『ゲームを極める100の知恵』を読んで~価値の接合理論との類似性と差異
- 2016/08/18
- 00:26
今更ながら、スパ帝氏の『月刊スパ帝国 vol.23 ゲームを極める100の知恵』(以下、単に『ゲームを極める100の知恵』と表記する)を読みました。
読んでみて、私が議論してきたゲームにおける価値の接合という概念と、スパ帝氏がこの本の中で展開しているお話とがかなり似ていることに驚きました。『ゲームを極める100の知恵』は電子版の発表が2014年7月19日となってるので、2014年11月発表の私の『ぷらとんとアリストくれす~ボードゲームの批評理論~』より先に世に出た文章ということになります。私が当の理論を世に問う前に、既に同じような点に着目した議論が為されていたというのは複雑な気分ですが。
§ 『ゲームを極める100の知恵』が示す基本原理
まず、『ゲームを極める100の知恵』の内容をざっくり言ってしまえば、ゲームを楽しんで強くなるためにはどうすれば良いか、その技術や心構えを100個の項目に分けて挙げたもの、ということになるかと思います。とは言っても、そこで挙げられた100項目は全て独立で単発的なものではありません。それらは全項目に通底するある基本原理に基づいて提起されており、スパ帝氏がその基本原理として示していると思われるのが次の引用部です。
しかしここで、スパ帝氏の言う「納得」という概念には切り分けるべき独立な2つの概念が混在しているように思われます。例えば、あるプレイヤーが「どうせこうするのが上手いと判断されるんでしょ」という考えの下にプレイした結果、実際にゲームに勝っても「やっぱりそうか。ツマンね」で終わることはあり得るだろうと思います。この場合、当のプレイヤーの考える上手さの基準と、ゲームの示す上手さの基準とはとりあえず合致していると言って良いはずですが、このプレイヤーは「納得」しているのとは異なる状態にあります。
おそらく、「納得」とは、
という各々独立な概念が一致した状態であることを前提しているのではないかと思います。
したがって、『ゲームを極める100の知恵』の基本原理は
A : プレイヤー側での「上手さの基準」についての願望内容の集合
B : プレイヤー側での「上手さの基準」についての推定内容の集合
C : ゲーム側での「上手さの基準」についての判定内容の集合
とした時、
A∩B∩C≠∅ … 条件式1
(AかつBかつCたる集合が空集合でない、つまり、A,B,C全てを満たす「上手さの基準」が存在する)
であることを、ゲームを楽しみつつ上達するために必要とされるプレイヤー状態の条件として提示していることになるかと思います。
これは、Cを固定(つまり、ゲームタイトルを固定)、A,Bを任意(つまり、プレイヤー状態が無限に可塑的)として考えれば、A及びBを条件式1を満たすように整えよ、ということになりますし、A,B,Cを半固定(Ax,By,Cz|x={1,2,3,…,l},y={1,2,3,…,m},z={1,2,3,…,n};つまり、いくつかの既存のゲームタイトルが選択可能であり、プレイヤー状態も有限な範囲内でしか変化し得ない)として考えれば、その範囲内のA,Bに対して条件式1を満たすようなCを選択せよ、ということになるでしょう。実際、この辺の話が『ゲームを極める100の知恵』の中でも項目番号21~28(納得するゲームを探す、合うゲームの見つけ方)で言及されています。
一方、この条件式についてCを完全に任意のもの――つまり、これから作るゲーム――として考えると、あるA,Bに対して条件式1を満たすようCを整えよという、ゲームデザイン論としても機能するものであることがわかりますし、また、A,B,Cを固定して考えると、CはあるA,Bに対して条件式1を満たすようなものであるべき、という批評論としても機能するものともなります。
さて、こうしてあるゲーム(C)に対する批評論として、『ゲームを極める100の知恵』の基本原理を読み解く時、私の提唱する価値の接合理論がこれに類似している事は明白だろうと思います。
とりあえず、条件式1の左辺には3項がありますが、プレイヤーの推定が合理的な推論に依る部分を持つ限り、BとCとは決して独立なものではありません。批評のための理論的基準として条件式1を捉えた場合、BとCとはひとつにまとめる事ができるでしょう。つまり、
C' : ゲーム側での「上手さの基準」についての判定内容の内、プレイヤー側が推定できたものの集合
∴ C' = B∩C
この時、プレイヤー側の主観的願望(A)とゲーム側から提示された合理性(C')とが合致することを善いゲームの条件とした私の批評理論(価値の接合理論)は、
A∩C' ≠∅
たる条件式で表されます。これは、C' = B∩Cであることから、条件式1そのものです。つまり、この点で私の「価値の接合理論」は、先行する『ゲームを極める100の知恵』で示された基本原理と同じものにすぎなかった、ということになります。
§ 価値の接合理論と『ゲームを極める100の知恵』との差異
さて、前節では、『ゲームを極める100の知恵』で示されている基本原理を批評論として読み解いた時、あるゲームが面白いものであるための静的な条件として、それが条件式1を満たすものである必要がある、ということが提起されるだろうというお話をしました。そして、この範囲(静的な条件)において、私の「価値の接合理論」は、『ゲームを極める100の知恵』で示されている基本原理の二番煎じに過ぎなかった、ということを示しました。
しかし、常時次人さんが「ありふれた『面白い』についての話 for Board Game Design Advent Calendar 2015|もっとホイップとスパイスを!」で示して見せたような「あるゲームが面白いという評価は、ゲームセッションに対する評価である」という立場に与する私にとって、前節で取り上げた条件式1はゲームの評価基準として十分なものではありません。ゲームセッションとは、ゲームメカニクスとプレイヤーとが互いに影響を及ぼし(相互作用し)合って動的にその状態を変化させ、やがて1つの終状態に至るまでの過程の全体です。その中でプレイヤーは、はじめは見えていなかったことがだんだん見えるようになって、言い換えれば、ルールや局面の細部もしくは背後に隠れていた意味や価値を発見して、その状態を遷移させていくわけです。前節で示した条件式1は、このようなゲームセッションの中でプレイヤー状態が動的に遷移していく際の各時点において満たされる必要があるようなものということになります。一方でまた、ゲームセッションが面白いものであるすなわち状態遷移過程全体が面白いものであるというからには、条件式1が各瞬間に静的に満たされるというだけでなく、ある瞬間からある瞬間へのプレイヤー(及びゲームメカニクス)状態の動的な遷移過程そのものについても何らか条件があるはずだと考えられます。つまり、私の理論が『ゲームを極める100の知恵』(で示されている基本原理を批評論として読み解いたもの)と異なっているのは、まさにそうしたプレイヤー状態の動的な遷移過程に着目しているという点にあるわけです。
そこで以下、現在私が着目しているプレイヤーの状態遷移とは何なのか、ということを説明していくことにしましょう。そして、その中味こそ、価値の接合理論がこれから進もうとしている方向を指し示す事にもなるでしょうから。
…と、プレイヤー状態の定義やら分類やら状態遷移の定義やら類型やらについて、以前の私の議論を下敷きに整理してみようとしたのですが。今までの議論では明らかに先行研究との接続が上手くいってないところがある(つまり、私がちゃんと勉強しさえすれば、既に他の人が議論済みの事柄によって説明できるような部分が含まれている)ことに気付いたので、続きは一旦保留して、今回の記事はここまで。そのうち、ちゃんとまとめてお披露目できるようにしたいとは思ってます。頑張ります。では。
おまけ プレイヤー状態の定義と遷移過程に関するこれまでの議論のまとめ
これに基づいて、ゲームセッションにおけるプレイヤー状態の遷移過程について述べているのが、以下の記事です。
また、プレイヤー状態の中味について、少し分類して見せているのが、以下の記事です。
読んでみて、私が議論してきたゲームにおける価値の接合という概念と、スパ帝氏がこの本の中で展開しているお話とがかなり似ていることに驚きました。『ゲームを極める100の知恵』は電子版の発表が2014年7月19日となってるので、2014年11月発表の私の『ぷらとんとアリストくれす~ボードゲームの批評理論~』より先に世に出た文章ということになります。私が当の理論を世に問う前に、既に同じような点に着目した議論が為されていたというのは複雑な気分ですが。
§ 『ゲームを極める100の知恵』が示す基本原理
まず、『ゲームを極める100の知恵』の内容をざっくり言ってしまえば、ゲームを楽しんで強くなるためにはどうすれば良いか、その技術や心構えを100個の項目に分けて挙げたもの、ということになるかと思います。とは言っても、そこで挙げられた100項目は全て独立で単発的なものではありません。それらは全項目に通底するある基本原理に基づいて提起されており、スパ帝氏がその基本原理として示していると思われるのが次の引用部です。
6.上手さの基準を作る
ゲームが上手くなる楽しみの目的地は…(中略)…「自分が上手いと考えるプレイとゲームが上手いと判定するプレイがぴたりと一致する」状態になる事だ。上手いだけでなくて、これは上手いと自分で納得できる。
(中略)…「自分が納得する、自分が一番やりたい遊び方」をしたら一番強いという地点に行きたい…(中略)…納得できる上手さの基準をゲームの判定基準に近づけていくのが楽しい上達である。
ゲームが上手くなる楽しみの目的地は…(中略)…「自分が上手いと考えるプレイとゲームが上手いと判定するプレイがぴたりと一致する」状態になる事だ。上手いだけでなくて、これは上手いと自分で納得できる。
(中略)…「自分が納得する、自分が一番やりたい遊び方」をしたら一番強いという地点に行きたい…(中略)…納得できる上手さの基準をゲームの判定基準に近づけていくのが楽しい上達である。
(スパ帝 , 2014 , "月刊スパ帝国 vol.23 ゲームを極める100の知恵" p.3)
22.ジャンルは基準にあらず
ゲームの面白さは納得から生まれる。納得は「上手さの基準」におけるゲームとプレイヤーの合致から生まれる。
ゲームの面白さは納得から生まれる。納得は「上手さの基準」におけるゲームとプレイヤーの合致から生まれる。
(スパ帝 , 2014 , "月刊スパ帝国 vol.23 ゲームを極める100の知恵" p.11)
しかしここで、スパ帝氏の言う「納得」という概念には切り分けるべき独立な2つの概念が混在しているように思われます。例えば、あるプレイヤーが「どうせこうするのが上手いと判断されるんでしょ」という考えの下にプレイした結果、実際にゲームに勝っても「やっぱりそうか。ツマンね」で終わることはあり得るだろうと思います。この場合、当のプレイヤーの考える上手さの基準と、ゲームの示す上手さの基準とはとりあえず合致していると言って良いはずですが、このプレイヤーは「納得」しているのとは異なる状態にあります。
おそらく、「納得」とは、
- 「これが上手いとゲームに判断されるのであって欲しい」という願望
(それが真実で、そういう事態を実現できた時、当のプレイヤーの喜びが大きいようなゲームの在り方) - 「これが上手いとゲームに判断されるのだろう」という推定
という各々独立な概念が一致した状態であることを前提しているのではないかと思います。
したがって、『ゲームを極める100の知恵』の基本原理は
A : プレイヤー側での「上手さの基準」についての願望内容の集合
B : プレイヤー側での「上手さの基準」についての推定内容の集合
C : ゲーム側での「上手さの基準」についての判定内容の集合
とした時、
A∩B∩C≠∅ … 条件式1
(AかつBかつCたる集合が空集合でない、つまり、A,B,C全てを満たす「上手さの基準」が存在する)
であることを、ゲームを楽しみつつ上達するために必要とされるプレイヤー状態の条件として提示していることになるかと思います。
これは、Cを固定(つまり、ゲームタイトルを固定)、A,Bを任意(つまり、プレイヤー状態が無限に可塑的)として考えれば、A及びBを条件式1を満たすように整えよ、ということになりますし、A,B,Cを半固定(Ax,By,Cz|x={1,2,3,…,l},y={1,2,3,…,m},z={1,2,3,…,n};つまり、いくつかの既存のゲームタイトルが選択可能であり、プレイヤー状態も有限な範囲内でしか変化し得ない)として考えれば、その範囲内のA,Bに対して条件式1を満たすようなCを選択せよ、ということになるでしょう。実際、この辺の話が『ゲームを極める100の知恵』の中でも項目番号21~28(納得するゲームを探す、合うゲームの見つけ方)で言及されています。
一方、この条件式についてCを完全に任意のもの――つまり、これから作るゲーム――として考えると、あるA,Bに対して条件式1を満たすようCを整えよという、ゲームデザイン論としても機能するものであることがわかりますし、また、A,B,Cを固定して考えると、CはあるA,Bに対して条件式1を満たすようなものであるべき、という批評論としても機能するものともなります。
さて、こうしてあるゲーム(C)に対する批評論として、『ゲームを極める100の知恵』の基本原理を読み解く時、私の提唱する価値の接合理論がこれに類似している事は明白だろうと思います。
とりあえず、条件式1の左辺には3項がありますが、プレイヤーの推定が合理的な推論に依る部分を持つ限り、BとCとは決して独立なものではありません。批評のための理論的基準として条件式1を捉えた場合、BとCとはひとつにまとめる事ができるでしょう。つまり、
C' : ゲーム側での「上手さの基準」についての判定内容の内、プレイヤー側が推定できたものの集合
∴ C' = B∩C
この時、プレイヤー側の主観的願望(A)とゲーム側から提示された合理性(C')とが合致することを善いゲームの条件とした私の批評理論(価値の接合理論)は、
A∩C' ≠∅
たる条件式で表されます。これは、C' = B∩Cであることから、条件式1そのものです。つまり、この点で私の「価値の接合理論」は、先行する『ゲームを極める100の知恵』で示された基本原理と同じものにすぎなかった、ということになります。
§ 価値の接合理論と『ゲームを極める100の知恵』との差異
さて、前節では、『ゲームを極める100の知恵』で示されている基本原理を批評論として読み解いた時、あるゲームが面白いものであるための静的な条件として、それが条件式1を満たすものである必要がある、ということが提起されるだろうというお話をしました。そして、この範囲(静的な条件)において、私の「価値の接合理論」は、『ゲームを極める100の知恵』で示されている基本原理の二番煎じに過ぎなかった、ということを示しました。
しかし、常時次人さんが「ありふれた『面白い』についての話 for Board Game Design Advent Calendar 2015|もっとホイップとスパイスを!」で示して見せたような「あるゲームが面白いという評価は、ゲームセッションに対する評価である」という立場に与する私にとって、前節で取り上げた条件式1はゲームの評価基準として十分なものではありません。ゲームセッションとは、ゲームメカニクスとプレイヤーとが互いに影響を及ぼし(相互作用し)合って動的にその状態を変化させ、やがて1つの終状態に至るまでの過程の全体です。その中でプレイヤーは、はじめは見えていなかったことがだんだん見えるようになって、言い換えれば、ルールや局面の細部もしくは背後に隠れていた意味や価値を発見して、その状態を遷移させていくわけです。前節で示した条件式1は、このようなゲームセッションの中でプレイヤー状態が動的に遷移していく際の各時点において満たされる必要があるようなものということになります。一方でまた、ゲームセッションが面白いものであるすなわち状態遷移過程全体が面白いものであるというからには、条件式1が各瞬間に静的に満たされるというだけでなく、ある瞬間からある瞬間へのプレイヤー(及びゲームメカニクス)状態の動的な遷移過程そのものについても何らか条件があるはずだと考えられます。つまり、私の理論が『ゲームを極める100の知恵』(で示されている基本原理を批評論として読み解いたもの)と異なっているのは、まさにそうしたプレイヤー状態の動的な遷移過程に着目しているという点にあるわけです。
そこで以下、現在私が着目しているプレイヤーの状態遷移とは何なのか、ということを説明していくことにしましょう。そして、その中味こそ、価値の接合理論がこれから進もうとしている方向を指し示す事にもなるでしょうから。
…と、プレイヤー状態の定義やら分類やら状態遷移の定義やら類型やらについて、以前の私の議論を下敷きに整理してみようとしたのですが。今までの議論では明らかに先行研究との接続が上手くいってないところがある(つまり、私がちゃんと勉強しさえすれば、既に他の人が議論済みの事柄によって説明できるような部分が含まれている)ことに気付いたので、続きは一旦保留して、今回の記事はここまで。そのうち、ちゃんとまとめてお披露目できるようにしたいとは思ってます。頑張ります。では。
おまけ プレイヤー状態の定義と遷移過程に関するこれまでの議論のまとめ
1年近く前のツイートですが、「プレイヤー状態」という概念の根本はこれです。『ゲームを極める100の知恵』になぞらえて言えば、「このゲームでは、○○すると偉い(上手い)」などというのが諸命題の例で、それらのうちどんな命題を引き受けているかによって、あるプレイヤーのある瞬間の状態を記述できるのではないか、というのがこのアイデアの肝です。「意思決定過程の3類型」の修正がなかなかまとまらないでいるが、その思索過程での副産物を連投してみる。
— ぷらとん@ボドゲ批評理論本公開中 (@platon_dorothea) 2015年9月7日
1)ゲームの系の状態とは「局面」のことである。
2)プレイヤーの系の(狭義の)状態とは、当人が真であるとして引き受けている諸命題の集合として表される。
これに基づいて、ゲームセッションにおけるプレイヤー状態の遷移過程について述べているのが、以下の記事です。
また、プレイヤー状態の中味について、少し分類して見せているのが、以下の記事です。