回天
「回天」とは、大日本帝国海軍が太平洋戦争中に開発し実戦にも投入された魚雷型の特攻兵器の名称である。人間が魚雷に乗り込んで操縦し、海中から敵艦に突撃して玉砕するという代物。俗に「人間魚雷」とも呼ばれる。搭乗したら生還する見込みが皆無であることから「鉄の棺桶」の異名も持つ。
もともと「回天(廻天)」とは「時勢をひっくり返す」くらいの意味を持つ言葉である。兵器「回天」も、形勢逆転を期する意味で命名されたとされる。今日でも「回天動地」や「回天の偉業」といった言い回しは用いられ得るが、単に「回天」という場合はもっぱら魚雷型特攻兵器の名称として用いられる。
人間魚雷「回天」の概要
人間魚雷こと「回天」は、既存の大型魚雷を人が搭乗できるよう改造した兵器である。全長およそ15メートル、直径は1メートル、総重量は約8トンであり、およそ1.5トンの爆薬を先端部に搭載できた。回天が目標に命中すれば、巨艦すら一撃で轟沈したという。魚雷である回天は、敵の目標戦艦がいるエリアまで潜水艦によって運搬される。回天の航続可能距離は、速度や積載した爆薬の量にもよるが、20数キロメートル程度とされる。
回天には脱出装置が設けられていなかった。いちど出撃した回天は突撃に失敗しても回収されることがなかった。つまり、搭乗員は、特攻に成功するか否かにかからわず、回天に乗り込んだが最後、生還する望みはなかったわけである。(機体の故障によって回天の機内から生還した者はいる)
回天の命中率は決して高くなく、むしろ非常に低かったという。結果論として見れば戦果はまったく芳しくない。しかしながら回天の存在は敵方には最悪の脅威として認識されていたらしい。
回天に乗り込んだ隊員は特攻兵であり、基本的に志願兵である。80余名が戦地で実際に出撃し、戦死したとされる。また、十数名が訓練中に死亡している。搭乗員として訓練を受けたが出撃する前に終戦を迎えた者も数多くいる。中には終戦と共に自決して果てた者もいる。
回天に関する作戦や訓練などは山口県の大津島を拠点として行われた。大津島には、かつて作戦に参加した隊員を偲ぶ「回天記念館」が建てられている。
回天記念館
回天記念館は、山口県周南市の大津島にある施設である。かつて回天の搭乗員らの宿舎があった地に建っている。同記念館では、回天に関する資料や、当時の搭乗員の名前や写真、遺書などを閲覧できる。回天大神訓練基地記念公園
回天大神訓練基地記念公園は、大分県速水郡日出町大神にある記念公園である。同地は大津島の拠点から回天の訓練基地が移された場所である。日出町大神の住吉神社の境内には「回天神社」が鎮座し、回天に関係する戦没者が祀られている。毎年春には慰霊祭も執り行われる。
かい‐てん〔クワイ‐〕【回天】
回天
回天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 14:52 UTC 版)
史実のような特攻兵器ではなく、ドイツの音響追尾技術を導入して開発された誘導魚雷。開発初期の試験や発射直前の整備などで人間が中に入り込めたほどの大きさである。原爆を輸送中だった、といわれる重巡インディアナポリス、ミネアポリスや他多数の軍艦を撃沈。徹底した機密保持(不発による捕獲を防ぐため触発信管、時限自爆装置を複数つけるなど)で連合軍は停戦まで詳しい情報を得られなかった。
※この「回天」の解説は、「ラバウル烈風空戦録」の解説の一部です。
「回天」を含む「ラバウル烈風空戦録」の記事については、「ラバウル烈風空戦録」の概要を参照ください。
回天
「回天」の例文・使い方・用例・文例
- >> 「回天」を含む用語の索引
- 回天のページへのリンク