「行動経済学の処方箋」(その2)
今日は、本書の「行動経済学による処方箋」に注目する。
その前に、常識というものを考え直すという趣旨で次の話が紹介されている。
私たちが文章を理解する際、文章に書かれている情報だけで理解しているわけではない。背景となっている様々な既知の情報を知っていて初めて理解できることも多い。逆に、自分の思い込みや偏見が文章の理解を妨げることもある。それを実感してもらうために、つぎの文章を読んでみてほしい。
父親と息子が交通事故に遭った。父親は死亡、息子は重症を負い、救急車で病院に搬送された。運び込まれた男の子を見た瞬間、外科医が思わず叫び声を上げた。「手術はできません。この子供は私の息子なのです」
この文章を読んで混乱してしまうのは、外科医と言われただけで男性の外科医を想像してしまうからだ。この文章の場合、外科医が女性なら自然に理解できる。私たちは、無意識のうちに様々な思い込みをしている。ときには、それがかなり重要な意思決定にまで影響を与えてしまう。
コンピュータ・プログラマについての本にもあったような気がする。
コンピュータ・プログラムの本にはこんな問題もあった。
1000円持って買い物に行きました。100円のリングと180円のバナナを買いました。おつりはいくらですか。
【答え】おつりはなかった。持って行った1000円は千円札ではなくて、100円玉9枚と10円玉10枚だったので、100円玉2枚と10円玉8枚で支払った。
これはコンピュータ・プログラムを書くときは、可能なすべてのケースを想定する必要があることを注意するものとして記載されていた。
確実性効果 | 確実なものを強く好む効果 |
損失回避 | 利得と損失では損失をより大きく評価する |
現在バイアス | 将来については我慢強い選択ができても現在についてはせっかちな選択をする |
社会的選好 (利他性・互恵性・不平等回避) | 他人の状況も自分の満足度に影響する |
サンクコストの誤謬 | 戻って来ない費用を取り返そうとすること |
平均への回帰の誤謬 | ランダムに生じていることがらから因果関係を見出そうとすること |
意思力 | 意思決定力が消耗する |
選択過剩負荷 | 選択肢が多すぎると選択しなくなる |
情報過剰負荷 | 情報が多すぎると内容を理解しなくなる |
メンタルアカウンティング | お金を心理的な会計項目別に管理する |
利用可能性ヒューリスティック | 手に入れやすい情報だけを用いて意思決定する |
代表性ヒューリスティック | 特定の属性だけをもとに意思決定する |
アンカリング効果 (係留効果) | 最初に目にした数字に意思決定が影響される |
極端回避性 | 上中下の選択肢があると両端のものを避ける |
社会規範・同調効果 | 多数派の行動に従う |
表1 バイアスとヒューリスティックス |
「統計でウソをつく方法」という本があったと思うけれど、本書ではいろいろな分析を紹介する前に、統計の素人が陥りがちなミスについてまとめられている(表1)。
この表に挙げられているのは主に心理的傾向のようだが、疫学などでは、対象の選び方などにも大きな注意が向けられる。
比較対照試験(ケース・コントロール・スタディ)を行う場合には、ケース群・コントロール群の対象のマッチング・振り分け手続き、研究実施時には二重盲検法を行うことが徹底される。
また、新しい検査などが行われると、それまで待っていた人達が一斉に検査を受けるというようなことが起こり、いわゆるイニシャル・バイアスが発生することもあると言われているなど。
プロローグ 経済学の常識、世間の常識 | |
第一章 日常生活に効く行動経済学 | |
1 「得る喜び」より2倍大きい「失う悲しみ」 | |
2 宿題を先延ばしにしないためには? | |
3 よい生活のためにも初期設定が重要 | |
4 「みんながしている」の効果 | |
5 行動経済学で考えるお金の貯め方 | |
6 人は誰にも偏見がある | |
7 悩んだときは変化を選ぶ | |
8 合理的な選択へと導くナッジ | |
第二章 行動経済学で考える感染対策 | |
1 新型コロナウイルスへの10の手段 | |
2 自粛していない人がこんなにいます | |
3 ワクチンの接種意向は高い | |
4 社会を縛る思い込み | |
5 古くて新しい生活様式 | |
6 床に描いた矢印の効能 | |
第三章 感染対策と経済活動の両立 | |
1 ワクチン接種が行き渡った後の社会 | |
2 なぜ日本人は社会経済活動よりも感染対策重視なのか | |
3 指数関数を直感する「70の法則」 | |
第四章 テレワークと生産性 | |
1 コロナ禍で進んだテレワーク | |
2 同僚と働くピア効果 | |
3 オンライン会議は創造性を阻害する? | |
4 体罰を有効と思い違うワケ | |
5 仕事の「意味」と労働意欲 | |
6 行動計画が悩みを減らす | |
7 良い人間関係が生産性を高める | |
8 ボトルネックを見つける | |
第五章 市場原理とミスマッチ | |
1 品不足になったマスクとトイレットペーパー | |
2 ラグビー日本代表と外国人労働者 | |
3 誤解されてきたアダム・スミスの「国富論」 | |
4 最低賃金の引き上げは所得向上につながるか? | |
5 企業の社会的責任と従業員の採用 | |
6 「もったいない」で損してない? | |
7 贈り物の経済学 | |
8 税制がもたらす意外な変化 | |
第六章 人文・社会科学の意味 | |
1 社会の役に立たない学問なのか? | |
2 反事実的思考力を養う | |
3 神社・お寺の近所で育つと | |
エピローグ 経済学は役に立つ |
オンライン会議とテレワークで対面での仕事をすべて代替できるなら、今後私たちの働き方や居住スタイルは大きく変わっていくだろう。しかし、私たち自身も、現在の技術水準でのオンライン会議はまだ不完全なものだと感じているのではないだろうか。実際、新型コロナの感染対策でテレワーク比率が高かった企業では、従業員の出社を促す取り組みを始めたところもある。大学でも対面授業が復活したのは、単に、新型コロナの感染が収まってきたとか、文部科学省の指導があったという理由ではなく、オンライン授業だけでは学生の成長影響があるからというのが一番大きな理由だろう。
では、テレワークにはどのような問題点があったのか。第一に、既に述べたように、私たちは職場や学校で上司や先生からだけ学ぶのではないということだ。職場では、同僚からインフォーマルに仕事の仕方を学んでいるので、優秀な同僚が近くにいた経験があるとその後の生産性が高まるという研究がある。そのため、テレワークで同僚が働いていたり、自分がテレワークをしていたりした場合には、この同僚からの生産性効果は小さくなってしまうのだ。
同じことは、学校でも当てはまるだろう。学生たちは、教師から学ぶだけでなく、同級生たちから多くのことを学んでいる。また、対面参加型の授業であれば、協力して課題に取り組むことで、協調性や互恵性が育まれる可能性もある。
第二に、オンライン会議は、ブレインストーミングのように自由な雰囲気で集団で創造的なアイデアを出し合うのには向いていないということだ。オンライン会議では、司会者が発者を指名しないと、うまく会議が進まない。思いついたことを、そのタイミングで発言することがなかなか難しい。頭が整理された状況だと、オンライン会議はうまく機能するが、何かアイデアをみんなで考えようというブレインストーミングには、あまり向いていない可能性がある。
続いてオフィス・ワークのメリットを紹介する。
オンライン会議はブレインストーミングに向かないのではないか、という感覚はあっても、今までそのエビデンスはなかった。ところが、2022年3月にNature に発表された学術論文で、このぼんやりした私たちの感覚が実証的に明らかにされただけでなく、その理由まで示された。
まず、アイデアの数と創造的なアイデアの数は、オンラインよりも対面の方が、どちらの課題でもよくできていた。しかし、より質の高いものを選ぶという課題では、オンラインの方が優れていたのだ。なぜ、このような違いが生まれたかを、つぎの方法で検証している。視線をどれだけ相手に向けていたかということと、部屋に何があったかを後で質問するという方法で関心の集中度を計測したのだ。この結果、オンラインで課題を行ったペアは、画面に視線を集中させている時間が長く、部屋に何があったかをあまり覚えていなかった。
性急に答えを知りたい人のために次の部分も転載しておこう。
この研究結果にもとづけば、オンラインでの会議は、異なる場所の人々が共同で仕事をすることを可能にするという優れた面があるが、対面での議論に比べて創造的なアイデアを減らしてしまうというリスクがある。したがって、ブレインストーミングはオンラインよりも対面の会議を使う方がよさそうだ。一方で、オンライン会議では、集中力が高められる。したがって、出てきたアイデアから優れたものを選択するというような、集中力が必要な会議は、オンライン会議の方が優れている。私たちは、オンライン会議と対面会議をうまく組み合わせていく必要がある。
雑談の意義とハイブリッド・ワークについては、「システム・エラー社会」の記事にも書いている。
このようなしっかりした研究に支えられているのかどうかわからないが、新型コロナ禍にあっては、ものの言いようで、人々の行動変容がどう影響されるかということも行動経済学のテーマになるようだ。第二章にはそうした例がいくつかとりあげられている。
たとえば、飲食店の営業自粛に関して、自粛していない店のことを報道するのか、自粛している店のことを報道するのか。自粛していない店をやり玉にあげても、そういう店があるんだと理解されるが、自粛している店を多くとりあげれば同調圧力が働いて自粛に結び付きやすいなどである。
半分残っているお酒のボトルを、半分しか残っていないと見るか、未だ半分残っていると見るか、というような心の持ち方もある。
六代目松鶴師は、「私らお酒に弱うて、一升瓶あったら、小さいお猪口一杯分ぐらいしか、よう残しまへん」なんて言ってたな。
以上、時節柄、経済にも大きな影響を与えている新型コロナ禍をとりあげて考察したものが多く書かれているのだけれど、新型コロナとはあまり関連がなさそうな話なのに、やけにこだわっているように思ったことがある。
それが「体罰を有効と思い違うワケ」。著者はこの思い違いは「平均への回帰」ということから来るものと説明する。
体罰とまではいかなくても、実際、選手がミスをした際に叱りつけたり罰則を与えたりすることが、能力向上に効果があるという認識は日本のスポーツの指導者の間で広く行き渡ってきたように思える。もし、選手がミスをした際に叱りつけることに効果はない、ということが広く認知されれば自然にこのような指導法はなくなってしまうはずだ。
ところが、「そんなはずはない。ミスを厳しく叱ることは選手の能力向上に有効だ」という反論がすぐに出てきそうだ。ところが、指導者たちが実感している「褒めるとつぎに失敗し、叱るとつぎに成功する」というのは、「平均への回帰」として知られる純粋に統計的な現象で因果関係を示すものではない。
それでも体罰がなくならないのは、そういう理屈を超えて、単純に、生徒が自分の思うようにならないときに逆上して自分を抑えられないからではないかと思う。最初はそういう自分を許せない教師も、「愛のムチ」とかで自分自身を宥め、誤魔化して体罰が常習化するのではないだろうか。
であれば「愛のムチ」には効果がない、つまり自己弁護する根拠にはならないことを思い知ってもらうのに良いかもしれない。