民衆の支持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 08:42 UTC 版)
「コウォンタイの鍛冶場」の記事における「民衆の支持」の解説
コウォンタイらは、当時のポーランド・リトアニアの一般民衆にも大きな影響力を持っていた。彼らは議会の中で戦うのみならず、議場の外の市民を集めて巨大な支持基盤としようとした。また彼らは巧みな風刺パンフレットを発行して、反対派を嘲弄した 。 「鍛冶場」の活動家の多くは、参政権を持つシュラフタ(貴族)層出身ではなかった。その代わりに国内の多くの都市のブルジョワジーと強い関係を結んでおり、彼らを支持者として動員することも可能だった。このことはポーランド・リトアニアにおけるブルジョワジーの政治的地位を大きく高め、彼らに参政権を与えようとする動きが生まれるもとになったが、同時に既得権層がブルジョワジーを警戒して、改革への反抗を強めることにもなった。 「鍛冶場」のメンバーはそれほど多くなく、ワルシャワにあったコウォンタイの自宅で会合が開けるほどだった。コウォンタイ以外の主な活動家は、フランチシェク・サレズィ・イェジェルスキ、フランチシェク・クサヴェリ・ドモホフスキ(Franciszek Ksawery Dmochowski)、ユゼフ・メイエル、アントニ・トレビツキ、フランチシェク・イェルスキ、トマシュ・マルシェフスキ、ヤン・デンボフスキ、カジミェシュ・コノプカらが挙げられる。また支持者としては、フランチシェク・ザブウォツキ(Franciszek Zabłocki)、ヤン・シニャデツキ(Jan Śniadecki)、ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチらが有名である。 5月3日憲法が成立した後、これを危険視したマグナートがタルゴヴィツァ連盟を結成し、その求めに応じてロシアがポーランドに侵攻した。このポーランド・ロシア戦争はポーランド愛国派(改革派)の敗北に終わり、「鍛冶場」のメンバーの多くはこの時や第三次ポーランド分割の際に国外へ亡命した。コウォンタイ自身は穏健な改革派であったが、一部の活動家は武装蜂起を選び、1794年のコシチュシュコの蜂起の中核となった。 「鍛冶場」が会合を開いたコウォンタイの家は、ワルシャワ郊外のソレツにある。
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