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2013
11.26

「特定秘密保護法案」

Category: 政治・社会
国家・国民の重要情報を、国家・国民の主権で保護できない状況が、どうして主権回復後も維持されてしまったのだろう?
むしろそれが不可解だ。
特定秘密保護法案は国家安全保障に関わる重要情報を保護管理するための法律案です。
中国(と韓国)や北朝鮮のような敵意を隠さず領土領海領空への侵犯を繰り返す国が、あるいは自国の利益誘導のために情報操作をしている国が、この法案に反発するのは極自然なことです。
この法案が決まって運用されれば彼らにとっては大変な不利益が予想されますからね。
国家が国民を守るために当り前に整備しているものがこれまで無く、その隙を戦後様々利用されてきた。
ようやく、独立国、主権国家の条件が一つ加わろうとしています。
「特定秘密保護法案」とはそういうものだと考えます。

…と書けば、以下ダラダラ書いた文章はほとんど蛇足と言って良さそうだ。

毎日新聞「秘密保護法案:衆院特別委で可決 与党が緊急動議で強行」
http://mainichi.jp/select/news/20131126k0000e010146000c.html


「強行」「拙速」「議論が尽くされてない」??
さて、特定秘密保護法案や関連する日本版NSCの議論はいつからされているんだろう?
日本が占領されていた約7年間から主権を回復した頃からではなかろうか。
もちろん、名前も中身も同じじゃなかっただろうけど。
日本国民が被占領国民から、自国の歴史文化を取り戻し、主体性、誇り…を取り戻せたと思った61年前、実はそうではない、日本は自立出来ていないとして、憲法とともに議論されてきたのではなかったか?

国会の議論が足らないと言うなら、同様の法案を廃案にして来たことを批判すべきだし。
国民の理解が足らないのなら、マスメディアの怠慢を批判しなければいけない。
反対する国民は、情緒に流されていないか考えてみる必要があると思う。

にしても、毎日新聞は見出しでさりげなく「特定」を外してるね。
この恣意的な報道姿勢が情報を歪め、国民の正しい理解を妨げる行為だとなぜ気が付かないんだろうか。
誰得な行為なのかしらね。

個人の「秘密」と「特定秘密」
個人や団体や企業や自治体や国家のそれぞれに、それぞれの組織と人を保護するため外部へ漏出させないよう努める必要があるものを「秘密」と言うのだろうと思う。
個人で言えば個人情報も「秘密」に属するものですね。
これは時代によって価値観が変わってきています。
ボクが子供の頃は、カバンや靴、帽子、自転車などに失くした時のため名前・住所・電話番号という個人情報を記すのが普通だった。
子供が迷子になった時にもその個人情報が役に立つことを期待して記していました。
地域社会を善意で捉えて不都合がなかった時代の習慣です。
現代では特に都市部ではそのような習慣はないでしょう。せいぜい名前まで。住所や電話番号などは、どう悪用されるかわからないから、やたらと目に見えるところに記したりしなくなっている。
これは現代の地域社会が善意で捉えてはいけないものになってしまったことを示唆しているとも言えそうです。残念ですがそれが現実です。

やたらと表に出してはいけない情報。
これが「秘密」であり公(おおやけ)や生命財産にかかわるような重要なものが「特定秘密」ということになります。

ボクという個でも「特定秘密」は少しはあると思います。
中には、それが流布された場合、家族や友人知人、仕事関係者に迷惑をかけるものもある。顔も知らない人に自分の不躾で迷惑をかける可能性も想定されます。後ろめたいことがなくても悪意を持つものに利用されれば大変な事になります。
ボクに「秘密」を明かしてくれる誰かは、ボクがそれを公言しないことを信頼して、あるいは「内緒だよ」といえば守ってくれる信頼感で明かしてくれるのです。
話してくれた彼・彼女にとってそれは重大な「特定秘密」である可能性もあるわけです。
ボクがそれを守ろうとしなければ、人間関係が破綻します。
彼・彼女はボクを信じないし、ボクの周囲の人間にも何も明かさなくなる。そうすればボクが「特定秘密」の保護を怠った被害は、ボクの問題だけではなくなります。
「君に話すと◯◯にも伝わる可能性があるから、君には話せないよ」
そんな経験したことや、経験をした人の話を聞いたことがあるでしょう。
失敗をして反省した人は「秘密」を守ることに神経質になるでしょう。
「秘密」を保護できない人は信用されず、その周囲の人も間接的に信用を失うのですから当然です。

国家の「特定秘密」
国家安全保障に関わる「秘密」が「特定秘密」です。
国家が国民の生命財産に関わる取組みや国家と国家の取り決めに関わる情報は、国家と国民、国家と国家の信用に関わることなので明らかにはできません。
この情報保護を怠る国家は国際社会から信用を失います。
情報が保護できなければ、それまで友好関係を築いていた国家に迷惑をかける事になります。
別な国と新しく友好関係を築くこともできなくなります。
国際社会は生き馬の目を抜く世界。善意を前提にしたら国家、個々の国民にも被害が及ぶことが十二分にあり得ます。残念ながらそれが現実です。
国家が国民の生命財産に関わる「特定秘密」を守る気がなければ、国家間も国民との信頼関係も築けず、漏洩した情報が悪用されればお互いの国民が深刻な被害を被ります。
個人の秘密とは比較にならない重大性があるのが国家の「特定秘密」なのですね。

戦後、冷戦期まではアメリカの陰で得した反面、冷戦終結後は安全保障をアメリカに頼ってきたために不利益を被ってきた事実があります。
冷戦時は日本の発展は良いことだった。しかし終結後は都合が悪くなった。
冷戦構造という隠れ蓑はもうとっくに無くなっていて、アメリカがいつも守ってくれる「はずだ」というのは通用しなくなって久しいのです。特に経済ではそうだし、安全保障でもそうなっている。
アメリカが勝手で酷い国なのではなく(かなり勝手で酷いけど)、日本の無防備さが異常なのです。

国家を蔑ろにすれば回り回って個人を守れない
特定秘密保護法に反対している人は「反原発」「九条護持」の人と被っているように思います。国家・政府嫌いの人とも被っているように思います。
アメリカは日本の核武装による軍事的独立は絶対に認めなかったが、準核武装である原子力発電を認めることで東側を牽制したと見られます。
冷戦真っ只中の話。
福島第一原発がアメリカの設計を受け入れ、設置にもアメリカ基準が適用され、日本の風土では「守らなければならない情報」が無視された結果、津波をもろに被り、緊急電源が流され、全電源喪失に至った。
なぜ、福島より地震と津波が強力だった宮城の女川原発が事故に至らなかったか。
女川では地元の技術者が津波に襲われた歴史を重視して初期の設置高さをさらに高くした経緯があったそうです。
福島第一ではアメリカの要求で低く掘り下げられたため水没してしまった。日本人なら絶対やらないことがやられていた訳です。
冷戦期にあって、原子炉という安全保障上重大な設備の情報を、重要機密を保護する法律のない日本には教えられなかっただろう。
原油輸入のリスクを減らすため原発導入を焦った政府の失政もあろうが、対等に交渉する情報環境があれば日本の風土を考慮した全電源喪失を防ぐ設置ができたのではないか。
[余談:なぜ、主流だった放射線のLNT説(どんなに微量でも害がある説)が20数年前から閾値説(低線量率であれば害はない説)に置き換わってきたか。冷戦構造終結(核兵器の無意味化)との関係も興味深い。]

この疑問をどう考えるのだろう。
日本政府と東電の責任を追求する時に国家機密を保護できない不作為を批判することはないんだろうか。

日本国憲法を変えてはいけない、憲法九条で平和が守られてきた。
そう考えている人の多くは小泉訪朝で金正日が拉致を国家犯罪だったと認めるまで「拉致など作り話だ」と言ってきた。発覚後も「あちらで幸せに暮らせているのでは」などという許しがたい意見すらあった。
日本は加害者であって被害者なわけがない。だから「平和」を規定した日本国憲法は変えてはいけないし、戦争をやらかす国家・政府を縛るために九条が必要なのだ。日本国憲法と憲法九条が戦後日本の平和を子供たちを守ってきたのだ。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」していれば日本の平和が守られるのだ。
そう言ってきた人たちこそが拉致を認めなかった。日本は、国家は悪者でなければならないからだ。
被害者家族は行方不明の子供が北朝鮮にいるかもしれないと、手紙を北朝鮮と交流のある社会党に託した。「平和を愛する諸国民」の前提を護持したい社会党はその手紙を握り潰した。命にかかわる重大な「特定秘密」を、国民の痛切な期待を一政党の政治家が自らの歪んだイデオロギーを守るために握り潰したのだ。
信じられないことだが、地元の日本人が拉致に適した人物の情報を北朝鮮関係者に提供していた事実もあったという。
拉致実行犯も関係組織も協力した日本人の存在も確からしい情報があっても摘発することができない。
情報漏洩を取り締まる法律がないから別件でしか対処できなかったのだ。
こんなことでは拉致された同朋を取り返すことなどできそうにない。

よど号ハイジャック事件や紛争地帯での邦人保護、中国やアルジェリアで起こった人質事件、恫喝に屈するしかなく、外国での国民の生命保護を現状では他国に頼らざるを得ず、主体的に守れない。
日本人なら誘拐して恫喝すれば安全に利益が得られるのが現実。
日本は大げさでなく、スパイ天国、犯罪者天国、侵略者天国だ。
(話が特定秘密保護法から拡大してしまったけど、問題の本質は共通することだと考えます。)

こんな状況を 現状維持 しても構わないのだろうか?

情緒的に反対し、反対のために現実から目をそらし歪める行為をこれ以上続けるんでしょうか。


「反原発」や「九条護持」を国家・政府を悪者視し敵視するイデオロギーと混同している人が多いように思う。
利益を得るために日本の国家・政府を弱体化させたい勢力が、まじめに原発や憲法や国のあり方について考えている人を悪意で煽ったりキレイ事を並べて取り込もうとするのです。
しかも、国家と国民を敵対させ、弱体化させようとする勢力は薄暗い地下施設などでなく、テレビで白昼堂々と喋っていたり新聞を発行したりしている。
国家や政府を嫌い、個人の権利のみを主張し、国境なんて無い方が良い、みんな自由だ!
そうやって「自由・平等・博愛・民主主義」が暴走し民と民が殺し合い独裁・全体主義を生み出した欧州の歴史から学んでほしいものです。敵対構図を扇動をする者に利用されていないか要チェックですよ。

現実を鑑みれば、個人が大事、自由が大事だと言い、国家を蔑ろにし敵愾心を煽るのは、自分さえ良ければ良いという身勝手さの裏返しだと言ったら言い過ぎだろうか。

国家主義も自由主義も行き過ぎれば誰も幸福にしないのが歴史の教訓です。
戦後の日本では国家・政府を忌避し過ぎた結果、回り回って個人を守れなくして来たことを考え直す必要があるでしょう。
考えてみれば、日本は天皇を頂きながら極端な国家主義にも無節操な自由主義にもなっていない稀有な国民国家だったはずです。


特定秘密保護法案は日本版NSCに先立って重要なものです。
国際社会で安全保障体制を構築するのに不可欠な集団的自衛権の行使。軍事力の自立性と技術の継承、他国とのパワーバランス保持に必要な武器輸出3原則の撤廃。
これらは特定秘密保護法と日本版NSCなど情報に関する安全保障が整備されないと実現できません。
アメリカやどこかの国のためでなく、日本独自の、国家・国民のためになる取り組みでなければ意味がありません。

これらは、普通の国家なら持ってる自立性であり権利のはずです。
法案が決まれば、ようやく様々な懸案に対処できる環境へ一歩前進になる。

以上のようなことを踏まえた上で、国家が特定秘密を保護管理する方法の妥当性を議論すべきではないでしょうか。
今議論されている法案がベストだとは思いませんから。


個人で守れない範囲の個人を、守れるのは(歴史文化を共有する)国家だけです。
国家として正しい道を選ぶにはこれまでの道をたどり直すことも必要だ。
日本の場合約2600年分のたどる道があります。
大変だけど、そうやって一進一退しながら、お天道様に恥ずかしくない人の道を選び、続く人たちが胸を張って歩けるように、地道に努める他はなさそうです。



*これを書いている最中、法案は修正議決されました。




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2013
11.14

「『顔のない独裁者』を読んだ」

Category: ひとりごと
さかき漣 著/三橋貴明 企画・原案「顔のない独裁者」を読んだ。

読んでる間ずっと冷たい汗が滲むような、頭の芯がチクチク刺されるような感覚だった。
謎を探るミステリーとして、起こり得る現実に迫るサスペンスとして新鮮なスリルを味わうことができました。

この小説は三橋貴明氏が4年前に書いた「新世紀のビッグブラザーへ」と連携した作品だそうだ。
ボクは「新世紀…」の方は読んでいないが、民主党に政権を取られてしまう直前の09年6月に発売され「人権擁護法案」「外国人参政権」という「人権」「友愛」「市民」「共生」「環境」など美辞麗句と共に進められようとしていた政策が「もし実現したら」ボクたちの世界はどうなってしまうのか?をシミュレートしたもの。
現実はそのような政策が決まることはなく、3年3ヶ月で民主党政権は消費税増税を決めた三党合意など負の遺産を残して倒れたが、日本国民は少なからず民主党政権ショックを体験しています。

「顔のない独裁者」は新古典派経済学に(無自覚に)染まりつつあった民主党政権時代に構想されたもので、一年前に三橋氏からさかき氏に手渡され、物語として描かれた。
新古典派経済学に基づく新自由主義的な政策が「もし実現したら」どうなるか?という視点でシミュレートされ、ディストピアな近未来小説としてこれでもかと緻密に描写されています。
新古典派経済学・新自由主義…これは一体何のか?
すでに知っている方、疑問をもった方、全く知らない方、すべての方々に読んで頂きたい。

「もし実現したら」から「ひとつひとつ実現していく」現実へと…
この小説は安倍晋三総理という個人や安倍政権、政府という組織を特定的に批判したものではありません。
この小説が誤読されるとすればそのようなミクロな読み方をした場合でしょう。
しかし、ほとんどの読者は「そんな問題ではない」とすぐにわかるはずです。
構想は一年前であり、さかき漣氏は今年の春の時点、ボクが実際にお話した時には、安倍政権に変わり経済が復活する希望が出て来たのにこの物語を描くことに葛藤があることを仰っていた。
さかき氏は、今、批判と取られるような物語を描くことが果たして現実世界に対して良いことなのか?そのような葛藤を抱えながら描き、最終的には今だからこそ描かねばならない、と決意し描ききったのだと思います。

ですから、安倍批判、政権批判を期待する人にはそういう意味では期待はずれかもしれない。
そして、特定の政治家や政治組織を批判しても意味が無いというさらに怖ろしい現実に直面することになると思う。(当たり前のことなんですが…)
直面できなければ、本当にこの小説で描かれたことが「ひとつひとつ実現していく」世界になってしまうことを止められない。
止められないどころか、自ら地獄へと進もうとする1人になってしまうでしょう。

気付く力
学ぶこと、知識の蓄積、データを冷静に検証すること… 現実を見てより良い将来のために活かすには必要なことです。どんな人であれ、どんな仕事をしている人であれ、多少の差はあってもやっていることで、真面目な人ほど熱心に行っている。
しかし、このような努力も それがどんな意味を持つのかに気付くことができなければ 誤った方向に進んでしまいます。

プラグマティズムの作法を復習してみる。
(1)何かに取組む時、その取組みにどんな目的があるのかを見失わないように
(2)その目的がお天道様に対して恥ずかしくないものかどうか常に問い続ける

(1)を意識しない人はほとんどいないでしょう。しかし(2)はどうでしょう?
政治経済に於いて、お天道様に対して恥ずかしくないこと、とは「経世済民」の思想を踏み外さないこと。
「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」ために政治経済はあるのです。
民のためでなく、特定の政策を進めるため、という具合に目的がズレてしまったら?
新古典派経済学・新自由主義的な政策を進めることが目的になってしまったらどうなるか?
アメリカとの同盟関係のため?
政権を維持するため?
自分の主張を正当化するため?
みんなにとって良いことなのか?誰もその目的・意味のズレに気付けないまま進めてしまったらどうなるのか?
「自由」「民間への開放」「規制緩和」「改革」…このような美辞麗句におどらされ、取組みが意味するところに気付けないまま進んだらどうなるか?
戦争・経済危機・震災…強烈なショックによって判断の誤りに気が付けなくなってしまったら?
誰もが「良かれ」と信じて推進し「最悪」を招いてしまうことはあり得ます。
日本ではあり得ないだろう、などと言ってられない現実が迫っているのです。

「顔のない独裁者」は現実と地続きの近未来を描いています。

小説で描かれている「自由化」「規制緩和」「民営化」は実際に検討されていたり、外国で行われて失敗していることも含んでいる、絵空事ではありません。ただ、フィクションとして少しだけデフォルメされているに過ぎないのです。
ボクたちは小説の登場人物と同様の悩み、作者の葛藤を共有することができるはずです。
まさに 今 読んでおかなくてはいけない一冊だと言えます。

脅しなんかでなく、前向きに。

気付く力を鍛えるために。
小説の世界が「ひとつひとつ実現していく」近未来を現実にさせないために。
フィクションとして描かれているうちに「最悪」を体験しておきましょう。

顔のない独裁者  「自由革命」「新自由主義」との戦い顔のない独裁者 「自由革命」「新自由主義」との戦い
(2013/11/13)
さかき漣

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2013
11.06

『プラグマティズムの作法』

Category: ひとりごと
藤井聡さんの「プラグマティズムの作法」を読んでます。
様々な要因が重なると考えがこんがらがってしまうボクにはとてもありがたい本。

プラグマティズムとは「実用主義」と言われるようなものですが、噛み砕て言えば
「人間、何をやるにしても、それが一体何の目的や意味があるのかを、見失わないようにしましょう」(”はじめに”より)
というようなことだそうです。

第一部の最後では「プラグマティズムの作法」として以下の二つのことが書かれています。
・一つに、何事に取組むにしても、その取組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする。
・二つに、その目的が、お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを、常に問い続けるようにする。


「やること」の「目的」を見失わず、私利私欲や刹那的に偏っていないか「意味」を常に問う。
こうして要約してみると当り前のことですね。
言われてみれば「当り前のこと」であるにもかかわらず「当り前のこと」が出来なくなってしまっている昨今だからこそ、プラグマティックな思考が求められる。と筆者は書いています。

考えがこんがらがるのは「目的」が何だったのかを見失った時だったりします。
判断を誤るのは「意味」を問うことを疎かにした時だったりします。

こんがらがるのは、ある「目的」が果たして最上位に位置するものなのか、それとも途中の達成点でしかないものなのかを問えなくなっていること、とも言えそうですね。
プラモデルを作ろうとしてニッパーを探すのに時間を取った挙句に街まで買いに行ってしまう。
プラモデルを作るのが目的なら爪切りでも代用できたことを考えられなくなってしまい、ニッパーを入手することが目的の最上位かのように考えてそこから脱せなくなってしまう。

これが「目的の転移」。

中途な所で方法論に囚われて前に進まない状況は、このような「目的の転移」が起こっているわけですね。
ニッパーがなければ爪切りで良い。ハサミでも注意深くやれば可能だ。
しかし、細かいパーツは切り離せない。
ならば今日はできるとこまで。次の工程はちゃんとした道具を手に入れてから作り始めよう。
…という具合に、常にプラモデルを完成させるという「目的」と、イメージするような丁寧な製作を行いたいというお天道様に恥じない「意味」を問い続けることで適切な行動を取ることが可能になる。
そもそも、今は受験勉強中だ。プラモデル作ってる場合か?
という更に上位の目的があるんなら、ニッパーを探してる場合じゃないわけです。

何をやるにしても目的と意味を一つ一つ問い続けることで、大きな過ちを避ける事ができる。
大きな過ちを避けられる可能性が高まり、成功する可能性をより高められるのではないか?

「プラグマティズムの作法」とは、上手に活用すれば人生が楽しくなるツールだと思えます。


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2013
11.05

『保守派のためのアニメ講座』

Category: ひとりごと
11月3日文化の日に「保守派のためのアニメ講座」に講師として参加しました。

司会に著述家の古谷経衡さん
講師としてワンピースで演出を担当され大学で教鞭をとってらっしゃる渡辺純央さん。
そしてボクの3人で。

三橋経済塾関係の方々が中心となり企画から準備、開催まで万事手を尽くして頂き、一味も二味も違った楽しいイベントになりました。

講座の様子は主催のお一人、おっさん社長さんがブログにも書いてくれました。


「保守派のための」というのは経済塾の方とお話する中で経済だけでなく文化においてもそれぞれの国の成り立ちに由来する考え方、表現があるはずでは?というのがボクと同世代や若い人からありまして。思想における「保守」の考え方、観点をアニメに適用して検証してみたらおもしろいのではないか?ということで、個別の作品や人物、技術に偏り過ぎず、日本のアニメーションの歴史を振り返って日本独自の表現を見直すことを主眼にイベントをやってみることになりました。
少々固く思われるかもしれませんが、そんな程度の意味合いです。
今回は「古典」から「近代」までを扱った感じですね。
作品名で言うと戦前の「蜘蛛とチューリップ」から「ホルスの大冒険」。
演出の進化の話で、高畑監督の「母をたずねて三千里」に少し触れたところまででした。

歴史の検証などは大学で講義をされている渡辺さんの知識や見解が非常に勉強になりました。
ボクの方はどちらかと言うと表現手法について解説する方向で、やってみると二人で丁度良いバランスだったのではと思います。

そして、アニオタ保守としてアニメ評論のネットラジオ活動や著述もされている古谷さんのツッコミも、思想史的な観点からオタク的なツッコミまであって講座がとても幅の広いおもしろいものになりました。

日本のアニメーション表現が、アニメーターの間でもなかなか話題にならない政岡憲三さんの作品を原点として広がっていったことを、いわゆるアニメファン、アニメオタク、作画オタクではない方々に興味を持ってもらえたのは収穫でした。

アニメーション作品を「歴史」という縦の時間軸でとらえ、その時の時代状況と先人の苦心や遊び心が詰まった「作品」という横軸を同時に見て、縦横の視点で検証し直すことは有益だと思います。
近年は、ビジネスやマーケティング論から作品が作られる傾向が様々なエンタメコンテンツに共通して見られます。
ビジネスは否定しませんが、それに偏ってしまうと文化を痩せさせてしまうのでは?と危惧します。
あまり意識されないことかもしれませんが、こうした傾向も政治経済の動き、世界的な思想の傾向と連動していると、政治経済を勉強し始めると実感せざるを得ないところです。

短いスパン、点、横軸としての「今」だけでなく、背景である自国の歴史文化を認識して作ることが、作品の豊かさや奥行き、幅の広さを生むのだろうと思います。
日本独特のアニメが生まれてきた背景には長い文化の中で育まれてきたものがたくさん影響していると思います。
そして、日本でしか生まれない作品こそが世界に通用する作品になる。
(日本を舞台にしたものを作れば良い、という意味ではありませんよ。SFでも何でも然りですし、無意識にそうなっている作品も多々あると思います。)
敬愛する伊福部昭の言葉を借りれば「真に国際的であろうとすれば民族的であることを否定することはできない」わけでして。
事実、伊福部はオーケストラという西洋の楽器を用いて日本人にしか作れない音楽を作り続け、外国でも評価されたわけですから…。


改めて、講座に来て下さった皆さん。主催の方々に感謝申し上げます。

講座は予定の約3時間半があっという間で、さわりを話しただけで終わってしまった感じです。
次の機会があれば、もっと突っ込んだところにも触れたいですね。



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