東京武蔵野は桜が八部咲きになりました。
昨日は台風のような荒れた天気で気温が下がったりして不安定でしたけど、今日は一転して日本晴。
気持ち良い月曜日です。

今日は以下の記事をネタに考えてみたいと思います。
三橋貴明:グローバリズムと「お祭り」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11809182537.html
台湾の「対中サービス貿易協定」
「グローバル」な取組みとは地球規模の視点で行う様々な取り組みという意味で、常に正しいような錯覚を起こしがちですが、やっぱり正悪の両面があります。
「地球規模の視点で〜」「平和のために〜」「国益のために〜」「◯◯の自由を〜」「人権を〜〜〜」…誰もがYES!と言い易い主張を上手に叫ぶ人が何か一つの考えや方法を常に正しい(常に悪い)ことのように言う。こういうことはいつの世にもあるものですね。
国境をなくし、各国ごとにあるルールや規制を「一つ」に統一化してヒト・モノ・カネのやりとりを行いましょう。そうすればみんなウィン・ウィンで世界平和が実現できて万々歳!
これがグローバリズムの基本ですよね。
新古典派経済学の基本にある「セーの法則」(供給が需要を生む…10作れば必ず10売れるはず…自由貿易で国境をなくして供給を増やせば需要も増えるはず)がグローバリズムや新自由主義を正当化する基本思想になっているとのこと。
このような思想による学説通りの「良い結果」をもたらすには様々な前提条件が必要になりますが、現実にその条件がそろうことはほぼ無いわけです。
ならば現実を見て適切な方法を探り複数の方法を組み合わせたり試行し修繕ていくのが人の道だろうと思うわけですが、台湾の「対中サービス貿易協定」も、日本の「TTP」もまっとうな民主主義が機能しない状態で進められるという似たような問題を抱えているんですよね。
その内容を国民はもちろん国会議員も知ることが出来ない。
三橋氏が指摘するように、秘密協定で行う理由は何なのかも、憶測するしかない異常な状態なのです。
この間のウクライナの問題も、台湾の現在進行形の問題も、日本はまったく他人事ではないんですね。
「一つの」思想や方法論を常に正しいと考えるってのは恐ろしい極論と言わざるをえないでしょう。
お祭り
語源は「祀る」にあると言われます。五穀豊穣を祈念するものでもありますね。
地域のお祭は神社の例大祭に行われるのが基本のようです。
吉祥寺の武蔵野八幡宮は9月15日。実家豊川の牛久保八幡社は4月8日でお祭は5日と6日。その近くの中条神社は3月の最終日曜日が例祭日で手筒花火150本ほどが上げられ奉納されます。それぞれ例大祭に近い土日を使ってお祭りが行われてるようですね。
神社のご祭神は地域ごとに違っていて祭礼の目的も様々。
日本は古来から何か一つのルールや教義に頼らず、何か行動するときの理由付けも「あいまいさ」や「なんとなく」が多く含まれていると思えます。
お祭りにしても、地元の神社のご祭神のことや祭礼の正確な目的などは知らないで参加する人が多いと思う。
現代では休日のイベントとして「楽しいから」見に来る人がほとんどだと思いますが、大昔でも、全ての民がお祭りの意義を意識するような時は飢饉や自然災害の時や、そういう記憶を呼び起こすような祈念の年で、平時は「楽しいお祭り」の意識だったんではないかなぁ…と。
それで良いと思います。
祭礼や意義を重んじて執り行うのは神官だったり、お祭りを主催する一部の人や、信心深い人たち。地域住民からすれば一握りの人々しか強く意識していなかったのでは?と思います。
なので、「お祭りって何?」って訊けば最初は「楽しい催し」と答える人が多いでしょう。
でも、もう少し突っ込んで訊けば「平和や恵みを祈るもの」と答えるかもしれない。
根底にある「八百万の神々」というものも、突っ込んで訊けば「そういえばそうだね」という感じで納得する人も出てくるんじゃないかと思う。
そいうのは「あいまい」に「なんとなく」共有しているんであって、「五穀豊穣だ〜〜!」「八百万の神々が〜〜!」なんて大昔の人だって大上段に構えて叫ぶような人は変な人って思われてたんじゃないかしら。
現代のネット上でも断言口調が嫌われる傾向があるのはそんな意識の表れかな?と。
「あいまい」に「なんとなく」共有できるのは、一つのルールや教義でまとめようとしない心理の現れだと思えます。
島国で、山や河で分けられた小さな地域に住む人たちは、争いの種になるような「これが唯一正しい考えだ!」なんてのを掲げるより、なるべく多くの人が「まぁ、それで良いよ」と思える「あいまい」さ「なんとなく」な感じを選択してきたのではないかと思うのです。「察しと思いやり」も口にすると角が立つようなことを避けるために発達した(外国人から見たら)超能力ですよね(^_^)
大事なことはゆる〜〜く共有されるのが日本流で、だからこそ2000年近く国柄が転覆するような「革命」が起こらなかったのでは?と思うのです。
お祭を見ていると、現代人のボクらと大昔の人の感覚って根っこではつながっていると感じます。
『グローバルなマニュアルに従った「お祭り」など、ゾッとします。』
三橋さんはブログでこう書いてます。
まったくですね。
仮にお祭りを「日本文化を象徴する大事なものだ。八百万の神々を大事にしよう!」と認めていたとしても「地域ごとにバラバラな例祭日を統一して国家規模のお祭りに改革しよう!」なんて言い出したら大反対しなければいけません。
「ゴジラ」では最初の被害があった大戸島の島民が浜辺で海の神を鎮める祭をするシーンがあります。
太古の時代、大切な恵みをもたらす海や河や山が時として大きな災禍をももたらすことから「八百万の神々」という意識が生まれ信仰に昇華してきたと考えられます。祭礼には自然の恵を祈ることと禍事を鎮める両面がありますからね。
日本人が物事には必ず両面があるということを認識していて「一つの」ルールや教義的なものを採用してこなかったのは「鎖国」の目的を考えてみてもわかります。
カトリック(スペイン・ポルトガル)は布教活動を推進してたため禁止し、商売中心のプロテスタント(オランダ)との貿易は認めて欧州の情報も仕入れていました。鎖国は貿易を閉じ世界への眼を閉ざしたんではなく一神教の侵入を防く意味があったわけですね。
しかし、スペイン・ポルトガルの個別の事情(日本以外での権益拡大)や清朝成立でアジア進出を止める国が多かった事情も複合的にあるようで、江戸幕府の交渉力だけでスペインやポルトガルが来なくなったんではなさそうです。この件で江戸幕府を過剰に持ち上げるのは無理がありますね。(この辺り、TPPが日本以外の事情で揉めて延び延びになっているのと似ています。鎖国時代を持ち上げて「安倍政権の交渉力」に期待を持たせるのは軽率だろうと思います。)
とはいえ、この「あいまい」と「なんとなく」も正悪の両面があって、大昔でも近現代でも戦乱を避けられなくなる原因にもなったんですよね。
何か一つの主張を常に正しいかのように上手に叫ぶ人に騙されて、多くの人々が「あいまい」に「なんとなく」扇動されてしまう恐ろしさは、戦争だけでなく、戦後の自虐史観だけでもなく、原発問題だけでもなく、現在進行形の政治経済の問題の数々、それこそ「全てに」「常に」含まれることだと意識していないと人の道を誤ってしまうのかもしれない。
他国の文化(宗教)にも両面を見る姿勢がもちろんあると思います。
あることが良く作用した時は神々のお導きと考え、悪く作用した時は何か神罰が下ったのだと解釈すること。「これは神が与え給うた試練だ。」などと言って外国映画でも見かけますよね。
では。
正悪の両面が入れ替わるかもしれない、または、視点の違いなだけでは?と予感すること、なんてのはあるんでしょうか?
正悪ではなく、どちらも真理で単に人間にとって都合が良いか悪いかの違いでしか無いのでは、という考え方は?
確証はないですが、どちらかといえば、欧米では「唯一正しい考え方」を求め、両面のどちらが正しいか?を求める傾向が強いのではと思ったりします。それは革命や戦争を繰り返してきた歴史に現れているのでは?…と。悪い一面、ですけどね。
日本人もずいぶん欧米的になっているんじゃないですか?
お祭りは、地域ごとの出来事、人によって違う願い事、自然の恵と禍事…様々な物事の両面を感謝したり鎮めたりする。
地域ごとに多様な、個性的な「お祭り」の楽しさと鷹揚な包容力を今年も味わいましょう♪
昨日は台風のような荒れた天気で気温が下がったりして不安定でしたけど、今日は一転して日本晴。
気持ち良い月曜日です。

今日は以下の記事をネタに考えてみたいと思います。
三橋貴明:グローバリズムと「お祭り」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11809182537.html
台湾の「対中サービス貿易協定」
「グローバル」な取組みとは地球規模の視点で行う様々な取り組みという意味で、常に正しいような錯覚を起こしがちですが、やっぱり正悪の両面があります。
「地球規模の視点で〜」「平和のために〜」「国益のために〜」「◯◯の自由を〜」「人権を〜〜〜」…誰もがYES!と言い易い主張を上手に叫ぶ人が何か一つの考えや方法を常に正しい(常に悪い)ことのように言う。こういうことはいつの世にもあるものですね。
国境をなくし、各国ごとにあるルールや規制を「一つ」に統一化してヒト・モノ・カネのやりとりを行いましょう。そうすればみんなウィン・ウィンで世界平和が実現できて万々歳!
これがグローバリズムの基本ですよね。
新古典派経済学の基本にある「セーの法則」(供給が需要を生む…10作れば必ず10売れるはず…自由貿易で国境をなくして供給を増やせば需要も増えるはず)がグローバリズムや新自由主義を正当化する基本思想になっているとのこと。
このような思想による学説通りの「良い結果」をもたらすには様々な前提条件が必要になりますが、現実にその条件がそろうことはほぼ無いわけです。
ならば現実を見て適切な方法を探り複数の方法を組み合わせたり試行し修繕ていくのが人の道だろうと思うわけですが、台湾の「対中サービス貿易協定」も、日本の「TTP」もまっとうな民主主義が機能しない状態で進められるという似たような問題を抱えているんですよね。
その内容を国民はもちろん国会議員も知ることが出来ない。
三橋氏が指摘するように、秘密協定で行う理由は何なのかも、憶測するしかない異常な状態なのです。
この間のウクライナの問題も、台湾の現在進行形の問題も、日本はまったく他人事ではないんですね。
「一つの」思想や方法論を常に正しいと考えるってのは恐ろしい極論と言わざるをえないでしょう。
お祭り
語源は「祀る」にあると言われます。五穀豊穣を祈念するものでもありますね。
地域のお祭は神社の例大祭に行われるのが基本のようです。
吉祥寺の武蔵野八幡宮は9月15日。実家豊川の牛久保八幡社は4月8日でお祭は5日と6日。その近くの中条神社は3月の最終日曜日が例祭日で手筒花火150本ほどが上げられ奉納されます。それぞれ例大祭に近い土日を使ってお祭りが行われてるようですね。
神社のご祭神は地域ごとに違っていて祭礼の目的も様々。
日本は古来から何か一つのルールや教義に頼らず、何か行動するときの理由付けも「あいまいさ」や「なんとなく」が多く含まれていると思えます。
お祭りにしても、地元の神社のご祭神のことや祭礼の正確な目的などは知らないで参加する人が多いと思う。
現代では休日のイベントとして「楽しいから」見に来る人がほとんどだと思いますが、大昔でも、全ての民がお祭りの意義を意識するような時は飢饉や自然災害の時や、そういう記憶を呼び起こすような祈念の年で、平時は「楽しいお祭り」の意識だったんではないかなぁ…と。
それで良いと思います。
祭礼や意義を重んじて執り行うのは神官だったり、お祭りを主催する一部の人や、信心深い人たち。地域住民からすれば一握りの人々しか強く意識していなかったのでは?と思います。
なので、「お祭りって何?」って訊けば最初は「楽しい催し」と答える人が多いでしょう。
でも、もう少し突っ込んで訊けば「平和や恵みを祈るもの」と答えるかもしれない。
根底にある「八百万の神々」というものも、突っ込んで訊けば「そういえばそうだね」という感じで納得する人も出てくるんじゃないかと思う。
そいうのは「あいまい」に「なんとなく」共有しているんであって、「五穀豊穣だ〜〜!」「八百万の神々が〜〜!」なんて大昔の人だって大上段に構えて叫ぶような人は変な人って思われてたんじゃないかしら。
現代のネット上でも断言口調が嫌われる傾向があるのはそんな意識の表れかな?と。
「あいまい」に「なんとなく」共有できるのは、一つのルールや教義でまとめようとしない心理の現れだと思えます。
島国で、山や河で分けられた小さな地域に住む人たちは、争いの種になるような「これが唯一正しい考えだ!」なんてのを掲げるより、なるべく多くの人が「まぁ、それで良いよ」と思える「あいまい」さ「なんとなく」な感じを選択してきたのではないかと思うのです。「察しと思いやり」も口にすると角が立つようなことを避けるために発達した(外国人から見たら)超能力ですよね(^_^)
大事なことはゆる〜〜く共有されるのが日本流で、だからこそ2000年近く国柄が転覆するような「革命」が起こらなかったのでは?と思うのです。
お祭を見ていると、現代人のボクらと大昔の人の感覚って根っこではつながっていると感じます。
『グローバルなマニュアルに従った「お祭り」など、ゾッとします。』
三橋さんはブログでこう書いてます。
まったくですね。
仮にお祭りを「日本文化を象徴する大事なものだ。八百万の神々を大事にしよう!」と認めていたとしても「地域ごとにバラバラな例祭日を統一して国家規模のお祭りに改革しよう!」なんて言い出したら大反対しなければいけません。
「ゴジラ」では最初の被害があった大戸島の島民が浜辺で海の神を鎮める祭をするシーンがあります。
太古の時代、大切な恵みをもたらす海や河や山が時として大きな災禍をももたらすことから「八百万の神々」という意識が生まれ信仰に昇華してきたと考えられます。祭礼には自然の恵を祈ることと禍事を鎮める両面がありますからね。
日本人が物事には必ず両面があるということを認識していて「一つの」ルールや教義的なものを採用してこなかったのは「鎖国」の目的を考えてみてもわかります。
カトリック(スペイン・ポルトガル)は布教活動を推進してたため禁止し、商売中心のプロテスタント(オランダ)との貿易は認めて欧州の情報も仕入れていました。鎖国は貿易を閉じ世界への眼を閉ざしたんではなく一神教の侵入を防く意味があったわけですね。
しかし、スペイン・ポルトガルの個別の事情(日本以外での権益拡大)や清朝成立でアジア進出を止める国が多かった事情も複合的にあるようで、江戸幕府の交渉力だけでスペインやポルトガルが来なくなったんではなさそうです。この件で江戸幕府を過剰に持ち上げるのは無理がありますね。(この辺り、TPPが日本以外の事情で揉めて延び延びになっているのと似ています。鎖国時代を持ち上げて「安倍政権の交渉力」に期待を持たせるのは軽率だろうと思います。)
とはいえ、この「あいまい」と「なんとなく」も正悪の両面があって、大昔でも近現代でも戦乱を避けられなくなる原因にもなったんですよね。
何か一つの主張を常に正しいかのように上手に叫ぶ人に騙されて、多くの人々が「あいまい」に「なんとなく」扇動されてしまう恐ろしさは、戦争だけでなく、戦後の自虐史観だけでもなく、原発問題だけでもなく、現在進行形の政治経済の問題の数々、それこそ「全てに」「常に」含まれることだと意識していないと人の道を誤ってしまうのかもしれない。
他国の文化(宗教)にも両面を見る姿勢がもちろんあると思います。
あることが良く作用した時は神々のお導きと考え、悪く作用した時は何か神罰が下ったのだと解釈すること。「これは神が与え給うた試練だ。」などと言って外国映画でも見かけますよね。
では。
正悪の両面が入れ替わるかもしれない、または、視点の違いなだけでは?と予感すること、なんてのはあるんでしょうか?
正悪ではなく、どちらも真理で単に人間にとって都合が良いか悪いかの違いでしか無いのでは、という考え方は?
確証はないですが、どちらかといえば、欧米では「唯一正しい考え方」を求め、両面のどちらが正しいか?を求める傾向が強いのではと思ったりします。それは革命や戦争を繰り返してきた歴史に現れているのでは?…と。悪い一面、ですけどね。
日本人もずいぶん欧米的になっているんじゃないですか?
お祭りは、地域ごとの出来事、人によって違う願い事、自然の恵と禍事…様々な物事の両面を感謝したり鎮めたりする。
地域ごとに多様な、個性的な「お祭り」の楽しさと鷹揚な包容力を今年も味わいましょう♪
Comment:1
2作品の最終回お手伝い週間がどうにか終わりました。
お手伝いしたのは「キルラキル」と「Wake Up, Girls!」です。お楽しみに♪
さて
「安倍さんは新自由主義ちっく」…以前は冗談半分に言われていたこれが、ここまで日本経済の首を絞めるところまで来るとは思いもよらなかった。
その点は正直に反省しないといけない。アベノミクスに小躍りしすぎました。
アベノミクス自体が間違っているとは今でも考えていませんが、すでにアベノミクスの基本「金融緩和と財政出動のパッケージ政策」というものは思想面から瓦解しています。
であれば、なぜそうなっているのか考えて批判もしていかないといけないでしょう。
東北復興、防災減災で期待されている国土強靭化基本法に注目です。
この法律をまとめていた藤井聡教授は抱えていた病気の治療を先延ばしして仕事を続けられ、掛け値なしの「命がけ」でしたからね。
問題点をざっと挙げていきます。
『給料崩壊』三橋貴明「新」日本経済新聞
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/03/24/mitsuhashi-100/
『競争の激化とは、具体的には日本国内の労働市場に、「外国人」「女性」などの新規労働者を投入し、さらに企業のリストラを容易にし、あるいは活性化し、労働市場で「労働者同士」の競争を激化させることです。そのために必要な政策が、
「外国人の入出国手続きの簡素化」(最終的にはシュンゲン協定のように国境検査を廃止)
「外国移民の奨励」
「扶養控除の縮小・廃止」
「リストラ助成金(労働移動支援助成金)の拡大」
「派遣労働に対する規制緩和」
「金銭解雇(金銭を払えば解雇できる)の導入」
「解雇特区の設置」
などになるわけですが、恐ろしいことに安倍政権において上記の「全て」が推進されているか、議論されているか、もしくは議論に上ろうとしました。』
政府は小さくし、民間・市場に任せて競争を促進することで成長を高めよう、という考え方。
小泉政権から耳タコなフレーズです。
競争から落ちこぼれる者は負け組「自己責任」…こんな論調もありましたね。
このような政策の基本にあるのは、新古典派経済学を基にした考え方です。
それはざっくり言うと「供給が需要を生み出す」というもので、さらに非自発的失業者(働く意欲があるのに仕事がなくて失業してる人)は ”いない” としています。
働き手がいればそこに仕事がある(生まれる)はずだと考えるのが新古典派経済学に基づく考え方ということです。
学問ならば現実にあり得ない前提でも相関が成り立つかどうかがわかれば良いのです。
科学や医学などでもそうですよね。
ある条件下で成り立つ学説は、もちろん複雑な現実では「常に正しくはない」という留保が必要になります。
そして、この現実にはあり得ない考え方によって拡大される自由貿易。国境を取り外してヒト・モノ・カネのやりとりを自由にしていこうと主張するのが新自由主義と言われるもの。
三橋さんのブログで挙げられている政策は、これらの思想に基づいています。
競争や自由貿易は否定されるものではありません。必要なものだろうと思いますが「常に推進して良い」とは考えません。
デフレ不況から脱却できていない日本経済では、不適切な政策だと言わざるを得ないのです。
なぜ、思想の問題点に気が付かず、現実を見て政策を判断できないんでしょうか?
経済思想の混在
中野剛志・柴山桂太・施 光恒「まともな日本再生会議」と言う本の中で、中野剛志氏はこのように述べています。
『世界のパラダイムは、変革期にあります。新自由主義的な流れからケインズ主義的な流れに戻ってきている。しかし、新自由主義的な流れはしぶとい。ゾンビみたいなもので、「バイオハザード」的な世界です(笑)
こういう時代の変化ですから、政権与党である自民党は最大公約的に新自由主義的な流れとケインズ主義的な流れが混ざってた状態で混乱している。これからせめぎ合いがが続きます。
制度的にはすでに新自由主義が反映されてるし、役所もこの20年間の新自由主義で成功をおさめた人間が幹部を独占していして、人事権を握っている。政治も財界も官僚も、社会人の人生の半分以上を新自由主義者としてすごして、現在の地位に上がり詰めた人間が、「これからは新自由主義をやめます」という訳がない。
20年も人々を苦しめて、自殺者もたくさん出しているのにまだ新自由主義で遊ぼうというのは、いかにもまずい。』
ケインズ主義は超簡単にいうと財政政策を進めるもので、現実経済の不確実性や非効率を認める考え方です。なので取捨選択する政府の権限は確保されないといけない、と考えます。大きな政府寄りですね。
新古典派経済学に基づく新自由主義。そして消費税増税の根拠となった財政均衡主義。
約20年間、この2つがセットとなって日本の経済政策は行われてきました。
政府を小さくして民間に任せる…となれば大企業ほど恩恵に預かれます。大企業ほど政治やマスメディアへの発言力が強い。この思想を改められない背景にはこんな構造もあるわけですね。
小渕政権の時、軌道修正が試みられましたが残念ながら小渕さんは早くに亡くなってしまい元に戻ってしまいました。
リーマン・ショック後も修正できずにいます。
GDPデフレーターは平成六年(1994年)をピークに下がり続けています。下降が2年以上続くとデフレになったと定義されるそうなので、一般的に平成八年か九年(’96年か’97年)からデフレーションに陥っていると言われます。
その頃から自殺者が約1万人急増しました。(グラフが元号表記なので揃えるために少々読みづらいけど併記しています…)

(画像は産経新聞社の2010年5月13日の記事から引用)
内閣府の最新のデータはこちら ( http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/pdf/h25joukyou/zuhyo1.pdf )
急増というのは誇張でもなんでないことがこれらデータ、グラフから見てとれます。
趣旨からズレますが、平成二十三年(2011年)、つまり東日本大震災の年の5月に突出して増えた後減少傾向に転じています。
先の見えない一時的な絶望感から自殺が多発した時期を越え「生きねば」という気持が強まったのではないか。そんな分析を聞いたことがあありますが、数字を見ると納得できる気がします。
それ以降は安倍政権でのアベノミクスへの期待から(と思いたいですが)現在も減少傾向です。
毎年、年度の変わる春に自殺者が増えるのは、やはり次年度への不安が最大になるからでしょう。この傾向も安倍政権になった平成二十五(2013)年度はとてもなだらかになっています。
アベノミクスが原点の形で運用され、デフレを脱却し経済を好転させるものならば、今後さらに自殺する人を減らすことができると思います。
しかし、次年度には消費税が上がります。
財政均衡主義の幻に囚われて、反対する国民や、与党内の反対意見も結果的に無視され、決められてしまいました。
この時、持ちだされたのが、財政政策とのバーターです。
アベノミクスの第二の矢:財政出動そのものが、当初から金融緩和中心政策のためのバーターで作られたんなら、もう絶望せざるを得ません。
金融緩和と同等の「大胆な財政出動」ではなく「機動的な財政出動」…この言い回しの裏を今の状況で読むと、そんな疑念も湧いてきます。
思うに、財政均衡主義というのは新古典派経済学・新自由主義とは相性が良いのかもしれません。
政府の関与を最小化して民間・市場に任せれば適切に均衡するという思想。
政府支出を小さく抑えて赤字を出さないように均衡させようとする思想。
両者が常に連携しているとは言えないかもしれませんが、デフレ期に連携されると最悪の結果をもたらす可能性は極めて濃厚です。
そして消費税増税を控える現在、安倍政権で進められようとしている政策のほとんどが、新古典派経済学・新自由主義と財政均衡主義の連携した結果…最悪を現実にもたらす可能性が、極めて濃厚だと言われているのです。
第二次安倍政権の原点はどこへ?
安倍首相はまずはデフレ脱却して経済再生、東北の復興と国土強靭化、と訴えていました。
目標は間違っていないのです。
国家観の確かさ、実行力の高さも歴代首相では代えがたいと思います。
しかし、誤った方法を取っているために目標の実現が危うくなっています。
なぜ誤った方法をとってしまうのかは、思想面で間違ってしまっているからではないのか?そう疑わざるを得ない。
「個別の政策をあげつらって批判するのは良くない。目標を見誤っていなければ、今はそれで良いじゃないか。」
そんな声がよくあります。ボクもそう思っています。
しかしです。
経済を立ち直せなければ、かねてより目標としていた憲法改正の論議や誤った歴史認識の是正、教育改革などを行う力は衰退してくことになるとの警鐘は以前からありました。
さらに言えば、単に経済再生だけでなく新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義などを進めようとする思想の本質に気が付いていかないと、目標自体が歪んだものになってしまうのではないか?
そうだとすれば、もはや正しい国家観を持っているかどうかも疑わざるを得なくなります。
新古典派経済学・新自由主義は日本の伝統的な思想とは必ずしも一致しないからです。(時期によって利用するのは構わないんですが、利用されてしまってはいけないでしょう。)
戦後レジームを脱却するために立党された自民党が「今はそれで良い」と経済再生に集中し。「今はそれで良い」と日米同盟の片務性も目を瞑り。いつのまにか「戦後レジーム」を戦後レジームの枠内でしか考えられなくなってしまってはいないか?
経済問題で、根本にある思想に疑問を投げかけることが出来ないならば、国家観にも「?」を付けざるを得なくなってしまいます。
安倍首相が新自由主義者かどうかわかりませんが(やっていることはそのものですけどね)「新自由主義やめました」と言える程の覚悟がないと難しい。
たぶん無理でしょう。
安倍さんに全てを託す、そのような考え方もおかしいのです。
安倍さんの代わりがいるのか?そのような極論は思考停止のようなものでは?と思う。
スッキリとした明確な答えは求めても永久にやってこない。
それを求めるのは設計主義だ。
問いかけをし続けて何世代かけてでもやっていく気構えが必要なのかも。
それが、いわゆる「保守」(これも明確な形はない)というものでしょう。
もやもやとした不安、恐怖に耐えられるか。
デフレ不況というのは漠然とした不安感が増幅する状況ですから、パニックになりやすく、ショックドクトリンに騙されやすく、誤りに気がつけなくなってしまいがち。
政治経済以外でもそうなりやすい。わかりやすいスローガンが信じられ易くなってしまいます。
何しろ、無駄や余裕が忌避されて、リスクの少ない確実性のある方法、効率の良い方法、合理的な考え…が最優先されてしまうんですからね。そりゃあ設計主義的な考え方が優勢になりますよ。
デフレは新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義を修正するには最悪な状況ですねぇ。
…もう手に負えないとサジを投げたくなりますが、ちいさな声を重ねて大きくし、政府に届けていくことを心がけるしかないのでしょう。
お手伝いしたのは「キルラキル」と「Wake Up, Girls!」です。お楽しみに♪
さて
「安倍さんは新自由主義ちっく」…以前は冗談半分に言われていたこれが、ここまで日本経済の首を絞めるところまで来るとは思いもよらなかった。
その点は正直に反省しないといけない。アベノミクスに小躍りしすぎました。
アベノミクス自体が間違っているとは今でも考えていませんが、すでにアベノミクスの基本「金融緩和と財政出動のパッケージ政策」というものは思想面から瓦解しています。
であれば、なぜそうなっているのか考えて批判もしていかないといけないでしょう。
東北復興、防災減災で期待されている国土強靭化基本法に注目です。
この法律をまとめていた藤井聡教授は抱えていた病気の治療を先延ばしして仕事を続けられ、掛け値なしの「命がけ」でしたからね。
問題点をざっと挙げていきます。
『給料崩壊』三橋貴明「新」日本経済新聞
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/03/24/mitsuhashi-100/
『競争の激化とは、具体的には日本国内の労働市場に、「外国人」「女性」などの新規労働者を投入し、さらに企業のリストラを容易にし、あるいは活性化し、労働市場で「労働者同士」の競争を激化させることです。そのために必要な政策が、
「外国人の入出国手続きの簡素化」(最終的にはシュンゲン協定のように国境検査を廃止)
「外国移民の奨励」
「扶養控除の縮小・廃止」
「リストラ助成金(労働移動支援助成金)の拡大」
「派遣労働に対する規制緩和」
「金銭解雇(金銭を払えば解雇できる)の導入」
「解雇特区の設置」
などになるわけですが、恐ろしいことに安倍政権において上記の「全て」が推進されているか、議論されているか、もしくは議論に上ろうとしました。』
政府は小さくし、民間・市場に任せて競争を促進することで成長を高めよう、という考え方。
小泉政権から耳タコなフレーズです。
競争から落ちこぼれる者は負け組「自己責任」…こんな論調もありましたね。
このような政策の基本にあるのは、新古典派経済学を基にした考え方です。
それはざっくり言うと「供給が需要を生み出す」というもので、さらに非自発的失業者(働く意欲があるのに仕事がなくて失業してる人)は ”いない” としています。
働き手がいればそこに仕事がある(生まれる)はずだと考えるのが新古典派経済学に基づく考え方ということです。
学問ならば現実にあり得ない前提でも相関が成り立つかどうかがわかれば良いのです。
科学や医学などでもそうですよね。
ある条件下で成り立つ学説は、もちろん複雑な現実では「常に正しくはない」という留保が必要になります。
そして、この現実にはあり得ない考え方によって拡大される自由貿易。国境を取り外してヒト・モノ・カネのやりとりを自由にしていこうと主張するのが新自由主義と言われるもの。
三橋さんのブログで挙げられている政策は、これらの思想に基づいています。
競争や自由貿易は否定されるものではありません。必要なものだろうと思いますが「常に推進して良い」とは考えません。
デフレ不況から脱却できていない日本経済では、不適切な政策だと言わざるを得ないのです。
なぜ、思想の問題点に気が付かず、現実を見て政策を判断できないんでしょうか?
経済思想の混在
中野剛志・柴山桂太・施 光恒「まともな日本再生会議」と言う本の中で、中野剛志氏はこのように述べています。
『世界のパラダイムは、変革期にあります。新自由主義的な流れからケインズ主義的な流れに戻ってきている。しかし、新自由主義的な流れはしぶとい。ゾンビみたいなもので、「バイオハザード」的な世界です(笑)
こういう時代の変化ですから、政権与党である自民党は最大公約的に新自由主義的な流れとケインズ主義的な流れが混ざってた状態で混乱している。これからせめぎ合いがが続きます。
制度的にはすでに新自由主義が反映されてるし、役所もこの20年間の新自由主義で成功をおさめた人間が幹部を独占していして、人事権を握っている。政治も財界も官僚も、社会人の人生の半分以上を新自由主義者としてすごして、現在の地位に上がり詰めた人間が、「これからは新自由主義をやめます」という訳がない。
20年も人々を苦しめて、自殺者もたくさん出しているのにまだ新自由主義で遊ぼうというのは、いかにもまずい。』
ケインズ主義は超簡単にいうと財政政策を進めるもので、現実経済の不確実性や非効率を認める考え方です。なので取捨選択する政府の権限は確保されないといけない、と考えます。大きな政府寄りですね。
新古典派経済学に基づく新自由主義。そして消費税増税の根拠となった財政均衡主義。
約20年間、この2つがセットとなって日本の経済政策は行われてきました。
政府を小さくして民間に任せる…となれば大企業ほど恩恵に預かれます。大企業ほど政治やマスメディアへの発言力が強い。この思想を改められない背景にはこんな構造もあるわけですね。
小渕政権の時、軌道修正が試みられましたが残念ながら小渕さんは早くに亡くなってしまい元に戻ってしまいました。
リーマン・ショック後も修正できずにいます。
GDPデフレーターは平成六年(1994年)をピークに下がり続けています。下降が2年以上続くとデフレになったと定義されるそうなので、一般的に平成八年か九年(’96年か’97年)からデフレーションに陥っていると言われます。
その頃から自殺者が約1万人急増しました。(グラフが元号表記なので揃えるために少々読みづらいけど併記しています…)

(画像は産経新聞社の2010年5月13日の記事から引用)
内閣府の最新のデータはこちら ( http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/pdf/h25joukyou/zuhyo1.pdf )
急増というのは誇張でもなんでないことがこれらデータ、グラフから見てとれます。
趣旨からズレますが、平成二十三年(2011年)、つまり東日本大震災の年の5月に突出して増えた後減少傾向に転じています。
先の見えない一時的な絶望感から自殺が多発した時期を越え「生きねば」という気持が強まったのではないか。そんな分析を聞いたことがあありますが、数字を見ると納得できる気がします。
それ以降は安倍政権でのアベノミクスへの期待から(と思いたいですが)現在も減少傾向です。
毎年、年度の変わる春に自殺者が増えるのは、やはり次年度への不安が最大になるからでしょう。この傾向も安倍政権になった平成二十五(2013)年度はとてもなだらかになっています。
アベノミクスが原点の形で運用され、デフレを脱却し経済を好転させるものならば、今後さらに自殺する人を減らすことができると思います。
しかし、次年度には消費税が上がります。
財政均衡主義の幻に囚われて、反対する国民や、与党内の反対意見も結果的に無視され、決められてしまいました。
この時、持ちだされたのが、財政政策とのバーターです。
アベノミクスの第二の矢:財政出動そのものが、当初から金融緩和中心政策のためのバーターで作られたんなら、もう絶望せざるを得ません。
金融緩和と同等の「大胆な財政出動」ではなく「機動的な財政出動」…この言い回しの裏を今の状況で読むと、そんな疑念も湧いてきます。
思うに、財政均衡主義というのは新古典派経済学・新自由主義とは相性が良いのかもしれません。
政府の関与を最小化して民間・市場に任せれば適切に均衡するという思想。
政府支出を小さく抑えて赤字を出さないように均衡させようとする思想。
両者が常に連携しているとは言えないかもしれませんが、デフレ期に連携されると最悪の結果をもたらす可能性は極めて濃厚です。
そして消費税増税を控える現在、安倍政権で進められようとしている政策のほとんどが、新古典派経済学・新自由主義と財政均衡主義の連携した結果…最悪を現実にもたらす可能性が、極めて濃厚だと言われているのです。
第二次安倍政権の原点はどこへ?
安倍首相はまずはデフレ脱却して経済再生、東北の復興と国土強靭化、と訴えていました。
目標は間違っていないのです。
国家観の確かさ、実行力の高さも歴代首相では代えがたいと思います。
しかし、誤った方法を取っているために目標の実現が危うくなっています。
なぜ誤った方法をとってしまうのかは、思想面で間違ってしまっているからではないのか?そう疑わざるを得ない。
「個別の政策をあげつらって批判するのは良くない。目標を見誤っていなければ、今はそれで良いじゃないか。」
そんな声がよくあります。ボクもそう思っています。
しかしです。
経済を立ち直せなければ、かねてより目標としていた憲法改正の論議や誤った歴史認識の是正、教育改革などを行う力は衰退してくことになるとの警鐘は以前からありました。
さらに言えば、単に経済再生だけでなく新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義などを進めようとする思想の本質に気が付いていかないと、目標自体が歪んだものになってしまうのではないか?
そうだとすれば、もはや正しい国家観を持っているかどうかも疑わざるを得なくなります。
新古典派経済学・新自由主義は日本の伝統的な思想とは必ずしも一致しないからです。(時期によって利用するのは構わないんですが、利用されてしまってはいけないでしょう。)
戦後レジームを脱却するために立党された自民党が「今はそれで良い」と経済再生に集中し。「今はそれで良い」と日米同盟の片務性も目を瞑り。いつのまにか「戦後レジーム」を戦後レジームの枠内でしか考えられなくなってしまってはいないか?
経済問題で、根本にある思想に疑問を投げかけることが出来ないならば、国家観にも「?」を付けざるを得なくなってしまいます。
安倍首相が新自由主義者かどうかわかりませんが(やっていることはそのものですけどね)「新自由主義やめました」と言える程の覚悟がないと難しい。
たぶん無理でしょう。
安倍さんに全てを託す、そのような考え方もおかしいのです。
安倍さんの代わりがいるのか?そのような極論は思考停止のようなものでは?と思う。
スッキリとした明確な答えは求めても永久にやってこない。
それを求めるのは設計主義だ。
問いかけをし続けて何世代かけてでもやっていく気構えが必要なのかも。
それが、いわゆる「保守」(これも明確な形はない)というものでしょう。
もやもやとした不安、恐怖に耐えられるか。
デフレ不況というのは漠然とした不安感が増幅する状況ですから、パニックになりやすく、ショックドクトリンに騙されやすく、誤りに気がつけなくなってしまいがち。
政治経済以外でもそうなりやすい。わかりやすいスローガンが信じられ易くなってしまいます。
何しろ、無駄や余裕が忌避されて、リスクの少ない確実性のある方法、効率の良い方法、合理的な考え…が最優先されてしまうんですからね。そりゃあ設計主義的な考え方が優勢になりますよ。
デフレは新古典派経済学・新自由主義、財政均衡主義を修正するには最悪な状況ですねぇ。
…もう手に負えないとサジを投げたくなりますが、ちいさな声を重ねて大きくし、政府に届けていくことを心がけるしかないのでしょう。
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地震の話が続きます。
昨日未明に瀬戸内で地震がありました。
けが人が出てるし建物の被害も結構あるようだ。
調べてみると、1596年の慶長伊予地震の3日後、慶長豊後地震が発生(それぞれM7.0)、その後9年間、慶長の大地震と呼ばれる連続地震に発展している。
今回の場合、3年前の東北地方太平洋沖地震から静岡東、伊予と逆順で西へ移動してるみたいに見える。
尤も、2011年以降北海道から九州まで連発してるのでその一部とも思える。
即座に東南海地震の前兆とは言えないんだろうけど、対策を急がないとヤバイ。
5月に作成される国土強靭化基本計画は本当に重要です。
国民が「公共事業は悪」という なんとなくな集団心理 から抜けられれば、被害を小さくする取組みが加速できると思います。
産業や生活の安定に欠かせないのは電気です。
電気が不安定ですと生産業は発展できなくなりますし縮小したり海外に逃げて行ったりします。
つまり我々国民の所得を減らしてしまうわけですね。
デフレ不況と電力の不安定はダブルパンチ以上の悲劇をまねきます。
「経済が大事というが、命の方が大事だから節電を」という意見は一部しか見ていないのでは?と思わざるを得ません。
公共施設や病院、介護施設など電気の不安定が命にかかわる場合もあります。
2月の発受電電力量、大雪で4カ月ぶり前年超え
『電力10社合計の発電の内訳によると、国内で唯一稼働していた関西電力大飯原発3、4号機(福井県)が昨年9月に定期検査のため停止したため、「原子力」は5カ月連続のゼロ。代替する「火力」が5・9%増の614億1千万キロワット時で、2月としては過去2番目となった。』
基幹電源を輸入燃料に頼っているために4兆円近いお金が余分にかかっています。
日本は燃料を”買わざるをえない”ので売る方は値段を下げません。日本は良いカモなのです。
なぜでしょうか?
特に夏と冬、普段の生活にすらギリギリの状態が続いているこの3年。
電気は足りていません。
国土強靭化のための事業にはお金も電気も必要です。
デフレ不況から脱却して所得を増やし社会保障を安定化させるためにも十分な電気は必要です。
想定されている大地震に備えるために、被害を少なくするために、どうするのが良いんでしょうか?
日常生活の時間から少しだけ割いて、少し調べて、少し考えてみれば、何が必要か見えてくるんじゃないでしょうか。
昨日未明に瀬戸内で地震がありました。
けが人が出てるし建物の被害も結構あるようだ。
調べてみると、1596年の慶長伊予地震の3日後、慶長豊後地震が発生(それぞれM7.0)、その後9年間、慶長の大地震と呼ばれる連続地震に発展している。
今回の場合、3年前の東北地方太平洋沖地震から静岡東、伊予と逆順で西へ移動してるみたいに見える。
尤も、2011年以降北海道から九州まで連発してるのでその一部とも思える。
即座に東南海地震の前兆とは言えないんだろうけど、対策を急がないとヤバイ。
5月に作成される国土強靭化基本計画は本当に重要です。
国民が「公共事業は悪」という なんとなくな集団心理 から抜けられれば、被害を小さくする取組みが加速できると思います。
産業や生活の安定に欠かせないのは電気です。
電気が不安定ですと生産業は発展できなくなりますし縮小したり海外に逃げて行ったりします。
つまり我々国民の所得を減らしてしまうわけですね。
デフレ不況と電力の不安定はダブルパンチ以上の悲劇をまねきます。
「経済が大事というが、命の方が大事だから節電を」という意見は一部しか見ていないのでは?と思わざるを得ません。
公共施設や病院、介護施設など電気の不安定が命にかかわる場合もあります。
2月の発受電電力量、大雪で4カ月ぶり前年超え
『電力10社合計の発電の内訳によると、国内で唯一稼働していた関西電力大飯原発3、4号機(福井県)が昨年9月に定期検査のため停止したため、「原子力」は5カ月連続のゼロ。代替する「火力」が5・9%増の614億1千万キロワット時で、2月としては過去2番目となった。』
基幹電源を輸入燃料に頼っているために4兆円近いお金が余分にかかっています。
日本は燃料を”買わざるをえない”ので売る方は値段を下げません。日本は良いカモなのです。
なぜでしょうか?
特に夏と冬、普段の生活にすらギリギリの状態が続いているこの3年。
電気は足りていません。
国土強靭化のための事業にはお金も電気も必要です。
デフレ不況から脱却して所得を増やし社会保障を安定化させるためにも十分な電気は必要です。
想定されている大地震に備えるために、被害を少なくするために、どうするのが良いんでしょうか?
日常生活の時間から少しだけ割いて、少し調べて、少し考えてみれば、何が必要か見えてくるんじゃないでしょうか。
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舛添要一氏が当選しました。
彼は田母神氏の政策の一部を後から追加してたので、是非その点はお忘れなく都政に生かして頂きたいと思います。
先ず最大の敬意を。(ボキャブラ不足で「ごくろうさん」的な文字列になってしまうのですが…)
約2週間、寒さの中、45年ぶりの大雪になった最終日もまったく怯むことなくがんばってくださった。
田母神俊雄さん、一緒に活動したスタッフの皆さん。
選挙カーでマイクを握り語りかけた皆さん。
ポスティングや電話など選挙運動をがんばったボランティアの皆さん。
ネットで支援運動を重ねた皆さん。
本当にお疲れ様でした。
結果は4位でした。残念、と言うよりは、悔しいです。
昨日は、クサクサした気分で口汚い毒をドクドク出したい気分でした。
ボクはストレートに出す歳ではないですが、出したってイイじゃないか、昨日くらいは、と思いました。
というわけで落ち着きまして、是々非々で長々書きますよ。
東京都選挙管理委員会の投票結果です。
投票数(下3桁は四捨五入)
当日有権者数:10,685,000人
投票者数:4,930,000人
棄権者数:5,755,000人
投票率:46.14(前回投票率:62.60%)
候補者別得票数(主要4候補、下3桁四捨五入)
舛添要一:2,113,000票
宇都宮健児:983,000票
細川護煕:956,000票
田母神俊雄:611,000票
雪の影響もあり投票率は46%、過去3番目に低い数字だった。
棄権した人の方が多い選挙だったわけで、適切な民主主義を発動させるには少なくとも過半数が意思表明していないのは問題ありだと思います。
一票の格差より、投票率が上がらない状況を改善する工夫のが急務なんじゃないでしょうか。
政治家、公務員は少ないくらいなんですから。
すでに行われてる地域もあるようですが、人口の多い街であれば投票所を繁華街の近くに増設する。少ない所は不便な場所でないか再点検して移設する、など加速した方が良いでしょう。
昔は地域社会と一体だった学校や公民館などが現代では必ずしも人が集まる場所でなくなったので、再点検は必要でしょう。…田母神さんの視点は地域社会の再構築にあったんですけどね。。。
携帯・スマホに投票所入場整理券のデータをQRコードなどで読み込めるようにして券なしで投票できるようにする。旧来の方法と情報通信技術を可能な範囲で投票に組み合わせ、将来のネット投票につながるようにすれば良いと思う。そのような取組み自体が選挙への感心を高めるのでは?と思います。
…今回の都知事選では、投票率が上がった場合、パーセンテージからして宇都宮・細川両氏、特に50代以上の得票が多かった細川氏の得票が増えたんだろうと予想できますけどね。
この数字で最も衝撃だったのは政策らしい政策が全くないと言って良い細川氏が95万6千票も取って3位だったことです。
唯一の「即時原発ゼロ」も出口を示さない無責任な政策だったにもかかわらず、です。
自民党が舛添氏を支援したのはなぜか?
候補者別の得票数を見て下さい。
舛添氏は211万票。
二位の宇都宮氏の倍以上です。ダントツと言って良いでしょう。
しかし、当初、「脱原発」で一本化しようという動きが細川氏からありました。
この2人は「原発問題」で概ね一致し、その他の政策でも安倍政権の基本政策を批判していました。
政党支援では宇都宮氏には共産党、社民党、緑の党が付き、細川氏には有名人や民主党が支援し、反与党で一体的だったのです。
つまり、投票した人も両者で違いは大きくなかったと見て取れますから、宇都宮+細川で98万3千票+95万6千票=193万9千票。
もう少しで200万票に届きます。
東京は元々革新・左派系が強いと言われていましたが、この数字には驚きです。
もし、自民党が田母神氏を支援していたら、公明党の支持母体が揺らぐ可能性があったでしょう。憲法改正や核武装の議論も活発に発言している田母神氏を公明党の票田は支持できそうにないからです。
そして、労組系も割れる可能性があります。田母神氏は公共事業を推していましたが、これまでの自民党流とは変える可能性が伺えました。
旧来の支持企業が利権を失いかねないとグラついた可能性も予想出来ました。
つまり、自民党は田母神氏を支援しても「おいしくない」結果が見えていたのでしょう。
加えて、田母神氏のマッチョなイメージで離れる人々を最も警戒したと考えられます。
細川氏で逆転したかは微妙です、しかし、宇都宮氏一本ならあり得たかもしれません。
これは本当に恐ろしいことですから、自民党が警戒し堅実に見える舛添氏を支援したと考えられますね。
他に候補が居ないのも頼りないのですが…。
もしかしたら、小泉純一郎氏は自民党の頼りなさや舛添氏の評判の悪さを心配して、宇都宮票を割るために細川氏を担いだのでは?そんな疑念すら湧いてしまいます。一本化の話の時「ん?(あやしい)」と思いましたけど、結果を見ると、マジだったのかなぁ、なんてね。
麻生政権時に論文で政権にダメージを与えた田母神氏より、野党転落時に後ろ足で砂をかけて去っていった舛添氏を支援した事情には、このような「現実的」な計算があっての事だったと思います。
マスコミ的に言えば「党利党略」ですね。
政策で見たって自民党が田母神さんを支援しないのはおかしい!と思いますか?
ボクはそうは思いません。政策でも舛添氏だったのだと思います。舛添氏が党首だった新党改革はたちあがれ日本と統一会派だったり首相指名の決選投票で谷垣氏に入れたり、自民党と政策が近かった。
だから、田母神氏が出る以前は消極的に舛添氏かな?と考えていたのです。
ブログで繰り返し書いたように、田母神氏は金融緩和は維持した上で財政出動を積極的に行う政策を提言しており、安倍政権の新自由主義的な傾向にぶつかる可能性がありました。
自民党内では新自由主義的な経済観を持つ人が多数。媚中派も多くいますから田母神支援はあり得なかったのでしょう。
もちろん、それで良いとは思いません。
だ か ら 田母神さんを応援してたんです。
…ふぅ。
数字から分かるのは、東京の「革新・左派」の強さと「自民・公明の組織票」の強さです。
それに引っ張られる形で「それ以外」の浮動票が主に上位3者に配分されたのでしょう。
低投票率では「政党・組織」の票が固く。配分された「浮動票」が少なかったと言えると思います。
「政党・組織」の固定層と「それ以外」の浮動層
田母神氏は61万1千票取りました。
この数字をどう見るか。
ボクは選挙戦で繰り返し『「政党・組織」の支援を受けない(主要)候補は田母神氏だけ』と書いてきました。
ボクと同じ考えでもっと早くからこの点を強調してた方もいます。
数字から分かるのは、「政党・組織」のしがらみから離れ自民党とも違う「保守」な人が61万人近くいるのだろうということです。
古谷経衡さんはヤフーに投稿した記事で、そのような新しい保守層を「新保守」と名づけました。そして投票結果から「新保守」が全国に250万人いると試算しています。
ボクは、田母神氏には「新保守」以外の浮動票は多く入らなかったと考えています。
浮動層はそれほど田母神氏に動いていないのではないか?と。
それは選挙運動がネットと街頭演説に留まり、昔ながらの「どぶ板」的な地道な活動が不足していたと言われること。投票した人が30代までに偏って年配の支持が得られていないことから分かります。
チラシのポスティングに地道な努力をしたボランテティアの方々には最大限の敬意を払った上で、現実を見ればそれでは足らなかった、あるいは別な手法と連携する必要があったのだろうと受け止めざるを得ません。
「それ以外」のほとんどは世間の話題性や知名度、イメージに左右される感覚中心の「浮動層」です。マジョリティという言い方もできます。
このような層を味方に付けられるかどうかが当否を左右すると思います。
アニメに置き換えて考えてみる
ボクもアニメファンでしたから、社会のマイノリティとして忸怩たる思いを今でも持っています。その点で田母神ファン、今回支援した方々(ボクもです)と通じるものがあります。
コアなアニメファンが一定程度います。これを「固定層」と設定します。
それ以外を「浮動層」と設定します。
ざっくり言って一般のアニメの受け止め方は「ジブリ以外はオタク向け」だと思います。(かなりざっくりですが、実際そういう話をアニメファンでない人から何度も聞いたことがあります。)
アニメの社会的認識が、漫画ほどに広く認識されるには「浮動層」を捕まえないといけません。
漫画にはそれが可能な広い視点と作品群があります。
飲み友達に漫画編集者がいますが、実にいろんなことに興味を持ち勉強しています。
アニメにはそれが足らないとボクは感じています。
・漫画など他のエンタメコンテンツに比較してお金(コスト、人手)がかかること。
・確実に利益を確保するためコア層向けのビジネスモデルに偏っていること。
・デフレ不況がそれに輪をかけてリスクの高い浮動層獲得を結果的に切り捨ててしまっていること。
だと考えています。
現場も製作側も一般層に訴えるアニメを作れれば良いと考えていますが、上手くいってません。
アニメは漫画ほど広い「固定層」を得るための努力をして来たか疑問なのです。これも、伝統文化の継承と同じように長い時間がかかるのだと思います。
確実に売る努力を続けてきたために自ら需要を狭め、幅のある供給力を失うループにハマった。伝統文化を失わせる方向に時間をかけてしまってたんじゃないでしょうか。(個々人に責任があるかというと、そうとは言い切れない。みんな努力してるのです。後述)
このままでは「アニメはオタクが見るもの」というイメージの固定化が更に進みます。
とはいえ、いきなり「浮動層」を捕まえようと気張って作っても、両方からそっぽを向かれてしまう、というのがこれまでの経験則です。
挑戦的な作品が、見識の高いコアなアニメファン「固定層」を唸らすことが出来なければ「浮動層」にも広がらず「こういうアニメもあるんだな」と認識を新たにしてもらえない。
一時の挑戦でなく作り続けることで需要の幅も広がり、供給側の表現力も広がっていきます。これが望ましいループ。業界の成長なのだろうと思います。
東映系と手塚アニメの2大勢力から、虫プロ、東京ムービー、シンエイ、日本アニメ、サンライズ、マッドハウス、AIC、ガイナックス…と90年代までに広がっていった表現力の幅が今はずいぶん縮小しているのでは?と(挑戦してる人はいるけど経済的に報われないから広がりにくい)と感じます。
挑戦して賛否両論よりは少し前の評判に従って作った方が良い。評価(利益)を得るための努力が却って表現力を限定させていく。みんなの努力が互いに首を絞め合う、まさにデフレです。
アニメ経済も、15年のデフレ不況で緊縮傾向に慣れてしまい、現状維持を望む経済状況と符号するんですよね。
都知事選に話を戻します。
・選挙にはお金(コスト、人手)がかかること。
・元々の保守層に向けた演説に偏りすぎた。後半は修正しましたが十分でなかった。
・デフレ不況下の、下手に挑戦して悪化するより現状維持でじっとしてた方が良い、という消極姿勢を動かすレトリックが不足し、理解が広がらなかった。
加えて、田母神氏が自衛隊出身という影響でいえば、阪神淡路や東日本大震災での組織力、隊員個人個人の献身的な活動がある程度知られていても、未だに悪いイメージが貼り付いている、そう認めざるをえない点でしょう。
「保守層」という確実な「固定層」が「浮動層」を牽引して支持者を広げるまでに育てられていないのが、田母神氏(や保守政治)が一般に広がらない大きな原因の一つであり、そのループから出ていないのではないか。と思います。
今回、そのループから出ようと支援者は足掻きました。でも、まだまだ「浮動層」をこちらに惹きつけるには至らなかった。
マスメディアが田母神氏を泡沫扱いして無視していたとしても、そこに原因を持って行ってはダメなのです。
方法に間違いがあったのでは?と反省しなければ、このまま「田母神氏はネトウヨにしか需要がない」と固定してしまうでしょう。
いきなり「浮動層」に働きかけても引いてしまうし、「固定・浮動」の双方から批判を受けてしまう。
まずは「固定層」の意識を改めて、広く受け入れられるための方法論を(ガチの人には不本意だろうと)工夫しないと広げることは出来ないでしょう。
わかりやすく言えば「中韓叩き」や「戦後レジーム批判」だけ、或いはそれに偏っていては、まったく支持者を広げない。焦って声高に叫べ叫ぶほど、むしろ共感を減らしてしまう弊害の方が大きい、ということだと思います。
「またか」と思ったこと
告示前から、消費税増税の時と同じく、経済を勉強してる一部の人々(保守を自称しているはずなのですがね…)が細川氏の悪質なコラージュを作成して拡散してる人たちがいました。
ボクは思わず、またか、とつぶやきました。
それと同じ人たちが、敗けた田母神陣営を揶揄しています。
この人々はボクが見た限り「消極的に田母神氏だ」と言っていた人たち(一般の人が思う消極的とは明確に違います。)で、選挙期間中、積極的に田母神氏を支援することがなかった「一派」です。
なぜか。
金融政策派と財政政策派で考えればわかります。田母神氏は彼らが消費税増税政局で攻撃した麻生副総理に近い政策を掲げていたからです。
しかし、筋の悪い舛添氏を積極支援することも出来ませんから、「消極的に田母神」であって、この選挙期間中は静かだったのでは?と疑っています。
結果が出た途端、田母神陣営や応援した人を揶揄するツイートやFB投稿を活発に行なっています。
正直、結果が出て急に元気になりやがった、と思いましたよ。
ボクはこの人たちには社会を前向きに変えることなど出来ないと思ってます。経済学の使い方も含めて、不誠実ですから。
特徴的なのは田母神さん本人には言及せず選挙運動を指揮した団体や積極支援した人たちを揶揄していることです。
消費増税の時は決して安倍首相を批判しなかったのと似ています。
…こういうことは無くならないのでしょうが、少なくとも、それをクダラナイ戯言だと多くの人が眉をひそめるまっとうな民主主義が広がらないと、選挙や重要な政策課題が議論される度に政局じみたクダラナイ雑音にリソースを食われることになります。
無視すれば良いのですが、「浮動層」にそこそこ影響力があるようなので今回だけ書くことにしました。
まとめ。今後への提言
まずは「固定層」側の「保守(新保守)」が自らの思想や方法論を精査し、間違いを反省して今後に生かすこと。
「固定層」がその内側の程度の差、多少の温度差を越えて「浮動層」…大きな世論に働きかけることが出来るツールを持つこと。
これまでは「尖閣問題」「慰安婦問題」「天皇、ご皇室」がツールの中心でしたが「浮動層」にはまだハードルが高い。これらを声高に叫んで引き下げようとしても却って扉は閉ざされてしまいます。
ツールは硬いものから柔らかいものまで幾つか持つ必要があるでしょう。
三橋さんもブログで書いていたように日本人の保守思想と相通づる様々なツールやレトリックを、少々あざとかろうが使っていくことを考えないといけないのだろうと思います。
軸がしっかりしてくれば「またか」のようなことも減るでしょう。
それぞれが自由な意思でツールを使いこなすことができれば、田母神的な需要はじっくりと拡大してくと思います。
若者層では、田母神氏の得票は2位だったそうです。
リアルに支援活動した方々の成果だと思います。
将来を造るのは若者ですから、そこに希望を見出そうと思います。
これからも、微力&拙いのは承知で発言していきますよ。
仕事でも、少しづつ出来ることからやっていきます。
彼は田母神氏の政策の一部を後から追加してたので、是非その点はお忘れなく都政に生かして頂きたいと思います。
先ず最大の敬意を。(ボキャブラ不足で「ごくろうさん」的な文字列になってしまうのですが…)
約2週間、寒さの中、45年ぶりの大雪になった最終日もまったく怯むことなくがんばってくださった。
田母神俊雄さん、一緒に活動したスタッフの皆さん。
選挙カーでマイクを握り語りかけた皆さん。
ポスティングや電話など選挙運動をがんばったボランティアの皆さん。
ネットで支援運動を重ねた皆さん。
本当にお疲れ様でした。
結果は4位でした。残念、と言うよりは、悔しいです。
昨日は、クサクサした気分で口汚い毒をドクドク出したい気分でした。
ボクはストレートに出す歳ではないですが、出したってイイじゃないか、昨日くらいは、と思いました。
というわけで落ち着きまして、是々非々で長々書きますよ。
東京都選挙管理委員会の投票結果です。
投票数(下3桁は四捨五入)
当日有権者数:10,685,000人
投票者数:4,930,000人
棄権者数:5,755,000人
投票率:46.14(前回投票率:62.60%)
候補者別得票数(主要4候補、下3桁四捨五入)
舛添要一:2,113,000票
宇都宮健児:983,000票
細川護煕:956,000票
田母神俊雄:611,000票
雪の影響もあり投票率は46%、過去3番目に低い数字だった。
棄権した人の方が多い選挙だったわけで、適切な民主主義を発動させるには少なくとも過半数が意思表明していないのは問題ありだと思います。
一票の格差より、投票率が上がらない状況を改善する工夫のが急務なんじゃないでしょうか。
政治家、公務員は少ないくらいなんですから。
すでに行われてる地域もあるようですが、人口の多い街であれば投票所を繁華街の近くに増設する。少ない所は不便な場所でないか再点検して移設する、など加速した方が良いでしょう。
昔は地域社会と一体だった学校や公民館などが現代では必ずしも人が集まる場所でなくなったので、再点検は必要でしょう。…田母神さんの視点は地域社会の再構築にあったんですけどね。。。
携帯・スマホに投票所入場整理券のデータをQRコードなどで読み込めるようにして券なしで投票できるようにする。旧来の方法と情報通信技術を可能な範囲で投票に組み合わせ、将来のネット投票につながるようにすれば良いと思う。そのような取組み自体が選挙への感心を高めるのでは?と思います。
…今回の都知事選では、投票率が上がった場合、パーセンテージからして宇都宮・細川両氏、特に50代以上の得票が多かった細川氏の得票が増えたんだろうと予想できますけどね。
この数字で最も衝撃だったのは政策らしい政策が全くないと言って良い細川氏が95万6千票も取って3位だったことです。
唯一の「即時原発ゼロ」も出口を示さない無責任な政策だったにもかかわらず、です。
自民党が舛添氏を支援したのはなぜか?
候補者別の得票数を見て下さい。
舛添氏は211万票。
二位の宇都宮氏の倍以上です。ダントツと言って良いでしょう。
しかし、当初、「脱原発」で一本化しようという動きが細川氏からありました。
この2人は「原発問題」で概ね一致し、その他の政策でも安倍政権の基本政策を批判していました。
政党支援では宇都宮氏には共産党、社民党、緑の党が付き、細川氏には有名人や民主党が支援し、反与党で一体的だったのです。
つまり、投票した人も両者で違いは大きくなかったと見て取れますから、宇都宮+細川で98万3千票+95万6千票=193万9千票。
もう少しで200万票に届きます。
東京は元々革新・左派系が強いと言われていましたが、この数字には驚きです。
もし、自民党が田母神氏を支援していたら、公明党の支持母体が揺らぐ可能性があったでしょう。憲法改正や核武装の議論も活発に発言している田母神氏を公明党の票田は支持できそうにないからです。
そして、労組系も割れる可能性があります。田母神氏は公共事業を推していましたが、これまでの自民党流とは変える可能性が伺えました。
旧来の支持企業が利権を失いかねないとグラついた可能性も予想出来ました。
つまり、自民党は田母神氏を支援しても「おいしくない」結果が見えていたのでしょう。
加えて、田母神氏のマッチョなイメージで離れる人々を最も警戒したと考えられます。
細川氏で逆転したかは微妙です、しかし、宇都宮氏一本ならあり得たかもしれません。
これは本当に恐ろしいことですから、自民党が警戒し堅実に見える舛添氏を支援したと考えられますね。
他に候補が居ないのも頼りないのですが…。
もしかしたら、小泉純一郎氏は自民党の頼りなさや舛添氏の評判の悪さを心配して、宇都宮票を割るために細川氏を担いだのでは?そんな疑念すら湧いてしまいます。一本化の話の時「ん?(あやしい)」と思いましたけど、結果を見ると、マジだったのかなぁ、なんてね。
麻生政権時に論文で政権にダメージを与えた田母神氏より、野党転落時に後ろ足で砂をかけて去っていった舛添氏を支援した事情には、このような「現実的」な計算があっての事だったと思います。
マスコミ的に言えば「党利党略」ですね。
政策で見たって自民党が田母神さんを支援しないのはおかしい!と思いますか?
ボクはそうは思いません。政策でも舛添氏だったのだと思います。舛添氏が党首だった新党改革はたちあがれ日本と統一会派だったり首相指名の決選投票で谷垣氏に入れたり、自民党と政策が近かった。
だから、田母神氏が出る以前は消極的に舛添氏かな?と考えていたのです。
ブログで繰り返し書いたように、田母神氏は金融緩和は維持した上で財政出動を積極的に行う政策を提言しており、安倍政権の新自由主義的な傾向にぶつかる可能性がありました。
自民党内では新自由主義的な経済観を持つ人が多数。媚中派も多くいますから田母神支援はあり得なかったのでしょう。
もちろん、それで良いとは思いません。
だ か ら 田母神さんを応援してたんです。
…ふぅ。
数字から分かるのは、東京の「革新・左派」の強さと「自民・公明の組織票」の強さです。
それに引っ張られる形で「それ以外」の浮動票が主に上位3者に配分されたのでしょう。
低投票率では「政党・組織」の票が固く。配分された「浮動票」が少なかったと言えると思います。
「政党・組織」の固定層と「それ以外」の浮動層
田母神氏は61万1千票取りました。
この数字をどう見るか。
ボクは選挙戦で繰り返し『「政党・組織」の支援を受けない(主要)候補は田母神氏だけ』と書いてきました。
ボクと同じ考えでもっと早くからこの点を強調してた方もいます。
数字から分かるのは、「政党・組織」のしがらみから離れ自民党とも違う「保守」な人が61万人近くいるのだろうということです。
古谷経衡さんはヤフーに投稿した記事で、そのような新しい保守層を「新保守」と名づけました。そして投票結果から「新保守」が全国に250万人いると試算しています。
ボクは、田母神氏には「新保守」以外の浮動票は多く入らなかったと考えています。
浮動層はそれほど田母神氏に動いていないのではないか?と。
それは選挙運動がネットと街頭演説に留まり、昔ながらの「どぶ板」的な地道な活動が不足していたと言われること。投票した人が30代までに偏って年配の支持が得られていないことから分かります。
チラシのポスティングに地道な努力をしたボランテティアの方々には最大限の敬意を払った上で、現実を見ればそれでは足らなかった、あるいは別な手法と連携する必要があったのだろうと受け止めざるを得ません。
「それ以外」のほとんどは世間の話題性や知名度、イメージに左右される感覚中心の「浮動層」です。マジョリティという言い方もできます。
このような層を味方に付けられるかどうかが当否を左右すると思います。
アニメに置き換えて考えてみる
ボクもアニメファンでしたから、社会のマイノリティとして忸怩たる思いを今でも持っています。その点で田母神ファン、今回支援した方々(ボクもです)と通じるものがあります。
コアなアニメファンが一定程度います。これを「固定層」と設定します。
それ以外を「浮動層」と設定します。
ざっくり言って一般のアニメの受け止め方は「ジブリ以外はオタク向け」だと思います。(かなりざっくりですが、実際そういう話をアニメファンでない人から何度も聞いたことがあります。)
アニメの社会的認識が、漫画ほどに広く認識されるには「浮動層」を捕まえないといけません。
漫画にはそれが可能な広い視点と作品群があります。
飲み友達に漫画編集者がいますが、実にいろんなことに興味を持ち勉強しています。
アニメにはそれが足らないとボクは感じています。
・漫画など他のエンタメコンテンツに比較してお金(コスト、人手)がかかること。
・確実に利益を確保するためコア層向けのビジネスモデルに偏っていること。
・デフレ不況がそれに輪をかけてリスクの高い浮動層獲得を結果的に切り捨ててしまっていること。
だと考えています。
現場も製作側も一般層に訴えるアニメを作れれば良いと考えていますが、上手くいってません。
アニメは漫画ほど広い「固定層」を得るための努力をして来たか疑問なのです。これも、伝統文化の継承と同じように長い時間がかかるのだと思います。
確実に売る努力を続けてきたために自ら需要を狭め、幅のある供給力を失うループにハマった。伝統文化を失わせる方向に時間をかけてしまってたんじゃないでしょうか。(個々人に責任があるかというと、そうとは言い切れない。みんな努力してるのです。後述)
このままでは「アニメはオタクが見るもの」というイメージの固定化が更に進みます。
とはいえ、いきなり「浮動層」を捕まえようと気張って作っても、両方からそっぽを向かれてしまう、というのがこれまでの経験則です。
挑戦的な作品が、見識の高いコアなアニメファン「固定層」を唸らすことが出来なければ「浮動層」にも広がらず「こういうアニメもあるんだな」と認識を新たにしてもらえない。
一時の挑戦でなく作り続けることで需要の幅も広がり、供給側の表現力も広がっていきます。これが望ましいループ。業界の成長なのだろうと思います。
東映系と手塚アニメの2大勢力から、虫プロ、東京ムービー、シンエイ、日本アニメ、サンライズ、マッドハウス、AIC、ガイナックス…と90年代までに広がっていった表現力の幅が今はずいぶん縮小しているのでは?と(挑戦してる人はいるけど経済的に報われないから広がりにくい)と感じます。
挑戦して賛否両論よりは少し前の評判に従って作った方が良い。評価(利益)を得るための努力が却って表現力を限定させていく。みんなの努力が互いに首を絞め合う、まさにデフレです。
アニメ経済も、15年のデフレ不況で緊縮傾向に慣れてしまい、現状維持を望む経済状況と符号するんですよね。
都知事選に話を戻します。
・選挙にはお金(コスト、人手)がかかること。
・元々の保守層に向けた演説に偏りすぎた。後半は修正しましたが十分でなかった。
・デフレ不況下の、下手に挑戦して悪化するより現状維持でじっとしてた方が良い、という消極姿勢を動かすレトリックが不足し、理解が広がらなかった。
加えて、田母神氏が自衛隊出身という影響でいえば、阪神淡路や東日本大震災での組織力、隊員個人個人の献身的な活動がある程度知られていても、未だに悪いイメージが貼り付いている、そう認めざるをえない点でしょう。
「保守層」という確実な「固定層」が「浮動層」を牽引して支持者を広げるまでに育てられていないのが、田母神氏(や保守政治)が一般に広がらない大きな原因の一つであり、そのループから出ていないのではないか。と思います。
今回、そのループから出ようと支援者は足掻きました。でも、まだまだ「浮動層」をこちらに惹きつけるには至らなかった。
マスメディアが田母神氏を泡沫扱いして無視していたとしても、そこに原因を持って行ってはダメなのです。
方法に間違いがあったのでは?と反省しなければ、このまま「田母神氏はネトウヨにしか需要がない」と固定してしまうでしょう。
いきなり「浮動層」に働きかけても引いてしまうし、「固定・浮動」の双方から批判を受けてしまう。
まずは「固定層」の意識を改めて、広く受け入れられるための方法論を(ガチの人には不本意だろうと)工夫しないと広げることは出来ないでしょう。
わかりやすく言えば「中韓叩き」や「戦後レジーム批判」だけ、或いはそれに偏っていては、まったく支持者を広げない。焦って声高に叫べ叫ぶほど、むしろ共感を減らしてしまう弊害の方が大きい、ということだと思います。
「またか」と思ったこと
告示前から、消費税増税の時と同じく、経済を勉強してる一部の人々(保守を自称しているはずなのですがね…)が細川氏の悪質なコラージュを作成して拡散してる人たちがいました。
ボクは思わず、またか、とつぶやきました。
それと同じ人たちが、敗けた田母神陣営を揶揄しています。
この人々はボクが見た限り「消極的に田母神氏だ」と言っていた人たち(一般の人が思う消極的とは明確に違います。)で、選挙期間中、積極的に田母神氏を支援することがなかった「一派」です。
なぜか。
金融政策派と財政政策派で考えればわかります。田母神氏は彼らが消費税増税政局で攻撃した麻生副総理に近い政策を掲げていたからです。
しかし、筋の悪い舛添氏を積極支援することも出来ませんから、「消極的に田母神」であって、この選挙期間中は静かだったのでは?と疑っています。
結果が出た途端、田母神陣営や応援した人を揶揄するツイートやFB投稿を活発に行なっています。
正直、結果が出て急に元気になりやがった、と思いましたよ。
ボクはこの人たちには社会を前向きに変えることなど出来ないと思ってます。経済学の使い方も含めて、不誠実ですから。
特徴的なのは田母神さん本人には言及せず選挙運動を指揮した団体や積極支援した人たちを揶揄していることです。
消費増税の時は決して安倍首相を批判しなかったのと似ています。
…こういうことは無くならないのでしょうが、少なくとも、それをクダラナイ戯言だと多くの人が眉をひそめるまっとうな民主主義が広がらないと、選挙や重要な政策課題が議論される度に政局じみたクダラナイ雑音にリソースを食われることになります。
無視すれば良いのですが、「浮動層」にそこそこ影響力があるようなので今回だけ書くことにしました。
まとめ。今後への提言
まずは「固定層」側の「保守(新保守)」が自らの思想や方法論を精査し、間違いを反省して今後に生かすこと。
「固定層」がその内側の程度の差、多少の温度差を越えて「浮動層」…大きな世論に働きかけることが出来るツールを持つこと。
これまでは「尖閣問題」「慰安婦問題」「天皇、ご皇室」がツールの中心でしたが「浮動層」にはまだハードルが高い。これらを声高に叫んで引き下げようとしても却って扉は閉ざされてしまいます。
ツールは硬いものから柔らかいものまで幾つか持つ必要があるでしょう。
三橋さんもブログで書いていたように日本人の保守思想と相通づる様々なツールやレトリックを、少々あざとかろうが使っていくことを考えないといけないのだろうと思います。
軸がしっかりしてくれば「またか」のようなことも減るでしょう。
それぞれが自由な意思でツールを使いこなすことができれば、田母神的な需要はじっくりと拡大してくと思います。
若者層では、田母神氏の得票は2位だったそうです。
リアルに支援活動した方々の成果だと思います。
将来を造るのは若者ですから、そこに希望を見出そうと思います。
これからも、微力&拙いのは承知で発言していきますよ。
仕事でも、少しづつ出来ることからやっていきます。
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安倍首相の靖国参拝や中韓への強い態度に、アメリカが「秩序の変更は許しがたい」と批判的なのをご存知かと思います。
同じ文脈で田母神としお氏も国内で(主に朝日新聞などに)批判されてます。
アメリカの言う「秩序」とは正確に書けば「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」です。言い換えれば「戦後体制」です。
敗戦国の日本がその「秩序」の変更に挑戦することは許しがたいわけで、ある意味まっとうな話ですが、「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」は普遍性のある正しいものでしょうか?違いますよね。
歴史を見ていけば、欧米と日本では「秩序」に対する考え方がまったく違うことが分かってきます。
欧米での「秩序」
欧州では勝った者が正しいという考え方がありました。
陸続きで多民族が暮らす欧州ではそうしないと治まらなかったのでしょうから、それが悪いとは言い切れません。
フランス革命の頃、勝った者が正しい論理付けとして「民主主義」が使われました。
民主主義はもっと古くには衆愚政治をもたらす悪しきものとされていましたが、多数の正義を論理付けるのに都合が良かったのです。
ところで、このように多数が共有できることを良しとする民主主義的な方法は、多数を束ねるという意味において「束ねる=ファッショ」に変質していきます。民主主義は全体主義や独裁…ファシズムの温床になる危険性を意識しないとまっとうな機能を果たせなくなってしまうことを忘れてはいけないでしょう。
話を戻して、第一次大戦で多国間で正義を共有するために「民主主義」が世界の秩序に踊り出ました。
この時、仲介役を買って出て先進国としての立場を作り上げたのがアメリカです。ですからアメリカは「民主主義」を最高の秩序として唱えるのです。
欧米ではその時有効だと共有できる間は「秩序」を堅持しますが、都合が悪くなれば新しい「秩序」を作ります。
「革命」というちゃぶ台返しも起こります。
欧米では多数派のキリスト教という根源的価値観があるから可能なのでしょうが、「秩序」は書き換えられていくのが欧米での常だろうと考えられます。
日本人の「秩序」
日本人が考える「秩序」はもっとシンプルです。
「先祖代々の訓え」
以上終わり、です。
先人の知恵を保守することが日本人にとっての「秩序」でしょう。他に何かあるでしょうか?
この日本的「秩序」っていろいろな宗教も包み込めるものですよね。八百万の神々を容認しちゃうんですから。
日本的な「察しと思いやり」も欧米では意味不明です。
そんなことをしてたら殺されるのが欧米であり、日本では狭い国土で上手くやっていく先人の知恵「秩序」を維持するため「察しと思いやり」が育ったのだろうと考えるわけです。
幕末には欧州やロシア、中国の文献を熱心に研究していたそうで。外国語で書かれた思想・哲学や科学、医学などを日本語に翻訳して学んでいました。現在の中国語の7割以上は日本語(二文字の単語)の逆輸入だそうです。
そして毛沢東はマルクス主義を日本語の本で勉強したそうですから、日本人は洋の東西を問わず先人の訓えを一所懸命汲み取ろうとした民族なのですね。
そのように、歴史伝統の中に本質があると考えて、現世での知恵を加えたり修繕して蓄積していく心持ちが日本文化としての「秩序」だろうと思います。
重要なポイントは「先祖代々の訓え」は書き換え不能なことですね。
良し悪しは置いといて、そのように全く違う文化を持つ欧米と日本が、それを理解せず(理性を持って俯瞰せず)同じように出来るはずだという「物語」に染まってしまうのはいかにも危ういな、と思います。
戦後に作られた「秩序」に盲従することは決して正当ではないと思うのです。
違いを理解した上で良い関係を築きましょう。それで問題ないはずですよね。
「戦後体制」を解いたとしても、欧米にとって日本は危険な存在ではないよ、と。
100年前の感覚をそろそろ改めてもらえませんか?というのが安倍政権…というか日本の保守政治の基本的な姿勢でしょう。
「戦勝国が作った秩序=戦後体制」への反抗、反体制。
「戦後体制」が解かれてしまうと危ない!
と考えるアメリカ人はまだいるし、それを解こうとする安倍首相や、もっと積極的に唱えている田母神としお氏を、「戦後体制」が「秩序」だと考える欧米人が危険視するのはわかります。
しかし、日本人が安倍首相や田母神氏を、欧米的視点で批判するのは、奴隷的だなぁと思うわけです。
ボクはもう若くはないのですが、若いころにはロックは反体制の音楽だと思ってました。
パンクもそんな気分が爆発した新しいものだと、当時の自分の状況(下積みでしんどかった時代)とマッチしてよく聴いたものです。
オトナが勝手に決めて縛り付けるもの、「秩序」なるものへの反抗だったり、ベトナム戦争から戦争そのもの、戦争をやらかす権力者への反抗としてロックやパンクは定着していたと思うわけです。
上で長々書いたことを踏まえれば、改めてロックのような精神が反抗すべきは「戦後体制」なんじゃないのか?
と個人的には思ってます。
もちろん、「戦後体制打破」を錦の御旗のように掲げ思考停止を強要することは間違いです。
「問う」という意味で、必要だと思います。
都知事選挙の意義とは
都知事選の主要4候補のうち、そのような「戦勝国が作った秩序=戦後体制」の意味を問い、明確に『否!』と主張しているのは田母神としお氏だけです。
他の3候補は「戦後体制」の檻の中でしか考えられていません。
それで良いのかを問う選挙でもあります。
「戦後体制」という檻の中で血を吐きながらグルグル回るだけのマラソンを続けるか、檻から出るか。
改めて、その意味が問われる選挙でもあるでしょう。
同じ文脈で田母神としお氏も国内で(主に朝日新聞などに)批判されてます。
アメリカの言う「秩序」とは正確に書けば「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」です。言い換えれば「戦後体制」です。
敗戦国の日本がその「秩序」の変更に挑戦することは許しがたいわけで、ある意味まっとうな話ですが、「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」は普遍性のある正しいものでしょうか?違いますよね。
歴史を見ていけば、欧米と日本では「秩序」に対する考え方がまったく違うことが分かってきます。
欧米での「秩序」
欧州では勝った者が正しいという考え方がありました。
陸続きで多民族が暮らす欧州ではそうしないと治まらなかったのでしょうから、それが悪いとは言い切れません。
フランス革命の頃、勝った者が正しい論理付けとして「民主主義」が使われました。
民主主義はもっと古くには衆愚政治をもたらす悪しきものとされていましたが、多数の正義を論理付けるのに都合が良かったのです。
ところで、このように多数が共有できることを良しとする民主主義的な方法は、多数を束ねるという意味において「束ねる=ファッショ」に変質していきます。民主主義は全体主義や独裁…ファシズムの温床になる危険性を意識しないとまっとうな機能を果たせなくなってしまうことを忘れてはいけないでしょう。
話を戻して、第一次大戦で多国間で正義を共有するために「民主主義」が世界の秩序に踊り出ました。
この時、仲介役を買って出て先進国としての立場を作り上げたのがアメリカです。ですからアメリカは「民主主義」を最高の秩序として唱えるのです。
欧米ではその時有効だと共有できる間は「秩序」を堅持しますが、都合が悪くなれば新しい「秩序」を作ります。
「革命」というちゃぶ台返しも起こります。
欧米では多数派のキリスト教という根源的価値観があるから可能なのでしょうが、「秩序」は書き換えられていくのが欧米での常だろうと考えられます。
日本人の「秩序」
日本人が考える「秩序」はもっとシンプルです。
「先祖代々の訓え」
以上終わり、です。
先人の知恵を保守することが日本人にとっての「秩序」でしょう。他に何かあるでしょうか?
この日本的「秩序」っていろいろな宗教も包み込めるものですよね。八百万の神々を容認しちゃうんですから。
日本的な「察しと思いやり」も欧米では意味不明です。
そんなことをしてたら殺されるのが欧米であり、日本では狭い国土で上手くやっていく先人の知恵「秩序」を維持するため「察しと思いやり」が育ったのだろうと考えるわけです。
幕末には欧州やロシア、中国の文献を熱心に研究していたそうで。外国語で書かれた思想・哲学や科学、医学などを日本語に翻訳して学んでいました。現在の中国語の7割以上は日本語(二文字の単語)の逆輸入だそうです。
そして毛沢東はマルクス主義を日本語の本で勉強したそうですから、日本人は洋の東西を問わず先人の訓えを一所懸命汲み取ろうとした民族なのですね。
そのように、歴史伝統の中に本質があると考えて、現世での知恵を加えたり修繕して蓄積していく心持ちが日本文化としての「秩序」だろうと思います。
重要なポイントは「先祖代々の訓え」は書き換え不能なことですね。
良し悪しは置いといて、そのように全く違う文化を持つ欧米と日本が、それを理解せず(理性を持って俯瞰せず)同じように出来るはずだという「物語」に染まってしまうのはいかにも危ういな、と思います。
戦後に作られた「秩序」に盲従することは決して正当ではないと思うのです。
違いを理解した上で良い関係を築きましょう。それで問題ないはずですよね。
「戦後体制」を解いたとしても、欧米にとって日本は危険な存在ではないよ、と。
100年前の感覚をそろそろ改めてもらえませんか?というのが安倍政権…というか日本の保守政治の基本的な姿勢でしょう。
「戦勝国が作った秩序=戦後体制」への反抗、反体制。
「戦後体制」が解かれてしまうと危ない!
と考えるアメリカ人はまだいるし、それを解こうとする安倍首相や、もっと積極的に唱えている田母神としお氏を、「戦後体制」が「秩序」だと考える欧米人が危険視するのはわかります。
しかし、日本人が安倍首相や田母神氏を、欧米的視点で批判するのは、奴隷的だなぁと思うわけです。
ボクはもう若くはないのですが、若いころにはロックは反体制の音楽だと思ってました。
パンクもそんな気分が爆発した新しいものだと、当時の自分の状況(下積みでしんどかった時代)とマッチしてよく聴いたものです。
オトナが勝手に決めて縛り付けるもの、「秩序」なるものへの反抗だったり、ベトナム戦争から戦争そのもの、戦争をやらかす権力者への反抗としてロックやパンクは定着していたと思うわけです。
上で長々書いたことを踏まえれば、改めてロックのような精神が反抗すべきは「戦後体制」なんじゃないのか?
と個人的には思ってます。
もちろん、「戦後体制打破」を錦の御旗のように掲げ思考停止を強要することは間違いです。
「問う」という意味で、必要だと思います。
都知事選挙の意義とは
都知事選の主要4候補のうち、そのような「戦勝国が作った秩序=戦後体制」の意味を問い、明確に『否!』と主張しているのは田母神としお氏だけです。
他の3候補は「戦後体制」の檻の中でしか考えられていません。
それで良いのかを問う選挙でもあります。
「戦後体制」という檻の中で血を吐きながらグルグル回るだけのマラソンを続けるか、檻から出るか。
改めて、その意味が問われる選挙でもあるでしょう。
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