはロシア連邦軍参謀総長ヴァレリー・ゲラシモフの2013年の論文とも言われるが、いずれにせよ「法の支配」「主権を拘束する憲法」「国家主権にも犯し得ない人権」といったリベラルな原理を重視しない体制のもとでは、このようなハイブリッド戦争を批判する理論が登場することは期待できない。問題はこのようなハイブリッド戦争を躊躇なく仕掛けてくる政治勢力に対して、リベラルな原理を尊重する側はどう対抗しうるのか、である。
読書案内 補足
戦争の倫理学についてスタンダードな教科書として、松元『平和とは何か』他、
眞嶋俊造『正しい戦争はあるのか? 戦争倫理学入門』(2016年、大隅書店)
戦争違法化論にいたる戦争法の歴史については国際法の教科書を参照していただきたいが、初学者向けのものとしては
デモクラティック・ピース論については原典の翻訳、
ブルース・ラセット『パクス・デモクラティア』(1996年、東京大学出版会)
どちらかと言うと「リベラル・デモクラティック・ピース」では、という議論は
アザー・ガット『文明と戦争』(2012年、中央公論新社)
非対称戦争については
加藤朗『現代戦争論―ポストモダンの紛争LIC』(1993年、中公新書)
マーチン・ファン・クレフェルト『戦争の変遷』(2011年、原書房)
人道的介入については
ピーター・シンガー『グローバリゼーションの倫理学』(2005年、昭和堂)
において功利主義的立場からの正当化論が提示されている。
ハイブリッド戦争については
喬良・王湘穂『超限戦 21世紀の「新しい戦争」』(2020年、角川新書)
渡部悦和・佐々木孝博『現代戦争論―超「超限戦」 これが21世紀の戦いだ』 (2020年、ワニブックスPLUS新書)