2025-08-15

anond:20250815221356

葉隠」が編まれ江戸時代初期(正徳〜享保期、18世紀前半)は、まさに武士存在意義が揺らいでいた時代背景が大きく関係しています山本常朝が生きた佐賀藩も含め、江戸初期〜中期の武士たちは実際に戦場で戦うことがほとんどなくなり、役目の多くは藩政の事務儀礼監督といった「役人仕事」になっていました。つまり武士は刀を佩くけれども、その刀を使う機会はない」という状況です。

そのために生まれた背景を整理すると:

1. 「戦わない武士」の自己アイデンティティ危機

戦国の世では武士価値は戦功で測られました。しか平和が定着した江戸時代にはその基準が消え、「武士は何のために存在するのか」という問いが武士自身に突き付けられます

→ 常朝の「死を覚悟することこそ武士の本分」という極端な答えは、この問いに対する一つの処方箋でした。

2. 忠義の再定義

実戦で命をかける場面がなくなったからこそ、「忠義をどう示すか」が問題となりました。『葉隠』では、たとえ主君が誤っていても命を捧げることが忠義だと説く。これは現実の「仕える場面」が形式化するなかで、精神的な純度を重んじる方向に傾いたと言えます

3. 武士の「生活指導書」としての性格

戦わない日常のなかで武士はどう振る舞うか――作法謙遜言葉遣い、朝の鍛錬など、行政官僚としての武士を支える「行動規範」が必要になった。『葉隠』はそうした実務的・日常的な心得を盛り込みつつ、精神の核として「死生観」を据えました。

4. 幕藩体制下の思想的緊張感

江戸中期は幕府支配が固まり、表立った反乱は困難になりました。だからこそ常朝は「内面的な抵抗」あるいは「精神純化」として、「死を選ぶ覚悟」を強調したとも考えられます。表向きは平穏でも、藩政の矛盾主君資質不足に直面する藩士にとって、「忠義と死」を掲げる思想一種自己防衛・精神的支柱となったわけです。

葉隠』はその「喪失感」と「新しい武士像の模索からまれものといえますね。興味深いのは、常朝自身は「隠居して出仕もせず、出世から外れた人」だったことです。むしろ藩の中枢で実務を担うよりも、一歩引いた立場からこそ「純粋武士道」を極端な形で語ることができた――という背景も大きいと思います

この視点で読むと、『葉隠』は「戦わない時代戦士の魂をどう保つか」という問いへの回答だった、と整理できそうですが、そこから現代につながる「武士道」のイメージ形成にも大きな影響を与えています

記事への反応 -
  • 礼儀正しい プライド高い 商売が下手 他には?

    • 『葉隠』は江戸時代初期、佐賀藩士・山本常朝(やまもと つねとも)の口述を田代陣基がまとめた、武士道に関する思想書です。 全11巻からなり、日常生活の心得から死生観、政治観ま...

      • 「葉隠」が編まれた江戸時代初期(正徳〜享保期、18世紀前半)は、まさに武士の存在意義が揺らいでいた時代背景が大きく関係しています。山本常朝が生きた佐賀藩も含め、江戸初期〜...

    • 自称武士に武士だと認められる

    • 士は貝殻のごときもの 士の家に生まれたる者のなすべきは お家を守る これに尽き申す

    • 武士道は死狂ひなり 一人の殺害を数十人して仕かぬるもの

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