「七夕伝説の謎を解く」
今日8月10日は私の誕生日である、のだが、そのことについて記事にする気は全くない。
そうではなくて、今日は、旧暦では七月七日、すなわち七夕である。
勝俣隆「七夕伝説の謎を解く」。
子供の頃、七月七日に牽牛(彦星)が織女に会いに行くという話を聞かされたが、星が移動するなんてことがあるはずがないのに、どうしてそんなお話ができたのか不思議だった。
七夕は中国由来のものだそうだ。そして古くは、牽牛も織女も今とは別の星だったそうだ。牽牛は中国天文学でいう牛宿という区画で、織女は女宿という区画のことで、現在のアルタイル、ヴェガとは少し場所が違っているのだと。ただ、牛宿、女宿には目立つ一等星がないので、付近にある一等星のほうが牽牛、織女にふさわしいということになったようだ。
そして中国の七夕では、日本とは逆に、織姫が牽牛のほうへ行くのだそうで、これは現在も変わっていないという。
中国では織女が年に一回しか牽牛に会えないのは、織女への罰の中でのわずかな救いということになるようだ。
この中国の七夕伝説でもう一つ注目したのは織女は輿などにのって鵲の橋を渡るというところ。
中国の天文では、鵲は天の川を渡すように翼を広げているとされていて、この上を織女が通るという。
日本では牽牛は船に乗って天の川を渡るから橋はいらないのだが、天に鵲の橋があることだけは日本でも信じられている。
ところで七夕(たなばた)という名称はいったい何なんだろう。本書は「謎を解く」とあるが、この名前の謎も解き明かしてくれている。
そして織女はその名のとおり布を織る女性であり、そのためには織機が必要で、織機は進歩を重ねているが、その一つが棚機(たなはた)だそうだ。棚が付いていて効率よく織ることができる織機だそうだが、中国ではかなり古くから使われていたらしい。
織女は「七夕つ女」(たなばたつめ)ともいわれ、それは「棚機女」の意である。
それでは棚機を七夕と書くのはなぜか。それは7月7日の夕の行事だからということはわかるが、次の謎は、この行事がなぜ7月7日に行われるのかである。
これについては本書は諸説あるとして、
私などは①や②は天文現象に帰着するのは事実とは異なるから、他の説が有力だと思うのだけれど、本書では次のとおり推論されている。
七夕というと子供の頃から連想されるのは笹飾り。本来の(旧暦の)七夕では見かけないが、新暦の7月7日の前あたりから、あちこちで目にする。この風習は七夕行事として行われる乞巧奠から来ているもので、織女が機織りの上手ということから、それにあやかろうというのが本来で、それがさまざまな技芸の上達を願うものに拡大してきたとする。それが、さらにあらゆる願い事にまで拡大されてしまったものだという。
また、今は短冊に願いを書くが、これももとは梶の葉に書いたそうだ。
私は笹にどんな願いを書いたか全く憶えがないが、知り合いの結婚式のとき、新婦の父が、七夕の笹飾りに、娘が「〇〇さんと結婚できますように」と書いてあるのを見つけたという話をされた。
願いが成就したわけである。
そうではなくて、今日は、旧暦では七月七日、すなわち七夕である。
旧暦によるはずの仙台の七夕まつりは、なぜか8月6~8日だけど。

子供の頃、七月七日に牽牛(彦星)が織女に会いに行くという話を聞かされたが、星が移動するなんてことがあるはずがないのに、どうしてそんなお話ができたのか不思議だった。
七夕は中国由来のものだそうだ。そして古くは、牽牛も織女も今とは別の星だったそうだ。牽牛は中国天文学でいう牛宿という区画で、織女は女宿という区画のことで、現在のアルタイル、ヴェガとは少し場所が違っているのだと。ただ、牛宿、女宿には目立つ一等星がないので、付近にある一等星のほうが牽牛、織女にふさわしいということになったようだ。
そして中国の七夕では、日本とは逆に、織姫が牽牛のほうへ行くのだそうで、これは現在も変わっていないという。
本書では、日本で牽牛が織女に行くようになったのは、日本の通い婚というスタイルを反映したものではないかとする。
『七夕伝説の謎を解く』発刊に寄せて 国立天文台上席教授・天文学者 渡部潤一 | |
はじめに | |
第一部 七夕伝説とは何か、その由来を探る | |
第一章 中国の七夕伝説 | |
一、七夕伝説の発生/二、中国の代表的な七夕伝説/まとめ | |
第二章 なぜ牽牛と織女の組み合わせになったのか | |
一、牽牛・織女の変遷/二、「婺女(女宿)」「牽牛(牛宿)」から「織女」「河鼓(牽牛)」 へ/三、「牽牛(牛宿)」と「婺女(女宿)」の原初的な組み合わせの証左/まとめ | |
第三章 七夕伝説はどこまで遡るのか | |
一、三国時代の七夕伝説/二、後漢前期から前漢の牛・織女像/三、詩経と七夕伝説の関係/四、「織女が織物を織らないというモチーフ」の成立/まとめ | |
第四章 七夕はなぜ七月七日に行われるのか | |
一、七月七日の意味/二、牛馬さんの意味/三、七月七日は異郷とこの世が繋がる日/四、七月七日は神仙の織女と人間の牽牛が出逢う日 | |
第五章 織女はなぜ鵲の橋を渡るのか | |
一、織女の霊的性格と鵲/二、中国の古代星座「天津」が「鵲の橋」に相当/三、黒白半々の上弦の月と、体色が黒白半々の鵲 | |
第六章 なぜ天の河を挟んで 織女と牽牛が向かい合うのか | |
一、あの世とこの世を隔てる天の河/二、天の河と三途の川は機能が同じ | |
第七章 七夕伝説と羽衣伝説との類似性・互換性 | |
一、犬飼い星と羽衣伝説/二、彦星の三つ星とオリオン座の三つ星/三、「行方知らずのプレーヤド」と人間と結ばれた天女/四、羽衣伝説と昴/まとめ | |
第八章 乞巧奠との関わり | |
一、中国で乞巧奠はどのように変化したか/二、荊楚歳時記での乞巧奠/三、日本での「乞巧奠」の用例/まとめ | |
第九章 織女と瓜の関係 | |
一、蔓性植物としての「瓜」と織女との関係/二、瓜子姫と織女/三、瓜から水が出て天の川になる話/まとめ | |
第二部 七夕と日本の古典文学 ―日本の古典は七夕をどう描いて来たか | |
第一章 「七夕」をなぜ「たなばた」と言うのか | |
一、「七夕」は「しちせき」か「たなばた」か/二、「たなばた」の由来/まとめ | |
第二章 懐風藻と万葉集の七夕 | |
一、懐風藻/二、懐風藻以後の漢詩文/三、万葉集/四、懐風藻に対する万葉集の独自性 | |
第三章 勅撰和歌集の七夕 | |
一、古今集/二、後撰集から新古今集/三、新勅撰集から新続古今集/四、万葉集と勅撰和歌集における七夕歌語 | |
第四章 うつほ物語の七夕 | |
一、七夕の聖数「七」を基調とした物語/二、平安貴族の七夕行事 | |
第五章 伊勢物語・大和物語の七夕 | |
一、伊勢物語/二、大和物語 | |
第六章 鵲の橋は日本でどう変化したか | |
一、中国における鵲の橋/二、日本における鵲の橋 | |
第七章 紅葉の橋とは何か | |
一、古今集での「紅葉の橋」の誕生/二、古今集以降の勅撰集等 | |
第八章 枕草子・源氏物語・梁塵秘抄 ・建礼門院右京大夫集の七夕 | |
一、枕草子/二、源氏物語/三、梁塵秘抄/四、建礼門院右京大夫集/まとめ | |
第九章 御伽草子の七夕 | |
一、大蛇婚姻譚の御伽草子『七夕』/二、公家物語系の御伽草子『七夕』/三、御伽草子『おもかげ物語』/四、御伽草子『毘沙門の本地』/まとめ | |
第十章 江戸時代の七夕伝説 | |
一、近松門左衛門「曽根崎心中」/二、往来物の七夕/三、菅茶山の七夕詩/四、古今要覧稿 | |
第三部 七夕と行事 | |
第一章 なぜ梶の葉に歌や願い事を書くのか | |
一、梶の葉について/二、万葉集の七夕歌から王朝文学の歌語「梶の葉」へ/三、年中行事等に見られる「梶の葉」/四、散文作品における「梶の葉」 | |
第二章 なぜ角盥に梶の葉を浮かべ、二星を映すのか | |
一、日本の古典文学に見られる角盥/二、中国では七夕の星を何に映したか | |
第三章 七夕と水を巡る行事 | |
一、七夕の日に女性がなぜ川で洗髪したのか/二、七夕と井戸さらいはどう関係するか/三、七夕の日になぜ里芋の葉の露で墨を擦り、歌や願い事を書くのか | |
第四章 七夕の天気 | |
一、中国での用例/二、日本での用例 | |
第五章 「七夕にかす」とはどういう意味か | |
一、中国の曝衣等/二、日本の用例 | |
第六章 竹・笹の葉飾りの由来 | |
一、中国での用例/二、日本での用例/まとめ | |
第七章 七夕飾りを川や海に流すのはなぜか | |
一、川や海に流すことの意味/二、天地接合・天海接合の観念 | |
第八章 七夕とそうめん | |
一、そうめんとは異なる麦餅/二、鬼を調伏するために食べるそうめん | |
第九章 現在の七夕祭り | |
一、枚方市・交野市の七夕/二、仙台市の七夕/三、平塚市の七夕/四、三河安城市の七夕 | |
第十章 七夕伝説の展開と変容、今後の展望 | |
あとがき |
以上、中国の現存の七夕伝説は、大きく次の二つの形に纏められる。
①織女が牽牛に嫁いだ後、織物を織るのを止めたため、天帝の怒りに触れ、天の河を挟んで引き離され、七月七日だけ織女が天の河を鵲の橋を越えて逢うことを許される話。天帝が牽牛・織女を切り離す役目を果たす。
②織女が天から水浴びにきたところを牛郎が衣を盗んで結婚し、子供も出来るが、織女は西王母に連れ去られ、牛の皮を纏って天へ昇った牛郎は、西王母が簪で線を引いて出来た天の河で引き離され、牽牛・織女となり、七月七日だけ再会を許される話で、羽衣伝説と融合したもの。西王母が牽牛・織女を切り離す役目を果たす。
中国では織女が年に一回しか牽牛に会えないのは、織女への罰の中でのわずかな救いということになるようだ。
この中国の七夕伝説でもう一つ注目したのは織女は輿などにのって鵲の橋を渡るというところ。
中国の天文では、鵲は天の川を渡すように翼を広げているとされていて、この上を織女が通るという。
日本では牽牛は船に乗って天の川を渡るから橋はいらないのだが、天に鵲の橋があることだけは日本でも信じられている。
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば世ぞふけにける
ところで七夕(たなばた)という名称はいったい何なんだろう。本書は「謎を解く」とあるが、この名前の謎も解き明かしてくれている。
そして織女はその名のとおり布を織る女性であり、そのためには織機が必要で、織機は進歩を重ねているが、その一つが棚機(たなはた)だそうだ。棚が付いていて効率よく織ることができる織機だそうだが、中国ではかなり古くから使われていたらしい。
織女は「七夕つ女」(たなばたつめ)ともいわれ、それは「棚機女」の意である。
それでは棚機を七夕と書くのはなぜか。それは7月7日の夕の行事だからということはわかるが、次の謎は、この行事がなぜ7月7日に行われるのかである。
これについては本書は諸説あるとして、
建礼門院右京大夫の七夕歌で、彼女も七夕がなぜ七月七日に行われるのか知らなかったことになる。現代人も、ほとんどの人がそのことを知らないと思うが、しかし、当然それには意味があるはずである。次のような説がある。
①七月七日は、牽牛・織女の二星がよく見えるから。
②七月七日には、実際に牽牛・織女の二星が天空上で近づくから。
③七という陽数(奇数)を二つ重ねることで節句としてのめでたさを表すため。
④たまたま七月七日が選ばれた。
⑤西王母が漢の武帝のもとを訪れた七月七日にあやかったもの。
⑥循環の区切りを「七」にすることで、二人の別離が永遠に続くことを表すため。
私などは①や②は天文現象に帰着するのは事実とは異なるから、他の説が有力だと思うのだけれど、本書では次のとおり推論されている。
筆者は、次のように考えたい。七月七日は、道教では三元(一月十五日〔上元〕七月十五日[中元〕 十月十五日 [下元])に先立つ三会日(一月七日・七月七日・十月五日)の一つで、最も重要な日であり、祖先の霊魂に出会うことができる日であった。仏教では、七月十五日が盂蘭盆であり、現在は十三日からをお盆とするが、古くは、七月七日がその始まりとされ、やはり、祖先の霊魂を迎える日であった。実際、お盆が古くは七月七日からであったことは、現在でも、三重県尾鷲市などではお盆が七月七日から行われていることからも窺える。 七夕盆という言葉があるくらい、お盆と七夕の行われる七月七日は関係が深いのである。
十五日が選ばれたのは、太陰暦の満月との関わりであり、七日が選ばれたのは、上弦の月との関わりであることが指摘されている(和歌森太郎『年中行事』)。また、特に七を選んだのは、七を聖数として重視する古いシャーマニズムと関わると指摘されている(小南一郎『中国の神話と物語り』)
上の引用には入っていないが、7日というのは上弦の月であり、これから生気を増していくという意味に解釈されることが多いと指摘されていて、これも7月7日に特別な意味がもたされているという。十五日が選ばれたのは、太陰暦の満月との関わりであり、七日が選ばれたのは、上弦の月との関わりであることが指摘されている(和歌森太郎『年中行事』)。また、特に七を選んだのは、七を聖数として重視する古いシャーマニズムと関わると指摘されている(小南一郎『中国の神話と物語り』)
七夕というと子供の頃から連想されるのは笹飾り。本来の(旧暦の)七夕では見かけないが、新暦の7月7日の前あたりから、あちこちで目にする。この風習は七夕行事として行われる乞巧奠から来ているもので、織女が機織りの上手ということから、それにあやかろうというのが本来で、それがさまざまな技芸の上達を願うものに拡大してきたとする。それが、さらにあらゆる願い事にまで拡大されてしまったものだという。
また、今は短冊に願いを書くが、これももとは梶の葉に書いたそうだ。
私は笹にどんな願いを書いたか全く憶えがないが、知り合いの結婚式のとき、新婦の父が、七夕の笹飾りに、娘が「〇〇さんと結婚できますように」と書いてあるのを見つけたという話をされた。
願いが成就したわけである。