全然関係ない話だけど、大学生の時、その作者と友人だという友達がいてさ。
稲中に出てくるキャラの苗字は皆、その周辺の友人から取ってるんだってさ。
で、そいつは「なんで稲中に俺が出て来ないんだ!?」と怒ってた。それだけ。
友達がそうだ言うてましたよ
残尿感についてですが、ホントに!?
わしならその女を抱きながら結婚の決意を固めさせるぞ。オーガズムが絶頂になった時に耳元で「俺たち結婚しよう。。。。。」
その瞬間に相手が我に帰って殴られても、それはそこまでの話。
運命の相手ならいきなりでも受け入れるはず。
それでぉKなら、翌日はその彼女の親に挨拶に行ってから、彼女の先祖の墓参りに行く。めでたしめでたし。
ここまでやれば罪悪感は残らなかったと思うよ。
あと、残尿感は、生卵とお酢を混ぜた物をコップ一杯一気飲みすれば治ります。
「おーおーとっつぁん頑張るねぇー、さすが昭和一桁」
「カリオストロの城」で、たぶん唯一あのせりふが時代背景を明確にしちゃっていると思う。
作った側は、こんなに長い間愛され続けるとは思ってなかったかもしれんけど。
ドラマの「ER」で黒人医師が、同じ黒人の研修生に言ったもんだよ。
「俺たち黒人は人種枠で優遇されてる、そのぶん白人以上の実績を上げないと、やっぱりあいつは特別枠だなって思われちまうんだ」
優遇されるのもよしあしかもしれませんね。
具体的にどういいか教えてくれないかな?
増えるのがイヤで退会しちゃった口なんだ
ミクシィ使えば面識はないけど趣味の合う誰かとつながれるという
口頭で誘われちゃうと有耶無耶にしちゃってたりしたの
だんだんそういう(断る)のも面倒になって退会したんだけど・・
プロフィール公開以上の機能は使いこなせなかったよ
ちょっと待て。ものすごいニュースが出てる。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070504it14.htm?from=rss
うわこれはひどい。ひどいぞ。
Google病ここまで蔓延。
自分しか見えないようにすればいいんだよ
躊躇わなければいいよ、どすこい!
だが、しかし君よ、どじっ子を笑うこと勿れ。
そう、私は思わずにはいられない。
何故なら、私も一介の三次元所属のどじっこに過ぎないからである。
今となっては、三次元かつ萌え??などじっ子を見つけようと、コンクリートジャングルでサバイバルナイフを片手に探し回ったあの夏の日もただ懐かしい思い出でしかない。
しかし、私は気づいてしまった。部屋を出るときついついジャンプしてしまい、頭を思い切りぶつけた挙句に胴体着陸を敢行してしまったあの日に、気づいてしまったのだ。
私もこの平坦なるこの人生という道でただただ転んでいるだけのどじっ子であったのだと。
しかも、人生の道はかの三年峠の如くはいかず、転べば傷のみが増えるばかり。
とかく、人の世の生き難き事よ。
俺は今日もデンデン太鼓を鳴らした。一日二十分休むことなくもっとも天に近い場所で鳴らし続ける。
凡ての存在の為に。俺は鳴らし続けている。もう1000年は経っただろうか。
基本スタイルは蟹股のしゃがみ姿勢であることに変わりは無い。変えるつもりも無い。いくらダサいと言われようが、俺は変えるつもりは無い。
デンデンデン……デンデンデン……デンデンデンデンデンデンデン……
わにとかげぎすの3巻が出た。
知らない人の為に説明すると、わにとかげぎすは32歳で夜間警備員をしている主人公富岡が、深夜、ビルの屋上で流れ星に「友達を……友達を下さい」と希うところから始まるマンガである。作者は稲中の古谷実。
この紹介で分かるとおり、富岡はコミュニケーション能力の低い、世間から隔絶された人間として描かれている。富岡自身もそう言う認識を持っている。
「コミュニケーション能力は高いけれども、それを使いこなせていない人間」
に見えるのだ。
それを一番感じたのが3巻の斎藤との出会いのエピソードだった。
諸々の理由により失業した富岡は、再就職先の同僚として斎藤と言う男に出会う。
この時富岡は始めは敬語なのだが、あるタイミングを境にタメ語に変わる。
説明が難しいのでその会話の一部を抜粋する。
斎「……あいつ浮気してんだぜ」
富「え?」
斎「こないだ酔っぱらって『生まれて初めて顔射した』って浮かれてたよ……黒田さんとつきあってるのみんなにバレてないと思ってるんだ」
富「あの~…」
富「ガンシャって………何ですか?」
(中略)
富「いえ…持ってません…」
斎「もしかしてさ……今時ケーータイですら持ってない人?」
富「うん……持ってない人……まずい?」
(続く)
僕は始め読んだ時、あまりにも自然だった為この変化に気がつかなかった。
っていうか確かめてみたところ、1巻でも同じようなシーンがあった。
富岡さんはいとも簡単に敬語 → タメ語へと転換しているが、僕にとってはそれがとても難しい。
僕は基本的にほとんどの人と敬語である。この前親戚の子供の相手をするときにも敬語を使ってしまい、親御さんに笑われたくらいである。
僕が何故敬語かというと、それは敬語が最大公約数的にコミュニケーションを取る事ができる会話の作法だからだ。
ぶっちゃけていえば、最も失敗がないからだ。
だがそれは、同時に友好関係にある一線を明確に引く行為でもある。
だから普通の人はどこかのタイミングで敬語からタメ語に変わる。
たぶん、ほとんどの人はこんな敬語からタメ語の転換なんて意識せず、無意識的に出来ているだろう。
今のところ僕は、敬語からタメ語に変わると言うのは一種の意思表示だと考えている。
「私はあなたとならタメ語で話したいです。って言うかできたら気軽に冗談を言い合えるような仲に発展したいです」
っていう感じの。
僕はとにかく意思表示が苦手だから、これである程度納得はできる。
でも、どうもそれだけとも思えない。
なんで自分はこんな当たり前の事が上手くできないんだろうか?
マイミク3人でも300人でも、増田に書いてるようなことって書けないよ。少なくとも自分は増田にかいてることミクシィ日記に書くの無理。書いたらマイミク何人減るかなあ、と実験してみたい気持ちはあるけど。
30代だけど、趣味を通じての出会いとかは10代の時より増えたよ。ただ、そこで知り合いから友達になるのは10代の頃より難しくなった気がする。知り合って1年ぐらいで何度も会うけどていねい語みたいな。
自分は中高時代はそもそも友達全然できなかったけど、大学生になったら友達そこそこできて、今でもつきあいあるよ。でもお互い家庭とか仕事とかあるし、そもそも距離が離れたから、近況は知ってるけど、みたいな感じ。
でも学生時代に周りがみんなグループつくって昼飯食ってるのに、居心地悪く1人で昼飯食ってる疎外感より、1人で吉野家に行ってうまいなあ、と思ってる今の方が楽しいな。