【軍事革命】(ぐんじかくめい)
Revolution in Military Affairs (RMA)
技術革新による軍事の劇的な変化のこと。
これまでの人類史上で7回あった、とされており、歴史の古い順にあげると以下の通りとなる。
- 1.青銅器の登場
- 刀剣や盾など殺人のみを目的とした道具類と、それを扱う訓練体系の成立。
十分な訓練を受け、十分な装備を与えられた軍隊は、そうでない兵士の何倍も戦う事ができた。 - 2.弓矢・投石機の登場
- 敵の手が届かないアウトレンジからの一方的な虐殺が可能になった。
これ以降、軍隊は常に射撃を警戒しながら行動する事を余儀なくされている。 - 3.騎兵戦術の確立
- (全力疾走する人間の数倍の速さで継続して走れる)軍馬の機動力による奇襲、兵站輸送効率の向上、情報伝達の加速をもたらした。
これによって撤退は以前と比べて格段に困難になり、追撃戦の戦果は劇的に拡大される。
そして、歩兵だけが相手なら生き延びられたはずの敗残兵が次々と蹂躙・捕縛・殺害されるようになった。 - 4.火器の実用化
- 黎明期の銃は長弓やクロスボウより遙かに劣る殺人器具であったし、初期の大砲は「投石機の出来損ない」だった。
軍事革命をもたらしたのは火器の優れた性能ではなく、火薬による「馬鹿でかい騒音」である。
兵士の武器が爆音を立てる事、また敵が爆音と共に襲ってくる事が士気に与える影響は絶大であった。
威嚇と恐怖、衝撃と畏怖が作戦にもたらす影響について理解され始めたのもこの頃からである。 - 5.国家総力戦の概念
- 軍事学者に士気の概念が浸透していくに伴い、士気を保ちやすい戦略が模索され始めた。
その要求に対する軍制度上の回答は、一定年齢に達した成年男子国民を強制的に軍隊へ送り込む「徴兵制」であった。
兵士個人を元々のコミュニティ(地縁・血縁)から孤立させ、部隊のみに依存させる事で、指揮官による統率を容易にしたのである。
一方、この軍事革命によって兵士の人権は今までよりも遙かに強く蹂躙されるようにもなった。
この軍事革命は人権を求める市民革命とほぼ同時に始まり、後に共産主義やファシズムを生み出す発端となる。 - 6.装甲車両および航空機の発達
- 内燃機関の発達により、生物には再現不能な破壊力・機動力が戦場に投入されるようになった。
軍馬数十頭に匹敵する運動エネルギーが当然のように発揮され、数十トンの重量物が平然と荒野を走るようになった。
航空機の発達は数千メートル上空の虚空や、数百キロ後方の基地さえ敵の警戒を要する戦場に変えた。
これら破壊的な機械は長距離の無線通信越しに統率され、世界中どこでも緻密な作戦を展開した。
そして、人間の兵士だけはそのまま、技術革新がもたらした戦場の地獄に取り残されたのである。 - 7.核兵器による相互確証破壊
- 1945年の広島・長崎での惨劇を経た後、軍事学者の関心が核兵器に向けられるのは必然であった。
一刻でも早く核兵器への対抗戦術を確立しなければ、自国が軍事的危機を迎えるのは明白であったからだ。
しかし結論から言えば、現在の軍事科学においてさえ、そのような対抗戦術は存在しない。
もし、敵国が無数の核兵器を携えて国家総力戦を仕掛けて来た場合、その攻撃を避けて生き残る術はない。
この恐るべき事実によって、皮肉にも列強間での国家総力戦は起こり得なくなった。
これ以降の軍事史は、いかに必要以上の破壊力を発揮せずに勝つかを試行錯誤する歴史となっていく。
第八の軍事革命
単に「軍事革命」と称する場合、現在進行形で発展しているといわれる第八の軍事革命を指す事が多い。
その発端は冷戦終結による軍隊の量的削減と、情報通信技術の劇的向上によるもので、データリンク、全地球測位装置、精密誘導兵器、高い機動性を持つ部隊などの諸要素によって成される。
その結果として起きるのは、警戒・通信・指揮・攻撃が高度に統合された次世代の「電撃戦」であり、これらによって戦闘の様相が以前と全く違うものになる。
具体的に引き起こされる変化は以下のようなものになる。
こうした概念は1990年代以降の湾岸戦争やコソボ紛争、イラク戦争において実証された。
アメリカと敵対した軍隊は戦争の初期段階で指揮統制を乱され、大多数の部隊が無傷であったにも関わらず戦況を把握できず立ち往生を余儀なくされた。
その後は抗戦を強行した部隊との散発的な遭遇戦に終始し、軍隊を撃滅することなく終戦を迎えている。
現代の軍隊にとって最重要課題である事は間違いないが、現在の所この思想を実現できたのはアメリカ軍のみ。
このため、現在の情報軍事技術が各国の常識となった後の戦争については十分な予測・研究が成されていない。
関連:トランスフォーメーション 非対称戦争
軍事革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/03 09:28 UTC 版)
軍事革命(ぐんじかくめい、英: Military Revolution)は、16世紀から17世紀にかけて起きた軍事戦略・戦術における一連の根本的な変化が、政府と社会に対して大きな永続的な変化をもたらしたという理論である。この理論は歴史家マイケル・ロバーツが1950年代に案出したものである。彼は、1560年から1660年のスウェーデンに注目し、携行可能な火器の導入によって引き起こされた、ヨーロッパの戦争方法の大きな変化を見出した。ロバーツは軍事技術の進歩を、より大きな歴史の流れと結びつけたのである。
- ^ Yet, the factors that defined the military revolution in Europe were absent in European expeditions to Asia, Africa, and the Americas, and conventional accounts are often marred by Eurocentric biases.[5]
- ^ 歩兵は横隊をとることで、静止状態の火力が強まって防戦時の戦闘力は高まるが、隊列の縦深が浅くなって攻撃時の戦闘力は低下する。すると、騎兵が迂回機動を行って、側面や背面からの攻撃によって戦いが決する傾向がある[18]。
- ^ この点で、連隊砲の導入は「進歩」ではなく「選択肢の追加」と見なされるべきである。なぜなら、火力の増加は他の要素によって相殺された。火力は歩兵の前進を減速させ、そして兵站上の大きな負担となった。多くの者が、負担に値する価値がないと考えた。たとえば、当時台頭していた大国であるフランスは、軍隊での短い運用の後にそれらを放棄した[要出典]
- ^ 経験を積んだ部隊ほど、より薄い陣形を使えた[19]。
- ^ 「フランスの軍事組織全体の規模の変化と言う意味では、攻城戦の遂行は重要な要因ではなかった」[24]
- ^ それまでの騎士的な騎兵に比して、重い武器や鎧を持たないことで身軽かつ低コストだった。
- ^ For instance between the muster at Duben and the Muster at Breitenfeld the Swedish army lost more than 10% of its infantry in just two days,[51] this kind of conduct would be typical before a major battle was to be fought.
- ^ From the second half of the seventeenth through the late eighteenth centuries "umbilical cords" of supply bound armies.[57]
- ^ 「考えて欲しい。火器以外に、古代ローマの軍とルイ14世の軍との間に、兵站上・管理上の違いはあるだろうか? 何もない。どちらも集権化された国家の下に10万名を擁する軍があり、その大半が国境地帯に配備され、世界的な強国としての地位を獲得して維持するための力となっていた。どちらも巨大な軍隊であり、よく組織され、よく訓練され、標準化された装備と標準化された軍服があった」[59]
- ^ 「その結果、軍事技術の(進歩の)影響を受けた他の多くの国々と同様に、オスマン帝国も抜本的な改革に着手しました。17世紀とは、変化する状況に直面しても生き残るために、可能な限り最適な手段でその存在を維持するためにオスマン帝国の改革が行われた世紀と呼ぶことができます。戦争がもたらす壊滅的な影響への対応が、この改革の主たる動機でした」[60]
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軍事革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:01 UTC 版)
「マウリッツ (オラニエ公)」の記事における「軍事革命」の解説
マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン7世(叔父ヨハン6世の子)と共に行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にもその動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また訓練を通じて、元来は傭兵の寄せ集めでしかなかった軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。 これらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、日本語未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの基本教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。 さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、歩兵・騎兵に砲兵を加えた三兵戦術の基盤を築いた。マウリッツが生きている間は、それでも名将スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができた。 マウリッツはまた、将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、後にバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ2世アドルフに仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。 加えてマウリッツは、軍隊にシモン・ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。
※この「軍事革命」の解説は、「マウリッツ (オラニエ公)」の解説の一部です。
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