学生であれば、勉強もスポーツも全く駄目で特技もなく、クラスメイトや教師に見下げられて辛い思いをし、サラリーマンなら、仕事が全然出来なくて、同僚や上司に蔑み疎まれていても、あるいは、引きこもりのニートで、家族に冷たい目で見られていたとしても、必ずや気楽でいていただかなくてはならない。
有能な人のことはよく分からないが、多分、優秀な人でも、それほど気楽ではないだろうから、本記事は参考になると思う。

私など、謙遜でも何でもなく、本当に無能である。
どう無能なのかというと、他の人が楽々とやっていることが、どうしても出来ない。本当である。
例えば、小学生の時で言えば、校内にある図書館の利用方法を教わるのだが、私には、そのやり方がどうしても理解できず、憶えられなかった嫌な思い出がある。
また、小学校も上級生になり、さらに中学生にもなると、色々な手続きを自分でしなくてはならなくなることもある。部活に入部したり、選択的な教材や用具の申請をしたりとか色々あると思うが、どれも私にはあまりに難しくて、本当に憂鬱だった。
中学では部活への入部は校則で義務付けられていたが、入り方が分からなくて入らなかった。バレた時は教師に怒られたが、私に悪意はなかったのだ。
以前も書いたが、私は夏休みの宿題を全然やらなかったのだが、やりたくない大きな理由が、「どうやればそれを完成させることができるのか」が、全く思いつかないからで、そんな生徒は他にいないだろうから、とんでもない無能さである。
今でも、運転免許証の更新に行くと、目の前で係りの人が親切に説明してくれるのだが、それを聞き終わった後、「え?今、何と言われました?」と聞き返してしまう。全く理解できないのである。相手の女性の、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をよく憶えている。

もっとも、あのアインシュタインも、奥さんにエレベーターの操作を教わった時、その難解さに仰天して、「私が難しいことは苦手なのは知ってるだろう?任せるよ」と言ったといわれる。そのエレベーターの操縦は、小さな子供でも出来るものだった。
まあ、自分と同じである訳ではないが、多少、気分が楽になるお話しである。

さて、私のような無能な人間がどうして出来てしまうのか、ちょっと説明しよう。
これは、精神分析学者の岸田秀さんの本で読んだのだが、心理学か医学か、その関連の学説なのかもしれない。
赤ん坊というのは、生まれてしばらくは、自分が世界そのもので、自分と外物との区別が付いていない。
そして、赤ん坊は、神様のような万能感を持っている。自分は何もしなくてもミルクを与えられ、泣きさえすれば排泄の世話もしてもらえるからだ。
だが、大きくなっても、あまりに母親がかまい過ぎたりすると、この幼児性の万能感が抜けず、自分を過大評価して尊大になる。これは、割によく見られる。
あるいは、大きな挫折を体験して自分の能力に疑いを持つと、幼児期の万能時代の記憶に逃げ込むことで万能感を取り戻し、やはり尊大になる。
こういった現象を、幼児性退行と言う。

これは、フロイトの説なんだろうと思うが、フロイトがいつもそうであるように、彼は、途中までの洞察は天才なのだ。だが、途中から極端に馬鹿なことを言い出すのも、彼のお決まりだ。
フロイトを天才だと言う者と、とんでもない馬鹿と言う者がいるが、どちらも正しくて、どちらも間違っているのである。

霊的な真理はこうなのだ。
宇宙全体に偏在する意識が存在し、それは無限の力と至高の英知を秘め、それが世界を創造した。それを、とりあえず神と呼ぶ。
神は、あらゆる存在の中に浸透しているが、赤ん坊の中に入っている神の一部は、赤ん坊の身体と一体になった幻想をわざと起こす。だが、赤ん坊の中の神は神の全体と切り離される訳ではない(切り離すことなど出来ない)し、初めのうちは、その一体感を持っている。
岸田秀さんのお話で、赤ん坊は、最初、自分が世界そのものであり、神だと感じているということであったが、感じているのではなく、本当に神なのであり、実際に、世界は自分と異なるものではないのである。
フロイトがそれに気付いていたとしたら、大変な洞察力である。

ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』で、11歳の美少女ロリータことドローレス・ヘイズの母であるヘイズ夫人は、性的倒錯者の中年男ハンバートに、ロリータが1歳位の時、ベッドからおもちゃを放り出して自分に拾わせて喜ぶ性格の悪い子だったと言ったが、それは、赤ん坊の普通の行為である。
赤ん坊は、まだ全体としての神との一体感を持っているのだが、だんだんと、赤ん坊の身体や心との一体感が強くなってくる。しかし、自分が独立した個別の存在であるという感覚にまだ慣れていなくて、戸惑うと同時に、とても面白いと感じるのだ。
母親が自分と異なる存在だという嘘(幻想)を楽しむために、初めのうちは、母親の乳首を噛んだりということをするが、少し大きくなると、ロリータのように、ベッドからおもちゃを落として、母親がそれを拾うという反応を楽しむのだ。
歩けるようになると、赤ん坊は何でも触り、口に入れ、それらが、自分と異なるという奇妙な感覚を味わい、楽しみながら慣れていく。
親をやたら叩いて、その反応を確かめることも好きだ。それが、以前は知らなかった、自分と異なるものが存在するという実感を強く与えてくれるからだ。何と言っても、親は大袈裟に反応するサービス精神に溢れているのだから。
そして、親や周りの人間の方も、自主的に赤ん坊に様々なことをして働きかけるので、赤ん坊は、これらの人間が自分と違うものだとますます感じるようになる。
こうやって、子供は、自分が独立した個別の存在であるという幻想を確固たるものにしていき、やがて、自分対世界という構図の中で生きることを学んでいくのである。

ところが、成長の過程の中で、母親や周囲の人間にあまり構って貰えなかったり、色々な意味で行動が制限されて育った子供が時々いる。
想像できると思うが、そんな子供は、自分が独立した個別の存在であるという感覚を、あまり強く持っていない。
かといって、自分を完全に世界と1つのものだと感じられるのでもない。
すると、その子供は、自分を非常に不安定に感じる。自分は大きな何かではないが、確固とした独立した存在であるという実感もない。
実をいうと、それはそれで悪いことではないが、世間というのは、自分が独立した1人の個人であるという強い信念を持った者によって作られており、その中では、個人としての自覚が弱く、自分の権利を主張しない者は、弱い立場になってしまうのである。

例えば、幼稚園で、遊び道具が園児の数に対し、1つ足りないということがあり、それが分かっていた子供達は、自分の分を確実に確保しようとおもちゃを奪い合った。
ところが、私は別に善意とかいうのでなく、それをぼーっと眺めていた。
当然、自分の分はない。
しかし、自分と他の子が異なるものだという実感が無いので、他の子がそれを得れば、自分も得たのと同じだと思えたのだ。
だから、別に悔しいとも悲しいとも思わないのだが、他の子に「お前はおもちゃを持っていないからアホだ」と罵られたり、大人に「のろまな子だ」と言われることに戸惑った。
自分としては不都合を感じていないのに、なぜ、この人たちは、そんなことを言うのか理解できないのだ。
そして、いつか、個別意識が強い、言い換えれば、自我の強い人間を毛嫌いするようになるのだ。

無能な人間が出来る原理とは、こんなものである。
だが、このような人間が無能であるというのは、現在の世間が、自分を世界と切り離された独立した存在であるという幻想を持った、字がの強い人間が支配しているからである。
しかし、そのような世界は、もう限界であり、破綻している。それは明らかだ。

今後は、自分を万物と一体であるとみなす人間の時代になる。
もし、地球のアセンション(次元上昇)が起こるとするば、人類のそのような意識変革によるのである。
しかし、それは無努力でもたらされるものではない。
ただ、それは、世間でいう努力と同じものでもない。

先にも述べたが、アインシュタインは、世間的には無能だった。
学校の成績は悪く、大学受験に失敗し、制度を利用してチューリッヒ工科大学に無試験入学したが、大学の講義にはついていけないと分かっていたので、講義には出なかった。
大学を出ても、研究職に就くことが出来ず、特許庁の事務員になった。

彼もまた、独立した個人という感覚が希薄だったのだ。
それで、自分と他人、自分と外物、そして、外物と外物の区別が明確でなかった。
それが、彼の全ての性質を見事に言い表せる。
彼は、洗濯石鹸と髭剃り用石鹸の区別をせず、洗濯石鹸で髭を剃った。
そして彼は、(慣性系における)全ての基本的物理法則は全く同じと見なし、特殊相対性原理を発見した。
さらに、重力と加速度は同じで、時間と空間は同じと気付き、一般相対性原理を発見した。

アメリカに渡った(亡命した)アインシュタインの収入は多かった。
アメリカ最高の研究機関プリンストン高等研究所では、アインシュタインを研究員に迎えるために2万ドルの年棒を用意した。1933年のことである。(アインシュタイン自身は年棒千ドルを要求した)
だが、自他の区別の無いアインシュタインは、誰とでも収入を大らかに分かち合った。要求されれば誰にでも金を与えた。彼にとっては自然なことだった。
アインシュタインを高名な学者だと知らず、数学の先生だと思っていた女子中学生が数学の宿題を手伝うよう頼んだら、彼は当然のことのように協力した。その女子中学生の母親が卒倒しかけて謝罪に来たが、アインシュタインには謝られる理由が分からなかった。彼に地位や年齢の違いという概念はないのだ。


自分が万物と一体となるには、自分が世界から切り離された、独立した個別の存在であるという強い観念の元である自我を消滅させなければならない。
だが、自我は自分で消滅させることができない。
当たり前だ。自我を消滅させようとする我々自体が、自我意識で生きているのだからだ。
聖者がよく言うが、「自我は自殺しない」のである。
しかし、自我を弱くすることはできる。

自我を弱くするためには、次のような言い方がされる生き方をしなければならない。
・全てをなりゆきに任せる。
・万物と共に流れる。
・どんなことが起こることも赦す。
・あるがままに受け入れる
実際は、どれも同じである。
そのためには、運命は生まれる前から完全に決まっていて、自分はそれに対し、何をすることもできないことを無条件に受け入れなければならない。
これまでの人類は、自分が、世界や人生を全くコントロールすることが出来ないということをどうしても認めることが出来なかった。自分を規模の大小はあっても、支配者と見なしたかったのだ。
しかし、そんな時代は終わる。
確かに、最後まで自分の完全な無力を受け入れることが出来ない者はいるし、その数は少なくはないかもしれない。
そんな者は、今後は、動物、植物、鉱物と一体化し、自分の無力を悟り、あるがままの境地を強制的に味わっていただくことになるだろうと思う。
イエスが悪霊をブタの中に入れたことが何かを象徴している。飽食な人の心はブタに入れるというのも手である。まあ、冗談だが・・・

荘子は、最初から無能に徹せよと言った。
無能を喜べ。
そして、自分の無力を完全に受け入れ、運命を受け入れれば、状況がどうであれ、平和でいられる。そうすれば、いつか、神はあなたの自我を消滅させるだろう。それが、神への帰還である。
「神と和らぎ平和でいなさい。そうすれば幸福になれるでしょう」
~旧約聖書「ヨブ記」より~









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