征長問題
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8月2日、将軍家上洛を促すため家臣野村直臣、広沢安任を江戸へ派遣した。しかし老中の面々からは謁見の許しも出ず。 8月19日、容保は再び書面にて関東に提出。「…なにとぞ一刻も早々御進発あそばされ候よう仰望奉り候。万一御遅延に相成り候ようにては、自然気勢相弛み、顧慮、傍観の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速を貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に御進発…」 8月28日、江戸へ派遣中の家臣柴太一郎よりの報告には「着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて未だ閣老方へ拝謁も仕らず、遂に激論に及び候えども、いつも空しく帰り候次第。せっかく諸藩憤発候とも瓦解の懸念あり」 9月2日、容保の病気を心配した孝明天皇より「天下多事の今日、一日も早く全快するよう」と内々に煎薬と菓子を賜わる。 9月5日、孝明天皇より禁門の変の戦功として勅賞と御剣を賜わる。 9月6日、孝明天皇は内侍所へ出向き容保の病気が早く治るよう祈り、その洗米を容保は賜わる。 9月17日、将軍家進発は幕府の死活に関わると考える容保は、老中の人々が形勢にうとく征長を重要視しないことを深く憂え、将軍徳川家茂に直に書を奉った。以下抜粋「…禁門へ発砲致し候程の者を御征伐のための御進発御遅緩に相成り候ては、天朝御尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して勇躍奮起仕り諸藩も追々瓦解致すべく、中興の御大業いかがあらせらるべきかと…」 しかし、江戸にある会津の重臣からの知らせにも「昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子もいちじるしく相見えざる段、当惑の事に候」とあり、「あまりに迫って申し上げたら閣老方にもっとも嫌われ、目付にも嫌な顔をされる」とまで言っている。 10月25日、孝明天皇より短刀と勅状を賜る。「国家のためじつに励忠、出格の廉、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事」 10月29日、朝廷では「将軍家へ再三長州征討の勅命を下しているのに未だその様子もない。もはや専命の勅使を将軍家へ発するほかはない」と朝議にて決定。容保はこれを聞き「しかしながらそれにては将軍家の御威光が立たず」と、勅使を引き留めるよう願い出、再度将軍家へ親書を奉る。「この上御延引に相成り候ては勅使いよいよ差し下され候」 しかし幕府内では財政難や士気の低下などから、互いに責任転嫁し、軍勢を見せれば降伏するだろうという、旧態依然の権威に捉われた風潮のままであった。 12月27日、容保の意に反し、征長総督徳川慶勝が解厳の令を発し、長州攻めの陣払いを命じる。 元治2年(慶応元年・1865年)31歳 1月4日、徳川慶勝から朝廷へ毛利敬親父子伏罪の状を上奏、よって長州の処置のために、朝廷より将軍家へ再度上洛を要請する。しかし幕府では「ひたすら悔悟、伏罪致し、長防共に鎮静したならば上洛の必要はない」とした上に、「毛利父子、三条以下脱走公卿を江戸へ護送せよ」と命じるなど勅に反した。一方、朝議では諸大名を召して意見させようとした。 容保はこの状況を見聞し憂悶に絶えず「幕府有司達が朝旨を顧みず、みだりに旧態の権威に依存し得意になっている迷夢は厳しく警告し覚まさなければならない。と同時に、朝議もまた、先に幕府に政治を委任すると聖詔を出しておきながら今また勅を下し諸侯を召さば、政令が二途になり物議紛乱を招くだろう。幕府有司の京の事情に暗いことは、遂には朝令に反し、結果、公武の間の不協和をきたすこと図り知れない」として、諸侯を召す命の延期を請い、同時に幕府の有司の無経験を陳弁する。そして「みずから江戸へ出向き、天皇の真意をよく説き諭し、将軍家と相携え速やかに上京する」旨を内奏、許可される。 1月、幕府より阿部正外と松平宗秀が上京する。2人に京の情勢や上洛征長の重要性を説き、正外が将軍家上洛の任に、宗秀が大阪にて征長のことにあたることになり、これにより容保の東下は見送られた。 4月28日、召により参内、孝明天皇に拝謁し、病気快癒について優渥な恩詔を賜る。容保は感泣してこれを拝した。 5月22日、将軍家入京。将軍家へ征長の勅書を伝えられる。容保も参内し迎え入れる。 閏5月24日、将軍家は二条城を発して大坂城へ。容保も28日に大坂へ至り、一心寺に館を決め日々登城する。 6月15日、帰京。 9月1日、京の官邸が完成し、ここに移る。 10月2日、老中小笠原長行らが突然伏見まで来て何かを上奏しようとしていることを聞き、容保が馬を飛ばし駆け付け「何事か」と問うと、「一つは兵庫開港の勅許、一つは将軍職を慶喜卿にゆずることの奉請である」と答えた。そのような重大事を慶喜や自分に説明も相談もなく朝廷へ奉じようとしたことに、容保も家臣も茫然自失した。この日、この件が将軍家から上奏される。 10月3日、将軍徳川家茂が大阪を発して東帰すると報告が入る。容保は愕然として立ち上がり「今将軍家が東帰すれば大事はことごとく去る。引き止めねばならぬ」として馬を飛ばした。「陸路である」「海路である」など、定まらぬ情報が飛び交う中、淀橋・伏見を駆け回り、ようやく翌日未明に伏見にて家茂に拝謁する。容保は「開港の事は天皇へ至誠を尽くして情勢を説明し奉請すれば必ず理解頂ける。また、征長を中途にして東帰すればたちまち天下の人心を失いこれを挽回するのは不可能である。願わくば二条城にて朝旨を奉じ庶績を上げるように」と再三申し上げ、家茂もようやく心を開き、東帰を取りやめた。 10月4日、条約勅許を奉る。 10月5日、容保は家臣を諸藩に遊説させ、遂に十余藩の会議に持ち込み、開港の勅許をえることに成功する。容保は守護職就任してからそれまで、攘夷の不可能なことを知りながらも天皇の意思が攘夷であったことから、心中では天皇の意思が変わることを望みながらも謹んで天皇に奉従してきた。この日、初めて条約問題は解決した。 12月22日、西国視察に出た近藤勇から「長州は表向きは謹慎恭順しているが、裏では戦闘の準備を進めている」との報告。 慶応2年(1866年)32歳 1月に幕府では長州処分を「10万石取り上げ」と決まり、朝廷においても裁可されたが、長州ではその命を奉じず備中倉敷などで挙兵の行動に出たため、幕府軍が進発、6月には戦端が開かれた。 7月20日、将軍徳川家茂が大阪城で病死した。容保は哀痛の情の中であったが、情勢は一変し、薩摩藩は挙動を変え、征長軍と長州の戦闘は敗報がしきりに続いた。 7月22日、薩摩藩が幕府の失体を条挙し、長州の救解を上奏した。容保は奮然として「長門藩兵が勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば京の薩摩兵は必ずこれに応じるであろう。しからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。座して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない。すなわち京師の守護を所司代に譲り、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、慶喜卿は山陽道の軍を監督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も軍気を挽回することができよう」として、慶喜や老中に出征を催促した。しかし慶喜は「肥後守が京から離れれば朝議がたちまち一変する恐れがある」としてひたすらに許さない。 8月11日、さらに続く敗報に慶喜は休戦の評議にかかる。容保は大いに不可として慶喜と争ったが容れられず。 容保は書簡を呈する。以下抜粋、 一つ、将軍家御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せ付け、粉骨をつくし藩あり、城を失いし藩あり。しかるに今に至り、筋道に反していない幕府側が解兵を言い出せば、上は天朝、中は諸侯、下は万民への信義立たせざること。 一つ、奉命尽力の諸藩を見殺しなされ武道筋に於いていかがこれあるべきや。 一つ、違勅をもって賊名負いし者に、再勅出しては、義賊分明せず。忠否乱れ、天下の耳目違乱致し事。 一つ、長州が休戦に応じず勢いに乗じ押し寄せるに至りては、一度惰気に相成り人衆の奮発、これあるまじき事。 一つ、これまで天幕の命に応じ攻めかかり諸藩へ長州より報復致し候わば、いかがいたすのか。 一つ、天前において仰せ立てられ件々にことごとく相反し、節刀をも賜り、申訳これなく。勅諚を改めとなってはこれまでのことも皆偽勅と相成り申すべき事。 しかし慶喜も老中も容保の意見は聞かず、容保はただただ慨嘆するのみであった。 10月17日、容保は「中納言(慶喜)は京に於いて内外諸制の革新を実行に移す。不肖、守護職が嘱望を集めて対立するようなことがあっては新立の将軍家にとって有害であろう」として守護職の辞職を申請。しかし老中より却下される。この間、過激派公卿が勢い付き巻き返しを図り、二条殿下・中川宮を威嚇し辞職に追い込むよう画策し、また、八・一八の政変の際に追放された公卿の復権など上奏したが、孝明天皇の怒りに触れ退けられている。 12月25日、孝明天皇が突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義を尽くしてきた2人を続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥の聖詔が髣髴として今なお耳にあり、当時を追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している。
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