谷田川 惣さんの「皇統断絶計画」を読みました。
2673年、今上天皇で125代続く皇室、皇統というものが何なのか「女性宮家」をネタに日本文化の源泉を訪ねる趣向になっています。
「皇統断絶計画」というタイトルは少々刺激的ですが、本書第十章の後半の見出しから採られたようです。
あえてそのように表現して女性宮家創設の危険性を説いているわけですが、全体としてとても丁寧に解説されていて、図解やイラストもあって中高生でも楽しく読めるのではないかと思います。
学校の図書館に置いてほしい一冊だと思いました。(日教組は拒否しそうですが…)
伊勢神宮を参拝した日記で「目に見えないもの」を大切する文化があることを書きました。
あの時はそういった概念はなんとなく感覚でわかってたものの、実際にそれを裏付ける歴史が存在することは知りませんでした。
殆どの日本人もそうだろうと思います。
なぜ日本人が「察しと思いやり」を重視するのか。
普段の人間関係や仕事の中でも契約書のような物理的な物より「信頼」を重視しようとするのか。
なかなか説明の付かない個性的な感覚、文化を持った日本、日本人の感性の源泉はどこにあるんだろう?
この本は、そんな疑問に対してひとつの回答と自信につながる「論理」の助けになると思いました。
本に書かれていることは体験的に「なるほどな」と思えることが多々あります。
主に第十章「伝統を大切にする意義」
「そうなってるから、そうだんだ」という自明な事柄について「理屈じゃないんだ。感覚なんだ」と思いがちですが、ちゃんと根拠がある。
1人の人間の考えが正しいか否か、限界は明白ですし、今同居してる2、3世代の議論ですら限界があるのは理解しやすいと思います。
では何をもって正しさを判断するか。
日本の皇統とともにある歴史・文化は二千年以上の蓄積があります。
その中には失敗もあれば成功もある…その「より良い」ものの積み重ねが現代に生かされているわけで、1人の人間や数世代の考えよりは「より良い」と判断できる。
物事の正しさの判断にデータや学術的な理論が必要なのが現代ですが、二千年以上の積み重ねは膨大なデータの集積であり、科学が生まれた近世以降に勝るほどの根拠を持ってると思うのです。
個人の経験や感覚より歴史の叡智を重視することは自然なことと思います。
これを否定しようとするのが「革命」ですね。
日本人はケンカを避けようとします。
東日本大震災では略奪など起きず助け合い、津波で流された金庫から集められた20億以上のお金が持ち主にきちんと返されたエピソードなどなど、欧米を驚かせました。
お互いを慮り、契約書等なくても約束を守ろうとするのがボクら日本人です。
なぜそんな文化が出来上がったのか?
アニメの現場の出来事でも「なるほど」と思い当たることはあります。
よく打合せなどで「おまかせで」と言われることがあります
もちろん何度か組んだことがあるとか信頼の根拠は個人個人の積み重ねによるところもありますが、こういった会話の根底には「おまかせといっても全て自由にして良いわけじゃないよ」という暗黙了解が根拠となります。
つまり、シナリオや絵コンテを無視して良いという「おまかせ」ではないのです。
そこを勘違いしてはいけないことも自然と共有されていると思います。
最近はどうでしょう?
危うくなってるかもしれませんね。
勘違いが進めば「おまかせ」と言えなくなり、打ち合わせには内容の順守を約束する契約書にサインが求められる窮屈な現場になってしまうかもしれません…。
暗黙の了解、いちいち言わなくても共有されていることを守る。
これにはお互いの責任を自覚しあう重みもあります。
縛りを守る一種の不自由さもありますが、それは「自分の好きな様にやれれば良い」という利己的なことでなく、皆が意識を共有し少しずつ我慢を負担し合うことで結果的に満足をも共有し合いましょう、という心。
なかなか文書化しにくいことのように思えます。
経済では、15年間のデフレ不況にも関わらず日本の失業率は5%にも届かないレベルです。
安くしないと売れない、経費を削減しないと収益が得られないデフレ。
経費削減には人件費のカットが必要になり、失業者が増えてしまうわけですが。
日本政府や多くの企業はそんな状況でも(リストラや非正規雇用の問題などあるものの)失業率を低く抑えようと努力して来ました。
欧米では失業率10%以上の国が珍しくない中で、日本がデフレに耐えてきたことも驚くべきことだと言われています。
逆に言えば、民を大事する努力ゆえにデフレの恐怖が実感しにくい弊害もあるのでしょうが…。
「目に見えないこと」を大事にする文化は、明治以降、特に戦後は蔑ろにされる傾向が強まってます。
天皇を西洋の王や貴族のように捉えたりするのも一例でしょう。
そのような考えでは、歴史上一度も民衆によって倒された天皇がいない事、は証明出来ません。
そもそも天皇と民衆は対立関係ではない。
西洋に教えられるまでもなく、古来より日本型の「民主主義」が形成されてきたこともこの本から伺えると思います。
繰り返しになりますが、とても読みやすい本なので読むのが早い方なら2日もあれば読了できると思います。
読みやすさに相反して内容は濃く。
二千年の歴史や神々の個性から想像力を刺激されることと思います。
2673年、今上天皇で125代続く皇室、皇統というものが何なのか「女性宮家」をネタに日本文化の源泉を訪ねる趣向になっています。
「皇統断絶計画」というタイトルは少々刺激的ですが、本書第十章の後半の見出しから採られたようです。
あえてそのように表現して女性宮家創設の危険性を説いているわけですが、全体としてとても丁寧に解説されていて、図解やイラストもあって中高生でも楽しく読めるのではないかと思います。
学校の図書館に置いてほしい一冊だと思いました。(日教組は拒否しそうですが…)
皇統断絶計画-女性宮家創設の真実 (チャンネル桜叢書) (2012/04/05) 谷田川惣 商品詳細を見る |
伊勢神宮を参拝した日記で「目に見えないもの」を大切する文化があることを書きました。
あの時はそういった概念はなんとなく感覚でわかってたものの、実際にそれを裏付ける歴史が存在することは知りませんでした。
殆どの日本人もそうだろうと思います。
なぜ日本人が「察しと思いやり」を重視するのか。
普段の人間関係や仕事の中でも契約書のような物理的な物より「信頼」を重視しようとするのか。
なかなか説明の付かない個性的な感覚、文化を持った日本、日本人の感性の源泉はどこにあるんだろう?
この本は、そんな疑問に対してひとつの回答と自信につながる「論理」の助けになると思いました。
本に書かれていることは体験的に「なるほどな」と思えることが多々あります。
主に第十章「伝統を大切にする意義」
「そうなってるから、そうだんだ」という自明な事柄について「理屈じゃないんだ。感覚なんだ」と思いがちですが、ちゃんと根拠がある。
1人の人間の考えが正しいか否か、限界は明白ですし、今同居してる2、3世代の議論ですら限界があるのは理解しやすいと思います。
では何をもって正しさを判断するか。
日本の皇統とともにある歴史・文化は二千年以上の蓄積があります。
その中には失敗もあれば成功もある…その「より良い」ものの積み重ねが現代に生かされているわけで、1人の人間や数世代の考えよりは「より良い」と判断できる。
物事の正しさの判断にデータや学術的な理論が必要なのが現代ですが、二千年以上の積み重ねは膨大なデータの集積であり、科学が生まれた近世以降に勝るほどの根拠を持ってると思うのです。
個人の経験や感覚より歴史の叡智を重視することは自然なことと思います。
これを否定しようとするのが「革命」ですね。
日本人はケンカを避けようとします。
東日本大震災では略奪など起きず助け合い、津波で流された金庫から集められた20億以上のお金が持ち主にきちんと返されたエピソードなどなど、欧米を驚かせました。
お互いを慮り、契約書等なくても約束を守ろうとするのがボクら日本人です。
なぜそんな文化が出来上がったのか?
アニメの現場の出来事でも「なるほど」と思い当たることはあります。
よく打合せなどで「おまかせで」と言われることがあります
もちろん何度か組んだことがあるとか信頼の根拠は個人個人の積み重ねによるところもありますが、こういった会話の根底には「おまかせといっても全て自由にして良いわけじゃないよ」という暗黙了解が根拠となります。
つまり、シナリオや絵コンテを無視して良いという「おまかせ」ではないのです。
そこを勘違いしてはいけないことも自然と共有されていると思います。
最近はどうでしょう?
危うくなってるかもしれませんね。
勘違いが進めば「おまかせ」と言えなくなり、打ち合わせには内容の順守を約束する契約書にサインが求められる窮屈な現場になってしまうかもしれません…。
暗黙の了解、いちいち言わなくても共有されていることを守る。
これにはお互いの責任を自覚しあう重みもあります。
縛りを守る一種の不自由さもありますが、それは「自分の好きな様にやれれば良い」という利己的なことでなく、皆が意識を共有し少しずつ我慢を負担し合うことで結果的に満足をも共有し合いましょう、という心。
なかなか文書化しにくいことのように思えます。
経済では、15年間のデフレ不況にも関わらず日本の失業率は5%にも届かないレベルです。
安くしないと売れない、経費を削減しないと収益が得られないデフレ。
経費削減には人件費のカットが必要になり、失業者が増えてしまうわけですが。
日本政府や多くの企業はそんな状況でも(リストラや非正規雇用の問題などあるものの)失業率を低く抑えようと努力して来ました。
欧米では失業率10%以上の国が珍しくない中で、日本がデフレに耐えてきたことも驚くべきことだと言われています。
逆に言えば、民を大事する努力ゆえにデフレの恐怖が実感しにくい弊害もあるのでしょうが…。
「目に見えないこと」を大事にする文化は、明治以降、特に戦後は蔑ろにされる傾向が強まってます。
天皇を西洋の王や貴族のように捉えたりするのも一例でしょう。
そのような考えでは、歴史上一度も民衆によって倒された天皇がいない事、は証明出来ません。
そもそも天皇と民衆は対立関係ではない。
西洋に教えられるまでもなく、古来より日本型の「民主主義」が形成されてきたこともこの本から伺えると思います。
繰り返しになりますが、とても読みやすい本なので読むのが早い方なら2日もあれば読了できると思います。
読みやすさに相反して内容は濃く。
二千年の歴史や神々の個性から想像力を刺激されることと思います。
Comment:4
世界に通用する文化の発信。
それには個性を突き詰めること「日本らしさ」「日本とは」という命題に取り組む必要があると思う。
「国民経済と国防」というテーマの研究、書籍が非常に少なく、石沢芳次郎氏「国民経済と防衛問題(有信堂出版)」一冊のみということだそうです。
(三橋貴明氏のブログから一部引用)「わが国の防衛論議はどちらからというと政治論であって、経済論としての防衛論議は、まことにすくない。このような傾向が一般化しているのは、わが国の従来の防衛論議が、主として自衛隊の合憲か違憲かの問題をめぐる憲法解釈論と、日米安保を堅持するか否かの争点を中心とした防衛体制論とを焦点として展開され、そのなかでいわば旧態依然とした理論闘争がくりかえされていたため、現実的な防衛論がそれほど発展しなかったという事情によるものと考えられる。」
国防というと実生活と無関係な、どこかフェンスの向こうで勝手にやってることのように思いがち。
しかし、現実には「その国の国民経済の」かたちに密接に関係した私達の大事な問題なのですね。
三橋貴明氏の手によって43年ぶりの「国民経済」「国防」の一冊が出ます。
安倍政権による経済政策「三本の矢」
「一本目の矢」大胆な金融政策によって円高・株安に喘いでいた市場(デフレで得をしていた人達もいるらしいけどね)が一変、新聞など「3年数カ月ぶり」「4年ぶり」という文言とともに円安・株高、景気回復への期待を報道しています。
民主党政権の3年数ヶ月が名実ともに無きものになりそうで誠に、誠に、誠に、慶賀なことです。
それ以前の自民党の政策もデフレを解消できなかったが、第二次安倍政権はその経験を踏まえ反省し学んで今回の「三本の矢」を打ち立てたのです。
今後は「二本目の矢」機動的な財政政策で増えたお金をどう使っていくかが重要になってきます。
「三本目の矢」成長戦略は民間投資を促進する方法論を議論し具体策を出すこと。
竹中氏が提言している構造改革・規制緩和的な政策は小泉政権時、デフレ脱却が十分でない時点でやってしまった失敗例ですが景気が良くなれば益はあります。
一本目、二本目が十分軌道に乗ってから施行すべきと考えます。
それまでに具体策を議論するのは構わないしどんどんアイディアを出して準備を進めるのは良いと思います。
「クールジャパン推進会議」もその一つです。
報道からはアイディアの断片しか伝わって来ませんが、一回目の議事録ではとても興味深い議論がなされています。
クールジャパン推進会議:内閣官房
↑このページ内に議事録があります。第二回分は準備中。
議事録からは「日本とは何か」という命題が浮き上がってきています。
この命題に取り組むことは戦後レジームからの脱却の基礎でもあり。
軍事、憲法の個別論より先に、「日本とは」をまず問い直すことが必須だと思います。
「クールジャパン」コンテンツも同様です。
日本独自の文化とは? 個々のコンテンツがつながって広がっていくにはどんなアイディアが必要か。
ボクらの根っこ、地べたを再確認することから「クールジャパン」を考えなければ、良くて皮相的な流行、悪ければ方向を誤り萎ませてしまいかねません。
「国防」も「文化」も切り離した個別な議論でなく、「国民経済」の中でどう活かされるべきか議論する必用があるように思います。
政策作りは政治家や有識者なのかもしれないけれど、その議論を作り手が知らなくて良いわけはない。
作り手になりたいみなさんにも無縁な話ではないはずだと考えます。
アニメが描いているのは現実。
表現として絵を使い、異世界や超常な設定、メカやクリーチャーなどを借りているにすぎない。
アニメ制作者がアニメしか見ず、「アニメ世界」を現実と誤認して再生産(コピー)を繰り返せば自ずと閉塞し疲弊します。
それは受け手へ伝搬し、特定層にしか受けない市場過疎化のループを産んでしまう。
政治、経済、国防…どの分野にも同様の病理を見ることがあります。
最後に少々長いけど伊福部昭の言葉から。
『「(略)ヨーロッパの美観などという、我々の血液にないものに追随してもしようがないのではないか。岡潔さんは、民族の美観が確立するには五千年かかると書いているんですが、それはオーバーにしても、百年やそこらで美観は変わらない。日本もヨーロッパ化したというけれど、玄関で靴を脱ぐところかして、相変わらず日本があるので、自己に忠実であれば、どうしても民族的にならざるをえない。影響を否定するほど潔癖なのも好きではないので、影響は受けても真似はやめたいと考えております」
しかしこの発言から、伊福部を偏狭な地域主義者とみるのは誤りだ。(略)なぜなら、民族の伝統を忘れたところに真の文化はなく、よってそこには、ポジティヴな成果が生まれる余地はないのである。
結局、話はこう落ち着く。「芸術はその民族の特殊性を通って共通の人間性に到達しなくてはならない」
つまり、もし人間が民族の枠を超えられるとすれば、それは、民族性を追求しきり、その底の底に潜んでいるかもしれぬ人間共通の基盤にまで突き進めて、初めて可能というのが、伊福部の見解なのである。』
(「伊福部昭の宇宙」第三章”民族意識とオスティナート”片山素秀 P69〜70)
先の石沢芳次郎氏の著書の
「一国の防衛力建設に要する防衛支出の規模や防衛産業の態様などが、その国の国民経済といかなる関係にあるか。あるいはいかなる関係を生み出しつつあるかなどの問題を究明することは、内外情勢の如何にかかわらず、きわめて重要なことであるはずである。」
と対応しますね。
軸足をどこに置くか。
「日本らしさ」について、自信を持って再確認することから始めたい。
それには個性を突き詰めること「日本らしさ」「日本とは」という命題に取り組む必要があると思う。
「国民経済と国防」というテーマの研究、書籍が非常に少なく、石沢芳次郎氏「国民経済と防衛問題(有信堂出版)」一冊のみということだそうです。
(三橋貴明氏のブログから一部引用)「わが国の防衛論議はどちらからというと政治論であって、経済論としての防衛論議は、まことにすくない。このような傾向が一般化しているのは、わが国の従来の防衛論議が、主として自衛隊の合憲か違憲かの問題をめぐる憲法解釈論と、日米安保を堅持するか否かの争点を中心とした防衛体制論とを焦点として展開され、そのなかでいわば旧態依然とした理論闘争がくりかえされていたため、現実的な防衛論がそれほど発展しなかったという事情によるものと考えられる。」
国防というと実生活と無関係な、どこかフェンスの向こうで勝手にやってることのように思いがち。
しかし、現実には「その国の国民経済の」かたちに密接に関係した私達の大事な問題なのですね。
三橋貴明氏の手によって43年ぶりの「国民経済」「国防」の一冊が出ます。
目覚めよ! 日本経済と国防の教科書 (2013/04/10) 三橋 貴明 商品詳細を見る |
安倍政権による経済政策「三本の矢」
「一本目の矢」大胆な金融政策によって円高・株安に喘いでいた市場(デフレで得をしていた人達もいるらしいけどね)が一変、新聞など「3年数カ月ぶり」「4年ぶり」という文言とともに円安・株高、景気回復への期待を報道しています。
民主党政権の3年数ヶ月が名実ともに無きものになりそうで誠に、誠に、誠に、慶賀なことです。
それ以前の自民党の政策もデフレを解消できなかったが、第二次安倍政権はその経験を踏まえ反省し学んで今回の「三本の矢」を打ち立てたのです。
今後は「二本目の矢」機動的な財政政策で増えたお金をどう使っていくかが重要になってきます。
「三本目の矢」成長戦略は民間投資を促進する方法論を議論し具体策を出すこと。
竹中氏が提言している構造改革・規制緩和的な政策は小泉政権時、デフレ脱却が十分でない時点でやってしまった失敗例ですが景気が良くなれば益はあります。
一本目、二本目が十分軌道に乗ってから施行すべきと考えます。
それまでに具体策を議論するのは構わないしどんどんアイディアを出して準備を進めるのは良いと思います。
「クールジャパン推進会議」もその一つです。
報道からはアイディアの断片しか伝わって来ませんが、一回目の議事録ではとても興味深い議論がなされています。
クールジャパン推進会議:内閣官房
↑このページ内に議事録があります。第二回分は準備中。
議事録からは「日本とは何か」という命題が浮き上がってきています。
この命題に取り組むことは戦後レジームからの脱却の基礎でもあり。
軍事、憲法の個別論より先に、「日本とは」をまず問い直すことが必須だと思います。
「クールジャパン」コンテンツも同様です。
日本独自の文化とは? 個々のコンテンツがつながって広がっていくにはどんなアイディアが必要か。
ボクらの根っこ、地べたを再確認することから「クールジャパン」を考えなければ、良くて皮相的な流行、悪ければ方向を誤り萎ませてしまいかねません。
「国防」も「文化」も切り離した個別な議論でなく、「国民経済」の中でどう活かされるべきか議論する必用があるように思います。
政策作りは政治家や有識者なのかもしれないけれど、その議論を作り手が知らなくて良いわけはない。
作り手になりたいみなさんにも無縁な話ではないはずだと考えます。
アニメが描いているのは現実。
表現として絵を使い、異世界や超常な設定、メカやクリーチャーなどを借りているにすぎない。
アニメ制作者がアニメしか見ず、「アニメ世界」を現実と誤認して再生産(コピー)を繰り返せば自ずと閉塞し疲弊します。
それは受け手へ伝搬し、特定層にしか受けない市場過疎化のループを産んでしまう。
政治、経済、国防…どの分野にも同様の病理を見ることがあります。
最後に少々長いけど伊福部昭の言葉から。
『「(略)ヨーロッパの美観などという、我々の血液にないものに追随してもしようがないのではないか。岡潔さんは、民族の美観が確立するには五千年かかると書いているんですが、それはオーバーにしても、百年やそこらで美観は変わらない。日本もヨーロッパ化したというけれど、玄関で靴を脱ぐところかして、相変わらず日本があるので、自己に忠実であれば、どうしても民族的にならざるをえない。影響を否定するほど潔癖なのも好きではないので、影響は受けても真似はやめたいと考えております」
しかしこの発言から、伊福部を偏狭な地域主義者とみるのは誤りだ。(略)なぜなら、民族の伝統を忘れたところに真の文化はなく、よってそこには、ポジティヴな成果が生まれる余地はないのである。
結局、話はこう落ち着く。「芸術はその民族の特殊性を通って共通の人間性に到達しなくてはならない」
つまり、もし人間が民族の枠を超えられるとすれば、それは、民族性を追求しきり、その底の底に潜んでいるかもしれぬ人間共通の基盤にまで突き進めて、初めて可能というのが、伊福部の見解なのである。』
(「伊福部昭の宇宙」第三章”民族意識とオスティナート”片山素秀 P69〜70)
先の石沢芳次郎氏の著書の
「一国の防衛力建設に要する防衛支出の規模や防衛産業の態様などが、その国の国民経済といかなる関係にあるか。あるいはいかなる関係を生み出しつつあるかなどの問題を究明することは、内外情勢の如何にかかわらず、きわめて重要なことであるはずである。」
と対応しますね。
軸足をどこに置くか。
「日本らしさ」について、自信を持って再確認することから始めたい。
Comment:0
いま山村明義さんの「神道と日本人」をメインに読んでます。
山村さんはお若い頃、漫画やアニメに憧れてその道に進むことを考えたこともあるそうで(勝手に)親近感をもっております(^_^)
神道(しんとう)というと何か特別なことのように思うかもしれない。
ボクもそんな風に思ってきた一人なのだけど、ずっと近い親しみの持てること。
社会全体に地下水のように流れつながっていることなのだ、ということがわかってきました。
神道には決まった教義があるわけでなく、古来より神職が行う祀り事、祓いや祈りによって伝えられている。
この本は、全国の神社へ取材し神職のみなさんの体験や思いを集積したもので、それによって「神道と日本人」のかたちを浮かび上がらせるものです。
目次でおおまかな内容がわかるかと思います。
・まえがき:神道の持つ普遍性と汎用性に気づいてもらうために
・第一章:日々の営みの中に根ざす誠心(まことごころ) 感謝の思い、祈る心
・第二章:自然を敬い、自然と共にあれ 「鎮守の森」に息づく日本の命脈
・第三章:聖なるものへ近づくために 「禊ぎ」にこめられた晴明正直
・第四章:災厄から蘇る転換点 禍事を逆転に導く「祓へ」の効用
・第五章:凛として、今を生き切る 武士道精神と魂の帰る場所
・第六章:海を越え、つながり合う 神道のもてなしの心と寛容性
・第七章:守りつつ、切り拓く 神職たちの新たなる試みと挑戦
・第八章:時空を超えて宿る神々 出雲、高千穂が紐解く神の座す場所
・第九章:古くて新しい日本のかたち 熊野と伊勢に秘められた蘇りの力
・第十章:崇高なる祈りの先にあるもの 宮中祭祀が映し出す永遠の祭り
現在は第七章を読んでます。
ボクたちが自然にやっている仕草や生活習慣の中に、「察しと思いやり」や「おかげさま」の心に神道は存在している。
神道、神社がとても近くに寄り添っていること。
古いものでなく新しく生まれ変わり続けていることを垣間見ました。
「神職」といっても様々な生き方があり一様でないことを知りました。
神社には針葉樹だけでなく広葉樹を混ぜています。
保水や土質の保全、エコロジーや防災減災にも役立ってきたそうです。
都会に住んでいると神社のこんもりとした森林は心が休まります。
特に意識することなくやっていることの多くに、神道に根ざしたものがあるんですね。
また、生き方や社会のあり方としても
私利私欲の追求でなく滅私によって全体に奉仕することが回り回って自分にも益をもたらす。
遠回りでも、少しずつ。
これが日本人の成長や進歩への感覚の基礎だろうと納得出来ます。
欧米的…というか日本でも近頃喧しい「革命」「改革」という一気にいっぺんに変えようとすることとは違うものですね。
文化の育ち方が違う欧米のやり方を真似しても上手くはいかないものだと思う。
神々と土地と人。
古代ギリシャで生まれた「民主政」の思想の源泉と日本の神道は似ているな、と思いました。
ギリシャの民主政はその後「民主主義」へと形を変えフランス革命や第一次大戦によって勝者の論理に利用されながら歪に変化してしまった。
戦後日本にも押し寄せ、古来からの日本独自の「民主」観はずいぶんと変質してしまったように思います。
神道を戦争と結びつけ「国家神道」として退けた戦後の思想や教育の罪は重いと思う。
気の遠くなるような古来から修繕を繰り返して育てられた「ひとつながり」の日本の文化がたった十年かそこらで「革命」的にひっくり返るものではありません。
「命をいただく」感性や自然への畏れ、頭を垂れる他者への気遣いなど世界に誇って良いものです。
それが一度や二度の失敗で否定されるとしたら、そんな偏狭な社会が良いんだろうか?
欧米的なものでも取り込んで日本流にしてしまう強さをもう一度見直さないといけないかもね。
スペースシャトルの搭乗員が参拝に訪れる神社。
女性宮司のご苦労。
ハワイの神社。
東日本大震災を乗り越えようとする宮司。
神道の精神で大企業経営を両立する宮司。
…
読んでいくとボクらとそんなに大きな違いはないように思えてきます。
職責の違いはあっても根っこは同じだと。
アニメスタッフの待遇問題が時々俎上に上がりますが、多くのアニメ会社が中小零細で個人の集まりです。
アニメ業界というと広そうに見えますがそれほど大きくはない。
この業界(社会)が個々の利益の最大化や均等化、効率化よりも「より良い作品を作る」という目標でほとんど滅私奉公のような働き方を続けてきたのも(思い込みを覚悟の上で書けば)「神職」のように思えてきます。
アニメ業界には是正しなければならないことが山ほどありますが、根っこのところを置き忘れてビジネス論的にやっても良い結果は得られないでしょうし、簡単には答えは出ないでしょう。
問題は抱えていても、我々にしか出来ないことをやっていくのであれば、呑み込める範囲で呑み込む覚悟も必要かと思う。
その上で直すことを面倒がらずに修繕して。
出雲の博物館にあった たたら場や石細工、建築というのは産業ですよね。
神社を支える一人ひとりは職人、技術者、学者だったわけで、古来より神々の下で公的資本形成に、商売に、勤しんできたわけです。
アニメに限らず、「日本型経営」というものが神道と根を同じくする感性よって作られてきたのではないか。
神道、神職が特別なのではなく、特別になってしまった社会全体の方が歪んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら読み進めています。
安倍政権では
経済に始まって、憲法問題、国防、エネルギー問題など国の形を議論する機会が増えています。
これからもっと増えてくると思う。
安倍がどうだこうだと言う前に。
方法論の良し悪しを判断する前に。
ボクら日本人と日本(文化)の基礎を知らないと小手先のものになってしまいます。
まだまだ勉強中。
山村さんはお若い頃、漫画やアニメに憧れてその道に進むことを考えたこともあるそうで(勝手に)親近感をもっております(^_^)
神道(しんとう)というと何か特別なことのように思うかもしれない。
ボクもそんな風に思ってきた一人なのだけど、ずっと近い親しみの持てること。
社会全体に地下水のように流れつながっていることなのだ、ということがわかってきました。
神道には決まった教義があるわけでなく、古来より神職が行う祀り事、祓いや祈りによって伝えられている。
この本は、全国の神社へ取材し神職のみなさんの体験や思いを集積したもので、それによって「神道と日本人」のかたちを浮かび上がらせるものです。
目次でおおまかな内容がわかるかと思います。
・まえがき:神道の持つ普遍性と汎用性に気づいてもらうために
・第一章:日々の営みの中に根ざす誠心(まことごころ) 感謝の思い、祈る心
・第二章:自然を敬い、自然と共にあれ 「鎮守の森」に息づく日本の命脈
・第三章:聖なるものへ近づくために 「禊ぎ」にこめられた晴明正直
・第四章:災厄から蘇る転換点 禍事を逆転に導く「祓へ」の効用
・第五章:凛として、今を生き切る 武士道精神と魂の帰る場所
・第六章:海を越え、つながり合う 神道のもてなしの心と寛容性
・第七章:守りつつ、切り拓く 神職たちの新たなる試みと挑戦
・第八章:時空を超えて宿る神々 出雲、高千穂が紐解く神の座す場所
・第九章:古くて新しい日本のかたち 熊野と伊勢に秘められた蘇りの力
・第十章:崇高なる祈りの先にあるもの 宮中祭祀が映し出す永遠の祭り
神道と日本人 魂とこころの源を探して (2011/09/14) 山村 明義 商品詳細を見る |
現在は第七章を読んでます。
ボクたちが自然にやっている仕草や生活習慣の中に、「察しと思いやり」や「おかげさま」の心に神道は存在している。
神道、神社がとても近くに寄り添っていること。
古いものでなく新しく生まれ変わり続けていることを垣間見ました。
「神職」といっても様々な生き方があり一様でないことを知りました。
神社には針葉樹だけでなく広葉樹を混ぜています。
保水や土質の保全、エコロジーや防災減災にも役立ってきたそうです。
都会に住んでいると神社のこんもりとした森林は心が休まります。
特に意識することなくやっていることの多くに、神道に根ざしたものがあるんですね。
また、生き方や社会のあり方としても
私利私欲の追求でなく滅私によって全体に奉仕することが回り回って自分にも益をもたらす。
遠回りでも、少しずつ。
これが日本人の成長や進歩への感覚の基礎だろうと納得出来ます。
欧米的…というか日本でも近頃喧しい「革命」「改革」という一気にいっぺんに変えようとすることとは違うものですね。
文化の育ち方が違う欧米のやり方を真似しても上手くはいかないものだと思う。
神々と土地と人。
古代ギリシャで生まれた「民主政」の思想の源泉と日本の神道は似ているな、と思いました。
ギリシャの民主政はその後「民主主義」へと形を変えフランス革命や第一次大戦によって勝者の論理に利用されながら歪に変化してしまった。
戦後日本にも押し寄せ、古来からの日本独自の「民主」観はずいぶんと変質してしまったように思います。
神道を戦争と結びつけ「国家神道」として退けた戦後の思想や教育の罪は重いと思う。
気の遠くなるような古来から修繕を繰り返して育てられた「ひとつながり」の日本の文化がたった十年かそこらで「革命」的にひっくり返るものではありません。
「命をいただく」感性や自然への畏れ、頭を垂れる他者への気遣いなど世界に誇って良いものです。
それが一度や二度の失敗で否定されるとしたら、そんな偏狭な社会が良いんだろうか?
欧米的なものでも取り込んで日本流にしてしまう強さをもう一度見直さないといけないかもね。
スペースシャトルの搭乗員が参拝に訪れる神社。
女性宮司のご苦労。
ハワイの神社。
東日本大震災を乗り越えようとする宮司。
神道の精神で大企業経営を両立する宮司。
…
読んでいくとボクらとそんなに大きな違いはないように思えてきます。
職責の違いはあっても根っこは同じだと。
アニメスタッフの待遇問題が時々俎上に上がりますが、多くのアニメ会社が中小零細で個人の集まりです。
アニメ業界というと広そうに見えますがそれほど大きくはない。
この業界(社会)が個々の利益の最大化や均等化、効率化よりも「より良い作品を作る」という目標でほとんど滅私奉公のような働き方を続けてきたのも(思い込みを覚悟の上で書けば)「神職」のように思えてきます。
アニメ業界には是正しなければならないことが山ほどありますが、根っこのところを置き忘れてビジネス論的にやっても良い結果は得られないでしょうし、簡単には答えは出ないでしょう。
問題は抱えていても、我々にしか出来ないことをやっていくのであれば、呑み込める範囲で呑み込む覚悟も必要かと思う。
その上で直すことを面倒がらずに修繕して。
出雲の博物館にあった たたら場や石細工、建築というのは産業ですよね。
神社を支える一人ひとりは職人、技術者、学者だったわけで、古来より神々の下で公的資本形成に、商売に、勤しんできたわけです。
アニメに限らず、「日本型経営」というものが神道と根を同じくする感性よって作られてきたのではないか。
神道、神職が特別なのではなく、特別になってしまった社会全体の方が歪んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら読み進めています。
安倍政権では
経済に始まって、憲法問題、国防、エネルギー問題など国の形を議論する機会が増えています。
これからもっと増えてくると思う。
安倍がどうだこうだと言う前に。
方法論の良し悪しを判断する前に。
ボクら日本人と日本(文化)の基礎を知らないと小手先のものになってしまいます。
まだまだ勉強中。
Comment:0