「カラダで感じる源氏物語」(その5)

20240516karadagenji.jpg 大塚ひかり「カラダで感じる源氏物語」の5回目。

エロ本としての『源氏物語』で始まった本書だけれど、終盤に至って、エロからどんどん遠ざかる。
『源氏』は一大不幸絵巻
 愛し合う光源氏と藤壺が結ばれない。
「今抱き合った帰り道にも、会いたくてたまらなくなる」
というほど光源氏が夢中になった夕顔は、出会って半年で変死する。不仲だった妻・葵の上は、子を生んで、やっと心が通じ合えそうに見えたその日のうちに、死亡。秘密の恋の藤壺には不義の子ができてしまうのに、最愛の妻、しかも子供好きな紫の上に子ができない。 明石の君は、光源氏の娘を生んだものの、「身分の低い母のもとで育つと、娘の将来に傷が付く」という夫の意向で、可愛い盛りの三歳で、娘と引き離される。
 さらに、玉鬘と冷泉帝、女三の宮と柏木、薫と大君、匂宮と浮舟など、誰が見ても〝似合いのカップル〟が結ばれない。
 そして、それら主要な登場人物達が、片っ端から死んでいく……。
 これでもかこれでもかと皮肉な運命を繰り出す「源氏」は、空前の〝不幸絵巻〟である。
 魅かれあう男女が結ばれないのはもちろん、たとえ一度は結ばれた相思相愛のカップルでも、やがて幻滅のときが訪れる。しかも男女の心は、それぞれ自分に都合のいい解釈に終始するだけで、決して交わることがない。登場人物はすべてが孤独。誰にも理解されぬまま、悔いと苦悩と悲しみを、たっぷり味わった末に死んでいくのである。
 なぜ、どうして、何のために、紫式部はこんなにも登場人物を痛めつけるのか。生きる楽しさよりも生きる辛さ、人を愛する喜びよりも愛する苦しみを、クローズアップするのだろう。そしてなぜ、一見、夢も希望もないこんな物語が、一世を風靡してしまったのか……。
 そうした疑問はともかくとして、はっきりしているのは、『源氏』の登場人物は、苦悩しだすと、とたんに存在感が出てくる、ということ。そして、紫式部にとって「人を描くこと」は、ほとんど「その人の苦悩を描くこと」だということだ。

はじめに
 
第一章 感じるエロス
病気する体
感じるエロス
リアルな身体描写
ブスな女の現実感
 
第二章 源氏物語のリアリティ
ブスでもない美女でもない女の魅力
等身大の男達
光源氏のコンプレックス
源氏物語のリアリティ
 
第三章 五感で感じる源氏物語
感じる視覚
感じる触覚
感じる聴覚
感じる嗅覚
感じない味覚
 
第四章 失われた体を求めて―平成の平安化
感じる経済
感じる不幸
なぜ体で感じる源氏物語なのか?
 
あとがき
苦悩しだすと、とたんに存在感が出てくる、というのはある意味当然だろう。どんな物語でも、ただしあわせに生きていては話にならない。
天真爛漫に生きている子供時代だけでは、かぐや姫もシンデレラもちっとも面白くない。かぐや姫は月へ帰る日が近づくにつれ、秘密を隠し、育ててくれた翁・嫗との別れに涙しはじめる。シンデレラは継母がやってきて父が亡くなるとそれまでの恵まれた生活から一転、それでも明るく暮らすけれど、舞踏会にいくことができないと悩む。
そして、かぐや姫は本来の居場所である月へ帰り、シンデレラは王子様と結ばれて悩みは解消される。
ところが『源氏』の女性はどれだけ悩んでも通常のハッピーエンドはないというわけだ。
悩み抜く女の代表として、紫の上と浮舟について、本書では次のように述べる。
まず紫の上である。
紫の上の場合
 たとえば紫の上である。
 彼女は「源氏』の女達の中で一番筆を割かれているにもかかわらず、
「『源氏』の女達で印象に残る人は誰?」
と人に聞いたとき、その名があがることは少ない。あがってくるのは空輝や六条御息所、あるいは夕顔や末摘花だ。たしかに彼女達の存在は見逃せないが、『源氏』全体で割かれるページ数で見ると、明石の君や、まして紫の上にはとうてい及ばない。……
 :
 その紫の上が、生身の女として、読者の心を揺さぶりだすのは、結婚して二十年後。自分より二十歳近くも若い女三の宮が、夫の正妻として乗り込んでくる「若菜」の巻以降のことだ。そして、この頃から、彼女は周囲の人達に、
「奥様は幸運でいらっしゃる」
と、繰り返し吹き込まれる。
「頼りになる母方の身寄りもないのに、内親王の女三の宮をしのぐ寵愛を保つなんて、ラッキーですとも!」
というわけだ。紫の上はしかし、この頃から、習字の歌に無意識に悲しい歌を選ぶ自分に、
「ということは、私には、悩みがあったんだ」
と気付く。
 そして夫の光源氏でさえ、
「あなたなんかよりずっと高貴な人だって、いろいろ悩みがあるんだから。あなたはまだ幸せだよ。 それをちゃんと自覚してくれなくちゃ」
と語るに及び、
「私は幸せなんかじゃない!」
と、はっきり認識する。人が自分を〝幸運な女〟と言うのは、仕方ないだろう。でも夫まで、同じことを言うなんて。私が、女三の宮の一件で落ち込むのは、分不相応みたいな言い方をするなんて。
「たしかに夫の言うように、私は人より優れた運の持ち主かもしれない。でも、これが私の人生だとしたら、なんてつまらないのかしら!」
と、紫の上は愕然とする。そして、
「夫の愛が冷めないうちに、出家してしまいたい」
思いつめるに至るのである。
 悩み始めたその瞬間、紫の上は、〝新生・紫の上〟として、『源氏』の中で再デビューする。

闊達な子供として登場し、動転の新枕後、それでも第一の妻として地位を確立し、朝廷からは中宮並みの処遇を受ける紫の上だが、その実質はこの通り、ふと思い出せば自分はなんとつまらない人生を歩んできたのだろう、というわけだ。

紫の上を理想の女性と考える人は多いと思う。けれど、自分の娘を紫の上のような美しく、才知も情趣も豊かな女性になってもらいたいと思ったとしても、紫の上のような人生を歩ませたいとは思わないだろう。

もう一人、絵にかいたような悲劇のヒロイン・浮舟についてはこのように書かれている。
なぜ、浮舟がラストヒロインなのか
 :
『源氏』には、空前のブス末摘花とか、空前の設定の夕顔とか、空前の不幸な運命とか、いろんな〝空前〟が出てくるが、なぜ紫式部は、ラストヒロインを、空前の美女とか、空前の悪女にしないで、弱い女にしたのか? というと。
 たぶん、彼女を悩ませたかったからだろう。
 それもリアルに悩ませたかったからだろう。
『源氏』の苦悩を振り返ってみると、苦悩の度合いがしだいにリアルにランクアップしていることに気付く。
 :
 浮舟と男達との関わりは、あのたくましい母・中将の君が彼女のそばを離れたとたん、始動する。一人になった浮舟は、貴公子達の格好のカモとなる。けれど彼女は、男達に対等の女としては扱われない。しかもパトロンがいながら、ほかの男にも犯されることで、守らなきゃいけない〝秘密〟ができる。そのうえ、それがパトロンにバレてしまう。
 苦悩の質は、絶世の美女の皇后・藤壺が夫にも継子にも死ぬほど愛されて、困った……などという、一般人にほど遠いものから、かつてないほど現実味を帯びてくるのである。
 この〝現実味〟を実現するために、紫式部は彼女を弱い女にしたのだろう。
 そんな浮舟が、高貴な人々のひしめく『源氏』に姿を現したのは、死んだ大君の面影を慕い、その妹の中の君に、薫が迫ったのがきっかけだった。中の君に迫りながら、
「大君に似た〝人形〟を作って、故人をしのぶよすがにしたい」
と思いつめる薫の姿に、同情半分・迷惑半分で、中の君が思いついたのが、劣り腹の異母妹・浮舟のこと。で、
「浮舟は、私なんかより亡き姉・大君に似てますよ」
と、薫をそそのかす。つまり浮舟は、初めから、亡き大君の〝身代わり〟に愛される〝人形〟として、『源氏』の世界に投げ込まれたのだ。
 そして古代、人形は、ヒトにふりかかる、ありとあらゆる災厄を身代わりに受けるまじないのために作られた。まじないが終わったあとは、水に流される運命だった。
 浮舟もまた、なのである。浮舟もまた、貴族社会に投げ込まれると、大君や中の君の代わりに男達に抱かれ、大君や中の君や他の大勢の女が感じるはずの憂いを一身に吸い取っていく。大君とは一夜をともにしても抱き締めるだけだった紳士的な薫も、身分の低い浮舟とは出会ったその日にセックスし、侍女代わりに洗面の世話をさせる。そして、
「なぜそんな田舎で長年暮らしていたの?」とか、
「いくらなんでも、和琴は弾けるでしょう?」
などと、田舎育ちの彼女のコンプレックスをいちいち刺激して、萎縮させていた。
 初めこそ、彼女を貴婦人扱いしていた匂宮も、浮舟の身分のほどと気弱な性格を知ると、
「この女を召使として姉に差し上げたら、喜ぶだろう」
などと思う。そんな男二人に、自分の意思とは関係なく代わる代わる抱かれる日々。それが周囲に知れて、さいなまれる、いたたまれない日々……。そうした憂いの重さに耐えられなくなった浮舟は、〝入水自殺〟という形で水に流される。人形ならこれでおしまいだが、浮舟はしかし、そこから生還することで、人間浮舟としての体を取り戻したのだ。
 不幸が満載の『源氏』のドン尻に、ダメ押しのように登場する浮舟。けれどそのラストに、不思議に明るい救いの予感が漂うのは、ひとえに、この、人間としての浮舟の蘇生があるためだろう。
 紫式部の真の目的は、苦悩の果ての、救いを描くことだったのだ!
 そして確かなのは、浮舟の弱さと小ささが、彼女の蘇生をより感動的なものにしている、ということだ。
 それは言ってみれば、『源氏』の読者のほとんどが小さくか弱い存在だからである。 田舎育ちとか、母の身分が低いとか、気が弱いとか、どこかしら一つは、浮舟的な要素をもった人間だからである。作者の紫式部をはじめ、「受領の未亡人ふぜいが」と、紫式部に毒づいた同僚の女房達、そして紫式部の主人の彰子中宮でさえも。そのことは、
「思えば、満ち足りない一生だった」
と光源氏に嘆かせた紫式部が一番知っているはずだ。

浮舟はどうすれば良かったのだろうか。これほど追い込まれた状況で。
紫式部は底意地の悪い作家だ。
それは「受領の未亡人ふぜい」と蔑まれて蓄積したものなのかもしれない。

物理法則が人間の想像を超えるものであるように、史実のほうが、物語作者が想像もしない展開をするものと思っているのだけれど、『源氏』は前半のありえない御伽噺のような話から、後半のこんな悲惨な展開は作家の空想だけでできるとは思えない。

本書の「はじめに」に、光源氏を実在の人物だと思っている人がいると書かれているのだが、紫式部が創り出したリアリティは成功している。

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