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『ハーフリアル』Chapter 3参照。ただし、『ハーフリアル』で挙げられた4種類の創発のうち、1つ目の多様性としての創発については省略し、3つ目の還元不能性としての創発については②のように言い換えた。



参考文献

コメント

No title

本論にとくに影響ない話ですが、議論を読むかぎり前提2は正確には「ある行為が創造的である場合、創造主体の創造行為に先立って創造対象(創造されるもの)が可能的にすら存在することはない」ということなのでしょうか。

だとすると、創造性の条件が相当強いというか、そもそも創造的であることがゲームにかぎらず論理的に不可能になりそうな気がします(可能でないものは実現しないはずなので)。

あるいは反対に創造性の条件がもうちょっと弱いものだとすれば(たとえば、ある行為が創造的であるためにはいまのところ現実化していないものを新たに存在せしめなければならない)、「ゲームプレイにおける分節化は結果においてつねに創造的でない」という帰結はふつうに避けられるんじゃないでしょうか。

後半の「過程における創造性」という考え方や創造ではなく創発として評価するという議論は、それぞれ単独で卓見だと思いますし同意します。

No title

>前提2は正確には「ある行為が創造的である場合、創造主体の創造行為に先立って創造対象(創造されるもの)が可能的にすら存在することはない」ということなのでしょうか。
>だとすると、創造性の条件が相当強いというか、そもそも創造的であることがゲームにかぎらず論理的に不可能になりそうな気がします(可能でないものは実現しないはずなので)。

そのとおりです。恥ずかしながら、私は今まで、それが論理的に不可能であることに気付いてなかったわけです。その意味で、私の誤りは、前提1及び前提2を真とした時に前提3が誤りであることというよりも、前提2自体が誤り(実行不可能な概念)であることの方が本質だったかもしれません。


>あるいは反対に創造性の条件がもうちょっと弱いものだとすれば(たとえば、ある行為が創造的であるためにはいまのところ現実化していないものを新たに存在せしめなければならない)、「ゲームプレイにおける分節化は結果においてつねに創造的でない」という帰結はふつうに避けられるんじゃないでしょうか。

これもまた基本的にそのとおりだと思います。ゲームプレイにおける分節化が、日常的に使うような漠然とした(つまり、色んな定義を許すような)いみで創造的であることは十分あると思いますし、zmzizmさんが例として挙げられたような創造性の条件はその日常的に使うようないみでの創造性の一端を示すものでしょうから、「ゲームプレイにおける分節化は結果においてつねに創造的でない」という帰結を避けるような創造性概念の定義を作ることは可能だとは思います。ただ、多分、創造的だと評する場合には、現実化してないものを現実化することだけでなく、その現実化するものの中身にもいくらか条件があるような気がします。そして、その肝となる部分は創発性概念でかなり拾えるのではないか、と思ってました。きちんと考えたわけではなく、あくまでも漠然とですが。

No title

「可能な着手をすべて列挙することが容易である局面においては、いずれの着手もそれ自体は創造的ではない(それを選び取るまでの過程全体に着目しなければ創造的とはいえない)」という主張であれば納得できるように思いました。

No title

>「可能な着手をすべて列挙することが容易である局面においては、いずれの着手もそれ自体は創造的ではない」

【前提】で私が述べたようなものとは異なる有用な創造性概念を定義するための条件のひとつとしては、確かに必要なものですね。

ちなみに、これはzmzizmさんのコメントへの返信の補足でもあるんですが、【前提】で私が述べたような創造性概念も、その行為が含まれる可能性の空間の側が十全に定義されてない場合には、その行為を(創造的であるかどうか)判断する主体によっては創造的と判断する余地を残された概念だと思ってまして。例えば、どんな発明もこの宇宙の物理法則が許す可能性の空間の中には先験的に存在してるわけですが、そもそもその可能性の空間の範囲をイメージできない人間からすると、当の発明を(【前提】で私が述べたようないみで)創造的だと判断する(してしまう)場合があると思います。客観的には誤認でしょうが、当の判断を下した人間が認識できている(つまり主観的な)この宇宙の物理法則が許す可能性の空間の中に当の発明を想像する余地が無ければ、少なくとも主観的には当の発明が創造的であるとの判断はあり得るだろう、というわけです。
ただ、ゲームの場合、着手や分節化の思考結果の可能性の空間はどんなゲームプレイヤーにとってもきちんとその範囲(というより境界、と言った方が正しいかも知れませんが)が認識されるものと考えられるので、それらが【前提】で私が述べたようないみで創造的であることはそもそも不可能で、そのため、【前提】で私が述べたような創造性概念は有用なものではないだろう、というのが本論の主張であります。

頂いたコメントに対して正しい返信になっているか自信がないですが…すみません。

No title

「可能性の空間の範囲を認識できる」というのが、私の考えでは「すべての可能な着手を容易に列挙できる」ということになります。この前提がぷらとんさんと違っているでしょうか。

したがって、将棋のある局面におけるひとつの着手に限定すれば、プレイヤーは可能性の空間の範囲を認識することができますが、終局までの一連の着手に広げると、可能性の空間の範囲を認識できないということになります。
あるいは、人狼のような不完全情報ゲームにおいては、相手プレイヤーの心理も可能性の空間に含めるべきだと考えており、これも範囲を認識できないということになります。

No title

>「可能性の空間の範囲を認識できる」というのが、私の考えでは「すべての可能な着手を容易に列挙できる」ということになります。この前提がぷらとんさんと違っているでしょうか。

そうですね。そこがちょっと違っているように思います。

現実の物理空間内における発明を例にしたのがまずかったかも知れません。
私は、きちんと定義されたゲームにおける可能性の空間は、その着手の具体的な中身の逐一を把握・提示できなくても、ゲームプレイヤーはその空間の範囲(境界)を認識できるものと見做しています。これは、例えば、チェスで自分のコマを盤外のマスに動かすことは可能性の空間内にないことである、というように、可能性の空間内にあることとないこととを峻別できることが、その空間の範囲を認識できていることだと考えている、というわけです。
井戸さんのおっしゃる「容易に列挙できる」ことについては、例えば、空間の中での意識の焦点とか、認識の密度とでも言うような、また別の概念で捉えたいと思う中身で、確かに重要なものだと思います。

人狼の例は、確かにゲームプレイヤーが可能性の範囲を認識できることについて微妙な場合が多々あり得るようにも思いますが…
ただ、相手プレイヤーの心理を可能性の空間に含めても、その心理の中身もゲームの可能性の空間内のものとすれば、基本的にそれは記号化できるようなものに限定されると思うので、そのことによって可能性の空間の範囲が認識不能となるわけではないような気がします。むしろ、人狼ではゲームの定義そのものに微妙な揺らぎがある(例えば、プレイヤーが泣き出したらゲームは不成立になるか、それすらも戦略と捉えてゲームプレイするのか、みたいな)ことによって可能性の空間も揺らぎ、その明確な認識が困難であるような場合があり得る、ということなのではないかと思いました。

No title

自分の見解が何かまとまっているわけではないので、気になる点を指摘するだけになってしまいますが。

可能/不可能によって創造性を特徴づけることにこだわるなら、「不可能であった事態をもたらす」ではなく「可能だと思われていなかった事態をもたらす」というふうに認識のレベルに話をずらすのは自然だとは思います。ただそういうふうに創造性を判断者の主観に回収することがぷらとんさんのもともとの議論の動機(創造的行為を与えるものとしてゲームを価値づけることの検討?)に適ったものなのかなという疑問はあります。場合によっては、判断する人次第で創造的であったりなかったりすることになるわけなので。

それから、井戸さんが指摘されているように、「ゲームでは可能性の空間の範囲・境界がつねにすでにプレイヤーの認識に分節化されたかたちで与えられている」という主張はけっこう微妙ではと思います。ゲーム上の可能な事態がデジタルなかたちで定義されるのではなく、物理的・心理的な素材を「そのままゲーム上の事態と見なす」というような仕方でアナログな可能性の空間が導入されるケースはふつうにあると思います(ボードゲームでは少ないかもしれませんが、ほとんどのスポーツはそうです)。この場合、プレイヤーは少なくともべき集合のようなかたちでは可能性の空間を認識できないでしょう。

また、定義がデジタルな場合でも、「プレイヤーが定義を完全に認識していれば、そこから論理的に導出できるすべての事態についても認識している」と言えるかどうかもあやしいと思います。これは「ある事態の認識には、その事態のすべての論理的帰結の認識が含まれる」という主張が通るかどうかという話ですが、ふつうは通らないんじゃないかなと思います。論証とか分析的真理を述べることの認知的価値を説明できなくなるので。

No title

ポストが重なってしまったので追記。

「可能性の空間の範囲の認識」についてやや誤解していました。

>例えば、チェスで自分のコマを盤外のマスに動かすことは可能性の空間内にないことである、というように、可能性の空間内にあることとないこととを峻別できることが、その空間の範囲を認識できていることだと考えている

これでおおよそ把握しました。必ずしもべき集合のような分節化されたかたちで認識しているということではなく、ある事態がゲーム内の事態として認められるか否かの判別がつくということでしょうか。

そうすると、もともとの主張(ゲームプレイの行為は結果レベルでは創造的ではありえない)は、「ゲームプレイの行為の結果はゲーム内の事態であることがつねに判別できるので、あらかじめの認識上の可能性の範囲内にとどまる。それゆえ創造的ではない」ということになるでしょうか。

No title

>もともとの主張(ゲームプレイの行為は結果レベルでは創造的ではありえない)は、「ゲームプレイの行為の結果はゲーム内の事態であることがつねに判別できるので、あらかじめの認識上の可能性の範囲内にとどまる。それゆえ創造的ではない」ということになる

はい、普通の人にとっては当たり前のことだろうと思いますが、そういうことです。言ってみれば今回記事の前半は、よく考えてみたら私はちゃんと理解・納得できてないところがあって、今回はじめてそれをちゃんと理解・納得できた、という単なる自己満足です。

また、べき集合は集合の元が離散的に(言い換えれば、デジタルに)存在する場合だけでなく、連続的に(言い換えれば、アナログに)存在している場合でも成り立つ概念でして、元が離散的に存在する場合にしか適用できないもののような説明をしてしまったのは私のミスでした。大変失礼しました。
なので、具体的な例示は上手くできないのですが、アナログな事態の集合についても、その分節化の可能性の範囲はべき集合でカバーできることにはなるかと思います。
ただ、心理的素材をゲーム上の事態と見做した場合の局面(元)の同定が如何に為されるか、はよく考えてみると難しい問題のような気もするので、人狼の例は先の私のコメントのように単純に説明できるようなことではなかったかもしれません。この点は、もうちょっと考えてみたいと思います。



>定義がデジタルな場合でも、「プレイヤーが定義を完全に認識していれば、そこから論理的に導出できるすべての事態についても認識している」と言えるかどうかもあやしいと思います。これは「ある事態の認識には、その事態のすべての論理的帰結の認識が含まれる」という主張が通るかどうかという話ですが、ふつうは通らないんじゃないかなと思います。論証とか分析的真理を述べることの認知的価値を説明できなくなる

ここは、私がよくわからずにいて悩んでいるところと関連してるかもしれません。要は、数学の体系を成立させている公理を一応理解しているからと言って、その体系内で真なる全ての定理を把握・証明できているわけではない――可能性の空間の範囲を認識できているからといって、その中の事態の全ての論理的帰結を認識できているわけではない――ということと同じなのかと思いますが、この問題については、個々の定理を把握・証明できる人とそうでない人とは明らかに何かが違う(と私自身は直観する)ものの、それをどのように説明できるのだろうかというところについては私自身全くお手上げ状態でして。逆に、何かお考えがありましたらご教示いただければ幸いです。


以上の説明でカバーできてない部分がありましたら、ツッコミよろしくお願いします。

No title

>アナログな事態の集合についても、その分節化の可能性の範囲はべき集合でカバーできることにはなる

こちらこそ集合論の理解があやふやですみません。さしあたり理論的に問題ないのは理解しました。存在論的に連続的な事態が認識のレベルで連続的なべき集合として認識されていると本当に言えるのか、どういうケースが想定されているのか、についてはまだよくわかっていませんが。

>数学の体系を成立させている公理を一応理解しているからと言って、その体系内で真なる全ての定理を把握・証明できているわけではない

はい。これと同じことだと思います。定式化すれば、p→q(p、qは命題、→は含意)が成り立っているときに、pが真であればqは真ですが、x know that pが真であっても必ずしもx know that qは真でないという話だろうと思います。

とりあえずあやふやながらお答えできる範囲でいうと。言語哲学とか形式意味論でよく出る話ですが、know that節のように特定の動詞のスコープの中に命題が入る場合には、命題の意味がその真理値と同一でなくなることがしばしばあります(スコープの外ではたいてい真理値と同一視できます)。この手のケースは「内包的文脈」と言われます。この事実を説明するのに有名なフレーゲのSinnとBedeutungの区別が持ち出されます(もちろんそこからさらにテクニカルな議論があります。詳しくはたとえばポートナー『意味ってなに?』勁草書房などを参照。ネットだけでもいろいろ情報はあると思います)。

No title

ご説明ありがとうございます!
内包的文脈のお話を少しネットで調べてみましたら、まさに私の悩んでいたところに直結する議論で驚きました。言語哲学や形式意味論の分野ももうちょっとちゃんと勉強してみたいと思います。とても助かりました。

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マイナーゲーム[ボードゲーム]とは、マイナーなシステムのゲームではなく、ゲームをプレイする人間存在全体における少数派[アナログゲーマー]が、遊びにおける普遍的システムを/により、創造/プレイするゲームのことである。

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