「多数決を疑う」

私は以前から、多数決には疑問を持っている。論理的・科学的に決定できる命題を多数決で真偽判定するなと書いた覚えがある。
この本を読むと、こういうことを言ったことが恥ずかしくなる。稚拙過ぎるのである。
この本はそういう論理的妥当性に重きを置くというような素朴な話ではない。
本書では、複数の人間がそれぞれさまざまな選好を持っているとき、集団として望ましい選択肢を決定することを一般化し、その方法を函数ととらえ、多数決はそのような函数の一例でしかないとする。そして、多数決では、投票者の誰もが望まない結果を引き起こすケースが存在することを示して、多数決を疑う必要性を説く。
複数の人間に等しい重みをもたせず、たとえば特定の一人の選好がそのまま決定となる(独裁)ような特殊なケースも、一般化された状況では、一つの決定函数であるから直ちに排除されたりはしない。
似たような話で、入学試験などで複数科目の得点を合計して順位を決めるという世間的にはあたりまえとされていることについても、森毅先生は「二乗和をとったらええんや」 と大胆なことをおっしゃっていた。もちろんそれには意義があって、そもそも異なる科目の得点を足すこと自体に必然性はないということ(りんご3個とみかん2個、あわせて5個というぐらい乱暴)、そしてもし、特定科目に強い学生を望むなら、単純和より二乗和で比較する方がその目的に合うということである。
その一方で、大数の法則を持ち出して、多数決は間違いの少ない方法だと一応は論証もしている。ただし、これは、正誤がある問題で、例えば一人一人が6:4の割合で正しい方を選ぶ状況なら、多人数の多数決で正しい方を選ぶ可能性は60%よりずっと大きくなるというアタリマエの意味でしかないけれど。

似たような考え方で「ペア勝者」という概念もある。必ずペア勝者が選べるかというとこれは厳しい(3すくみ、循環が起こるケース)。
あわせて、意思決定を単純多数決で行わない国が実際に存在することも示される。
そういえば、古代ギリシアでは全員一致の決定は無効になったという話を聞いたことがあるし、国連安全保障理事会などでみられる拒否権も単純多数決ではない意思決定の例といえるかもしれない。
本書では、この分野の研究史も紹介され、先駆者としてボルダとコンドルセの名前を挙げるのだけれど、二人ともフランス革命期の人であり、後に社会的選択理論と呼ばれる考察は、革命前に世に出ていたという。コンドルセは、フランス革命勃発後の国民公会の副議長を務めている。ジロンド派の論客であったが、ジャコバン派によって断罪され、獄中で自殺するという生涯である。フランス革命のときに、国会を二院制とするか一院制とするかの論争があったという話は前にも紹介したけれど(上院が下院に反対するなら邪魔だし、上院が下院と同じ意見なら不要だ)、コンドルセはどう考えたのだろうか。
他にも、いろんなケースでの合意形成の陥穽というか難しさや、技巧的だけれど有望な方法などが紹介されている。他の人のレビューでもよく取り上げられているのは、日本国憲法の改正規定は弱すぎる(改正しやすすぎる)という意見の根拠にもされる"64%多数決ルール"とか、"クラークメカニズム"と呼ばれる住民意思決定方法など。いずれも興味深い内容。
ただ、本書では、意思決定に参加する人の選好を順位で表現する考察が多いが、人の選好というのは、順位をつけるにしても、大差・僅差があるだろうから、そういう意味での選好の重みについての知見の紹介もあれば良いように思った(クラークメカニズムはそれに近いようだが)。
小学校の頃から、我々はすぐ多数決というのが正しいというか、意見集約の方法としてはこれしかないと思い込まされてきたわけだけれど(そして小生意気な子供が「多数決や」といきがってる)、いや、そうではないのだということを学校で教えるのも、多数決一点張りの馬鹿を作らないために有効かもしれない。多数決はペア敗者が選ばれる場合があることを例示することは、子供にもわかる程度の算数だから。