世界の歴史
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世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。
- 1 世界の歴史とは
- 2 世界の歴史の概要
人類史
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1883年(明治16年) - 北安曇郡長の窪田畔夫と大町小学校長の渡辺敏ら9名が初登頂した。 1893年(明治26年) - 陸地測量部館潔彦技官らにより、山頂に一等三角点が設置された。 1894年(明治27年)7月22日午前10時 - ウォルター・ウェストンが蓮華温泉から鉱山道を利用し外国人としての初登頂をした。その著書で、この山名を「オオレンゲ」と記している。1913年の再来日時にも登頂した。 1895年(明治28年) - 富山藩の漢学者小杉復堂が登頂。 1898年(明治31年) - 河野齢蔵、岡田邦松、吉沢秀吉が植物採集を目的に白馬大雪渓から登頂し、シロウマアサツキやタカネバラなどの高山植物を発見した。 1900年(明治33年) - 11歳の松沢貞逸が登頂。 1907年(明治40年) - 松沢貞逸が頂上直下の石室を買い取り、その隣に宗教登山に由来しない山小屋(信仰登拝者のための宿泊施設)としては日本最古の頂上小屋(現在の白馬山荘)を建設して本格的な開業をした。 1910年(明治43年)夏 - 田部重治が蓮華温泉から登頂。 1911年(明治44年) - 冠松次郎が登頂し、祖母谷を下り黒部峡谷に入った。 1917年(大正6年) - 東久邇宮稔彦王らが登頂。その後久邇宮邦彦王や朝香宮鳩彦王の登頂が新聞などで報道され、多くの登山者が訪れるようになった。 1918年(大正7年) - 「白馬岳」を題とする紀行文が尋常小学校6年生の読本に採用され、知名度が全国的規模となる。。 1920年(大正9年)3月 - 慶應義塾大学山岳部の大島亮吉らによりスキーで積雪期初試登をした。 1921年(大正10年)4月 - 笹川速雄らにがスキーで積雪期初登頂をした。蓮華温泉から登り大雪渓を滑降した。 1922年(大正11年) - 高山植物の群生地が国の天然記念物に指定された。 1923年(大正12年)7月 - 深田久弥が白馬大池方面から登頂し、その後も四季を通じて何度か登頂した。 1932年(昭和7年) - 山頂直下の白馬大雪渓からのルートと主稜線合流部に白馬岳頂上宿舎が建設された。夏季には夏山診療所(昭和大学医学部白馬診療所)、山岳警備隊、簡易郵便局が併設されている。 1934年(昭和9年)12月4日 - 山域は中部山岳国立公園の特別保護地区に指定された。 1941年(昭和16年) - 富士山の強力の小見山正らが青銅の展望図指示盤を担ぎあげ、山頂に設置した。 1947年(昭和22年)7月10日 - 観光協会により山小屋四か所を開設、山岳ガイド50名の体制で山開き。 1952年(昭和27年)3月29日 - 長野県側の国有林を中心に富山県・新潟県を含む広大な地域が特別天然記念物の「白馬連山高山植物帯」に指定された。 1960年(昭和35年)8月 - ライチョウの生息地拡大のために白馬岳で捕獲した7羽(オス1羽、メス2羽、ヒナ4羽)が富士山に運ばれた。 1966年(昭和41年) - 白馬山荘と山頂との途中に松沢貞逸記念碑のレリーフが設置され、翌年から毎年7月に「貞逸祭」が開催されている。 1973年(昭和48年)8月21日 - 浩宮徳仁親王が白馬大雪渓から登頂し、翌日に白馬鑓温泉経由で猿倉へ下山した。 1976年(昭和51年)8月14日 - 集中豪雨が発生、長走沢で約100人の登山者が取り残される。後日、全員無事救助。 1983年(昭和58年) - 岩田修二が東京都立大学 (1949-2011)で『白馬岳高山域における砂礫斜面の形成環境』にて理学博士号を受ける。 2001年(平成13年)12月 - 環境省が白馬岳周辺の湿地群を日本の重要湿地500の一つに選定した。 2005年(平成17年)8月11日午前7時31分 - 大規模な土砂崩れによる死亡事故が発生した。 2012年(平成24年)5月5日 - 急変した天候により、北の三国境付近で6人パーティが全員死亡する大量遭難が発生した。
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