「カラダで感じる源氏物語」

20240516karadagenji.jpg 大塚ひかり「カラダで感じる源氏物語」について。

タイトルから直ちにエロいものを想像する。しかも著者は、学校では教えられない!エロすぎる古典の先生である大塚ひかり氏である。

その想像に違うことなく全編ほぼエロがテーマになっている。次のとおり書かれている。
感じるエロス…エロ本としての『源氏物語』
 病気一つとっても、『源氏』はすごくエロチックなことが、感じてもらえたかと思う。『源氏』が病気のエロスをいかに引き出しているかということを。
 それでなくても、男と女の恋の苦悩とすれ違いを描いた『源氏』では、性は中心テーマである。
 しかも『源氏』の性は、感じる。『源氏』は濡れるし、たぶん立つ。エロ本としても十分、実用的なのだ。
 たとえば、光源氏が、継母の藤壺中宮に迫るシーンは、こんな具合……。
良識ある本ブログではここから先の転載は控える。

はじめに
 
第一章 感じるエロス
病気する体
感じるエロス
リアルな身体描写
ブスな女の現実感
 
第二章 源氏物語のリアリティ
ブスでもない美女でもない女の魅力
等身大の男達
光源氏のコンプレックス
源氏物語のリアリティ
 
第三章 五感で感じる源氏物語
感じる視覚
感じる触覚
感じる聴覚
感じる嗅覚
感じない味覚
 
第四章 失われた体を求めて―平成の平安化
感じる経済
感じる不幸
なぜ体で感じる源氏物語なのか?
 
あとがき
であるけれど『源氏』は〈劣情を催させることを目的とする〉エロ本ではない。
エロい描写は、紫式部のたしかなビジョンのもとに、必然性のあるものと考えられる。

女優が映画などでヌードシーンがあるとき、必然性があれば脱ぐ、というのと同様である。
お金のために脱ぐのではない、藝術のために脱ぐというわけだ。


それと関連するのだろう、本書では『源氏』でのブスの描写が具体的であることを指摘している。
空前のブス・末摘花の空前の身体描写
 ところで、『源氏』の身体描写のなかでも、とくに目を引くのは、ブスの詳しい描写である。なかでも、光源氏の妻として屋敷に迎えられた末摘花は、すごい。
 光源氏が白日のもと、初めて見た彼女の姿は、こんなである。
「まず、座高が高く、背中が長く見えるのが、一番みっともない点だ。次に、ああひどい! と見えるのは、鼻だった。思わず目が止まる。普賢菩薩の乗る象みたいだ。異様に長く伸びていて、先っちょが少し垂れて赤らんでいるのが、格別イヤな感じである。肌は雪も顔負けに白く青味がかって、おでこはすごーく広いうえ、扇で隠した顔の下にも、まだ顔が続いているのを見ると、おおかた、びっくりするほど長い顔なのだろう。しかも痩せていることといったら! 肩の骨が、着物の上から痛々しく透けて見えるほど」
 その姿を見た光源氏は、
「どうして、こうも 一つ残らず、見ちゃったんだろう」
と悔やまれるものの。物珍しさに、さすがに、じろじろ見ないではいられない、というくらいの、フリークスぶりなのである。

この部分は、現代語訳『源氏』の多くがしつこく訳出しているのではないだろうか。また、漫画版の『源氏』も同様だと思う。
多くの作家が、この執拗な描写に突き動かされているに違いない。

ブスの描写は美人の描写よりも具体性が高くなることは一般論としてもある。
ブスの形容の現実感
 ブスの現実感ということでいえば、そもそも、ブスの形容というのは、「鼻が低い」とか「口がでかい」とか「縮れ毛」とか「ハト胸だ」とか「猿のようだ」とか「垂れたおっぱいが夏牛のチンコのようだ」(『新猿楽記』のブスの形容です)など、いやがうえにも描写はリアルにならざるを得ない。
 これに対して美人の形容は、「天女のよう」とか「楊貴妃みたい」とか、ファンタジックなものになりがちだ。詳細に述べたところで、「濡れたくちびるは赤い果実のよう」(これは『新猿楽記』の美女の形容)とか「白い肌が雪のよう」とか「三日月のような眉」だとか、やっぱりポエムな表現になってしまう。
 紫式部が末摘花の鼻を「花」に例えたのは、ブスに似合わずリリカルで、そのミスマッチが、かえって笑いを誘ったかもしれない。
 いずれにしても、美しさより醜さの形容のほうが、ざらざらとした現実の手触りが感じられる。これは、妙香が満ち、金色の鳥が舞う極楽より、ウジが這い、汚臭の漂う地獄の描写のほうが、ぞくぞくと五感に響くのとよく似ている。美女よりブス、極楽より地獄のほうが、ダイレクトに体に感じやすいのだ。

末摘花の花と鼻を通じさせるのは駄洒落、言葉遊びだろうと思うけれど、当時の人もその悪辣な駄洒落で笑ったに違いない。
そして紫式部や読者に笑われても、自分の立ち位置を理解し、光源氏の妻として(性交渉はなさそう)それなりに恵まれた暮らしを勝ち取った。

『源氏』では、別格の末摘花の他、花散里、空蟬が三大ブスということだが、三人とも光源氏の妻として六条院に住まいがあてがわれる。
であるが、光源氏が訪れても、彼女達はめずらしいことと言い放って、几帳で隔てて寝てしまうのだ。まるで光源氏の「優しさ」を見抜いて、金づるとして利用しているかのようである。

昔読んだ五味康祐『五味人相教室 顔が表わす男女のシンボル』という本に「美女は男難の相がある」と書いてあって、理由は簡単、美女にはたくさんの男が寄ってくるから、結果として男で苦労する、というわけだった。
『源氏』の美女たち―藤壺、葵の上、紫の上はいずれも決して平穏で幸せな生を全うすることはない。


美女や特筆されるようなブスというのは、分布の両極端で、実際はその間の人が大多数を占める。そして『源氏』にもそういう女性が登場していると著者は気づかせてくれる。
その代表が夕顔だという。
夕顔の魅力
 当の夕顔は、葵の上や六条御息所といった「優れた女」と違って、「とくに優れたところのない女」だった。
 これじゃあ「なーんだ、期待外れだった」となるのがふつうだが、彼女は、
「今別れてきた朝のうちも、今夜会うまでの昼の時間も待ちきれないほど」
光源氏を夢中にさせる。
「とくに優れたところのない女」の、どこに、そんな魅力があったのか、というと。
 夕顔は、謎と意外性のかたまりのような女だったのだ。
 ヒナにはまれな美女という言い回しがあるが、夕顔は粗末な小家にそぐわない、可愛い女だった。
 彼女には自分の周りの様子など、てんで分かってないような、不思議な品の良さがあった。
 自分から歌を贈るような積極的なところがあるかと思えば、
「どんなに見苦しいことでも、ひたすら男の言いなりになる」
無意思な面がある。
 光源氏から見た夕顔の様子は、こんな具合。
「地味な容姿がとても可憐で、触れば壊れそうな感じで、そこと取り立てて優れたところはないが、ほっそりとなよなよとして、ちょっとものを言う様子も、ああいじらしい、とひたすら可愛く見える」
派手な美しさはないが、男の保護本能をくすぐるような、男好きする魅力があったのだ。

絶世の美女、特筆されるブス、そして平凡だがしっかりと光源氏の人生に食い込んでくる女。これらがそろって『源氏』のリアリティが演出される。
時代は〝等身大〟を待っていた
 たぶん、平安中期というのは、もう、大きな夢が見られない時代だったのだろう。
「絶世の美女が王子様に愛されて幸せになりましたとさ」
などという、現実とあまりにかけ離れた設定の物語を楽しめるほど、当時の人は脳天気な日常を過ごしていられなくなっていた。
 こうした時代背景についてはあとでも触れるが、とにかく当時の人々が待ち望んでいたのは、大きな夢ではなくて、手の届きそうな夢だった。できれば、読者自身が、主人公に成り代われるくらいの設定が、望まれていた。
 要するに、〝等身大の人物〟が、待たれていたのである。
 そんな時代の雰囲気を鋭くキャッチした紫式部が生み出したのが、夕顔という女だったように私は思う。

著者が説明する紫式部の〈意図〉、『源氏』の〈構成〉が、広く専門家たちに受け入れられているものとは言えないかもしれない。しかし、本書は『源氏』の生々しい読み方を教えてくれる。
そして何より、それぞれの登場人物の個性、書き分けが、本当に生き生きとした『源氏』世界を堪能するのを助けてくれると思う。

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