ボードゲームのいろはにほへと(下巻)を読んで~批評理論の有用性について
- 2016/07/08
- 05:22
ボードゲームのいろはにほへと上巻はアナログゲーム研究者による直球のゲーム研究やデザイナーによるデザイン論がメインでした。それに比べて下巻は、エッセンの話とか、印刷の話とか、具体的なデザインに入る前の企画の話とか、アナログゲーム関連の話題としては周辺的ではありますが、バラエティ豊かな内容になってます。
で、それぞれとても面白い話なので是非読んでいただきたいのですが、今回は私の活動(アナログゲームの批評理論研究)とも絡む第10講の小野卓也さんのお話(「ボードゲームジャーナリストから見た日本ボードゲームのこれから」)に限定してちょっと書いてみたいと思います。
小野さんのお話の中で、世界にいくつもあるボードゲーム賞をそれぞれクリティックプライズとパブリックプライズ(正確にはその折衷という賞もありましたが)とに分けて、各賞の特徴を考えてみる、というものが出てきました※。その中で小野さんは、パブリックプライズはどの地域の賞でも似通ったものになってしまうし、クリティックプライズは選者に依存して賞の固有性(特徴、オリジナリティ)が出るものの、その結果に納得できない人が出てくるなど、審査員の資質が問われるという問題が出てくる、という議論を展開されています。ゲームマーケット大賞の選者をされたりもした小野さんがおっしゃるのですから、この「クリティックプライズにおいては審査員の資質が問われてしまう」という問題は、確かに切実なものだろうなと感じました。
ボードゲーム賞は如何にあるべきかという点について、小野さんが具体的にどのように考えてらっしゃるかはちょっと読み取れませんでしたが、少なくとも、「このような問題があるからクリティックプライズは不要」というような結論にはなっていません。私も、クリティックとパブリックの折衷だとか、選者を上手く選ぶだとか、その具体策はともかく、何とか工夫してクリティックプライズ形式のゲーム賞は残されるべき、と考えます。選民思想みたいだと批判されるかもしれませんが、パブリックプライズがもたらすような、大多数の素人が何となく感じ取れる善さの評価だけでなく、クリティックプライズが無ければ拾えないような、少数の玄人こそが見出せるような善さの評価も、私は絶対に必要だと思うのですね。
しかし、そのような少数の玄人たるクリティックプライズの選者=評論家(批評家)の背負う責任は、現状では確かに重すぎるもののように思えます。評価結果たる賞の内容について、その説明責任を個人で一手に引き受けるわけですから。特に日本のような比較的小さな社会であるボードゲーム愛好者のコミュニティ内で、「そのタイトルの受賞には納得いかない」という多くの批判を直接に受け取るのは、一個人が継続的に背負える苦労の範囲をちょっと超えちゃってると思うんですね。そうなると、少なくとも現状のままでは、クリティックプライズという形式は選者=評論家(批評家)が背負わされる過大な責任のために、その存在が危機にさらされているわけなのです。
このような問題を孕んだ現状になっている理由について、私は次のように提起したいと思います。
一般に、ボードゲーム界隈での批評活動において、ある批評(評論)は当の批評者個人がその全責任を負うものと考えられているように見えるが、それは正当な状況ではない。この不当な状況によって、批評活動の部分的抑圧と、批評活動の成果の一部としてのクリティックプライズの存続の危機とが生まれているのではないか。
この主張は、ちょっと前の「ネガティブな批評は止めろ」議論(もちろん、何の限定も無くそのような主張をしている人は私の観測圏内にはいませんでしたが)が提示した問題にも通じますね。小野さんがクリティックプライズに感じている問題というのは、件の問題と根っこで通じている部分があると思うんです。批評の真価は、あるゲームタイトルの善さ・善く無さを如何に説得的に語っているか、という点にあるものと思います。クリティックプライズという形式の抱える問題、つまり、クリティックプライズの選者=評論家(批評家)に対する批判というのは、結局、批評活動そのものの困難さと根を等しくするものなわけです。ただし、クリティックプライズの選考と、個人的感想の延長として提示した批評とでは、当の選考・批評にたいする批判者がその選考に加わらなかった不特定多数の人間であるか、あくまでもたまたま当の批評を読んだ個人であるか、という点で異なります。後者のように、個人対個人の問題であれば、気力と時間さえあれば対話を繰り返すことで対立が解消される可能性が残されますが、前者のように一対多数の対立となるとそのような解決は望み薄です。先日の拙ブログ記事「批評について、私の立場の表明」で述べましたように、個人対個人の対立であれば対話を繰り返してその対立を乗り越えたら良いと思いますが、クリティックプライズという形式の抱える問題においては、一対多数という構造上、そのような主張は非現実的なものでしょう。
さて、そこで私が思いますのは、ある批評の全責任を批評者一個人で負うのには無理がある、ならばその責任を部分的に批評者以外の人間も負えるようになれば良いのではないか、ということであります。もう少し具体的に説明致しますと、当の批評をもたらす何らかの理論(あるゲームタイトルの善さを説得的に語るための概念、考え方などのまとまり)があり、その理論が明らかにされていさえすれば、当の批評の責任はその理論の提唱者も一緒に引き受けることができるはずだ、ということです。こうなれば、批評家は「私は然々の批評理論に基づいて然々の批評をした。何か文句あるなら当の批評理論の提唱者の方に聞いてくれや。」と部分的に批評理論研究者の方に説明責任をぶん投げることができるんですね。書き方的に一種のギャグのようですが、結構マジな話で。「当該ゲームの然々の構造がもたらす然々の展開が面白い、と批評者は言ってるが私はそんなことは全然感じなかった」みたいな批判に対して、どのように構造と展開とは関係しているのか、いかなる展開によってゲームセッションは面白いものとされるのか、などといったところを一般化して議論することを通じて彼(当の批評に対する批判者)を説得することは、まさに批評理論研究者のお仕事の一部だろうと思うわけです。
もしかしたら、「批評の理論というのがあり得るとして、なんで批評者自身すなわちクリティックプライズの選者自身がその理論の提唱者と別人となるようなことが起きるの?普通、批評者と批評理論提唱者とは一体なんじゃないの?」と疑問に思われるかもしれません。まあ、個人的に批評をする限りにおいては確かにそのとおりでしょう。個々の批評は、当の批評者かつ批評理論研究者たるある一個人の手になる批評理論の検証作業でもある、とは言えます。ただ、そのように批評者と批評理論研究者とが常に同一人であるような状況というのは、当のジャンルが文化として未成熟な状態にあるために生じているものなのではないか、と思うんです。批評と批評理論研究とは、それぞれ必要とする能力もその目的とするところも大きく異なる仕事であるはずです。個々の批評は膨大な経験と読者の心に訴えかける感性を必要としますし、批評理論の研究は枠組み作りであり当のジャンルとしての善さや本質を論理的に描き出す理性を必要とします。異なる能力が求められる別の仕事であれば分業するのがどう考えても効率的なのですが、現状そうなってないのは、批評の方はともかく、批評理論について(あるいは、批評理論というほどかっちりしたものでなくとも、批評をするためのゲームの捉え方・考え方の枠組み的なもの全般)はそのようなものが存在しておりかつまたそれが必要であることの意識付けが十分になされていない、というのが一因ではないかと思います。「我々が漠然と直観しているこのジャンルの本質とは一体何なのか?何がこのジャンルにおいて善しとされているのか?」などという問いを自覚的に発すること、かつそれを議論し、当のジャンルの個々の作品を同一の枠組みの下で吟味することを可能にするような概念を作ることは、当のジャンルが文化として成熟するのに必要不可欠なものです。このような自覚的な問いとその議論と(の結実の一部)が、まさに私が批評理論と呼んでいるものにつながるのであって、このような何らかの枠組みが実際に存在しておりかつそれに自覚的になることが必要とされていることについては、まだまだ理解が浸透していないのだろうなあ、と私思うわけです。そうであればこそ、批評者と批評理論研究者との分業が果たされていない現状があるのかな、と。
さて、ここで言っておかなければならないのは、そうした何らかの枠組みは全人類でもってただ1つのものにまとめられる必要はない、ということです。いくつもの枠組みの案があって然るべきですし、現に活動している批評家の手になる個々のお仕事を拝見すれば、実際にその枠組みは多様な在り方をしているように思われます。そして、そのことがクリティックプライズの問題について面白い帰結をもたらします。
クリティックプライズの選者がその選考結果をある批評理論(何らかの枠組み)に基づくものであることを公にしている場合、当の選考結果の説明責任の一部を批評理論提唱者(もしくは理論研究者)になすりつけることが可能なのだからそうしてはいかがか、というのが先に述べたクリティックプライズという形式が抱える問題に対して私の提案する解決策でありました。この案でのポイントは、選者がある理論を自覚的に採用していること、そしてそれを公にしていることです。採用可能な理論・枠組みが多数あるなら、その中からどの理論・枠組みを採用するかに任意性が生まれます。そして、その任意な選択肢の中からある特定の理論・枠組みを採用したのだという公言によって、選者ひいてはゲーム賞の固有性が明示されます。個々のゲーム賞がどんなものであるか、それぞれどんな風に違うものなのかということが、選者が採用する批評理論を公にすることだけで極めて明瞭に示されるわけです。
クリティックプライズでは、その選考結果の傾向が選者に依存します。そして、その選考結果の傾向性こそが各賞の固有性(特徴やオリジナリティ)となるわけですが、現状ではそうした固有性の中味自体は、選考結果を知らされるだけの私達一般愛好者には不明確なものです。選者の個性に依存すると言っても、明らかにされているのは各賞の選者が誰なのかということくらいで、当の選者がどのようなボードゲームの評価基準を持っているのかということは、ほとんどの場合、選者が公にしている批評活動を追跡して推測するしかありません。それも、選者の普段の批評活動自体に推測可能な単純な傾向性が見られるならばまだしも、普通、選者という立場に選ばれるような専門家であれば、そのような単純な傾向性が見出されるようなことは少ないように思われます。そうすると、それぞれのクリティックプライズなゲーム賞の固有性の中味というのは、一般の愛好者には不明確なまま(というか、現状では選者自身にすら自覚されておらず不明確なままなのであると私は主張したい)であることになります。固有性はありそうだ、だけどその中味(どんな特徴なのかということ)はわからないとなると、個々のゲーム賞の存在意義はやはり薄れてしまいます。これに対して、選者がいかなる理論・枠組みに基づいて選考を行うかが公言されていれば、私達一般愛好者でもその理論・枠組みを調べさえすれば、当のクリティックプライズなゲーム賞の特徴を明確に知れるわけです。各ゲーム賞を提示する側としても、提示されたそれらの賞を購入の判断材料としたり他の人に薦める理由としたりする私達一般愛好者側としても、そのような状況は実に望ましいものだと思うわけですね。という、ええ、まあ、自称批評理論研究家たる私のポジショントークだったわけですが。
予想外に長くなったので、最後にまとめておきます。
- ボードゲームのいろはにほへと(下巻)の第10講で小野卓也さんが、クリティックプライズには、その選考結果に納得できない人が出てくるなど、審査員の資質が問われるという重大な問題が出てくる、という話をしてらっしゃった。
- この問題に対して、私は、選者が何らか理論・枠組みを利用しそれを公にする、という解決策を提案する。これには、次の2つの利点がある。
- 説明責任の一部を理論・枠組みの提唱者に分担してもらえる。
- 各々のゲーム賞の特徴付けと、その特徴の明示とを同時に行うことができる。
※
クリティックプライズは少数の評論家が受賞作を選定するもので、パブリックプライズは一般の不特定多数の人間による投票などで受賞作を決定するもの、とされています。