3月15日 Ides of March

「ローマ人の物語」電子版を全巻揃えたことは先日書いた。
既に図書館で借りて、紙の本(ハードカバー)で通して読んでいるから、全巻買ったからと言って、焦って全部読んでいるわけではない。通勤の車中などで、これという本が手元にないときなどに読み返したりしている。
で、今は、第5巻「ユリウス・カエサル ルビコン以後」を読み終わったところ。
ローマ史については全く門外漢であるけれど、読んでいてふと思った。
カエサルが殺されなければ、アウグストゥスの帝政は打ち立てられなかったのではないだろうか。
何故か。
まだカエサルが健在だったからオクタヴィアヌスの出番はなかった、という軽口ではなくて、オクタヴィアヌス個人の問題ではなくて、制度としての帝政のことである。

カエサルが生きていたら、カエサルの前にカエサルなし、カエサルの後にカエサルなしという状態になったような気がする。
カエサルの後継者オクタヴィアヌスという構図があってこそ、ローマ人をして帝王を待望し、帝政を受容するという時代の流れができたのかもしれない。
「歴史にifはない」と言うけれど、誰が言ったか「歴史にifは、歴史の楽しみ」である。

カエサルの長い治世が終わったら、ペリクレスなきあとのアテネが衆愚政治といわれるように、ローマも早々と滅亡あるいは衰退したかもしれない。帝政どころの騒ぎでない。
あるいは、カエサルといえども、歳とともに頑固で依怙地になり、もし後継者の心配をしはじめたら、余の帝王の例のように、子供のために国をあやうくしたかもしれない。そうなれば決してローマ人は帝王を戴こうとはせず、制度としての帝政にはいたらなかったのでは。
愛人セルヴィーリアの息子マルクス・ブルータスが後継者なんぞになったら、足利義持が父義満の路線を否定したように、カエサルを殺しはしなかったまでも、カエサルの施策を全否定したかもしれない。
そして、カエサルがあと20年も生きていたら、アントニウスはただの中堅軍団長でキャリアを終わっていて、クレオパトラはカエサルの子供カエサリオンを無事に育て上げている。
そして、カエサリオンは母クレオパトラに唆されて、ローマの正当な後継者であると主張し、内乱が……
続く第6巻「パクス・ロマーナ」では、オクタヴィアヌスによって周到に帝政への道が敷かれていくことが描写される。これを読めば、カエサルではなく、他の誰でもなく、オクタヴィアヌスでなければならなかった、そんな思いがしてくる。
カエサルは暗殺されることによって、その後の帝政ローマを決定づけた、そんな言い方もあるのではないだろうか。
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