意思決定過程の類型~創造とジレンマ
- 2015/10/20
- 23:49
本記事は、「ジレンマとボードゲームにおける意思決定過程の3類型」における議論を修正するものとして書かれております。
はじめに
そもそも、なぜこんな記事を書こうとしてるのか? ということからきちんと話しておいた方が良かったかもしれません。
きっかけはもう1年近く前になる、カレー / I was gameさんとterrasimaさんのツイートです。注1
terrasimaさんの言葉をお借りすれば「意味が限定されてる」わけですから、必ずしもジレンマの要・不要という点に関して意見が対立しているわけではありません。しかしそれでも、ゲームデザインの実践と研究の双方で日本のボードゲームシーンを牽引するお二人のこの発言はちょっと気になりますよね。
というわけで、当ブログの過去記事「ランダム性とジレンマ」で既に大雑把には触れてはいたんですが、その視点を形式的により明確に描き出してみたい、つまり、「ボードゲームにおいて、ジレンマ(何らか意味が限定されたものかもしれないけれども。)によらない考えどころの生み出し方はありうるのか? あるとすればそれはどのようなものとして定式化出来るのか?」というのが、本記事における問題意識であったわけです。
状態遷移過程と出力時の状態を区別する
さて、本題に入ります。
元記事「ジレンマと意思決定過程の3類型」にmatsunagaさん、井戸里志さんの御両名からコメントを頂きまして、なんかちょっと上手くいってなかったな、整理されてないままのところがあったな、と感じました。そしてその後の思索の末、これは、意思決定に至るまでのプレイヤーの状態の遷移過程と、意思決定しまさに出力する瞬間のプレイヤーの状態(出力時の状態)とをごっちゃに論じてしまっていたところに問題があったのではないか、との結論に至りました。注2
まず、ゲームの現局面が認識された瞬間を始点、プレイヤーによる出力が為されゲームの系に入力される瞬間(ゲーム内行為の瞬間)を終点とします。
このとき、元記事で言っていた自動的な意思決定過程とは、始点から終点までの間、プレイヤーの状態が変化せずに済むような意思決定・出力過程であることになります。「ゲームの状態がAであるならば、行為aをするべき(するのが良い)」という命題を引き受けているプレイヤーが、「現在、ゲームの状態はAである」という認識を持ったならば、当然、プレイヤーは行為aを選択する(そして出力する)でしょう。この出力時のプレイヤーの状態は極めて自己調和的注3です。
対して、いわゆるジレンマな状況に置かれたプレイヤーの出力時の状態は、自己対立的なものです。単純化した例を挙げますと、『ドミニオン』で「属州は最も価値の高い得点カードであるから、出来るだけ購入すべきである」という命題と、「得点カードはゲームの進行中不要なカードであるから、出来るだけ購入するべきでない」という命題とを引き受けているプレイヤーが、手札に8金ある(属州を購入出来る)局面に置かれた場合、これはいわゆるジレンマな状況になるだろうと思います。ここでは、プレイヤーが引き受けている命題同士が端的に対立しています。この対立が出力時まで完全には解消されなかった場合、この意思決定過程全体がジレンマ的である、と言えることになるだろうと思うわけです。
さて、始点でのプレイヤーの状態が自己調和的でない場合、プレイヤーは何らか思考して自己の状態を変化させる必要に駆られます。この間のプレイヤーの状態遷移において、2種類の過程が挙げられると私は考えています。1つは始点から終点までの間プレイヤーが引き受けている中間目標の内容はほとんど変化せず、分節化された決定木注4をより詳細に描き出して、既に見出されている経路の太さを判断するような思考を行う過程で、これを処理的と呼びたいと思います。もう1つは、中間目標自体を新たに作り出し、これに至る経路を探すというような思考を行う過程で、これを創造的と呼びたいと思います。ちなみに、(中間目標と経路という概念がまだ曖昧であることもその要因の1つですが)両者ははっきり区別出来るものでは無く、処理的様相が濃いとか創造的様相がほとんど見られないなどと言うほどの、程度の問題でしかありません。
ここで、理論上は、創造的な状態遷移を経たプレイヤーの出力時の状態は、自己対立的である場合と自己調和的である場合との双方が考えられることになります。しかし(これはほとんど私の感覚的なものでしかないかもしれませんが)、始点において自己対立的な状態であったプレイヤーが実際に創造的な状態遷移を経た上では、多くの場合、自己調和的な状態に至るではないかと思います。と言うのも、何らか新しい中間目標候補を描き出しこれを引き受けたとして、それに至る合理的経路を探したにも関わらずその経路が見つからなかったのなら、状態遷移の途上でその中間目標候補は破棄されるでしょうし、逆に、その経路が見つかることとはすなわちプレイヤーの状態が自己調和的なものになることなわけですから。つまり、理論上はプレイヤーの状態遷移過程の2類型と、出力時の状態の2類型とから、自動的で無い意思決定過程として4つの類型があり得ることになるが、実際にはその中の「創造的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己対立的である」意思決定過程は無視して良い類型なのではないか、ということです。
なお、「処理的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己調和的である」意思決定過程とは、例えば、『ブロックス』の最後の方で「皆の残されたタイルはこれこれだから、それぞれおけるところに合理的に置いていくとなれば、自分はAのタイルをaに、Bのタイルをbに置くのが最も合理的になるな」などと思考し、意思決定するような場合と考えられます。
以上を、前回記事で私の挙げた3類型との関わりから整理しますと、以下のようになります。
関与的状態~重みや意味となるもの 注5
さて、ここまでの議論ではまだ「ジレンマには重みが必要なのではないか」「ジレンマとなるには思考することが十分な意味を持っていなければならないのではないか」というmatsunagaさんと井戸さんのご指摘が解消されていません。以下、この点について考えていきましょう。
ここまでの議論では、プレイヤーの状態を自己調和的か自己対立的かのいずれかにあるものとして扱ってきました。しかし、実際には、自己調和的とも自己対立的とも言えないようなプレイヤーの状態は存在します。そもそも、プレイヤーの状態が当該意思決定に際して自己調和的もしくは自己対立的であることは、少なくとも1つの妥当な選択の候補が存在していることを前提しています。「これを選ぶのが良い」もしくは「これかこれを選ぶのが良い」ということを了解するのが自己調和的もしくは自己対立的な状態ですが、「どれを選んでも一緒」もしくは「良さそうなのがどれなのか分からない」というような状態は、普通にあり得るものです。そして、その状態では、他と比べて価値のある妥当な選択の候補が存在しないために、どの選択肢を選ぶかということに無関心な、その選択に関して関与することがない状態であると言えるでしょう。つまり、自己調和的及び自己対立的な状態は現局面からの選択に関して関与的な状態であって、その逆に、現局面からの選択に関して非関与的なプレイヤーの状態というのも存在するのだ、というわけです。
例えば将棋の初手では、中間目標の自覚がないか、もしくは、何らか中間目標を持っていたとしても(それがある程度先の将来における事態であるならば)その目標に対してその初手が合理的な経路となるものかどうかは普通認識不能です。注6この時、プレイヤーの状態は当該意思決定に際して非関与的なものと言えるだろうと思います。当該意思決定内容の適否を推論するために必要な命題が了解されていないからです。
また、くじ引きでの選択のような「どれでもよい」ものについても、プレイヤーの状態はその選択に関して非関与的です。ある選択が他の選択と等しい価値をしか持たない、言い換えれば、右のくじを選ぶか左のくじを選ぶかという選択に意味が無い、ということを当のプレイヤーが了解しているからです。
上記2例をまとめてざっくり言えば、ゲームが見えなさすぎても、ゲームが見えすぎても、現局面での選択に関して非関与的な状態になるということです。
ここで、始点においてゲームが見えなさすぎている状態であっても、プレイヤーの状態遷移を経て、終点において関与的な(つまり、自己調和的もしくは自己対立的な)状態になる場合というのも当然あります。この場合、始点から終点までの間の状態遷移過程はその多くが創造的なものになるでしょう。処理的な状態遷移過程は、多く、既にその存在を了解している経路の太さ(つまり、ある事態を達成する確率)に関わるのに対して、創造的な状態遷移過程は経路もしくは中間目標の存在自体の了解に関わるものと考えられるからです。ゲームが見えなさすぎている方の非関与的な状態では、中間目標の候補も思い描けていない――つまり、中間目標の存在が了解されていない――か、中間目標があったとしても何をすればそこに辿り着けるかが分かっていない――つまり、その経路の存在が了解出来ていない――か、いずれか(もしくは両方)です。ゲームが見えなさすぎている方の非関与的な状態を打破するには、ともかく、中間目標と経路の存在を了解するしかありません。したがって、この状態遷移過程もまた多く創造的なものと言えるだろうと思います。
意思決定過程の類型
以上をまとめます。
はじめに
そもそも、なぜこんな記事を書こうとしてるのか? ということからきちんと話しておいた方が良かったかもしれません。
きっかけはもう1年近く前になる、カレー / I was gameさんとterrasimaさんのツイートです。注1
僕は長考というのがあまり好きではないので、ボードゲームからジレンマという要素が根絶されればいいと思います。
— カレー / I was game (@dbs_curry) 2014, 12月 4
ここでいうジレンマっていうのは少し意味が限定されてるわけだけど。一般的な意味についていうなら、ジレンマがないならその選択は不用っていうのがボドゲの支配思想のひとつというか、ある種のデザイン流儀が理想としてるところで。
— terrasima (@terrasima) 2014, 12月 10
terrasimaさんの言葉をお借りすれば「意味が限定されてる」わけですから、必ずしもジレンマの要・不要という点に関して意見が対立しているわけではありません。しかしそれでも、ゲームデザインの実践と研究の双方で日本のボードゲームシーンを牽引するお二人のこの発言はちょっと気になりますよね。
というわけで、当ブログの過去記事「ランダム性とジレンマ」で既に大雑把には触れてはいたんですが、その視点を形式的により明確に描き出してみたい、つまり、「ボードゲームにおいて、ジレンマ(何らか意味が限定されたものかもしれないけれども。)によらない考えどころの生み出し方はありうるのか? あるとすればそれはどのようなものとして定式化出来るのか?」というのが、本記事における問題意識であったわけです。
状態遷移過程と出力時の状態を区別する
さて、本題に入ります。
元記事「ジレンマと意思決定過程の3類型」にmatsunagaさん、井戸里志さんの御両名からコメントを頂きまして、なんかちょっと上手くいってなかったな、整理されてないままのところがあったな、と感じました。そしてその後の思索の末、これは、意思決定に至るまでのプレイヤーの状態の遷移過程と、意思決定しまさに出力する瞬間のプレイヤーの状態(出力時の状態)とをごっちゃに論じてしまっていたところに問題があったのではないか、との結論に至りました。注2
まず、ゲームの現局面が認識された瞬間を始点、プレイヤーによる出力が為されゲームの系に入力される瞬間(ゲーム内行為の瞬間)を終点とします。
このとき、元記事で言っていた自動的な意思決定過程とは、始点から終点までの間、プレイヤーの状態が変化せずに済むような意思決定・出力過程であることになります。「ゲームの状態がAであるならば、行為aをするべき(するのが良い)」という命題を引き受けているプレイヤーが、「現在、ゲームの状態はAである」という認識を持ったならば、当然、プレイヤーは行為aを選択する(そして出力する)でしょう。この出力時のプレイヤーの状態は極めて自己調和的注3です。
対して、いわゆるジレンマな状況に置かれたプレイヤーの出力時の状態は、自己対立的なものです。単純化した例を挙げますと、『ドミニオン』で「属州は最も価値の高い得点カードであるから、出来るだけ購入すべきである」という命題と、「得点カードはゲームの進行中不要なカードであるから、出来るだけ購入するべきでない」という命題とを引き受けているプレイヤーが、手札に8金ある(属州を購入出来る)局面に置かれた場合、これはいわゆるジレンマな状況になるだろうと思います。ここでは、プレイヤーが引き受けている命題同士が端的に対立しています。この対立が出力時まで完全には解消されなかった場合、この意思決定過程全体がジレンマ的である、と言えることになるだろうと思うわけです。
さて、始点でのプレイヤーの状態が自己調和的でない場合、プレイヤーは何らか思考して自己の状態を変化させる必要に駆られます。この間のプレイヤーの状態遷移において、2種類の過程が挙げられると私は考えています。1つは始点から終点までの間プレイヤーが引き受けている中間目標の内容はほとんど変化せず、分節化された決定木注4をより詳細に描き出して、既に見出されている経路の太さを判断するような思考を行う過程で、これを処理的と呼びたいと思います。もう1つは、中間目標自体を新たに作り出し、これに至る経路を探すというような思考を行う過程で、これを創造的と呼びたいと思います。ちなみに、(中間目標と経路という概念がまだ曖昧であることもその要因の1つですが)両者ははっきり区別出来るものでは無く、処理的様相が濃いとか創造的様相がほとんど見られないなどと言うほどの、程度の問題でしかありません。
ここで、理論上は、創造的な状態遷移を経たプレイヤーの出力時の状態は、自己対立的である場合と自己調和的である場合との双方が考えられることになります。しかし(これはほとんど私の感覚的なものでしかないかもしれませんが)、始点において自己対立的な状態であったプレイヤーが実際に創造的な状態遷移を経た上では、多くの場合、自己調和的な状態に至るではないかと思います。と言うのも、何らか新しい中間目標候補を描き出しこれを引き受けたとして、それに至る合理的経路を探したにも関わらずその経路が見つからなかったのなら、状態遷移の途上でその中間目標候補は破棄されるでしょうし、逆に、その経路が見つかることとはすなわちプレイヤーの状態が自己調和的なものになることなわけですから。つまり、理論上はプレイヤーの状態遷移過程の2類型と、出力時の状態の2類型とから、自動的で無い意思決定過程として4つの類型があり得ることになるが、実際にはその中の「創造的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己対立的である」意思決定過程は無視して良い類型なのではないか、ということです。
なお、「処理的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己調和的である」意思決定過程とは、例えば、『ブロックス』の最後の方で「皆の残されたタイルはこれこれだから、それぞれおけるところに合理的に置いていくとなれば、自分はAのタイルをaに、Bのタイルをbに置くのが最も合理的になるな」などと思考し、意思決定するような場合と考えられます。
以上を、前回記事で私の挙げた3類型との関わりから整理しますと、以下のようになります。
- 「始点において既に自己調和的であるため、始点から終点までの間、プレイヤーの状態遷移がないもの」が自動的意思決定過程
- 「処理的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己対立的であるもの」がジレンマ的意思決定過程
- 「創造的な状態遷移過程を経た、出力時の状態が自己調和的であるもの」が創造的意思決定過程
関与的状態~重みや意味となるもの 注5
さて、ここまでの議論ではまだ「ジレンマには重みが必要なのではないか」「ジレンマとなるには思考することが十分な意味を持っていなければならないのではないか」というmatsunagaさんと井戸さんのご指摘が解消されていません。以下、この点について考えていきましょう。
ここまでの議論では、プレイヤーの状態を自己調和的か自己対立的かのいずれかにあるものとして扱ってきました。しかし、実際には、自己調和的とも自己対立的とも言えないようなプレイヤーの状態は存在します。そもそも、プレイヤーの状態が当該意思決定に際して自己調和的もしくは自己対立的であることは、少なくとも1つの妥当な選択の候補が存在していることを前提しています。「これを選ぶのが良い」もしくは「これかこれを選ぶのが良い」ということを了解するのが自己調和的もしくは自己対立的な状態ですが、「どれを選んでも一緒」もしくは「良さそうなのがどれなのか分からない」というような状態は、普通にあり得るものです。そして、その状態では、他と比べて価値のある妥当な選択の候補が存在しないために、どの選択肢を選ぶかということに無関心な、その選択に関して関与することがない状態であると言えるでしょう。つまり、自己調和的及び自己対立的な状態は現局面からの選択に関して関与的な状態であって、その逆に、現局面からの選択に関して非関与的なプレイヤーの状態というのも存在するのだ、というわけです。
例えば将棋の初手では、中間目標の自覚がないか、もしくは、何らか中間目標を持っていたとしても(それがある程度先の将来における事態であるならば)その目標に対してその初手が合理的な経路となるものかどうかは普通認識不能です。注6この時、プレイヤーの状態は当該意思決定に際して非関与的なものと言えるだろうと思います。当該意思決定内容の適否を推論するために必要な命題が了解されていないからです。
また、くじ引きでの選択のような「どれでもよい」ものについても、プレイヤーの状態はその選択に関して非関与的です。ある選択が他の選択と等しい価値をしか持たない、言い換えれば、右のくじを選ぶか左のくじを選ぶかという選択に意味が無い、ということを当のプレイヤーが了解しているからです。
上記2例をまとめてざっくり言えば、ゲームが見えなさすぎても、ゲームが見えすぎても、現局面での選択に関して非関与的な状態になるということです。
ここで、始点においてゲームが見えなさすぎている状態であっても、プレイヤーの状態遷移を経て、終点において関与的な(つまり、自己調和的もしくは自己対立的な)状態になる場合というのも当然あります。この場合、始点から終点までの間の状態遷移過程はその多くが創造的なものになるでしょう。処理的な状態遷移過程は、多く、既にその存在を了解している経路の太さ(つまり、ある事態を達成する確率)に関わるのに対して、創造的な状態遷移過程は経路もしくは中間目標の存在自体の了解に関わるものと考えられるからです。ゲームが見えなさすぎている方の非関与的な状態では、中間目標の候補も思い描けていない――つまり、中間目標の存在が了解されていない――か、中間目標があったとしても何をすればそこに辿り着けるかが分かっていない――つまり、その経路の存在が了解出来ていない――か、いずれか(もしくは両方)です。ゲームが見えなさすぎている方の非関与的な状態を打破するには、ともかく、中間目標と経路の存在を了解するしかありません。したがって、この状態遷移過程もまた多く創造的なものと言えるだろうと思います。
意思決定過程の類型
以上をまとめます。
- プレイヤーの状態には、4種類がある。
- ゲームが見えなさすぎている方の非関与的状態
- 自己対立的状態
- 自己調和的状態
- ゲームが見えすぎている方の非関与的状態
- 始点から終点までの間のプレイヤーの状態遷移過程には、2種類がある。
- 処理的状態遷移過程 : 経路の太さに関わるもの
- 創造的状態遷移過程 : 中間目標及び経路の存在に関わるもの
- 始点においても終点においても、プレイヤーの状態がゲームが見えなさすぎている方の非関与的なものである意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態がゲームが見えなさすぎている方の非関与的なものであるが、創造的な状態遷移過程を経て、終点におけるプレイヤーの状態が関与的なものに至る意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態が自己対立的であるが、創造的な状態遷移過程を経て、終点におけるプレイヤーの状態が自己調和的なものに至る意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態が自己対立的であって、処理的な状態遷移過程を経てもなお、終点におけるプレイヤーの状態が自己対立的なものである意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態は問わず、処理的な状態遷移過程を経て、終点におけるプレイヤーの状態が自己調和的なものに至る意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態が自己調和的であるため、状態遷移が生じず、終点におけるプレイヤーの状態も自己調和的である意思決定過程
- 始点におけるプレイヤーの状態は問わず、処理的な状態遷移過程を経て、終点におけるプレイヤーの状態がゲームが見えすぎている方の非関与的なものに至る意思決定過程
- 始点においても終点においても、プレイヤーの状態がゲームが見えすぎている方の非関与的なものである意思決定過程
そして、意思決定過程全体としては、次の8つの類型が存在する。
結びに
上の議論で、ようやく意思決定過程の8類型を示すことが出来ました。この類型を用いて、はじめに挙げたジレンマとジレンマによらないボードゲームデザインの思想について少しお話しして、今回記事の結びと致します。
私の言うジレンマな意思決定過程――そしておそらくそれは、terrasimaさんがおっしゃった「少し意味が限定されてる」ジレンマでもある――とは、類型の4つ目(始点におけるプレイヤーの状態が自己対立的であって、処理的な状態遷移過程を経てもなお、終点におけるプレイヤーの状態が自己対立的なものである意思決定過程)に当たります。対して、terrasimaさんのおっしゃるところの「一般的な意味」におけるジレンマとは、おそらく、意思決定過程全体ではなく、自己対立的な状態となる瞬間のことを指すのではないかと思います。そのような瞬間は、確かにボードゲームがプレイされるに当たって必要とされるものでしょう。対立がなければ、対立を乗り越えることによる楽しみを味わうことは出来ないのですから。
一方で、カレー / I was gameさんが「ボードゲームからジレンマという要素が根絶されればいい」とおっしゃったとき想定していたであろうこととは、ボードゲームにおいて面白さが生まれる意思決定過程――つまり、考えどころ――の全てが先の8類型の4つ目(私の言うジレンマ的な意思決定過程)になってしまうのは良くない、ということなのではないかと思います。そしてこの時、ジレンマによらない面白さを生むような意思決定過程とは、主として8類型の2つ目及び3つ目に当たるのではないかと考えます。8類型の1つ目は、言うまでも無くまだ楽しめてない状態です。5つ目及び7つ目はパズルライクな思考に過ぎません。そして、6つ目及び8つ目も、当該意思決定過程自体が楽しみどころとなるようなものとは到底言えないでしょう。つまり、2つ目及び3つ目のような創造的な状態遷移が含まれた意思決定こそ、ジレンマによらない考えどころとなるものであって、カレー / I was gameさんはゲームプレイヤーによる創造的な状態遷移が含まれたこのような意思決定過程のデザインにこそ、ボードゲームデザインの理想を見出されているのだろう、と思うわけです。
注1 編集のせいで、terrasimaさんのおっしゃる「ここでいうジレンマ」がカレー / I was gameさんのツイートでいうジレンマのことを指しているように見えますが、実際は、私の記事「ランダム性とジレンマ」において述べたジレンマのことを指してのものだろうと思います。
注2 ここでいうプレイヤーの状態とは、「当該プレイヤーが当のゲームについて真であるとして引き受けている諸命題の集合」のことを示しています。この捉え方の詳細については、
「ゲーム内行為の定義について」 - togetter
を参照して下さい。が、長いのでとりあえずあまり深く考えずに、本記事をそのまま読み進めた方が良いかもしれません。
注3 この「自己調和的」及び後に述べる「自己対立的」、「関与的」という語は、もちろん(?)全てオレ用語です。ただ、その概念自体は、分析哲学とか論理学とか、もしかしたら数学とかの分野で既に言及されているものかもしれません。
注4 この「分節化された決定木」及び後述の「経路」の概念については、 こちら を参照。
注5 以下で述べる「関与的」なる概念は、以下の井戸里志さんのつぶやきの影響を受けています。ただ、その扱いについてはかなり異なってるので、参考までに。
UOSモデルにおける目標の魅力の要因のひとつ「自己目的性」を、「本能性」(目標が人間の本能に合致していること)と「関与性」(目標を達成する行為がゲームや他プレイヤーに気持ちよく影響を与えること)に分ける。
— 井戸 里志 (@kan_jiro) 2015, 9月 14
関与性の高い目標とは以下のようなものである。AngryBirdはすべて当てはまる。
□ 行為と結果の因果関係が直感的
□ 行為と結果の因果関係が複雑
□ 行為に対してもたらされる結果が意外
□ 結果による影響が大きい
□ 結果は自分の意思や能力によってもたらされたという感覚が強い
— 井戸 里志 (@kan_jiro) 2015, 9月 14
ジレンマは、目標の認識しやすさを損なう。ただし、目標の魅力の種類によっては、ジレンマと相性が良いものもある。
<内的利益性>
内的利益の構造を利用してジレンマを大きくすることができる
例:「カタンの開拓者たち」の建設
— 井戸 里志 (@kan_jiro) 2015, 9月 15
<関与性>
ジレンマを大きくする要因は、関与性を高める要因にも通じるものが多い。したがって、ジレンマを大きくすると必然的に関与性も高くなる。
ただし、ジレンマのない進行型構造でも関与性の高い目標は存在しうる。
例:ピタゴラスイッチ
— 井戸 里志 (@kan_jiro) 2015, 9月 15
注6 もちろん、オラクルであれば話は別でしょうが。