後世の治定
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後世には墓の所在に関する所伝が失われ、近世以降には次の3説が生じている。 白鳥塚現在の白鳥塚1号墳(鈴鹿市石薬師町、三重県指定史跡)。帆立貝型古墳。 武備塚(たけびづか、多気比塚)現在の武備塚古墳(鈴鹿市長沢町)。日本武尊の名代部と伝わる「建部(たけるべ)」との関連を想定。別に吉備武彦や大伴武日に比定する説も存在した。 双子塚(二子塚)現在の双子塚1号墳(鈴鹿市長沢町)。大碓命・小碓命(日本武尊)の双子伝承との関連を想定。 江戸時代の幕府による見解は白鳥塚説であったと見られるが、享保年間(1716年-1735年)に武備塚説が展開され、明治期には双子塚説が展開された。 明治4年(1871年)には伊勢神戸藩・亀山藩それぞれが白鳥塚・双子塚を日本武尊御墓と認定して政府に報告したが、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められた。しかし明治12年(1879年)には宮内省(現・宮内庁)により、上記3説のいずれでもなく埒外にあった「丁子塚」(現在の能褒野王塚古墳)への治定に改められた。その背景には、本古墳が北勢地方で最大規模の前方後円墳であることが要因にあったと見られる。そして明治13年-18年(1880年-1885年)に兆域確定と周堤修補が実施された。さらに明治16年(1883年)には地元有志によって墓の傍に神社の造営が企図され、明治28年(1895年)に能褒野神社が創建された。 なお、文献に見える「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている。また、通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる。白鳥三陵の能褒野墓以外について、現在では大和のものは奈良県御所市富田、河内のものは大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)に治定され、それぞれ「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称される(「白鳥陵」参照)。
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後世の治定
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上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。 伊勢の能褒野墓近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。 なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている。 大和の白鳥陵『古事記伝』では現陵に関する記述が見える。明治9年(1876年)に教部省により考定された。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある。「白鳥陵」も参照。 河内の白鳥陵明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照。
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後世の治定
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上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(北緯34度53分28.03秒 東経135度48分58.19秒 / 北緯34.8911194度 東経135.8161639度 / 34.8911194; 135.8161639 (朝日山山頂(莵道稚郎子墓伝承地)))。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた。 また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている。賀陽豊年は、『日本後紀』弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある(通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。 郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方がある。 なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。 朝日山山頂の墓碑 伝賀陽豊年墓
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