2025-04-22

コミュニティノートが嫌い

コミュニティノートは数年前からXに導入されているが、あの仕組みは僕は好きではない。コミュニティノート執筆者は、ノートが付いたあとに往々にして訪れる誹謗中傷を想定しながら執筆しているのだろうか。もし想定していないなら浅慮が過ぎるし、想定しているなら、その個人的な悪意にどこかで聞いたような露骨な借り物の言葉(例えば「留意する必要があります」)を被せ、あたかも公正に話しているかのように発信するのはとても醜いと思う。

そもそも執筆者コミュニティノートを付けて何をしたいのか、僕にはいひとつからない。他人誤情報に騙されないようにというならまだしも、今後自分と関わることはまずない赤の他人誤情報に騙されるかどうかが、自分時間を割くほど大切なのか。それよりも単に他人を貶めたいだけなのではないかと勘繰ってしまう。

コミュニティノートが付いた投稿に対し、「発信者情報瑕疵があるならいくらでも叩いてよい」という思想にも、極めて浅はかだと思う。発信者批判者の立場が過度に不均衡になっているし、ノートへの反論が見えにくい位置しか置かれないこともその一端だ。

虚偽の発信本来趣旨が失われる場合があることも、個人的には懸念である社会的にはよいことかもしれないが、冗談と誰もが分かるような投稿にまでコミュニティノートが付くと、興醒めししまう。

この様相を見ると、クラスの人気者と根暗性格が捻じ曲がっている子たちの対比をどうしても想起してしまう。自分根暗側だったから、同族嫌悪もあるのかもしれない。クラスの人気者の些末な言動をあげつらって陰口を叩くあの子たち——『ゆっくり本家じゃない……』と、表立って間違いを指摘できなかったあの子たち。彼らが今、年月を経たにもかかわらず、なお覆面を被り放送室マイクを前にしないと満足に話せないのであれば、僕はそれに憐れみしか感じられない。

正直、自称フェミニストの方々や、あまりに行き過ぎた万博批判などの論理破綻したツイートコミュニティノートで指摘されているのを見ると、すっきりするし、それを否定するつもりもない。自分にもそういった方々への悪意は多分にある。ただ、その悪意を見かけの公正さで包み隠そうとする人たちと、それを容易にしているシステム構造は、僕は好きになれない。個人感情とそれに伴う行動は個人のものとして発信するべきで、せめてインターネット上だけでもそうあり続けてほしいと、ずっと思っている。

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