コミュニティノートは数年前からXに導入されているが、あの仕組みは僕は好きではない。コミュニティノートの執筆者は、ノートが付いたあとに往々にして訪れる誹謗中傷を想定しながら執筆しているのだろうか。もし想定していないなら浅慮が過ぎるし、想定しているなら、その個人的な悪意にどこかで聞いたような露骨な借り物の言葉(例えば「留意する必要があります」)を被せ、あたかも公正に話しているかのように発信するのはとても醜いと思う。
そもそも執筆者はコミュニティノートを付けて何をしたいのか、僕にはいまひとつ分からない。他人が誤情報に騙されないようにというならまだしも、今後自分と関わることはまずない赤の他人が誤情報に騙されるかどうかが、自分の時間を割くほど大切なのか。それよりも単に他人を貶めたいだけなのではないかと勘繰ってしまう。
コミュニティノートが付いた投稿に対し、「発信者の情報に瑕疵があるならいくらでも叩いてよい」という思想にも、極めて浅はかだと思う。発信者と批判者の立場が過度に不均衡になっているし、ノートへの反論が見えにくい位置にしか置かれないこともその一端だ。
虚偽の発信本来の趣旨が失われる場合があることも、個人的には懸念である。社会的にはよいことかもしれないが、冗談と誰もが分かるような投稿にまでコミュニティノートが付くと、興醒めしてしまう。
この様相を見ると、クラスの人気者と根暗で性格が捻じ曲がっている子たちの対比をどうしても想起してしまう。自分が根暗側だったから、同族嫌悪もあるのかもしれない。クラスの人気者の些末な言動をあげつらって陰口を叩くあの子たち——『ゆっくりは本家じゃない……』と、表立って間違いを指摘できなかったあの子たち。彼らが今、年月を経たにもかかわらず、なお覆面を被り放送室のマイクを前にしないと満足に話せないのであれば、僕はそれに憐れみしか感じられない。
正直、自称フェミニストの方々や、あまりに行き過ぎた万博批判などの論理が破綻したツイートがコミュニティノートで指摘されているのを見ると、すっきりするし、それを否定するつもりもない。自分にもそういった方々への悪意は多分にある。ただ、その悪意を見かけの公正さで包み隠そうとする人たちと、それを容易にしているシステムの構造は、僕は好きになれない。個人の感情とそれに伴う行動は個人のものとして発信するべきで、せめてインターネット上だけでもそうあり続けてほしいと、ずっと思っている。