形勢の逆転とは? わかりやすく解説

形勢の逆転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)

匈奴」の記事における「形勢の逆転」の解説

匈奴軍臣単于在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝在位:前156年 - 前141年)が即位互いに友好条約結んでは破ることを繰り返し外交関係不安定な状況であったが、景帝軍事行動起こすことに抑制的であった。しかし、武帝在位:前141年 - 前87年)が即位する攻勢転じ元朔2年(前127年になって楼煩白羊王は将軍衛青率いる漢軍に敗北し河南の地を喪失した元狩2年(前121年)、匈奴休屠王(中国語版)は驃騎将軍霍去病率い1万騎の漢軍に敗北続いて匈奴割拠する祁連山霍去病と合騎侯の公孫敖攻撃受けた。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊失い、渾邪王(中国語版)と休屠王が漢に寝返ってしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于在位:前126年 - 前114年)は衛青霍去病侵攻遭って大敗し漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し次の烏維単于在位:前114年 - 前105年)の代に至っては漢から人質要求されるようになった太初3年(前102年)、漢の李広利2度目大宛遠征大宛降した。これにより、漢の西域への支配力拡大し匈奴西域対す支配力低下していくことになる。 その後匈奴は漢と戦闘交え、漢の李陵李広利捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第開いていった。

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形勢の逆転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:08 UTC 版)

イラン・イラク戦争」の記事における「形勢の逆転」の解説

しかし、イラク予想よりもイラン国民士気強く20越え義勇兵前線加わったイラク軍部と与党であるバアス党意見違いなどから、戦線1981年5月には膠着政治的に完全に孤立したように見えたイランであったが、中国1980年から1988年までイラン最大武器供給国であり、これは革命前イラン訪れた最後外国首脳である華国鋒が、パフラヴィー朝支持した見做されたことで冷却化した関係を修復するためとされ、その裏では中国イラク反発避けるために、その2倍以上の武器同国にも供与していた。当時中央情報局CIA)は「中国イラン最大武器供給国だが、皮肉なことに中国最大武器取引相手イラクである」と報告している。また、米国イラク対す武器輸出経済援助などを行う裏で、革命の際のテヘランアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引一環かつニカラグア内戦を戦う反共部隊コントラ」への資金援助のため、ある時期イランに対して武器輸出行ったイラン・コントラ事件)。さらにパフラヴィー朝友好関係にあったイスラエルは、イラクとも敵対していたために「敵の敵は味方」の方針イラン武器援助しており、米国部品イスラエル調達する代わりにイスラエルマーク・リッチ通じてイランから石油得ていた。加えてスンナ派主導の他のアラブ諸国異なり国家元首アサド一族をはじめ、少数派アラウィー派政権を握るシリアと、独自のイスラム教社会主義掲げリビア共産主義反米的な北朝鮮イラン味方した奇しくもイスラエルアラブ諸国中でも反イスラエル急先鋒だったシリアリビアイスラエル後ろ盾アメリカ対立していた北朝鮮が、それぞれの思惑イラン支援し間接的な共闘関係発生した北朝鮮イラン支援したことを理由に、1980年10月イラクから断交されており、このときから親密イランと北朝鮮の関係構築された。シリアについてもイラン・イラク戦争以来事実上同盟関係継続しており、後の2011年から続くシリア内戦イラン終始アサド政権支持・支援し、アサド政権守勢回っていた時期には地上軍派兵している。 1981年6月7日イスラエル空軍機がヨルダンサウジアラビア領空侵犯しイラク領に侵入フランス技術建造中の原子力発電所空爆破壊したイラク原子炉爆撃事件)。このためイラクイスラエル方面防空強化しなければならなくなった1982年4月シリア経由パイプライン止められイラク石油輸出をできなくなった頃から戦況動き始める。5月24日イランホラムシャハル港を奪回、3万人イラク兵を捕虜とした。6月には旧領土ほぼ全域奪還逆にイラク国内への攻勢に出る。イラン勝利ありうる考えたイラク側が休戦持ちかけるきっかけとなったが、戦況巻き返しイランとりわけ最高指導者ホメイニ)はフセイン体制打倒固執した為、戦争終結しなかった。11月にはイラク軍反撃イランカーグ島石油基地破壊した

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形勢の逆転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 09:04 UTC 版)

国共内戦」の記事における「形勢の逆転」の解説

中華民国率い国民党指導者蔣介石満洲権益引き換えイデオロギー棚上げにしてソ連スターリン協定結んだため、ソ連から中国共産党への支援消極的なものとなる。その間国民政府軍満洲大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍敗退撤退重ね国民党大陸部大部分手中に収めようとしていた。 だが、法幣大量発行インフレーション招き農民中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカ国民党へ支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦開始日本の占領政策への集中政府内の共産党シンパ活動等理由により、先細りになっていった。 1947年3月には蔣介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針転換する対象地域共産党軍根拠地である延安などであったが、毛沢東3月28日延安撤退山岳地域国民党軍誘導した5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する。1947年6月時点共産党員46年136から276急増兵力120から195へと増大対す国民党軍兵力は430から373へと減少していた。 農村部中心に国民党勢力後退共産党勢力盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役中国語版)」で、共産党軍決定的に勝利する。まず、1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47殲滅され、国共軍事比は290万人300万と逆転した。そして、1948年11月-1949年1月徐州中心に展開され淮海戦役では、国民党軍80共産党軍60万と衝突するという大規模な戦闘発生し、後に改革開放路線市場経済導入することで知られる鄧小平指揮官一人として参戦し国民党軍555500人を殲滅した。更に1948年12月-1949年1月までの平津戦役でも、52国民党軍壊滅した。これにより、中華民国国軍国民党軍)は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域一気喪失していくこととなる。中国全土支配することを意識し始めた毛沢東は、中国北部集中している数多く幹部南下させ、南方地域接収管理工作を担わせる戦略考えていた。しかし、国共の形勢逆転していたが、日中戦争国共内戦経て疲弊する中国社会において共産党南下動員限界直面し幹部逃亡など様々な矛盾起きていた。

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