「もののけの日本史」

小山聡子「もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年」について。

71RYhj4mGSL.jpg 実在しないものの本質とは、それを人間たちがどう認知しているかによる。そしてその認知は歴史的に変遷する。同じ時代だとしても、すべての人が同様の認知を持っているとは限らない。それはそのものを指す言葉がどのように使われているかによってうかがわれる。

というわけで「もののけ」という概念がどういうものを指していたのかを追跡した本。
終章にざっくりとまとめられている。長くなるが引用しよう。
 モノノケの歴史的意義
「まえがき」で述べたように、モノノケというと、古代の『源氏物語』のモノノケばかりが注目され、その他の時代や作品のモノノケについては、見過ごされてきた傾向にある。一応、これまで、古代以外のモノノケについても論じようとする試みもあった。しかし、それらでは、現代的感覚に基づいて、「物気」 (物の怪)とは書かれていない幽霊や怨霊、化物、妖怪の類までモノノケの範疇に含めて論じられてきた。
 本書で述べたように、モノノケは、時代によって漢字表記が異なるだけではなく、その意味するところも大きく異なる。それゆえ、以下、モノノケの変遷について、時代を分けてまとめたい。
 まず、古代から中世にかけては、モノノケは病や死をもたらす死霊であることが多かった。病気の原因を現在のようには明らかにし得なかった時代、モノノケを病気の原因として捉えることによって、治療法を編み出すことが可能になった。また、虐げられ怨念を抱いて死んでいく人間に、死後の復讐という希望を与えることにもなる。それによって、モノノケは、共同体の不調和を是正する役割も担っていたことだろう。他者を害する極端な言動は、被害者の親族の霊などを意識することによって、多少なりとも自重されることもあったと考えられる。
 近世になると、モノノケは幽霊や妖怪と混淆し、主に文学作品の中で語られ、娯楽化していく傾向にある。その実在は否定されつつも、比較的平和な時代であったが故に刺激が求められ、語られたのである。
 近代から現代にかけては、西洋文化の影響を受けたこともあり、モノノケの意味するところは多様となった。モノノケは、人間に取り憑く霊としての性質も残しつつ、自然を守る神としての意味合いまで持たせられるようになったのである。また、モノノケは、妖怪と重ね合わせて捉えられる傾向が強まり、キャラクター化され、人間に寄り添い、時には人間には持ち得ないパワーで人間を助けるものとされるようになっていった。
 以上のように、モノノケは、漢字の表記を「物気」から「物の怪」へと変えつつも、九世紀半ばから現代まで途切れることなく、語り続けられている。ただし、その姿や性質は実に大きく変化させられてきた。本書で述べてきたように、古代のモノノケと現代のモノノケは、重なりあう点を持ちつつも、同一のものと見なすことは決してできない。 モノノケを通史的に見ていく時には、その不連続性にこそ、着目するべきなのだろう。個々の時代のモノノケは、その時代に生きた人間の精神世界を映し出す鏡なのである。

(終章)


まえがき
 
序 章 畏怖の始まり
肉体と魂/死者の居場所
 
第一章 震撼する貴族たち―古代
一、モノノケと戦う藤原道長
二、 対処の選択 調伏か、供養か
三、モノノケの姿 一鬼との近似
 
第二章 いかに退治するか―中世
一、高僧が説く方法
二、手順の確立―専門化と簡略化
三、囲碁・双六将棋の利用
 
第三章 祟らない幽霊―中世
一、霊魂ではない幽霊
二、幽霊と呼ばれた法然
三、能での表現
 
第四章 娯楽の対象へ―近世
一、物気から物の怪へ
二、実在か非実在か―大流行する怪談
 
第五章 西洋との出会い―近代
一、迷信の否定と根強い人気を誇る怪談
二、古代・中世の遺物―曖昧なものへ
三、西洋文化受容の影響
 
終 章 モノノケ像の転換―現代
 
あとがき
 
主要参考文献
古文書・古記録の幽霊一覧
これで本書の紹介は十分だと思うけれど、転載だけで記事にするのも気が引けるので、もう少しお付き合いいただこう。

まず本書は、藤原道長が大変モノノケを恐れていたという話からはじまる。
道長が権力を掌握するのは順当なことではなかった。ライバルを蹴落とすことで、ようやく握った権力であり、その過程では失意のうちに死んでいった者たちも多い。そして道長はそれを自覚していたから、それがモノノケという形で自分に災いをなすことを予期し畏れたというわけだ。
 ただし、これほどまでに栄華を極めた道長は、周囲の貴族から怨みや嫉みも大いに買っている自覚があった。その上、病気がちで精神的に脆弱だったこともあり、非常にモノノケを恐れていたのである。
 古代におけるモノノケは、漢字では物気と表記し、多くの場合、正体が定かではない死霊の気配、もしくは死霊を指した。モノノケは、生前に怨念をいだいた人間に近寄り病気にさせ、時には死をもたらすと考えられていたのである。
 道長がモノノケによってしばしば錯乱状態に陥っていたことは、同時代の貴族の日記から知ることができる。しかし、道長の日記『御堂関白記』にはほとんど記されていない。人一倍モノノケを恐れていたために書きとどめることも憚ったのだと考えられる。
 生命を脅かす恐ろしい存在にはなんらかの対処をせねばならない。古代には、僧が祈祷により調伏することが一般的だった。道長は、モノノケの調伏を僧に委ねるだけではなく、自ら自分の手足をバシバシと打って周囲のモノノケを制そうとしたり、娘が危篤に陥ったときには自ら率先して調伏したりすることもあった。

であるがさすがに権力のトップにあるだけあって、自分の死期が近いことを感じて変にあがいたりはしなかったという。
『栄華物語』は、歴史物語なので、その記述内容を歴史的事実と見なすことは到底できない。そうではあるものの、あれほどまでにモノノケの調伏に積極的な姿勢をとっていた道長に、修法や加持が行われなかった理由は、当の本人がそれを拒否したからだろう。
 万寿四年に道長が患う二年前には、娘の寛子と嬉子が、さらには万寿四年九月には妍子が、顕光らの霊によって殺されたと考えられていた。娘たちを死に追いやった原因を作ったのは、道長である。娘を次から次へと亡くした道長は、もはや自身を悩ます霊をあえて調伏しようとはしなかったのではないだろうか。 調伏すれば病を快方に向かわせて生き長らえることができる可能性もあったものの、退治することができず死に至った場合には、極楽往生を遂げられなくなる危険もあった。
 道長は、モノノケを調伏して生き長らえるのではなく、極楽往生の方法が書かれている源信『往生要集』を参考にしつつ、念仏にすがり自身の極楽往生を目指したのであろう(小山聡子『往生際の日本史―人はいかに死を迎えてきたのか』)。

来年の大河ドラマ「光る君へ」は当然道長(演:柄本佑)が重要な登場人物になるわけだが、このモノノケにおびえる道長なんてのは多分描かれないだろうな。

光源氏の方も見ておこう。
 薄情な男、光源氏
 ところがなんとしたことか、光源氏は自分への愛執により成仏できていない霊に同情して供養に専念するどころか、痛めつけて退却させるために以前よりもさらに大がかりな修法を行った。御息所の霊が光源氏による修法や読経が苦しくつらい炎となって自分を苦しめるだけです、と切々と訴えたにもかかわらず、である。『源氏物語』には、御息所の霊からの訴を聴いた後の光源氏について、次のように語られている。

こうして紫の上が蘇生された後には、死霊を恐ろしくお思いになって、再び大がかりな作法などを尽くしてさらに新しく付け加えなさる。生前でさえ不気味だったあのお方の御気配が、まして死後に恐ろしく得体のしれないさまにおなりになられたのを想像なさると、本当にいやなお気持ちになられるので、御息所の娘である中宮のお世話をし申し上げることすらいやになり……


 ここには、実に自己本位な光源氏の姿が活写されている。『源氏物語』が書かれた摂関期では、モノノケが去らないと根本的な解決に至ったとは考えられなかった。六条御息所の霊は、調伏され正体を露わにしたものの、去りはしなかった。それによって源氏は、その後も御息所の霊に怯え続けなくてはいけなくなったのである。

本書ではこれに続けて、死霊の懇願を完全に無視したわけではなく、供養もしていると指摘している。
であるけれど、調伏か供養かというのは、相手のモノノケを鎮める方法として、どちらが適切かということになると思う。調伏が効かなかったから供養に切り替えたとも考えられるのではないだろうか。

この時代はモノノケというのは正体がわかっていないものを指すというから、どちらの方法をとるかはまず相手を見極める必要があるだろう。

六条御息所は、上に引用されている紫の上の前には、葵上を苦しめるが、そのときはまだ御息所は存命であり、生霊だった。昔聞いた憶えがあるのだが、生霊というのは普通じゃなく源氏物語独特というようなことだった。御息所の嫉妬・怨念がどれほど強いものであるか表現するために、紫式部が創り出したものだと。
しかしモノノケ専門書である本書が死霊・生霊を並べて普通に記載しているところからすると、紫式部の創作ということでもないようだ。生霊は実在するのだ。

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なんだか現代マンガのような絵で鎌倉時代初期のものとは思えない

このように長く日本人を恐れさせてきたモノノケであるが、近世になるとほとんどの人が実在を信じなくなってくる。そこで次のような笑い話に登場するという。
 十返舎一九作・歌川国芳画『化皮太鼓伝』(天保四年〔一八三三〕刊)は、中国の『水滸伝』をもじった作品であり、一九の死後に刊行された。『化皮太鼓伝』には、化物の白だわしと幽霊が結婚する場面まである。ところが、幽霊は、好きものの白だわしが毎晩のようにしつこく求めてくるのに嫌気がさし、地獄へ戻りたくなってくる。 しかし、地獄への帰り道も分からず、これ以上死ぬこともできないので、もはや娑婆世界の男を殺そうとする妄念はとどめ、念仏を称えて信心を持ち極楽浄土へ成仏し、この苦しみから逃れることにした。幽霊を連れ戻そうと地獄からやって来た鬼を豪傑白だわしが張り飛ばしている間に、阿弥陀仏が紫雲に乗って現れ、「地獄よりは極楽へ、さァさァはやくきなこもち」と洒落を言いながら幽霊を引き上げ、極楽浄土へと飛び去った。「さァさァはやくきなこもち」の「きな」は「来な」の洒落であり、「来なさい」という意味である。それにしても、洒落を言う阿弥陀仏はいわずもがなであるが、化物と幽霊が結婚するというのも実に面白い。つまり、両者は似た者同士ということなのだろう。これらの作品に、モノノケは出てこないものの、『稲生物怪録』で見たように、モノノケ、化物、妖怪は、必ずしも明確には区別されていなかった。化物と幽霊のみならず、モノノケも似たもの同士なのである。

近代になるともっとくだけてくる。
なんと、この家には、「物の怪」という妖怪が住んでいたのである。 「物の怪」は、「俺の名 は「物の怪」だ」と名乗り、次のように悲しげに打ち明ける。

昔はなあ人間を暗い夜道なんかでおどかして……、おそなえものを頂くのが我々の商売だったんだが。このごろの人間は少しもおどろかなくなって、こちらの方がこわい位だ。商売は上ったりだ。科学が進むにつれてお化けの信用もガタ落ちしたものなあ…。 人間の方じゃ所得バイゾウとかで、景気がいいようだが、おいら毎日玉ねぎばかり食ってんだ。


 この話を聞いたねずみ男が「生活保護法なんかの適用は受けられないものかね」と尋ねると、「物の怪」は「だめだ、人権がねえんだ」と涙をふきながら答え、「このままじゃ我々も絶滅するのも遠くないだろう」と悲し気に目を伏せたのであった。ねずみ男は、「全く人間達は理解がないからなあ」と同情するものの、先ほどから「ザクザクザク」と音を立てて「物の怪」が切っているものが、育てようとしていた吸血木だと知って卒倒してしまう。

水木しげるが描くものは、まとめて妖怪と呼んでいると思う。モノノケの語は、もう少しおどろおどろしい感じがしていた(用例としてはいつも源氏物語)のだけれど、この語を使ったジブリのアニメ「もののけ姫」が出ることによって、モノノケは古くからこの国に暮らし、この国の自然と一体となったものという印象を与えたと思う。本書でも「もののけ姫」のイメージは強いと指摘している。

「光る君へ」の時代、モノノケの存在は大きなものだった。さまざまな厄除けの習慣が厳格に守られていた。大河ドラマではどう描くだろう。

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