「戦国時代の天皇」
末柄豊「戦国時代の天皇」について。
歴史好きでも、時代を動かす英雄、大事件ばかりに関心を向けていたらこぼれ落ちる歴史は山ほどある。
日本国でずっと最高位にあった天皇ですら、武家の世になると、後醍醐帝など一部の例外を除いて、普通に歴史を学んでいては抜け落ちるだろう。
歴代天皇を総覧するような本は読んだことがあるし、戦国時代なら公家の政治的動きについて書かれた「流浪の戦国貴族 近衛前久」なども読んでいる。
前者のような本の場合は、ちょこちょこっとした事績が拾われるだけだし、後者の本では名前は出てきても天皇と政治の直接の関わりは見えなかった、というか天皇の意思というものはわからなかった。
天皇は日本国のトップだから、政治と無関係ということはないわけだが、その関係を簡単に言ってしまえば受動的なものであったということになる。
時代を動かすのではなく、時代に動かされる、そこに天皇がいるから、手続きとして天皇は無視されない。しかし無視されないといっても、本書で見るように、先立つものがなければ、その程度には限界がある。
全く知らなかったというか意識しなかったことに、天皇の譲位のことがある。平成天皇が生前譲位をされたとき、日本国内では賛否両論が巻き起こった。一世一元の制度があるのでそれともからんでさまざまな意見があった。(⇒「○○元年1月1日は困難なのか」)
近代になるまで、歴史的には生前譲位は普通のことであり、在位のまま崩御した天皇はむしろ例外である。ところが戦国時代には、その生前譲位が三代続けて行われなかったことがあったという。
戦国時代、皇室の経済力がおちこんでいたことはいろいろ言われていて、日常生活にも苦労するほどという話もあるが、本書ではそこまでひどくはなかったとしている。上の引用に続けて次のとおり説明されている。
室町幕府および戦国時代の初期までは、足利幕府がそうした皇室行事を支えていた。
利用価値があるから皇室を支援したのだろうけれど、そもそも将軍の地位は天皇から与えられるものなのだから、足利将軍側に天皇を否定すれば、自分の地位も否定することになって、なにもよいことはない。単純に打算で皇室を利用したとまでは言えないという気もする。
ではあるけれどない袖はふれないわけで、幕府側としても皇室を支える出費には一定の制限が加わることはしかたがない。上に見たように諸儀式が行えないというのも一つだが、見ようによってはさらに難しいことがある。それが子女の問題である。
儀式が行えなかったの理由は同じ、経済的にそれらを支えきれないということだ。
皇室がこうした状態であると、朝廷の役職もまた同様の状態になる。実質的に政治は武家が行うようになっているから、公家の「仕事」は芸事になるわけで、律令官制の多くの職は有名無実化したであろう。
そのため都には常住せず、地方の所領へ行く公家も出てくる。あるいは地方大名の庇護を求める公家も出てくる。周防の大内氏、駿河の今川氏などは、そうした公家たちを受け入れている。
このような時代を天皇たちがどう過ごしたかは、天皇自身が日記に書き残しているそうだ。
本書は戦国時代、したがって室町幕府が皇室のパトロンをしている時代を中心にしているが、最後に戦国を終わらせた信長、秀吉の天皇の扱いを書いて閉じている。
そして周知のとおり、江戸幕府の「禁中並公家諸法度」により、皇室・公家の扱いは明文化されることになる。
こうした天皇の姿を知ったからと言って、歴史の動きの理解がどれだけ助けられるか、それはわからない。しかしあらためて後醍醐以後、600年近く権威の存在として「生かされて」きた天皇の姿を知っておくことは無駄ではないだろう。
歴史好きでも、時代を動かす英雄、大事件ばかりに関心を向けていたらこぼれ落ちる歴史は山ほどある。
日本国でずっと最高位にあった天皇ですら、武家の世になると、後醍醐帝など一部の例外を除いて、普通に歴史を学んでいては抜け落ちるだろう。
歴代天皇を総覧するような本は読んだことがあるし、戦国時代なら公家の政治的動きについて書かれた「流浪の戦国貴族 近衛前久」なども読んでいる。
前者のような本の場合は、ちょこちょこっとした事績が拾われるだけだし、後者の本では名前は出てきても天皇と政治の直接の関わりは見えなかった、というか天皇の意思というものはわからなかった。
天皇は日本国のトップだから、政治と無関係ということはないわけだが、その関係を簡単に言ってしまえば受動的なものであったということになる。
時代を動かすのではなく、時代に動かされる、そこに天皇がいるから、手続きとして天皇は無視されない。しかし無視されないといっても、本書で見るように、先立つものがなければ、その程度には限界がある。
天皇の戦国時代 | |
①天皇になること | |
応仁・文明の乱と朝廷の夕暮れ/異例ずくめの践祚/遅れに遅れる即位礼 | |
②天皇の仕事 | |
幕府との関係のありようについて決断する/官位の任叙について判断する/裁判を行う/禁裏の蔵書を整備する | |
③天皇のくらし | |
日記を書く/手紙をしたためる/親王を教え導く/所領を立て直す | |
④天皇をめぐる人びと | |
子女たちのありよう/女官と天皇の配偶/ものを知らない廷臣と働き者の廷臣/廷臣のゆくすえ/減りゆく地下官人たち | |
禁裏と朝廷 |
近代になるまで、歴史的には生前譲位は普通のことであり、在位のまま崩御した天皇はむしろ例外である。ところが戦国時代には、その生前譲位が三代続けて行われなかったことがあったという。
戦国時代の天皇を最もよく特徴づけるのは、終生にわたる在位である。正親町天皇は、子の誠仁親王(陽光院)に先立たれながら、七〇歳の時、ようやく孫への譲位を果たした。けれども、後土御門・後柏原・後奈良の三代はともに譲
位をせず、天皇の位についたままで死を迎えている(享年は、それぞれ五九・六三・六二)。これは、終身の在位を制度化した明治以降の天皇のありように照らせば必ずしも不思議ではないのだが、天皇の歴史のなかできわめて特異な事
態であった。
天皇が三代続けて在位中に没した直前の事例は、なんと、七世紀の斉明・天智・天武の三代にまでさかのぼる。逆に、つぎに同じ事態があらわれるのは、仁孝・孝明・明治の三代にまで下らなければならない。律令制の成立から明 治維新までのおよそ一二〇〇年のあいだ、いいかえれば太上天皇(上皇)の制度が存在した期間において、三代続けて在位したままで死を迎えた天皇は、後土御門・後柏原・後奈良の三人のほかには存在していない。
戦国時代の天皇の終生にわたる在位は、本人が望んだわけではなく、もっぱら経済的な理由によるものであった。譲位を遂げて上皇があらわれると、天皇の御所である禁裏のほかに、上皇の御所である仙洞が必要になるなど、大幅な経費の増加を招くが、その負担が叶わなかったのである。
つまり上皇の面倒まで見るお金がないということだ。天皇が三代続けて在位中に没した直前の事例は、なんと、七世紀の斉明・天智・天武の三代にまでさかのぼる。逆に、つぎに同じ事態があらわれるのは、仁孝・孝明・明治の三代にまで下らなければならない。律令制の成立から明 治維新までのおよそ一二〇〇年のあいだ、いいかえれば太上天皇(上皇)の制度が存在した期間において、三代続けて在位したままで死を迎えた天皇は、後土御門・後柏原・後奈良の三人のほかには存在していない。
戦国時代の天皇の終生にわたる在位は、本人が望んだわけではなく、もっぱら経済的な理由によるものであった。譲位を遂げて上皇があらわれると、天皇の御所である禁裏のほかに、上皇の御所である仙洞が必要になるなど、大幅な経費の増加を招くが、その負担が叶わなかったのである。
令和では上皇の一人ぐらい面倒みられる国力があるということだ。
戦国時代、皇室の経済力がおちこんでいたことはいろいろ言われていて、日常生活にも苦労するほどという話もあるが、本書ではそこまでひどくはなかったとしている。上の引用に続けて次のとおり説明されている。
この時期の天皇の経済的な困苦については、日常生活においてすら窮乏をきわめていたという言説がある。それは江戸時代初期にあらわれ、戦前には皇室式微論として喧伝された。たとえば、織田信長が入京する以前の禁裏は、田舎
の民家と大差ないもので、築地塀もなく竹の垣根に茨をからめてあり、町の子どもが自由に出入りするありさまだったというたぐいである(『老人雑話』)。 これが多分に「伝説」と呼ぶべきものであることは、戦時中に大著『皇室御経済史の研究』としてまとめられた奥野高広の実証的な研究によって明らかにされている。奥野は、史料の博捜を遂げ、 「皇室領」からの貢納が継続的に存在し、 天皇の日常生活は一定度の水準が維持されていたことを明確に論証した。
ただし、日常生活に大きな支障がなかったにせよ、朝廷の儀式(朝儀)がはなはだしく衰えたこともまた明白な事実である。天皇の身位の再生産にかかわる儀式に限っても、大嘗会は一四六六(文正元)年の後土御門天皇のそれを最後に、一六八七(貞享四)年まで二〇〇年以上の中絶を余儀なくされた。即位礼も践祚後すぐに執り行うことができず、後柏原天皇の場合、践祚から二一年後、後奈良天皇の場合も一〇年後にようやく挙行されている。奥野は、このような状況に陥ったのは、儀式の費用を負担するはずの室町幕府の無力に理由があり、これをもって「皇室御窮乏の一証」とみることを否定した。
つまり日常生活はまあ回っているけれど、大きな行事をする財力はなかったということらしい。ただし、日常生活に大きな支障がなかったにせよ、朝廷の儀式(朝儀)がはなはだしく衰えたこともまた明白な事実である。天皇の身位の再生産にかかわる儀式に限っても、大嘗会は一四六六(文正元)年の後土御門天皇のそれを最後に、一六八七(貞享四)年まで二〇〇年以上の中絶を余儀なくされた。即位礼も践祚後すぐに執り行うことができず、後柏原天皇の場合、践祚から二一年後、後奈良天皇の場合も一〇年後にようやく挙行されている。奥野は、このような状況に陥ったのは、儀式の費用を負担するはずの室町幕府の無力に理由があり、これをもって「皇室御窮乏の一証」とみることを否定した。
室町幕府および戦国時代の初期までは、足利幕府がそうした皇室行事を支えていた。
戦後、「逆賊」足利氏という名分論的な断罪は歴史研究の場から姿を消したが、朝廷と室町幕府とを過度に対立的にとらえる思考は、容易に払拭されなかった。朝廷を支援する存在としての室町幕府という見方が有力になってきたのは、ようやく一九九〇年代後半のことである。
応仁・文明の乱は、朝廷の所在地京都において一〇年以上にわたって軍事的な対峙が継続するという未曽有の事態であった。乱が始まって間もなく、後土御門天皇は禁裏を離れ、足利義政の住む室町第に身を寄せる。禁裏は、乱が終 わるまで西軍に占拠され、天皇は居所においても幕府に依存していた。幕府の庇護なくして朝廷の存立はありえなかった。それだけに、乱の結果、幕府が衰退のあゆみを大きく進めたことは、朝廷にも重大な危機をもたらした。
天皇にとっての戦国時代とは、朝廷を支えてきた室町幕府を全面的に頼ることが困難になり、朝廷の活動の大幅な縮小を甘受するとともに、最低限の活動を維持するために奮闘し、みずからのありようを見つめ直した時期であったといえる。とすれば、戦国時代の天皇を知ることには、前近代の天皇の役割がどのようなものであったのか、さらには、なぜ天皇という存在が長く続いたのか、という問題を考えるために少なからぬ意味を認めることができそうである。
応仁・文明の乱は、朝廷の所在地京都において一〇年以上にわたって軍事的な対峙が継続するという未曽有の事態であった。乱が始まって間もなく、後土御門天皇は禁裏を離れ、足利義政の住む室町第に身を寄せる。禁裏は、乱が終 わるまで西軍に占拠され、天皇は居所においても幕府に依存していた。幕府の庇護なくして朝廷の存立はありえなかった。それだけに、乱の結果、幕府が衰退のあゆみを大きく進めたことは、朝廷にも重大な危機をもたらした。
天皇にとっての戦国時代とは、朝廷を支えてきた室町幕府を全面的に頼ることが困難になり、朝廷の活動の大幅な縮小を甘受するとともに、最低限の活動を維持するために奮闘し、みずからのありようを見つめ直した時期であったといえる。とすれば、戦国時代の天皇を知ることには、前近代の天皇の役割がどのようなものであったのか、さらには、なぜ天皇という存在が長く続いたのか、という問題を考えるために少なからぬ意味を認めることができそうである。
利用価値があるから皇室を支援したのだろうけれど、そもそも将軍の地位は天皇から与えられるものなのだから、足利将軍側に天皇を否定すれば、自分の地位も否定することになって、なにもよいことはない。単純に打算で皇室を利用したとまでは言えないという気もする。
ではあるけれどない袖はふれないわけで、幕府側としても皇室を支える出費には一定の制限が加わることはしかたがない。上に見たように諸儀式が行えないというのも一つだが、見ようによってはさらに難しいことがある。それが子女の問題である。
子女たちのありよう
戦国時代が朝廷にとって縮小の時代であったことは論を俟たないが、これは戦国時代にいたって突如あらわれた状況ではない。すでに南北朝時代に朝廷は急速な縮小を経験していた。この縮小は、室町幕府の助成によっていったん食い止められたが、応仁・文明の乱による幕府の衰えは、朝廷をかつてない状況におとしいれることになる。大嘗会や勅撰和歌集が応仁・文明の乱によって途絶えたことを先にみたが、南北朝の内乱でいち早く断たれたものとしては、皇后や皇太子といった制度があげられる。
中世における皇太子の存在は、一三四八(貞和四)年に崇光天皇の皇太弟となった直仁親王が最後であった。直仁は、一三五二(正平七)年に南朝がいったん京都を制圧した際にその地位を廃され、以後皇太子が立てられることはなくなる。そして、一六八三(天和三)年に霊元天皇のもとで朝仁親王(のち東山天皇)の立太子が行われるまで、およそ三三〇年のあいだ不在が続いた。
皇后についても、後醍醐天皇が京都に帰還した一三三三三(元弘三)年に中宮に立てられた珣子内親王(後伏見天皇の娘)が最後になる。一三三七(延元二)年に珣子が女院の号を宣下されて新室町院になると、以後、一六二四(寛永元)年、後水尾天皇の後宮に入った徳川和子(のち東福門院)が中宮に立てられるまで、二九〇年近くも絶えてしまった。
これらの不在も、東宮職・中宮職などの組織を整備し、皇太子・皇后の地位にふさわしい待遇を行うことが困難だという、経済的な理由によるものであった。それでは、南北朝期以降の天皇の子女や、配偶者はどのような存在形態を とっていたのであろうか。
子女については、いささか乱暴にまとめるならば、天皇の地位を継ぐ嫡男以外はみな僧尼になったということができる。ただし、天皇の男子の多くが僧侶になるのは、平安時代後期に法親王の制度がととのえられ、各宗派の門跡寺院 がその受け皿になって以来のことであり、戦国時代においてもそれ以前と大きく変わったわけではない。
女御・更衣あまたさぶらひたまひけるとしても、皇后の地位は長く絶えたという。皇太子も、事実上の皇位継承者はいたに違いないが、東宮として遇することも長く行われなかったという。戦国時代が朝廷にとって縮小の時代であったことは論を俟たないが、これは戦国時代にいたって突如あらわれた状況ではない。すでに南北朝時代に朝廷は急速な縮小を経験していた。この縮小は、室町幕府の助成によっていったん食い止められたが、応仁・文明の乱による幕府の衰えは、朝廷をかつてない状況におとしいれることになる。大嘗会や勅撰和歌集が応仁・文明の乱によって途絶えたことを先にみたが、南北朝の内乱でいち早く断たれたものとしては、皇后や皇太子といった制度があげられる。
中世における皇太子の存在は、一三四八(貞和四)年に崇光天皇の皇太弟となった直仁親王が最後であった。直仁は、一三五二(正平七)年に南朝がいったん京都を制圧した際にその地位を廃され、以後皇太子が立てられることはなくなる。そして、一六八三(天和三)年に霊元天皇のもとで朝仁親王(のち東山天皇)の立太子が行われるまで、およそ三三〇年のあいだ不在が続いた。
皇后についても、後醍醐天皇が京都に帰還した一三三三三(元弘三)年に中宮に立てられた珣子内親王(後伏見天皇の娘)が最後になる。一三三七(延元二)年に珣子が女院の号を宣下されて新室町院になると、以後、一六二四(寛永元)年、後水尾天皇の後宮に入った徳川和子(のち東福門院)が中宮に立てられるまで、二九〇年近くも絶えてしまった。
これらの不在も、東宮職・中宮職などの組織を整備し、皇太子・皇后の地位にふさわしい待遇を行うことが困難だという、経済的な理由によるものであった。それでは、南北朝期以降の天皇の子女や、配偶者はどのような存在形態を とっていたのであろうか。
子女については、いささか乱暴にまとめるならば、天皇の地位を継ぐ嫡男以外はみな僧尼になったということができる。ただし、天皇の男子の多くが僧侶になるのは、平安時代後期に法親王の制度がととのえられ、各宗派の門跡寺院 がその受け皿になって以来のことであり、戦国時代においてもそれ以前と大きく変わったわけではない。
儀式が行えなかったの理由は同じ、経済的にそれらを支えきれないということだ。
皇室がこうした状態であると、朝廷の役職もまた同様の状態になる。実質的に政治は武家が行うようになっているから、公家の「仕事」は芸事になるわけで、律令官制の多くの職は有名無実化したであろう。
そのため都には常住せず、地方の所領へ行く公家も出てくる。あるいは地方大名の庇護を求める公家も出てくる。周防の大内氏、駿河の今川氏などは、そうした公家たちを受け入れている。
大内氏を頼った前左大臣三条公頼は、陶晴賢の謀反時に殺されている。
このような時代を天皇たちがどう過ごしたかは、天皇自身が日記に書き残しているそうだ。
恒例の行事や随時行われる酒宴についても、詳細に記録し、親族や近臣・女官の参否や持参した品々まで気に懸ける。贈答の品名や数量をいちいち記録するのは、そこに先例にもとづく相場を意識しており、その変化に敏感であろうとしたからだろう。引退した女官からの求めに応じて揮毫もこなし、それが手本でなく地方への手土産になることを予想している。いわば目的外に使用されることを黙認し、廷臣たちに便宜を供与したわけである。
この日記からうかがわれるのは、天皇自身が微細なことにまで気を配り、バランス感覚を磨いていたという事実である。そして、天皇がこのような日記を残したのは、その判断をより適切なものとし、朝廷の存続に資することを意図していたからにほかなるまい。天皇の意識にのぼっている世界は、必ずしも広くはないが、縮小する朝廷とそれを囲繞する諸勢力間の平衡を維持するように努めるのは、少なからず心理的な圧迫をうけるものであった。戦国時代の天皇の日記は、苦闘の奇跡という側面を確かに有している。
この日記からうかがわれるのは、天皇自身が微細なことにまで気を配り、バランス感覚を磨いていたという事実である。そして、天皇がこのような日記を残したのは、その判断をより適切なものとし、朝廷の存続に資することを意図していたからにほかなるまい。天皇の意識にのぼっている世界は、必ずしも広くはないが、縮小する朝廷とそれを囲繞する諸勢力間の平衡を維持するように努めるのは、少なからず心理的な圧迫をうけるものであった。戦国時代の天皇の日記は、苦闘の奇跡という側面を確かに有している。
本書は戦国時代、したがって室町幕府が皇室のパトロンをしている時代を中心にしているが、最後に戦国を終わらせた信長、秀吉の天皇の扱いを書いて閉じている。
このような事態は、一五七三(天正元)年、織田信長が足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたことにより、変化の時を迎える。信長が室町幕府にかわって朝廷の支援者という立場にたったことで、朝廷が復興に向けてあゆみを進める可能性を生じたのである。しかし、そこにおける復興の方向性は必ずしも自明ではなかった。
復興をめざす正親町天皇がまず望んだのは、子の誠仁親王に譲位を果たし、みずからが院政を布くことであったろう。すなわち、応仁・文明の乱以前の状態への回帰である。ところが、一〇〇年におよんだ戦国時代は朝廷のありようを大きく変えていた。朝廷のなかで禁裏以外の要素の占める比重がきわめて小さくなっていた。かかる状況のままで院政を実現することは、摂関家をはじめ、禁裏の中枢からはずれていた廷臣の諸家を朝廷の運営から疎外することになりかねない。そこで廷臣のなかに正親町への反発が生じ、信長を引き込むことで正親町を抑え込むという動きが生じた。つまり朝廷の復興の方向性をめぐり、朝廷内に対立が生じたのである。一五七三年以降、信長がいったん譲位を取り計らうことを約束しながら、それが実現されなかった要因はこの対立にありそうだ。
その後、正親町は豊臣秀吉のもとで譲位を果たしたが、院政を行うことはなかった。さらに秀吉が関白の地位に就き、有力大名が議政官の職を占めたことは、廷臣のありようにも大きな影響を与えた。結局、天皇と廷臣との関係がふたたび安定し、朝廷が復興の軌道に乗るのは、江戸幕府の成立を俟たざるを得なかった。天皇のあゆみと朝廷のあゆみとは、完全に軌を一にしているわけではなく、区別して考える必要がある。そして、両者の同一化の度合いが最も高まり、天皇がその維持のために奮闘をせまられたのが戦国時代であったといえるだろう。
復興をめざす正親町天皇がまず望んだのは、子の誠仁親王に譲位を果たし、みずからが院政を布くことであったろう。すなわち、応仁・文明の乱以前の状態への回帰である。ところが、一〇〇年におよんだ戦国時代は朝廷のありようを大きく変えていた。朝廷のなかで禁裏以外の要素の占める比重がきわめて小さくなっていた。かかる状況のままで院政を実現することは、摂関家をはじめ、禁裏の中枢からはずれていた廷臣の諸家を朝廷の運営から疎外することになりかねない。そこで廷臣のなかに正親町への反発が生じ、信長を引き込むことで正親町を抑え込むという動きが生じた。つまり朝廷の復興の方向性をめぐり、朝廷内に対立が生じたのである。一五七三年以降、信長がいったん譲位を取り計らうことを約束しながら、それが実現されなかった要因はこの対立にありそうだ。
その後、正親町は豊臣秀吉のもとで譲位を果たしたが、院政を行うことはなかった。さらに秀吉が関白の地位に就き、有力大名が議政官の職を占めたことは、廷臣のありようにも大きな影響を与えた。結局、天皇と廷臣との関係がふたたび安定し、朝廷が復興の軌道に乗るのは、江戸幕府の成立を俟たざるを得なかった。天皇のあゆみと朝廷のあゆみとは、完全に軌を一にしているわけではなく、区別して考える必要がある。そして、両者の同一化の度合いが最も高まり、天皇がその維持のために奮闘をせまられたのが戦国時代であったといえるだろう。
そして周知のとおり、江戸幕府の「禁中並公家諸法度」により、皇室・公家の扱いは明文化されることになる。
こうした天皇の姿を知ったからと言って、歴史の動きの理解がどれだけ助けられるか、それはわからない。しかしあらためて後醍醐以後、600年近く権威の存在として「生かされて」きた天皇の姿を知っておくことは無駄ではないだろう。