安倍首相の靖国参拝や中韓への強い態度に、アメリカが「秩序の変更は許しがたい」と批判的なのをご存知かと思います。
同じ文脈で田母神としお氏も国内で(主に朝日新聞などに)批判されてます。
アメリカの言う「秩序」とは正確に書けば「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」です。言い換えれば「戦後体制」です。
敗戦国の日本がその「秩序」の変更に挑戦することは許しがたいわけで、ある意味まっとうな話ですが、「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」は普遍性のある正しいものでしょうか?違いますよね。
歴史を見ていけば、欧米と日本では「秩序」に対する考え方がまったく違うことが分かってきます。
欧米での「秩序」
欧州では勝った者が正しいという考え方がありました。
陸続きで多民族が暮らす欧州ではそうしないと治まらなかったのでしょうから、それが悪いとは言い切れません。
フランス革命の頃、勝った者が正しい論理付けとして「民主主義」が使われました。
民主主義はもっと古くには衆愚政治をもたらす悪しきものとされていましたが、多数の正義を論理付けるのに都合が良かったのです。
ところで、このように多数が共有できることを良しとする民主主義的な方法は、多数を束ねるという意味において「束ねる=ファッショ」に変質していきます。民主主義は全体主義や独裁…ファシズムの温床になる危険性を意識しないとまっとうな機能を果たせなくなってしまうことを忘れてはいけないでしょう。
話を戻して、第一次大戦で多国間で正義を共有するために「民主主義」が世界の秩序に踊り出ました。
この時、仲介役を買って出て先進国としての立場を作り上げたのがアメリカです。ですからアメリカは「民主主義」を最高の秩序として唱えるのです。
欧米ではその時有効だと共有できる間は「秩序」を堅持しますが、都合が悪くなれば新しい「秩序」を作ります。
「革命」というちゃぶ台返しも起こります。
欧米では多数派のキリスト教という根源的価値観があるから可能なのでしょうが、「秩序」は書き換えられていくのが欧米での常だろうと考えられます。
日本人の「秩序」
日本人が考える「秩序」はもっとシンプルです。
「先祖代々の訓え」
以上終わり、です。
先人の知恵を保守することが日本人にとっての「秩序」でしょう。他に何かあるでしょうか?
この日本的「秩序」っていろいろな宗教も包み込めるものですよね。八百万の神々を容認しちゃうんですから。
日本的な「察しと思いやり」も欧米では意味不明です。
そんなことをしてたら殺されるのが欧米であり、日本では狭い国土で上手くやっていく先人の知恵「秩序」を維持するため「察しと思いやり」が育ったのだろうと考えるわけです。
幕末には欧州やロシア、中国の文献を熱心に研究していたそうで。外国語で書かれた思想・哲学や科学、医学などを日本語に翻訳して学んでいました。現在の中国語の7割以上は日本語(二文字の単語)の逆輸入だそうです。
そして毛沢東はマルクス主義を日本語の本で勉強したそうですから、日本人は洋の東西を問わず先人の訓えを一所懸命汲み取ろうとした民族なのですね。
そのように、歴史伝統の中に本質があると考えて、現世での知恵を加えたり修繕して蓄積していく心持ちが日本文化としての「秩序」だろうと思います。
重要なポイントは「先祖代々の訓え」は書き換え不能なことですね。
良し悪しは置いといて、そのように全く違う文化を持つ欧米と日本が、それを理解せず(理性を持って俯瞰せず)同じように出来るはずだという「物語」に染まってしまうのはいかにも危ういな、と思います。
戦後に作られた「秩序」に盲従することは決して正当ではないと思うのです。
違いを理解した上で良い関係を築きましょう。それで問題ないはずですよね。
「戦後体制」を解いたとしても、欧米にとって日本は危険な存在ではないよ、と。
100年前の感覚をそろそろ改めてもらえませんか?というのが安倍政権…というか日本の保守政治の基本的な姿勢でしょう。
「戦勝国が作った秩序=戦後体制」への反抗、反体制。
「戦後体制」が解かれてしまうと危ない!
と考えるアメリカ人はまだいるし、それを解こうとする安倍首相や、もっと積極的に唱えている田母神としお氏を、「戦後体制」が「秩序」だと考える欧米人が危険視するのはわかります。
しかし、日本人が安倍首相や田母神氏を、欧米的視点で批判するのは、奴隷的だなぁと思うわけです。
ボクはもう若くはないのですが、若いころにはロックは反体制の音楽だと思ってました。
パンクもそんな気分が爆発した新しいものだと、当時の自分の状況(下積みでしんどかった時代)とマッチしてよく聴いたものです。
オトナが勝手に決めて縛り付けるもの、「秩序」なるものへの反抗だったり、ベトナム戦争から戦争そのもの、戦争をやらかす権力者への反抗としてロックやパンクは定着していたと思うわけです。
上で長々書いたことを踏まえれば、改めてロックのような精神が反抗すべきは「戦後体制」なんじゃないのか?
と個人的には思ってます。
もちろん、「戦後体制打破」を錦の御旗のように掲げ思考停止を強要することは間違いです。
「問う」という意味で、必要だと思います。
都知事選挙の意義とは
都知事選の主要4候補のうち、そのような「戦勝国が作った秩序=戦後体制」の意味を問い、明確に『否!』と主張しているのは田母神としお氏だけです。
他の3候補は「戦後体制」の檻の中でしか考えられていません。
それで良いのかを問う選挙でもあります。
「戦後体制」という檻の中で血を吐きながらグルグル回るだけのマラソンを続けるか、檻から出るか。
改めて、その意味が問われる選挙でもあるでしょう。
同じ文脈で田母神としお氏も国内で(主に朝日新聞などに)批判されてます。
アメリカの言う「秩序」とは正確に書けば「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」です。言い換えれば「戦後体制」です。
敗戦国の日本がその「秩序」の変更に挑戦することは許しがたいわけで、ある意味まっとうな話ですが、「第二次世界大戦の戦勝国が作った秩序」は普遍性のある正しいものでしょうか?違いますよね。
歴史を見ていけば、欧米と日本では「秩序」に対する考え方がまったく違うことが分かってきます。
欧米での「秩序」
欧州では勝った者が正しいという考え方がありました。
陸続きで多民族が暮らす欧州ではそうしないと治まらなかったのでしょうから、それが悪いとは言い切れません。
フランス革命の頃、勝った者が正しい論理付けとして「民主主義」が使われました。
民主主義はもっと古くには衆愚政治をもたらす悪しきものとされていましたが、多数の正義を論理付けるのに都合が良かったのです。
ところで、このように多数が共有できることを良しとする民主主義的な方法は、多数を束ねるという意味において「束ねる=ファッショ」に変質していきます。民主主義は全体主義や独裁…ファシズムの温床になる危険性を意識しないとまっとうな機能を果たせなくなってしまうことを忘れてはいけないでしょう。
話を戻して、第一次大戦で多国間で正義を共有するために「民主主義」が世界の秩序に踊り出ました。
この時、仲介役を買って出て先進国としての立場を作り上げたのがアメリカです。ですからアメリカは「民主主義」を最高の秩序として唱えるのです。
欧米ではその時有効だと共有できる間は「秩序」を堅持しますが、都合が悪くなれば新しい「秩序」を作ります。
「革命」というちゃぶ台返しも起こります。
欧米では多数派のキリスト教という根源的価値観があるから可能なのでしょうが、「秩序」は書き換えられていくのが欧米での常だろうと考えられます。
日本人の「秩序」
日本人が考える「秩序」はもっとシンプルです。
「先祖代々の訓え」
以上終わり、です。
先人の知恵を保守することが日本人にとっての「秩序」でしょう。他に何かあるでしょうか?
この日本的「秩序」っていろいろな宗教も包み込めるものですよね。八百万の神々を容認しちゃうんですから。
日本的な「察しと思いやり」も欧米では意味不明です。
そんなことをしてたら殺されるのが欧米であり、日本では狭い国土で上手くやっていく先人の知恵「秩序」を維持するため「察しと思いやり」が育ったのだろうと考えるわけです。
幕末には欧州やロシア、中国の文献を熱心に研究していたそうで。外国語で書かれた思想・哲学や科学、医学などを日本語に翻訳して学んでいました。現在の中国語の7割以上は日本語(二文字の単語)の逆輸入だそうです。
そして毛沢東はマルクス主義を日本語の本で勉強したそうですから、日本人は洋の東西を問わず先人の訓えを一所懸命汲み取ろうとした民族なのですね。
そのように、歴史伝統の中に本質があると考えて、現世での知恵を加えたり修繕して蓄積していく心持ちが日本文化としての「秩序」だろうと思います。
重要なポイントは「先祖代々の訓え」は書き換え不能なことですね。
良し悪しは置いといて、そのように全く違う文化を持つ欧米と日本が、それを理解せず(理性を持って俯瞰せず)同じように出来るはずだという「物語」に染まってしまうのはいかにも危ういな、と思います。
戦後に作られた「秩序」に盲従することは決して正当ではないと思うのです。
違いを理解した上で良い関係を築きましょう。それで問題ないはずですよね。
「戦後体制」を解いたとしても、欧米にとって日本は危険な存在ではないよ、と。
100年前の感覚をそろそろ改めてもらえませんか?というのが安倍政権…というか日本の保守政治の基本的な姿勢でしょう。
「戦勝国が作った秩序=戦後体制」への反抗、反体制。
「戦後体制」が解かれてしまうと危ない!
と考えるアメリカ人はまだいるし、それを解こうとする安倍首相や、もっと積極的に唱えている田母神としお氏を、「戦後体制」が「秩序」だと考える欧米人が危険視するのはわかります。
しかし、日本人が安倍首相や田母神氏を、欧米的視点で批判するのは、奴隷的だなぁと思うわけです。
ボクはもう若くはないのですが、若いころにはロックは反体制の音楽だと思ってました。
パンクもそんな気分が爆発した新しいものだと、当時の自分の状況(下積みでしんどかった時代)とマッチしてよく聴いたものです。
オトナが勝手に決めて縛り付けるもの、「秩序」なるものへの反抗だったり、ベトナム戦争から戦争そのもの、戦争をやらかす権力者への反抗としてロックやパンクは定着していたと思うわけです。
上で長々書いたことを踏まえれば、改めてロックのような精神が反抗すべきは「戦後体制」なんじゃないのか?
と個人的には思ってます。
もちろん、「戦後体制打破」を錦の御旗のように掲げ思考停止を強要することは間違いです。
「問う」という意味で、必要だと思います。
都知事選挙の意義とは
都知事選の主要4候補のうち、そのような「戦勝国が作った秩序=戦後体制」の意味を問い、明確に『否!』と主張しているのは田母神としお氏だけです。
他の3候補は「戦後体制」の檻の中でしか考えられていません。
それで良いのかを問う選挙でもあります。
「戦後体制」という檻の中で血を吐きながらグルグル回るだけのマラソンを続けるか、檻から出るか。
改めて、その意味が問われる選挙でもあるでしょう。
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